複雑・ファジー小説

Re: What A Traitor!【第1章Ⅶ更新】 ( No.9 )
日時: 2018/11/11 22:00
名前: 日向 ◆N.Jt44gz7I (ID: on4ShBGJ)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=898.jpg



————9年前、メキシコ=メキシコシティ。

「クソッタレ……」

 仄暗いメキシコシティの路地裏にて、狂犬は低く唸る。
 杜撰な衛生管理の飲食店の廃棄物と、虹色の廃油が混ざり合ったヘドロに塗れるのも構わず、一人の男は壁を背にして倒れ込んだ。
 繁華街の喧噪を背に、腹部から溢れ出る大量の血液を手に延ばしては、苦々しく口角を歪める。血を流しすぎたようで、最早立ち上がる余力さえも残っていない。
 幸いなことに内臓をやられたわけではなさそうだが腹部の裂傷が酷い。依然として激痛は止まない、どうやってここまで移動出来たのか自分でも不思議なほどだった。脳内麻薬は疾うに切れてしまっている。楽観したとしても、確実に肋骨は折れているだろう。
 乾いた血痕を辿って、死の足音がそこまで迫っていることは、回転しない脳味噌だとしても容易に悟る事が出来た。

 現在でこそ彼の所属する隊、特殊高火力殲滅部隊【onyx】は少数精鋭の猛者が集い、自分たちの領分である密林戦や機密性の高い隠密活動を主としており、その高い勝率から他の反社会組織からも神格化されている節があるが、当時から戦闘部隊の最上位には属していたもののやはり組織の駒に等しい唯の武力部隊でしかなかった。
 場末の若い不良共を少々手懐けてしまえば済むような、取るに足らない仕事が部隊に回ってくることも当然ある。
 そのような折、久し振りに単身用の任務が、彼の元に舞い込んだ。
 その内容は【アカプルコ・カルテル】の商品を外部に横流し、挙げ句その商品で麻薬パーティーを無断で開き、高額な会費をせしめて私腹を肥やす阿呆の始末と、そいつの隠している残った麻薬の回収という彼にとっては、鴨撃ちにも等しい楽な仕事だった。
 当時の彼は、あまつさえ仲間内でも戦闘狂だと呼ばれている程で。
 防弾ベストや予備の弾薬マガジン等の嵩張る装備さえも不要と考え、六発装填のハンドガン一挺のみを懐に忍ばせ、ターゲットの潜む廃屋に単騎突入する。
 死角である不安定な排水管で二階へとよじ登り、窓を静かに外して侵入する。そこまでは良かった。しかし中はもぬけの殻で、暫し室内を歩き回ってみたが、人の気配はおろか、廃倉庫然とした埃っぽい部屋からは生活感が一切感じられなかった。
 違和感に眉を顰める。ハンティングではなく、罠だった。嗚呼【カモ】はオレの方か。
 生憎、部屋の外へ繋がる扉を背にしてしまっている、此方が餌場に飛び込んだと脳髄が知覚したときにはもう遅かった。
 中毒者特有臭、震わしの咆哮、背後から羽交い締め、重い脂肪の塊が覆い被さる、野郎の滝のような汗がシャツに染みて。
 中枢神経からの危険信号を待たずに、反動を付けてブーツの仕込みナイフで後ろを蹴り上げる。存外軽い感触と鈍重な叫喚、そして緩む拘束。強襲してきたバターボールの一体どこを刺したのかは考えたくなかった。
 そして扉の向こうから沸いてきた4人の男が彼ににじり寄り、徐々に距離を詰める。彼の夜目は皆一様の落ちくぼんだ瞳、濃い隈、赤い鼻、拭いきれない涎、吹き出物の潰れた肌を捉えた。
 二時の方向にて痩身の男が拳銃を構えると、神だの蟲だのと喚きながら彼に向かって発砲する。
 だがしかし所詮薬でキマりまくった素人の予備動作と命中精度、彼の目を以てすれば見切るのは容易だった。 
 火薬に押し出されたヘッドショット狙いの凶弾はやはり逸れ、彼の顎門を喰らおうとする。それを予知し、身を屈めておいた。第六感通り、彼の頭上を烈火のフルメタルジャケットが掠める。
 甘いな、エクスタシー貪って飛んでる奴に狩られるオレじゃねえ、と地べたで一呼吸つく。
 そして右手で懐の拳銃を取り出し反撃に地を蹴ろうとしたその時、眼下で何かが転がるのを視認した。
 閃光音響手榴弾、スタングレネード。
 物体から迸る刺々しい閃光、それは一瞬にして光の爆裂へと。
 咄嗟に閉じた瞼越しに収縮の間に合わなかった瞳孔から網膜を焼かれ、轟轟音に鼓膜を上下左右揺さぶられる。
 しかし神経が既に焼き切れたドーピーな亡者共には関係無い。生理現象として硬直した一瞬の虚を突かれ、伸びた巻き毛をあっという間に引き掴まれる。
 頭部に走る痛み、肌に降りかかる臭気を纏う汗と涎、頬に衝撃、腹部に膝、締まる頸動脈、腹に触れる冷ややかな凶刃、刹那熱を持つ。
 地べたに再び転がされ、靴底の雨が降ってくる。今だけは惨めな防御姿勢を取るしかない。
 幸いなことに好機を伺う間に銃口を向けられることは無かった。先の威嚇射撃にしか銃弾は込められていなかったのだ。
 所詮、頭のイカれた捨て駒。勝手に錯乱し、銃乱射なんざ起こして大事にするのは飼い主も望んじゃいないだろう事は容易に伺えた。
 体中に満ちてくる激痛と、短絡を起こした視覚聴覚を本能の牙に預け、手始めに真正面にいるであろう五月蠅い肉塊をぶち抜いた。

