複雑・ファジー小説

Re: 人語を知らぬきみたちへ ( No.2 )
日時: 2018/01/20 11:48
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 鶏は、3歩歩けば忘れる、鳥頭。
そんなこと、誰が言い出したのでしょうね。

 鶏は、普段自分が生活しているケージの場所を覚えられるし、実は、数の認知だってできるのです。
馬鹿にしちゃあいけません。



『白色レグホンの野村さん』



「ああ、本当、鶏様々だわぁ」

 大量の卵焼きを食べ終わると、優花さんは言った。

 彼女が食べていたのは、うちの研究室で飼っている産卵鶏、白色レグホンの卵で作った卵焼きだ。
普段、鶏たちの世話をしているのは私達なので、当然その卵を、私達は無料で入手できる。
私の先輩で、一人暮らしの優花さんは、食費が浮くと喜んで、よくその卵を研究室で焼いて食べているのであった。

「朝御飯、卵焼きだけじゃ、足りなくないですか?」

 私が苦笑混じりに言うと、優花さんは、首をかしげた。

「そう? 私、朝はあまり食欲出ないタイプなんだよね。それより、そろそろ飼育当番いかないと」

 朝の7時を指す時計を見て、優花さんが、椅子から立ち上がる。

 私達は、つなぎに着替えると、卵回収用のボウルと長靴を持って、研究室を出たのだった。



 鶏舎に着くと、立て付けの悪い扉をあけた優花さんが、うげっ、と声をあげた。

「最悪、踏み込み槽、半分凍っちゃってるよ……」

 つんつん、と長靴の先で、凍った水面をつついて、優花さんがぼやく。
私は、その様を後ろから覗き込んで、同じく顔をしかめた。

 踏み込み槽とは、いわゆる消毒槽のことだ。
外からの病原菌を畜舎に持ち込まないように、また、畜舎の病原菌を外に持ち出さないように。
出入りするときは、必ずこの消毒液が入った水槽に、長靴の底を浸さないといけない。

 だが、冬になると、時々その消毒液が、寒さで凍ってしまったりする。
消毒槽だけではない。
日によっては、水道管が凍って水が出なくなったり、動物の飲み水まで凍ってしまうものだから、そうなると、もう一日中水道水を出しっぱなしにしているしかない。
今年も、その時期がやってきたかと思うと、思わずため息が出た。

「昨夜、そんなに冷えたんですね……」

 蛇口をひねって、水道水が出ることを確認する。
仕方がないから、消毒槽の氷をばきばきと踏んで割って、まだ凍っていない底の方の液体に踏み込むと、私達は、鶏舎の中に入った。

 ほんの10畳くらいの、コンクリート造りの小さな鶏舎。
通路を挟み、両サイドには、金網の横長ケージが3段積み上がっていて、小分けに区切ってあるそのケージには、1区間に、大体5、6羽の鶏たちが犇(ひし)めき合っている。

 ろくに身動きもとれないような、その狭いケージを初めて見たときは、正直驚いた。
けれど、これでも一般的な養鶏場に比べれば、かなり広めに設計されたケージだと言うのだから、産卵鶏の世界というのは、なんとも厳しいものである。

 それぞれのケージの下にある、糞尿の受け皿を取って、私達が掃除を始める。
すると、鶏たちが、途端にコケッ、コケッと鳴き出した。

 1羽1羽の鳴き声は、大したことないのだが、合計70羽近い鶏が一斉に鳴き出すと、かなり凄まじい声量である。
早く餌を寄越せ、と言っているのか、それとも別に意味があるのか。
鳴き声の理由は分からないが、水を変えたり、ケージの汚れを取ろうと近づく度に、私達の手を嘴(くちばし)でつついてくるのだから、奴等はなかなか良い性格をしている。

「ああ、こりゃ、駄目だ。完全に脱肛(だっこう)してる。Bの15、隔離しないと」

 ふと、鶏を見ていた優花さんが、声をあげた。
一度掃除を中断すると、私も、優花さんの方に視線を移す。
優花さんは、ケージから1羽の鶏を取り出すと、何も入っていない空のケージに、その鶏を移した。

