複雑・ファジー小説
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.1 )
- 日時: 2018/05/28 02:05
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
「人生というのはことごとく負け戦であるものです」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
「『生きることとは勝負を挑み続けることだ』などとのたまう愚かな偉人もいましたが、それは一割が正解、九割が愚論も暴論と言ったところでしょう。なぜならこの勝負には、一切の光明も無く、一抹の追い風も無く、一ミリの勝算さえ皆無なのですから」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
だだっ広くて薄暗い教室。学習椅子に座っている僕とこの偉そうに教卓に腰掛けた少女の他には誰も居ない。カーテンは一滴の光も許さないかのようにしっかりと閉められており、窓の外の様子を窺い知ることは出来なかった。
もっとも、今僕はギロチンの前の死刑囚のように首をもたげているのでカーテンが開いていたとしても屋外がどうなっているかなんてこの目で見ることは不可能なのだろうけど。
「負け戦と形容するのも本当は誤りなのかもしれません。そうですね、倒れる事の出来ない自転車を、消えないロウソクが燃え尽きるまでこぎ続ける罰とでも言いましょうか。この箱庭に生を受けた以上、何億ものオタマジャクシを蹴落とし生命という名の数量限定商品を強奪するという罪を犯した以上、この罰を享受しなければいけません。どこにも行けずどこにも進めないその車輪をぐるぐると回す義務があります」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
それはメビウスの環か、あるいはウロボロスの蛇か、それともプログラム上のデッドロックか。
「今人生のことを自転車と比喩しましたが、しかし近道なんかありません。そもそも道など無いのですから。脱線することは不可能です。そもそも進むべきレールなどなどないですから。止まることなんか許されません。そもそも進んでなど無いのですから」
今は何時なのだろうか。真昼なの知れないし、夕方なのかも知れない。はたまた夜だったりするかも知れない。この視界から時計が見えないので、僕が現在の時刻を知る術は無かった。この教室に時計があるか不明であり、そもそもこの空間に時間という概念があるかどうかさえ疑わしい。
「そんな顔をしないでもらえませんか、悲しくなるでしょう、哀しくなるでしょう。そうですね、こういう言い方ならどうでしょうか」
少女は続ける。
「人世には絶望も無理も退行も悲痛も戯言も崩壊も終着も無いのかもしれません。裏を返せば希望も道理も進化も治癒も真言も創造も始発も無い事と同義ですが」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
「負け続けることだけが人生です。最早あなたのような人間にはどうすることも出来ません。抗うことも、刃向かうことも、反旗を翻すことも不可能。黒星こそがあなたの生まれた母星です。それでもあなたは──」
——それでも僕は。
「それでもあなたはこの世界にまだ生き長らえますか?」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
「そうですね。それでもあなたは生き長らえるでしょう。そしてこれからも、ずっとここからも負け続けることになるでしょう。へらへら笑ってこれで良いだなんて自分を自分で誤魔化し励まし欺き続けるでしょう。全く——」
愚かですね、と少女はあざけるように笑った。
「そんな愚かなあなたに一つだけ救いを、救済を与えましょう。惨敗ばかりの人生をドローばかりの人生に。引き分けを引き分けと思わない愚鈍な人生に。変える方法が一つだけあります。唯一の救いを、救済を」
僕を救済すると言っても何から救うというのか。人生からか、負け戦からか、回り続ける車輪からか。僕にはこの少女の言葉の意味が分からなかった。