 そこから後は彼自身よく覚えていない。

 交戦後の興奮による知覚過敏で、闇に漏れ込む表通りのネオンサインや寂れた誘蛾灯すら、光を拒む彼の三白眼には鬱陶しい。
 スタングレネードにより視覚は光を拒み、彼の得意だった夜闇は黒く塗りつぶされている。断続的な耳鳴りで聴覚も暫くアテにならないことを思い知る。
 男の着ていたものの大部分は凶刃に切り裂かれ、体中至る所から血が滲んでいる。
 装備を整えていればもっと軽傷で済んでいただろう。しかし仕事にタラレバは無い。これはオレのミスだ。
 先ほどの5人組の中毒者はプロフェッショナルではなかった。さしずめ自分を始末しなければ薬を回さないとでも言われたところなのだろう。しかしそれも逃げる時間稼ぎの捨て駒に過ぎないことは容易に窺えた。
 いよいよ呼吸すら面倒になってきた。意識混濁が起きようとしている。硝煙とニコチンに毒された脳漿が追憶を勝手に始めた。
 古傷が疼痛が起こす錯覚、肉を削り取られる記憶、口を割られても割らなかった口。
 それなりに人生の中には愉快痛快なこともあったのかもしれない、しかし走馬灯の中では一切壇上に上がることは無かった。
 そして一瞬ちらつく赤毛の女性の記憶。だがそれも霞がかってしまって、血の足りない頭では彼女は誰なのかも判断が付かなかった。
 野犬と呼ばれた自分に、ホモ=サピエンスを人たらしめる心が果たして存在したのか、もう今となっては分からない。
 棺桶を前にして、それは些末なことだった。
 
 ここから遙か遠く【野蛮】だった頃もそうだ、あの頃から何一つ変わってはいない。30代も半ばを迎える彼だったが、それしか生きる道を知らなかった。
 彼の本能が、闘え、噛み付け、喰らい尽くせと、這々の体で路地裏に敗走した今この時でさえ叫ぶ。
 滾り続ける彼の本能は、今も止まる様子一つ見せずに、腹部から赤黒く流れ続けている。
 彼の名前はディンゴ。ずっと前、やたら眩しい文明の光が初めて彼の網膜を焼いた時とほぼ同時期、頽れた膝と過敏な脳味噌に野犬の名を刻み込まれた。
 9年前、一兵卒でこそなかったが隊長という肩書きは未だ無い。