「脱肛する子、最近多いですね。それが原因で亡くなった子、結構多いですよ」

「まあね。この子達、もう年寄りだから」

 鶏舎全体を見回して、優花さんが肩をすくめる。
私も、他に脱肛している鶏がいないか探しながら、掃除を再開した。

 脱肛とは、加齢で肛門括約筋が弱くなり、直腸の粘膜が、肛門の外に飛び出してしまう疾患である。
もちろん、脱肛してしまうだけでも問題なのだが、更にまずいのが、脱肛して弱ると、一斉に他の鶏たちが、その鶏を襲うことだ。

 鶏というのは、群れの社会的順位制がかなり厳しい動物であり、少しでも弱った個体が出ると、強い個体がそれを殺しにかかってくる。
できるだけそうならないように、弱い鶏同士、強い鶏同士でケージに入れるようにしているのだが、ちょっとしたきっかけで1羽が弱ったりすると、「我こそが一番強いのだ!」と言わんばかりに、他の鶏が弱った鶏を排除しようとしてくる。

 前に、脱肛した個体が、肛門から飛び出した粘膜部分を啄まれて、血まみれになって死んでいた、なんて事件もあった。
いわゆる、カニバリズム、というやつ。
だから、ちょっとでも弱っている鶏を見つけたら、その鶏は回復するまで、隔離するようにしているのだ。

Re: 人語を知らぬきみたちへ ( No.3 )
日時: 2018/01/20 18:28
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)


 掃除を終えると、私は、沢山ある隔離ケージの1つから、1羽の鶏を取り出した。
彼女の名前は、野村さん。
卵がお腹に詰まって、自力で餌を食べられなくなっているので、隔離されている鶏だ。
油を総排泄口に流し込んで、無理矢理卵を押し出すことも出来るのだが、野村さんの場合、詰まった卵が腹中で割れてしまったので、それも出来なくなっていた。

 基本的に鶏たちは、Aの1とか、Cの2とか、番号で呼んでいるのだが、この野村さんは、私の推し鶏なので、勝手に名前をつけた。
この名前に深い意味はないのだけれど、他より暴れん坊で、目付きが悪いその顔を見ていたら、なんとなく、『野村さん』という名前が浮かんだ。
妙にしっくりきたし、生意気な人間は嫌いだが、生意気な動物は結構好きなので、私はなんだかんだ、野村さんのことを気に入っている。

「野村さん、随分頑張ってるねえ」

 優花さんが近づいてきて、私の膝上でひっくり返った野村さんを見る。
私は、お湯に溶かした餌を、シリンジ(注射器)で野村さんの嘴に流し込みながら、頷いた。

「自力で食べられないどころか、もう歩けなくなってるんですけどね。その割には、頑張ってると思います。案外、このままずーっと、長生きしてくれるんじゃないかな、なんて」

 冗談混じりに言って笑うと、優花さんは、野村さんの膨らんだ下腹部を、ぐりぐりと触った。
優花さんは、研究室で一番鶏が好きな先輩で、知識も豊富だ。
鶏のことで困ったら、とりあえず彼女に頼ることにしている。

 優花さんは、真剣な面持ちで、言った。

「詰まった卵の上に、更に卵が詰まって、どんどん苦しくなってるのかもしれないね。年寄りで産む力はなくなってるけど、お腹の中では、どんどん卵が作られてる。歩けなくなるくらい、お腹が重くなってるんだ」

「…………」

 優花さんはそれだけ言って、他の弱った鶏に、同じよう強制給餌を始めた。
自力で食べられなくなった鶏には、私達が時間をかけて、お湯に溶かした餌を無理矢理流し込む。
うまく行けば、それで長生きする鶏もいたし、努力も虚しく、あっさりと死んでしまう鶏もいた。

 本来、普通の鶏は10年近く生きるようだが、産卵鶏は、生まれて2年くらい経つと、人為的に淘汰してしまう場合が多い。
なぜなら、産卵鶏は2歳を越えると、産卵効率が悪くなるからだ。

 大体1日1個のペースで卵を産み続け、その速度が保てなくなると、家禽(家畜)としての役目を終えて、殺される。
要は、産卵効率の落ちた鶏には、餌代も、世話をする労力も、かける余裕はないのである。