「それは今すぐ顔を上げることです。顔を上げて私の目をしっかり見据えてください。それだけで事は済みます。それだけで全てが始まり、全てが終わり、全てが変わり、全てがない交ぜになります。さあ、私の顔をしっかとご覧下さい」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
第一章
「Like a dream on a spring night」
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.2 )
- 日時: 2018/05/28 02:11
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
新幹線がガタリと大きく揺れた拍子にはっと眠りから覚めた。
手首に付けた腕時計に視線を向けた。黒いジーショックは10時半を示している。登潟駅から出発したのが8時半だったので、ざっと2時間ほどこの新幹線に揺られていたことになるみたいだ。
窓際にはすっかりぬるくなって炭酸の抜けたコーラ。膝の上には駅前の本屋で買ったクリスティの「アクロイド殺し」が置いてある。
いつの間に寝ていたのだろうか。座席は思いのほか柔らかく、突然の睡魔に襲われるのも頷けるが、何か凄い不愉快な夢を見ていた気がする。夏は遠いはずだが、火照った体は結露がついたコップのように体中に汗をかいている。
出発地点である登潟市は田園と果樹園が目立つ、朽ちた樹木のような農村だったけど、車窓から見える景色はかなり都会的で、遠くには灰色の高層ビルが身を寄せるように建っているのが見えた。まるでドミノを並べたようだ。その中でも一際高い鉛筆みたいな形のランドマークタワーが眩しく太陽の光を反射している。
天気はえらくご機嫌なようで、太陽はとっくに高い位置に登っている。快晴の中の快晴である。
車窓に映る近くの建物が後方に向かって滑るように流れていく。
新幹線はトンネルの中を通過している。車窓は電源を落としたようにいきなり暗転して、頬杖を突いた間抜けな僕の顔を鏡のように映した。がたんがたんと車内の揺れが一層強まる。
トンネルを抜ける。窓が明転。ぱあっと都会の灰色の風景が僕の目に飛び込んできた。青空に向かって突き刺すようにビルが高々と建っている。
少しして、女の人の声の車内放送で「次は終点、誘並駅—」と流れた。もうすぐ目的地に到着するようだ。
僕は頬杖をやめて、窓際のペットボトルコーラを手に持った。蓋を開けてノドを潤す。
やはりというか。
甘ったるいだけであまり美味しくなかった。
政令指定都市である誘並市は人口100万人を優に超える日本有数の大都会である。
高層ビルがわんさか立ち並ぶ一方、「神の棲む町」として知られ、神社や仏閣などの祭祀施設が町中に数多く点在している。「市内の木の本数よりこの地にいる神様の方が数は多い」とか言われている程だ。
ちなみにこの誘並の名物と言えばラーメンだと皆が口を揃えるらしい。
さて、新幹線から降り改札口を出た僕だが、まず第一に思った事がある。
「人が多すぎる…」
流石都会である。
当然すれ違う人は皆知らない顔。男だったり、女だったり。子供だったり、僕と同じくらいの若者だったり。髪の毛が赤かったり青かったり緑だったり色鉛筆のようだ。
ある程度の予想と覚悟はしていたのだけど、いざ目にするとこの壁のような雑踏に気が滅入る。
僕はテレビで見たアメリカ大陸を横断するイナゴの大群が脳裏に浮かんだ。即刻回れ右して地元にとんぼ返りしたくなったが、あいにく登潟へ帰るお金なんか手持ちに無いし。
身を寄せるべき肉親や帰るべき拠所さえも今の僕には無かった。
人混みに怯えて立ちすくむわけにもいかず、というかかなり通行の邪魔になってそうなので、とりあえず僕は歩を進めることにした。
ポケットにはこの誘並市に住む親戚から送られてきたメモが折りたたんでいれてある。ここから更にバスを乗り継いだところに僕がこれから住む、飛想館という名前の学生寮がある。また移動かと少し憂鬱になった。バス乗り場は駅ビルの東側にあり、この樹海のような雑踏の合間を縫わなければならない。
何度となくすれ違う人と肩がぶつかり、すいませんと田舎者丸出しで東北の牛の人形みたいに頭をさげつつ駅の出口に向かう。エスカレーターに乗っている人がピアノの鍵盤みたいだ。なにやら香ばしい匂いに鼻腔をくすぐられて見れば、パン屋に人が長い行列を作っている。その最後尾に僕も並ぼうかと一瞬思ったが、大して腹は減ってないし、ここで無駄遣いをしているご身分じゃない。またここに来た時に並んでみよう。