 棺を蛍光色で落書きされた路地壁、別れ花を残飯と化した葉物野菜にするのを認めたその時、甲高い耳鳴りに混じって何者かの足音を捉えた。
 誰だ。
 静かな息遣い、動物性香水と葉巻の強い匂い、片足が着地する際の振動、狭い路地の音の反響、衣擦れ、靴の種類、纏う硝煙。
 そこから導き出された答えは、男。高身長。筋肉質。強い体幹。そして嗅覚が告げる同業者の匂いというオマケ付きだった。
 さっきの五人組のように【粉末の商売仲間】の匂いはしない。
 通り名の如く野犬のような人生だ。いまさら生への執着など無い。しかし己に仇なす者に最期を蹂躙される事だけは彼自身が許さなかった。拳に力を込め、奥歯を強く噛み合わせて最期の迎撃準備を整える。
 しかし、メキシコシティの夜闇を縫って現れたそいつは、ぎらつく殺意など持ち合わせてはいなかった。

「?Que te pasa?(何があった?)」

 未だ続く耳鳴りの中でも、はっきりとした輪郭を持つバリトンが頭上から降ってくる。
 直に喰らった閃光のお陰で、視界は未だ完全回復していないのでそいつの詳細は分からないが、今のところ此方に危害を加える様子は皆無だった。
 ディンゴが応えず黙秘を続けていると、男はその場を離れること無く、続けた。

「?Hablas ingles?(英語は話せるか?)」

 しかし感情のこもらない低音。その声色にはどうにも抗い難い、返答を強制させるものがあった。
 ディンゴはどうにかして喉の奥から無声音と有声音を綯い交ぜにした呻きを絞り出してみる。

「……No hablo? Entiendes espanol?(……いンや、わかんねえな。スペイン語はどうだ)」

 正直、ネイティブの隊員をおちょくる分にも差し支えは無かったが、何しろ今の状態である。英語を脳内で変換して、噛み砕いて理解する、そして再び英語として発話するのにはエネルギーが要る。
 しかしスペイン語もまた、ディンゴの母語では無かったが。
 使用年数は後者の方が長い。いつも以上に舌は回らないが、それでも英語より体力を使わずに済む。

「Hablo un poco de espanol.(少しなら)」

 そいつもおそらくラテン語圏出身なのだろう。少し、とは言い難い流暢なスペイン語で応じた。
 降下する衣擦れによって、男が屈んで真正面に正対したことを察する。

「はは、随分とやられたもんだな。この傷じゃ多勢に無勢ってとこか」

 虫の息のディンゴを目の前にして、そいつは愉快そうに笑った。しかし嘲笑とはまた違う、旧知の仲にある者同士のじゃれ合いのようなものに近似していた。
 徐々に機能を回復しつつある聴覚がこれは耳障りな音だと己に耳打ちし、内に眠る獣が唸りを上げ、枷の嵌められた前足で砂を掻く。
 一般人では足を踏み入れもしない路地裏に分け入って、明らかに日の当たる住人ではない血みどろの人間に声を掛ける。やはりマトモな思考回路の奴ではない。一体何が目的だ。

「堅気じゃねえとは思ってたが……てめえどこのモンだ——ッ……!!」

 廃油で滑る路地壁を伝って立ち上がろうとするも、腹部の傷口が引き攣って膝が笑ってしまう。震える足を殴りつけて活を入れるが、やはり立っていられず再び汚泥の中へと尻餅を付く。畜生、何て惨めな事だ。
 血の乾いた上着に再びじんわりと鮮血が滲む。今はただ声のする真正面を睨み付けるしか出来なかった。
 得体の知れない男に生殺与奪の権限を握られ、くたばり方を決められる。それはディンゴにとっては不愉快極まりない事だった。
 それでもそいつは飄々として言う。やはり嘲笑の色は混ざっていなかった。

「——っと、幾らあのカルテルの手練とはいえ、手負いの獣にのされる俺じゃないさ。今動くと誇張抜きに死んでしまうぞ? 安心してくれ、今はどこの飼い犬でも無い」

 今、こいつはカルテルと言ったのか。
 動揺に揺れる瞳孔を視認されたのだろう。正対する目敏い男は一言端的に、腕章だと告げた。
 現在は作戦内容の機密性保持の為やその他の理由で廃止されているが、数年前までカルテルの【onyx】に所属する戦闘員は腕章を付ける事を義務づけられていた。 今でも腕章の模様がその体に刻まれている隊員は多い。
 ディンゴが左肩に手を遣ると、血が膠のようにこびり付きボロボロになった腕章のざらつく感触は確かにそこにあった。
 【onyx】はこれほどまでに認知されるようになったのか。