 うちの研究室でも、飼育をしている産卵鶏は、2年目の終わり頃に淘汰する決まりだった。
しかし、私達が世話をしているこの鶏たちは、今年で3年目。
なぜそんなことになっているかというと、理由は簡単。
大人の事情というやつだ。

 今使っている鶏舎は、もう古い。
だから、鶏を淘汰するのと同時に、新しい鶏舎を建てて、次の若い産卵鶏を仕入れる。
そういう話になっていたのだが、その新しい鶏舎とやらを建てる予定が、伸びたのだ。
それで、とりあえずその目処が立つまでは、今の鶏は生かしたままでいよう、ということになった。

 しかし、3年目の鶏たちは、ただですら弱っているのに、ヒーターなしでこの冬を過ごしている。
ヒーターを買いたいのだが、研究室がお金を出してくれない。

 1年前は、1羽も死ななかったのに、今年に入ってからは、もう20羽近く死んでいる。
真っ白でふわふわだった羽毛は、薄汚れ、ぱさついて、来たばかりの頃は真っ赤だったとさかも、今じゃ萎びて、白っぽくなっていた。

「……最近、加齢だけじゃなくて、寒さでも死んでますよね。あの犬舎のヒーターとか、1つこっちに持ってこられないんですかね」

 ぽつり、と言うと、優花さんは首を振った。

「あれ、取り外しできないから、無理だよ。寒さに関しては、窓にダンボール貼りまくるくらいしか、できないね」

 鶏の野村さんをケージに戻して、私は続けた。

「じゃあ、せめて爪切りませんか? この子達、生まれてから一度も爪切ってないじゃないですか。伸びすぎて、ケージに引っかけて、爪折れちゃった子とかいるんですよ。前も出血してたし、切った方がいいと思います」

 優花さんは、苦々しく笑った。

「それはね、私も思うんだけど。教授がしなくていいって、言うんだよね」

「…………」

 私は、不満げに掃除用具を片付けると、洗った水入れに、水を追加していった。

Re: 人語を知らぬきみたちへ ( No.4 )
日時: 2018/01/21 23:32
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 朝の飼育当番を終えると、私達は、研究室に戻った。
冷えきった手足を暖房で暖めて、それぞれの授業に出て、今度は、夕方の飼育当番である。

 少し早く研究室に来た私は、鶏のことで、教授の部屋を訪ねることにした。

「中村先生、少々よろしいですか」

 とんとん、と扉を叩いて入室すると、パソコンの画面を見ていた教授が、顔をあげる。

 中村先生は、もう来年退職予定の、ご高齢の教授だ。
この分野では、かなり名の知れた研究者だが、年のせいか物忘れが激しくて、言っていることが日によって変わるのが、難点である。

「あの、鶏舎のことなんですが、今朝、踏み込み槽が凍りつくくらい冷えきってたんです。寒さで弱ってる鶏も多いですし、小さいやつでいいので、ヒーター買っていただけないでしょうか?」

 私が言うと、中村先生は、間髪いれずに答えた。

「いらん、いらん。次に建つ鶏舎は、暖房入ってるらしいから、今ヒーター買っても、無駄になるだけ」

 多少、物言いが刺々しくなるのも自覚しながら、私は言い募った。

「じゃあ、爪切ってもいいですか? あんな狭いケージじゃ、歩けなくて、爪も削れませんし。前に爪が折れて、出血してる個体もいたんです」

 中村先生は、それでも首を縦には振らなかった。

「70羽全部爪切るなんて、大変だぞ。あいつらは、結局家畜だからなぁ」

 むっとしたけれど、反論は出来なかった。
家畜は、ペットとは違う。
彼らは産業動物であって、その生産物を人が利用するために、生かされている。
私達人間は、その恩恵を受けて生きているのだから、文句は言えない。
まして、うちの鶏たちは、近々淘汰してしまうのだから、爪なんて切ったところで、無駄なのは確かであった。



 再び鶏舎に向かって、私と優花さんは、夕方の飼育当番を始めた。

 掃除をして、餌と水をやって、卵の状態を記録する。
記録と言っても、今の鶏たちは、もう卵を産む力も弱くなっているから、回収できる卵は少ない。
殻が薄かったり、殻がない異常卵が多いから、正常な卵は、1日にほんの十数個しか採れなかった。