透明のガラス張りのエレベーターの奥にやっとこさ出口を見つけてほっと安堵した時。
「ねえ、そこのお兄さん」
という鈴の音のような声が聞こえた。
片田舎から独り、このコンクリートジャングルのメトロポリスに上京した僕に声をかける人なんていないだろうし、いるとしたら宗教勧誘かカツアゲ目的の不良ぐらいしか考えられない。いずれにしろそのどちらにも出来れば関わりになりたくはないので聞こえない振りをして先に進もうとしたが。
「ねえねえ、ちいと待ちぃや。そこのお兄さん」
ちょいちょい、と二回袖を引かれた。僕は怪訝に思いながら振り返る。
後ろには白いワンピースを着た僕と同じくらいの年齢の女の子が袖を持っていた。黒色の髪を三つ編みにした、あどけない顔の女の子。血色の無い、異常なほどの色白。
「無視せんでよお兄さん。悲しくなるやん?」
女の子は言った通り眉をひそめて悲しそうな顔をしてから、僕の袖から手を離した。
「僕に何か用?」
「これお兄さんのものやない?さっき落としたみたいやけど」
女の子は何かを指先で摘まんで僕に渡す。僕はそれを受け取って手のひらの上に乗せる。朱色のお守りだった。それは扁平なもので、白いひもがついている。表には「合格祈願」や「家内安全」などの、お守りにありがちな文字は何も縫われていない。朱色一色のシンプルなデザインだ。裏を見てみると勾玉が三個向かい合わせに固まったような模様がある。
「いや、これ僕の物じゃないよ」
「そうなん?やけど多分お兄さんのそのボストンバックから落ちたばい」
女の子はそんな事を小さい高い声で言いながら、不思議そうな顔をした。
僕は女の子に「ほら」とお守りを返そうとしたが、首を振って受け取ってくれない。
「よかよ、お兄さんのやなくても貰っとき。みぞれのものでもなかし」
「貰っとけって言われても……」
「それじゃ、みぞれはもー行くばい」
にこりとえくぼを浮かばせながら言って女の子は駅の奥に向かって行こうとする。
女の子は数歩進んでから、手のひらに朱色のお札を乗せたまま立ち尽くしている僕に向かってくるりと振り返る。
「縁があったらまた会おうね、シニシズムのお兄さん——」
女の子は白い歯を覗かせながら無垢そうな顔で言う。
「——冷笑の異形みたぁなもんに願わんようにせなよ」
と言って。
今度こそふらふらと歩いて行って、女の子は幾人もの人で作られた雑踏の中に消えて行った。
僕は行き交う人の流れの中、身じろぎもせずその場で棒立ちになっている。このお守りは間違いなく僕の所有物では無かったし、いや、それより。
冷笑の異形? 何の話だろう。
あの女の子は僕の事を知っているのか?
僕は頭を振ることでその混乱を脳裏からかき消した。今考えるべきなのはあの女の子の妄言よりもこの朱色のお守りの方だ。かなり精巧に作られたお守り。効能の方は何も書かれてないが、何かしらの利益はありそうだった。
この誘並市は「神の棲む町」だ。もしかしたら、というかかなり頭の悪い考え方だが、もしかしたらこの土地に腰を据えている神様が僕にくれた歓迎のギフトなの知れない。
僕はこのお札をボストンバックに結び付けた。ねこばばするのは少しの良心の呵責も感じたが、まあ深く考えないことにした。僕は足を進める。
誘並駅の外に出た。かなりのスペースを誇る駅前広場があって、スーツ姿のビジネスマンや制服姿の学生などが地を飛ぶバッタのように歩いている。噴水が勢いよく水を上げて、きらきらと光っている。
傍らのどでかいモニターにはニュースが放送されている。田舎の立てこもり事件がどうのとか、飛行機事故で家族を失った遺族が航空会社に慰謝料を求めるだとか、物騒極まりないことをアナウンサーがすらすらと早口で読み上げていた。
それを横目で見つつ、僕は広場を横断してバス乗り場へと向かった。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.3 )
- 日時: 2018/03/31 00:05
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