「は。信じられねえな……」
「仮に俺がどこかの番犬だとして、お前とこうして会話していることすら無駄だろう。ヘッドショットの餞(はなむけ)でこの話は仕舞いさ」

 その男は、おどけた調子で銃声の擬音を口にした。成る程、例の追手ならばこうして無駄話をしている暇も無いだろう。もっとこいつを疑ってかかるべきだろうが、正常な判断を下せるほど頭に血が回らない。今この瞬間にも生命は流れ出ている。今しがた塞がり始めた組織を捻じ切り、立ち上がろうとしたのが仇になったか。
 そして声の調子、間の取り方、抑揚、そのどこを取っても説得力を感じさせる男だった。場末のチンピラにこんな雰囲気を纏う奴は、ディンゴの知る中ではどこにもいない。どの組織にも所属していないという内容の真偽には毛ほども興味は無かったが、それなりの地位を持つ人間だったのかもしれない。
 しかし何一つとして事態は咀嚼嚥下できなかった。

「解せねえ……テメーの目的は何だ」

 ディンゴがそう吐き捨てると、男は待ってましたと言わんばかりにぱっと声色を明るくして、微笑みの色を乗せて言った。

「流石に【onyx】の隊員だけあるな。話が早くて助かる、本題に入るまでに死んでしまわないか心配だったんだぜ?」

 衣擦れ、そして更に声が近くなる。
 その時初めて、ディンゴの薄弱な視覚が男の顔面情報を肉の管制塔に送った。
 そいつは白人だった。太く整えられた眉と長い睫毛、高い鼻とどこか蠱惑的な唇。男性的要素と女性的要素とが融解共存し、メキシコシティの掃き溜めの中であっても芸術品のような秀麗さを放っていた。
 癖の無い金髪は高い位置で括られ、肩甲骨の辺りでそいつの一挙手一投足に合わせて揺れる。
 とりわけ妙だったことは、そいつが夜間にも関わらずサングラスを掛けていることだった。時折、澄んだ蒼瞳がグラスに映り込んだネオンサインの反射光にも劣らない極彩色を放つ。
 やはりどこまでも奇妙な男だった。
 こいつも厄介な【訳アリ】か。ディンゴは再び奥歯を強く噛み合わせた。

「率直に言うと、恩を売っておきたいと思ったんだ。ここいらを縄張りにする古参ではあるが【アカプルコ・カルテル】は今後もっと大きくなる」

 葉巻の薫風が前髪を揺らす。その中でも一等甘ったるいパルタガスの薫りによく似ていた。

「——あンだと……?」

 予想していなかった男の返答に、思わず眉間に皺が寄る。
 徐々に明瞭になりゆく視界に、男の背後から漏れ出る都市の輝く欠片が乱反射した。
 そいつは整った片眉を吊り上げ、口角を上げる。

「お前がどこで生き、何を重んじ、どんな人間であろうと……それはこの際、至極些末などうでも良い事なんだ。この屑籠メキシコシティの中でサタデーナイトフィーバーをやらかしたお前に、偶然出会った。【アカプルコ・カルテル】の【onyx】に所属している——【アダムズ・ビル】に敵対する組織に、な。はは、電柱にピスを引っ掛け散らす礼儀を知らずな野良犬じゃ有るまい、仁義を立てない訳が無いだろう?」

 黒い革手袋で、言葉を紡ぐ唇をゆっくりとなぞる。
 疲弊しきった脳漿に情報を孕んだ血液の奔流が流れ込む。正常な心身だったならば問答無用で一発くれてやっている程の事を言われているのかもしれない。しかし男の言葉はディンゴの中に何の抵抗なく染み入る。
 成る程、こいつはカルテルとのコネクションパイプを欲している。そしてビルとの確執持ちということを匂わせた。第一印象以上に厄介な奴であることは、朧気な意識の中でもはっきりと掴めた。
 素性の知れない男について行くことの利と血の渇望を天秤に掛け、そして彼方へ傾く。

「さあ、腕利きの医者を紹介してやろう。立てるか? 俺の名前はリチャード・ガルコだ。どうぞ好きなように呼んでくれシニョーレ」

 そう言うと、リチャードと名乗るその男は、やおら立ち上がり黒の革手袋を嵌めた手を此方に差し出した。
 今考えても、その手を取る以外に選択肢は無かったのだろうと思う。

「ディンゴでイイ……敬称は好かねェ」