 それらの通常作業が終わると、自力で食べられない鶏に、強制給餌をする時間だ。
私はいつも通り、野村さんを出して、膝に仰向けに乗せると、嘴の横からシリンジを入れて、液状の餌をゆっくり流し込んだ。
幸い、野村さんにはまだ食欲があるようで、少しずつだが、ちゃんと餌を食べてくれる。
いよいよ死ぬ寸前になると、飲み込む力も無くなってしまうから、野村さんはまだ大丈夫そうに見えた。

「そういえば今日、中村先生に、ヒーターと爪切りの件、もう一度お願いしてみたんですけど……。やっぱり、駄目でした」

 ふと、私が口を開くと、優花さんは、やっぱりな、という風に眉を下げた。

「あいつら家畜だからなぁ、って言ってたでしょ。私もね、それ何回も言われた」

「…………」

 私は、冷たい口調で返した。

「中村先生って、ことなかれ主義なところありますよね。あれで福祉がどうとか騒ぐんだから、言ってることとやってることが、滅茶苦茶です」

「あ、それ気づいちゃった?」

 優花さんは、けらけら笑った。

「まあね、でも、やっぱり割り切らないといけない部分なんだと思う。もちろん、家畜に愛情かけちゃいけないなんて、そんなことはないんだけどさ」

 適当に選んだ鶏をケージから出すと、地面に放して、優花さんは続けた。

「難しい問題だよね。こういうの見てると、私も悲しくなるもん」

 解放された鶏は、突然の自由に戸惑ったように、コケッ、コケッと鳴きながら、自分のケージの周りを、うろうろしていた。
いっそ、嬉しそうに駆け回ってくれれば、「喜んでるね」と笑うことができたのだが、長い爪で歩きづらそうに、ゆっくりと動くその姿を見ていると、何も言えなくなった。

 生まれたときからずっと、身動きのとれない狭いケージで飼育されている鶏たちは、広い場所に出されても、どうすれば良いのか分からないようだった。

 野村さんの腹をさわさわと撫でながら、私は言った。

「……なんか、時々、これでいいのかなぁって、思うんですよね」

 顔をあげた優花さんの方に、私は振り返った。

「こんな安い餌を、無理矢理流し込まれて、延命させられて……それで鶏たちは、幸せなんですかね? 野村さんは、日に日に卵詰まりが悪化してるし、他の子達だって、こんな寒くて狭い場所で、いずれ淘汰されるのを待ってる訳じゃないですか。私達が毎日やってることって、なんか、無駄って言うか……。いっそ鶏たちも、無理に延命させられるより、死んだ方が幸せなんじゃないかって、思うときがあるんです。鶏には、そういう複雑な感情なんてないかもしれないけど、それでも、そう思わずにはいられません」

「…………」

 優花さんは、しばらく何も言わなかった。
だが、ふと立ち上がると、歩かせていた鶏をケージに戻して、答えた。

「鶏の気持ちは分かんないけど、私はこいつらが好きだし、淘汰される日まで生きていてほしいと思うよ。それこそ優しさではなくて、人間のエゴってやつかもしれないけどね」

 ははっと笑って、優花さんが言う。

 私は、どう返事するべきか迷いながら、野村さんの腹を撫で続けていた。
それが嫌だったのか、野村さんは、私の手をつついてきた。
つつく、というより、嘴で肉を挟んで捻ってくるものだから、結構痛い。

 コケッ、と鳴いた野村さんは、卵詰まりで歩けなくなっても、その素行の悪さは、健在しているようだった。

Re: 人語を知らぬきみたちへ ( No.5 )
日時: 2018/01/22 18:22
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)





 翌朝、いつものように朝の飼育当番に向かうと、野村さんは死んでいた。
苦しくてもがいたのか、野村さんは、羽を大きく広げ、脚をぴんと伸ばして、首をケージの外に出した状態で、死んでいた。

 取り出そうとすると、ケージの金網から出た首がつっかえて、野村さんの身体を、うまく出せなかった。
私は、死後硬直で氷のように硬くなった野村さんの首を、力ずくでへし折って、ケージから引きずり出すしかなかった。