誘並市は東区永鳴。誘並駅からバスで30分ほど進んだところにあり、僕がこれから通う天照学園がある地域である。碁盤の目のように規則正しく区画された住宅街で、誘並中心部と比べて落ち着いた雰囲気が流れている。とは言っても、人通りはやはりそれなりに多く、4車線の道路を目まぐるしく車がびゅんびゅんと行き交っている。
バスは歩道橋の脇の停留所で緩やかに停まった。ここで降りる人は僕以外にいなかった。ステップを下りて地に足を付ける。海が近いのか、微かに潮の匂いがする。植えられているのはケヤキだろう、並木道が一本線上にずっと緑色に伸びている。
僕は軽く背伸びをした。あちらこちらの関節が悲鳴を上げている。出発地点の登潟からざっと三時間を要する長旅である。疲労が溜まるのも無理はなかった。ポケットの中のメモを取り出して見ると、どうやらここからもうちょっと歩くみたいだ。また移動かと思えば憂鬱にもなるが、残り僅かの辛抱だ。もう少ししたら文字通り足を伸ばして休めるだろう。
閑散とした住宅街を抜けて、やっとこさたどり着いた学生寮『飛想館』。いくつもの窓がついて白を基調とした、まるで安めのホテルのような外観。幹線道路から少し離れたところにあり、向かいにはコンビニが佇んでいる。ベランダには洗濯物や布団が干されてあるため、生活感は抜群だ。
僕は飛想館の入り口へと足を向けた。自動ドアの傍らには売切ばかり並んだ自動販売機。このご時世誰が使っているのだろう、年季の入った緑の公衆電話。一つ段差を上がった先にカーペットの床が伸びている。昇降口の向かいに木製の階段が見えた。
寮監室を覗いてみたけど日曜だからだろうか、人っ子一人いなかった。受付にも誰もいない。
僕の部屋は階段を上がった先にある211号室。有難いことに一人部屋だ。メモによると僕の親戚により入寮の手続きはとうに済んでいるらしく、勝手に部屋の中に入っていいようだ。
「勝手に入れって言われてもね……」
めちゃくちゃ気が引ける。
刑法130条。住居侵入罪。3年以下の懲役又は10万円以下の罰金。
なんか悪いことしてるみたいで後ろめたい気持ちになりながら、さながら気持ちは某スニーキングゲームの主人公である。端から見ればかなり挙動不審だったと思うが、幸いにもすれ違う人は誰もいない。
木製の階段を軋ませながら登り、フローリングの廊下を抜き足差し足で進み211号室の扉の前に辿り着いた。廊下の端には埃をかぶった消火器が置いてある。この飛想館は上空から見るとアルファベットのEのような形で、ちょうど一番上の横棒にこの211号室はある。
「……入るか……」
ドアノブに手を伸ばして捻る。鍵はかかっていなかった。ぎいっと音を立てながらドアを開けたら狭い部屋の中に知らない顔の男が二人見えた。
金髪と茶髪が二人肩を並べてソファーに座っている。
「お、来たかつっきー!待ってたぜー!」
金髪の方が手を上げたが、僕は聞こえなかった事にしてバタリとドアを閉めた。ドアの向こうから何か言うような声がしたが、僕はそれを無視してどういうことだと頭を抱える。
メモには確かに211号室と書かれているし、ドアの札にもちゃんと211号室と書かれてある。メモを何度も確かめながらここに来たため、この建物は指定された飛想館であることは間違いない。 そもそも一人部屋であるため中に人が居るのはおかしい。
何が間違っているのだろうかと僕が一人で悩んでいる途中で、向こう側から勢いよくドアが開いた。僕は思わずびくりとすると、さっきの軽薄そうな顔の金髪がひょこりと顔を覗かせる。
「おいおいおいおい何してんだお前は?ほら、早く入ってこいよ」
何で僕の部屋にいるのかとか聞きたいことはあったけど、半開きのドアの狭間から金髪の手がにゅいっと伸びて僕の手首を掴んだ。強い力で引かれ、問答無用で部屋の中に連れていかれる。意味が分からない、この人は何者だと脳内をぐるぐる回転させながら僕は玄関口で靴を脱ぐ。
簡素なキッチンとユニットバスの浴室に挟まれた気休めほどの廊下の奥に、一枚の扉が開いている。その奥のリビングにあるソファーに、肌が健康的な小麦色に焼けた茶髪の男が座っているのが見えた。
「11時に着くって月じいから聞いてたけど、結構遅くなったなー。まあ疲れただろ、ほら座れ座れ」
ドアのチェーンロックを掛けながら金髪が言った。遅くなったのは僕が誘並駅でバス乗り場を探すのに30分ほど彷徨ったのと、不思議な雰囲気の三つ編みの女の子にお守りを渡されたからであって。
というか月じいって誰だ。もしかして僕にメモを渡した親戚か。
僕はとりあえずボストンバックを床に下ろし、学習机のそばの椅子に腰かける。鍵をかけ終わった金髪が後ろからのそのそと歩いてきて、「ふー」と息を吐きながらソファーに背を預ける。
「あはは、びっくりしたッスか?」
ソファーに深々と座った茶髪がニコニコと笑った。朗らかな邪気の全くない笑みだった。
えっと、とりあえず。
二人の顔を見比べながら僕は言う。
「君らは誰だ?」
閑話休題。
「もう知ってるかも知んないけど、僕は月島博人。ムーンの月にアイランドの島、んで博士の人って書いて博人。よろしくね」
名前を聞くのはまずお前が名乗ってからだろ、と金髪が言って、自己紹介タイムである。お前僕のことを『つっきー』と呼んでただろうがと言いたくなったが、ノドの奥に飲みこんで、僕は自分の名前を名乗った。
月じいというのはやはりメモをくれた親戚だそうだ。もうちょっと細かくいうと、僕の祖父の兄だ。この誘並市在住、この天照学園においてお偉いさまと呼ばれるに相応しい役職に就いているらしい。僕の部屋に二人がいたのは単に月じい(この呼称は僕も使わせてもらおう)から荷下ろしを手伝ってと頼まれたからだそうで、それがひと段落付きのんびりしている最中に僕がのこのこやって来たみたいだ。清掃業者によって綺麗に掃除された室内。やや狭く見えたが、それは僕を含め男三人がこの部屋にいるからだろう。
「おっけー。次は俺の番かな」
金髪の方が待ってましたとばかりに口を開く。
「俺ちゃんは清水練示。レンって呼んでくれ。まあ仲良くやろうぜ」
金髪の方、レンは親指を立てた。僕の抱いた第一印象は、『何だか軽い男』だ。まずは目を引くその金髪、校則ガン無視の耳に開けたピアス。上背は僕より10センチほどは高いだろう高身長。派手な容姿ではあるが、そのフレンドリーさから見ると不良ではないのだろう。いかにも社交性抜群と言った感じだった。僕とは正反対なタイプである。
「ほらポチ、次はお前の番だぜ」
レンがソファーに座った茶髪の肩をポンと叩く。「おっけーッス!」と元気よく返事をして喋りだす茶髪。
「僕は犬飼圭。陸上部所属ッス!ポチって呼んで!」
犬飼圭、ポチはそう言った。こんがり陽に焼けた小麦色の肌。典型的な運動部員といった雰囲気。控え目に染めた茶髪。立ち上がった所はまだ見てないから言い切れないけど、身長は僕と同じかそれより低いかぐらいだろう。
六畳の部屋に三人が入っているので尚更狭苦しさが増している。窓際にはベッド。右の壁沿いには学習机があって、そこには登潟から持ってきた僕の本が既にずらりと並べてある。部屋の中央には丸くて小さい机とソファー。茶色の安価そうなカーペットの床。ちなみに三人の位置関係を説明すると、学習机のそばの椅子に僕がいて、ポチとレンはソファーに座っている。
「ってかよ、荷下ろしも疲れたぜ。だいたい本が多すぎだっつの」
ソファーの上で伸びをするレン。胸ポケットから青色のパッケージのタバコの箱を取り出して、
「あ、ここタバコいいか?」と僕に聞いた。
「駄目だよ」
「えーつれねーのー」
大人しく胸ポケットにタバコの箱をしまうレン。この部屋に入って来た時点でタバコの匂いがしなかったことから考えると、僕が来る前はタバコは遠慮していたらしい。殊勝なことだった。
「本当レンくんの部屋ってタバコ臭いんッスよねー!」
「うるせーぞポチい!お前の部屋だって獣くせえじゃねえか!」
「獣臭くはないッスよー!」
そう言いながらポチはレンの肩を拳を固めて殴った。殴られたレンはかっかっかと呑気そうに笑っているが、まずい。僕の部屋なのに僕がのけ者になっている気がする。
「二人は一年生?」
「そうッスよー!」
僕の質問にそう返すポチ。シニカルに笑いながらレンは言う。
「ははっ、当たり前だろ。この階は一年生しかいねえし」
「そうなの?」
「おうよ。だから部屋ん中で騒いでも先輩から怒られる心配はねえ」
「まあそうかもね……」
上からの来襲も十分考えられるけども。
「二人の部屋はどこなの?」
「この部屋の隣だぜ。俺が隣の212号室で、ポチが向かいの201号室」
「ふーん……」
「何だよつっきー、嫌そうな顔してんなー」
「嫌じゃないけどさ……」
読書してる最中に隣で騒がれるのはごめんだ。
「あ、つーかさー」
レンは扉の横の収納スペース、クローゼットの方を指さした。
「あそこの中に隔離したんだけどさー、あの黒色のデカい匂い袋、ありゃ一体何なんだ?エライ重かったし、何が入ってんだ?」