 死亡届と火葬届を書くと、私は、野村さんの死骸をビニール袋に入れて、巨大な冷凍庫に向かった。
この冷凍庫に動物の死骸を保存しておけば、学校の職員が来て、火葬してくれる。
冷凍庫の中には、鶏とか小さな動物だけではなくて、解体された馬とか、時々チーターなんていうのも入っていたりする。

 鶏舎なんかよりずっと大きい、暗くて寒い冷凍庫の中からは、薬品や機械の臭いに混じって、濃厚な死の臭いがした。
血や体液の臭いではない。
肌に直接染み込んでくるような、死の臭いだ。
どんな臭いか、具体的に説明しろと言われると、上手く答えられないのだが、それは、外の世界では感じられない、ここにしかない冷たい臭いだった。

 野村さんを置くと、私は、そっと冷凍庫の扉を閉めた。
同時に、熱いものが込み上がってきて、鼻の奥がつんとした。

 もう、いちいち泣いたりはしないけれど、それでも、野村さんは一番好きな鶏だったから、悲しかった。
昨日までは憎たらしく、私のことをつついていたのに。
そう思うと、なんだかやりきれない気持ちになった。

 別に、野村さんに死んでほしくて、「無理矢理延命させられて、鶏たちは幸せなのか?」なんて、言った訳じゃない。
強制給餌に時間をかけるのが嫌で、「私達がやってることは無駄なんじゃないか」なんて言ったわけでもない。
──けれど。
それでも昨日、私が「死んだ方が幸せなんじゃないか」なんて言ったから、野村さんは、亡くなってしまったような気がした。

 そんなつもりじゃ、なかった。
野村さんのことが、大好きで、だからこそ、あんなことを言った。
野村さん、ごめんね。

 私はそれ以来、鶏に名前をつけるのを、やめた。



 それから、何日か経って。
寒さで、どんどん鶏たちが弱っていく中。
ある日、私の同輩の石崎くんが、にこにこ笑いながら、言った。

「なあ、めっちゃええ話。聞く?」

 石崎くんは、大阪出身のお調子者で、悪い奴ではないが、飼育当番の寝坊常習犯だ。
基本的に私は、あまり彼のことは信用していなかったが、しつこく話しかけてくるので、仕方なく振り返ると、石崎くんは、スマホのTwitterの画面を見せてきた。

「最近な、鶏舎寒いやん。でも、ヒーター買う金、研究室は出してくれへんし、皆、困っとるやろ? だから俺、大学名とか詳しい事情は伏せて、Twitterで、ヒーター欲しいって呟いてん。そしたら、無料でペット用ヒーター譲ってくれる人、7人もおった」

「えっ!?」

 思わず身を乗り出すと、私は、スマホの画面に顔を近づけた。
私はTwitterをやっていなかったから、見方はいまいち分からなかったけれど、石崎くんは、こんな嘘をつく奴ではない。

 石崎くんは、得意気に続けた。

「俺のフォロワーさん、動物好き多いねん。だからその中に、ペットが亡くなって、もう使わないヒーターあるから、あげる言うてくれる人が、結構おってな。まあ、犬用とかがほとんどやけど、ないよりましやろ? 郵便局留めで送ってもらえば、別に俺らとか、大学の住所言わへんでも問題ないし、送料なら、この前のコンパ代の余りで、負担できる」

「確かに……。いや、世の中捨てたもんじゃないな。SNSを使う手があったか……」

 感心して呟くと、岩崎くんは、上機嫌でスマホをしまった。

「なあ、ナイスアイデアやろ? 俺、やればできる子やねん」

「うん……。大晦日の朝に当番遅刻したことは、許してあげるよ。元旦の朝の分は、ハーゲンダッツ奢ってくれなきゃ許してあげないけど」

「ええっ、俺この前、代わりに一人で下水掃除やったやん……」

Re: 人語を知らぬきみたちへ ( No.6 )
日時: 2018/01/23 18:34
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: 5TWPLANd)



 このまま、入手したペット用ヒーターを生かすことができたなら、私達の心も、少しは晴れたんだろうか。
そんな気持ちさえ、もしかしたら人間側のエゴに過ぎないかもしれないが、私には、鶏たちに厳しい飼育環境を強いているという、罪悪感があった。
だから、ヒーターで暖めるなり、爪を切るなりして、少しでも鶏に何かをしてあげられた、という事実が、私は欲しかったのだと思う。

 けれど、それは叶わなかった。
新しい鶏舎が、ついに建つことになったからだ。
つまり、古い鶏舎はもう取り壊して、年老いた今いる鶏は、全羽淘汰することになったのである。

 これが決まったのは、岩崎くんが、届いた2つ目のヒーターを持ってきて、すぐのことであった。

 淘汰の方法は、頚椎脱臼(けいついだっきゅう)。
即死させる方法であり、この業界では、福祉的な安楽死法の一つとして、有名である。
だがそれは、あくまで熟練した者が行った場合の話だ。
素人がやって、万が一失敗すれば、動物は即死できず、苦痛を味わうだけになる。

 私も、マウスやヒヨコでなら、頚椎脱臼を行ったことがあったが、鶏はやったことがなかったから、正直不安だった。
鶏は、マウスやヒヨコよりも、よほど頚椎がしっかりしているし、脱臼させるとなると、かなりの腕力が必要である。
ちゃんと出来るのか、分からなかった。

 例年、鶏の淘汰は、失血死で行っているようだった。
だから、今回も失血死が良いと私達は言ったのだが、中村先生は、頷いてくれなかった。
多分、失血死となると、血液の処理が大変だとか、その前に気絶、もしくは麻痺させる手間があるからとか、そういう理由だとは思うが、とにかく中村先生は、頚椎脱臼の一点張りだった。



 淘汰をする2日前に、私はまた、優花さんと鶏の飼育当番が一緒になった。
またいつものように、掃除をして、餌と水をやって、卵の記録、そして具合が悪い鶏がいないか、点検した。
けれどもう、強制給餌はやらなかった。

 踏み込み槽に長靴を浸して、鶏舎を出ようとしたときに、ふと、優花さんが口を開いた。

「この鶏たちを世話するのも、あと1日かと思うと、寂しいもんだよねぇ」

 私は、こくりと頷いた。

「やっぱり、嫌なもんですね。だってこの子達、勉強のためとか、食べるために殺される訳じゃなくて、単に、もう家禽としての能力が低くなったから、殺される訳じゃないですか。しかも、見ず知らずの鶏じゃないんですよ。ずっと私達が世話してきた、鶏なんですよ」

 優花さんは、少し困ったように笑った。

「分かるけど、もう、しょうがないことなんだよ。私達が、この鶏たちの飼育費用を払える訳じゃないんだし。それに、殺したくないからって、業者に頼むのも、それはそれで嫌じゃない? 私達が世話してきたからこそ、どうせなら、最期まで自分達がって、私はそう思うよ」

「…………」

 多分、この言葉を、優花さんではない他の誰かが言ったなら、私は納得できなかったと思う。
もちろん、正論であることは分かるのだが、内心「私達が日頃、どんな思いで飼育してきたかも知らないくせに、お前に何が分かるんだ」くらいは考えたに違いない。

 でも私は、うちの研究室で、一番鶏が好きで、一番鶏のために頑張っていたのが優花さんだということを、知っていた。
だから、彼女の言葉に、私は素直に納得できたし、そんな彼女の割り切り方を、冷酷だとは感じなかった。

 そうしていよいよ、鶏舎を出ようとしたときに、優花さんが立ち止まって、何か思い付いたように、呟いた。

「……あのさ、爪、切ろうかな」

「え?」

 同じく立ち止まると、優花さんは、自嘲気味に言った。

「今更なんだけど、鶏たちの爪、切ってあげたくなっちゃった」

 微かに目を大きくすると、私は返した。

「でも、中村先生の許可、取ってませんよ?」

「そんなの、切ったもん勝ちでしょ。誰かに迷惑をかけるわけでもないしさ」

 いたずらっぽく言った優花さんにつられて、私も笑った。
何かするときは、必ず教授である中村先生に言わなければならないのだが、そんなことはもうどうでもいいか、という気分になっていた。

 私達は、古い犬用の爪切りを調達してくると、1羽1羽、鶏の伸びきった爪を切っていった。
1日では終わらなかったので、2日かかってしまったが、その日、私達は、夜の10時半まで、ひたすら爪切りをしていた。