「匂い袋?」
何だそれは。僕が地元から持ってきた荷物はそんなもの無いぞ。
僕は椅子から立ち上がって、クローゼットをガバリと開けた。中には僕の愛用のアウターとか糊の効いた新品の天照学園の制服とかがかけられていて、その下には黒くて、大きいバックが鎮座している。
「ああ、それだよそれ。匂いがすげーんだよ。中に夏の高校球児でも入ってんのか?」
「寮に高校球児を袋に入れて持ってくる奴って怖すぎだろ…。剣道の防具だよ、防具」
剣道?とレンとポチの二人は首を傾げる。そう、剣道の防具だ。
大きいバックのひもをほどいて、中に入ってある無骨な防具を持ち上げて二人に見せる。
「剣道部に入るつもりでこの学校に来たんだけど。……そんなに臭かったっけこれ」
何を隠そう僕は、というか隠す気はさらさら無いけど、地元登潟では少々名の知れた剣道の選手だった。この天照学園は剣道の名門中の名門。超を付けて尚足らぬほどの超強豪校で、僕は推薦で合格が決まったのだけど、一身上の都合で入学が一か月ほど遅れてしまい、4月も下旬に差し掛かるこの時期に入寮に至った。
「あーそっか。ウチの学校の剣道部強豪だったッスもんねー」
納得いったとばかりにポチは頷いているが、対称的にレンは眉をひそめている。
「ちょい待ち、つっきー。確かに天照の剣道部ってめちゃめちゃ強かったけど、そりゃちょっと昔の話だぜ」
「昔?」
去年の高総体でぶっちぎりの全国制覇とかしてた記憶はあるが。
「あーそうかそうか、お前もしかして聞いてなかったって奴か」
レンは立ち上がって、僕の方に近づきながら言う。
「去年の三月だったか、なんか部内ででけー暴力事件が起きたっぽくてその責任で今はもう剣道部は廃部になったぜ」
「廃部?」
「そう、めちゃくちゃ鬼のように強い部だったって事は俺も中学ん時から知ってたんだけど、まさか無くなってるとはな」
「去年までいた部員は?」
「あーどうしても剣道したい奴は別の高校に転校したり、そんなにやる気なかった部員は違う部活に入ったりしたらしいぞ。今は5人くらいが剣道部の廃部の取り消しの為にいろいろ動いてるみたいだが……つーか大丈夫かお前?顔色すげえ悪いぞ」
廃部。
言わずもがな、部がなくなっていることを意味する。僕は何も聞いてなかった。呆気に取られる僕の肩に手を置き、レンは言う。
「悪いことは言わねえ、どっか別の部に入れよ。例えば軽音部とかで高校デビュー目指してみるとか?良かったら俺様がいる吹奏楽部で一緒に女のケツ追いかけようぜ」
「そういえばヒロくんと同じように剣道部の推薦で合格決まってた人が何人も入学取り消しにしたって騒ぎになってたッスねー」
さっきレンは三月に事件があったと言っていたが、丁度その頃の僕は『入学が一か月遅れた一身上の都合』でせわしなく悶着に追われていた。もしかしたら実家にその通知が来ていた上で失念していたかも知れない。
「まあつっきー、そんなに落ち込みなさんな。部活が学校生活の全てっていうわけじゃねえだろ」
「僕は特待入学組なんだけどね……」
僕は防具が入っていたバックを名残惜しくクローゼットの中に入れて、学習机のそばの椅子に座る。それをみてレンもソファーまで戻って腰を下ろした。
「剣道みたいな泥臭え青春送んないでさ、もっと楽しいことしようぜ!こうやって俺たちと出会えたことだしさ。あ、そういや連絡先教えてくれよ」
レンはそう言ってポケットから携帯を取り出した。最新型のiphoneのようだ。それを見てポチもスマホを取り出したので、僕もそれに倣い、二人の持っている携帯に表示されているQRコードを読み取る。
「お、来た来た。この『ヒロト』って奴だよな」
「そうそう、それだよ。」
新しい友達の欄に二人の名前が表示される。レンのアイコンはピースサインをした自撮りで、ポチのアイコンは夕焼けが沈む海の写真だった。
「うし、つっきーともライン交換したし、ちょっくら俺バイト行ってくるわ」
携帯をポケットに入れつつ、レンが言った。胸ポケットから煙草の箱を取り出したが僕に睨まれ、苦い顔をしながら戻す。
「バイト?」
「おう、学校にショッピングモールがあんだけど、そこのマックでバイトしてんだよ俺」
「ふうん……」
「めちゃくちゃ興味無さそうじゃねえか……。まあ、気が向いたら来てくれよ」
僕はマクドナルドの制服を着たレンがいそいそとポテトを揚げている姿を想像した。