Re: 人語を知らぬきみたちへ ( No.7 )
日時: 2018/01/24 18:25
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: .uCwXdh9)




 淘汰をすることになったのは、日曜日の昼間だった。
ここ数日に比べると、かなり暖かい日で、私達を悩ませていた水道管の凍結も、屋根のスプリンクラーから突き出る氷柱も、その日はなかった。

 鶏舎の前に集まると、まずは中村先生が見本を見せるというので、集まった十数名の研究室生たちは、それを眺めていた。

 鶏の胴体を脇に抱え込んで、頭部を掴み、思いきり、引っ張る。
同時に、頚部を上に「く」の字にねじって、一気に脱臼させるのだ。

 頚椎脱臼させた鶏は、中村先生が地面に落とすと、ゆらゆらと折れ曲がった首を揺らしながら、地面をのたうち回った。
羽を激しくばたつかせ、何度も宙を蹴っていたが、やがて、身体の痙攣を納めると、鶏は息絶えたようだった。

「今、暴れたのは反射ね。結構力がいるから、女性諸君は厳しいかもしれんが、まあ、経験だと思って、やってみて」

 中村先生の指示に、私達は、それぞれケージから鶏を出すと、頚椎脱臼を試みた。

 頭部を掴んで、一気に、引く。
クェッ、と声をあげて、嘴を半開きにした鶏が、腕の中で暴れだしたとき。
私は、全身から冷や汗が噴き出したのを感じた。

 どうしよう、失敗した。
腕力が足りないのか、技術が足りないのか、その両方なのか。
とにかく、鶏はまだ生きている。

 私は、ふっと息を吸うと、慌ててもう一度、鶏の頚部を上にひねった。
歯を食い縛り、ぶるぶる腕が震えるくらい、力一杯、引いて、引いて──。
やがて、ぽこっ、と骨が外れる音がすると、皮1枚で繋がった頭部が、ぷらんと垂れた。

 嫌な感触だ。
手に直に伝わってくる、脱臼させたときの感触。

 私が殺した鶏は、反射で暴れることもなく、くったりと脱力して、死んだ。
開いた嘴から、今朝食べたであろう餌と水、そして体液が、たらり、と溢れてくる。
私は、鶏の死骸をビニール袋に入れると、再び鶏舎の中に入って、コケッ、コケッと鳴きながらさまよう次の鶏を、ケージから取り出したのだった。

 全羽淘汰し終わるまで、私達は、誰も一言も発さなかった。
もしかしたら、多少は何か言った人がいたかもしれないが、少なくとも、私には聞こえなかった。

 黙々と鶏たちを淘汰して、ビニール袋に入れたその死骸を台車に乗せると、私達は、あの巨大な冷凍庫に向かった。
そして、「お疲れ様でした、ありがとう」とだけ告げて、彼女たちを冷たい箱の中に、置き去りにした。
冷凍庫からは、やはり、濃い死の臭いがした。

 研究室に戻ったあと。
私は、夕方に羊の飼育当番が入っていたので、そのまま学校に残っていた。
だが、当番のない学生は、折角の日曜日だからと、早々に帰宅したようだった。
石崎くんは、無意識なのか分からないけれど、私の横で、昼御飯に親子丼なんてものを食べている。

 まるで、何事もなかったかのような、この雰囲気。
その空気感が有り難くもあり、同時に、「ああ、私達は平然と殺せるようになってしまったのだなぁ」と、虚しくもなった。

 私達はその日、58羽の鶏を殺したのだった。



【終】

…………


 初っぱなから、重い(笑)
こういう話、あまりネット上でするのは好きではないですし、変に批判されても嫌なので、書こうかどうか迷ったんです。
でも一方で、こういう世界もあるんだよって、少しご紹介してみたい気持ちもあって、この度、執筆してみました。

 次話を書くかは、未定です。
別に何かに物申すつもりも、お涙頂戴するつもりもないので、書くとしたら、今回みたいに淡々と語っていく形式になるかな。

 ちなみに私は、鳥類の中だったら、鶏が一番好きですね。
絶妙に憎たらしい感じが、なんか良い。