「……似合わなそうだね……」
「何の話だ?」
「いや何でもない」
僕はそのイメージを頭を横に振って脳内から払拭する。暇な時に行ってみる価値はありそうだった。
「あ、僕も用事あったんだ」
「ん?ポチが何かあるって珍しいな」
「ちょっと誘並駅に行かなくちゃいけないんスよ。2時間ぐらいで済むんッスけど」
「ほー……」
まるで何かの動物のようにレンは唸った。何かに悩んでるような様子だ。
「ポチにつっきーの面倒みてもらおうと思ってたんだけどな。さあどうすっかな」
「別に僕はこの部屋の中で本読んでてもいいんだけどね……」
「ヒロくんは今から学校に行ってみたらいいんじゃないッスか?」
あっけらかんとした口調でポチは言う。
「明日から早速授業だし、通学路の下見がてら」
「ここから学校って近かったっけ?」
「ちょっと歩くだけッスよ!そんなに迷うような道じゃ無いッス」
「じゃあそうしようかな」
「そりゃいいや。んじゃ俺も心おきなく働けるってもんだ」
満足そうに頷くレン。
「今日の夜は空けといてくれよ。おススメの店で歓迎会するからさ」
「分かった」
僕は言った。
「んじゃ」と言って二人は部屋を出ていこうとするが、キッチンの前あたりで思い出したようにレンが振り返った。ポチはぎょっとした様子でレンを見る。
「そう言えばつっきーちょっといいか?」
「ん、何?」
「カオナシさまって噂、お前の地元でも流行ってたりしてたか?」
「……カオナシさま?なんだそれ」
聞き覚えの無い単語に僕は思わず眉をひそめる。
「あ、知らねえならそれでいいんだ。んじゃまた今日の夜会おうぜ。」
そう言ってレンは僕の部屋から出て行った。首を傾げながらポチも彼に続く。
二人が部屋を出ていくのを見送ったあと、僕は近くにあったボストンバッグを開いてお握りを取り出す。
その時に目に付いた、朱色のお守り。何となく僕はそのひもをほどいて、ポケットの中にお守りを滑り込ませた。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.4 )
- 日時: 2018/02/02 01:14
- 名前: ばんび (ID: lerfPl9x)
藤田さん、お久しぶりです。久々に読ませて頂きましたが懐かしい文体に「また、作品が読めるんだな」と口元のにやけが止まりません。
これからの展開が非常に楽しみです、更新頑張ってください。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.5 )
- 日時: 2018/02/04 20:24
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
ばんびくん久しぶりです!藤田です。
小説を書くのは6年ぶりとかになるのでブランクをバンバン感じている今日この頃です。。。
これから週一程度で更新していくので応援お願いします!
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.6 )
- 日時: 2018/05/28 02:21
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
学生寮から1キロほど歩いた所に僕が通うことになる天照学園はあった。オープンスクールの時と入学試験の時に来たことがあったから、大体の場所は僕でも知っている。
僕が今歩いているのは、さっき降りたバスの停留所を通り抜けた直線の一本道を少し進んだところ。閑静な住宅街から少し変化し、賑わうような街の風景。交差点の信号が赤へと変わって、僕は律儀に歩みを止める。横断歩道の先で立ち止まっているスーツ姿の男性は少し所在なさげだ。先の車道にテールライトが何台も連なる。
新律狩通りと名付けられた大通り。脇にはまばらに駐車場が埋まった小さいスーパー。花屋にはチューリップが嘆いているように咲いている。春物の淡い色の洋服を展示したショーウィンドウに、頭からつま先まで情けなさそうな僕の全身が薄く映っている。ガラスの中の僕が何か言いたそうにこっちを見ている。目をそらす。
これから毎日徒歩でこの距離を往復するのはさぞかし骨が折れることだろう。自転車が必要不可欠である。レンのように僕もバイトしなければなとか思いつつ、足をせかせかと動かした。
等間隔に並ぶ電柱と信号機の行列を通り越して、たどり着いた校門前。奥にはどかんと四階建ての校舎が僕を威嚇するように佇んでいる。都会の学校特有の、ちょっと小洒落たような近代的な図書館のような外装。桜の木はすっかりと青い葉をその幹にまとっていたけど、僕の目に付いたのは学園前の風景では無かった。
少女。
制服を着た女の子がレンガでできた校門の塀にもたれるようにして本を読んでいた。
腰まで届くくらいの長めのポニーテールが風に吹かれて揺れている。角ばった眼鏡をかけた『これぞ学級委員長』みたいな知的な女の子。背は僕よりわずかに低いぐらいで、どうやら誰かを待っているような様子である。
読みふけっている本の表紙は僕も知っていた。恒川光太郎の『秋の牢獄』。
僕はその姿を見て、何故か先ほどのこうべを垂れたチューリップを連想して。
僕の視線を感じたのか、少女が顔を上げた。慌てて目を逸らそうとしたが、間に合わずに電球が点くようにぱちりと目が合う。
三白眼。優等生然とした彼女の眼鏡の奥の眼は、しかし恐ろしいほど鋭い。その鋭利な刃物を思わせる両目がまるで照準を合わせる様に僕に向けられる。
彼女は読んでいた本をぱたんと閉じて、ゆったりと僕の方に向かってくる。一歩、一歩と足を踏み出すたびにその結ばれた長い髪が、振り子のように左右に揺れる。辺りには僕とこの女の子の他には誰もいない。
「……」
僕と彼女以外の時間が止まったように思えた。葉桜が風にあおられ、はらと音が鳴る。遠くで鳴るクラクション。僕の眼前5メートルほどまで女の子はゆっくりと距離を詰めて、僕と向き合う。すっと女の子が息を吸い込む。
「人探しをしています」
まるでぴんと張ったピアノ線の様な凛とした声。この風の中でもはっきりと明瞭に、そのままの言葉で僕の耳まで届く。
「人探し?」
「ええ、少しお尋ねしたい事があるのですが」
「えっと、僕はここに越してきたばっかりなんだけど——」
「構いません」
食い気味に言われた。
風が吹いて僕の髪をめくる。彼女は眼鏡を中指で押し上げてから、僕に尋ねる。
「貴方は『ともみ』という名前の女の子を御存知ですか?」
その言葉は、まるで雨に濡れた衣服のように僕の中の何かにまとわりついた。まるで知らない内にできた傷口に水をかけられたような、そんな気分だった。でも、僕はこう答えるしかない。
「ごめん、知らないよ」
僕は答える。
「……」
と彼女は沈黙を返事とする。その無表情の鉄面皮が少し崩れたような気がした。残念がってるのか不満なのか失望なのか僕には判別できなかった。
「そうですか」
と言って彼女は距離を詰めてくる。何かしらの危害を加えて来るんじゃないだろうかと思わず身構えたが、僕の脇まで来て、ぴたりと足を止める。
「それではご機嫌よう。貴方に凄惨なる平穏と一摘みの数奇があらんことを」
そんな事を言って、彼女はすたすたと歩いて行った。僕の歩いてきた道へ消えていく。
彼女のそのスレンダーな後ろ姿が見えなくなって、「ふう」と僕は息をつく。緊張していた精神が弛緩するのを僕は実感する。
誘並に引っ越して来て一日も経っていない僕に聞いても無意味だろう。答えられるわけが無い。
と、そこで。
「おっと?」
僕の目が地面に落ちている何かを捉えた。近づいて手に取る。薄い紙の様な物。いや、こんな遠回しな表現をしなくてもいいだろう。これは栞だ。いかにも値が張りそうな、紫の花の文様。
「うっわ面倒臭いな……」
恐らくさっきの眼鏡の女の子の物だろう。本を読んでいた時に落としたのかも知れない。ぱっと後ろを振り向いてみたけど、もうその姿はどこにも見えなかった。
まあいいか、この学校の生徒なんだろうし、そのうちまた会った時に返せばいいだろう。
ラミネートフィルムで加工されたその栞を、僕はポケットの中に入れる。
僕は学校に向かうことにした。校門をまたぐ。私服姿で学校には立ち入っていいものだろうかと脳裏によぎったが、ここまで来て引き返すのは面倒だった。
広いグラウンドで野球部が練習しているのが見えた。どこかでテニスボールを打つ間の抜けた軽い音が聞こえる。
コンクリートで舗装された校舎前を抜けて。
そして。
学園敷地内の最果て、武道場の前で。
僕は白縫筑紫と邂逅した。
ところで『天は二物を与えず』ということわざがある。
まあ僕みたいなのが説明するべくも無いほど有名な言葉だけど、僕は一人だけ、天から二物も三物も与えられた、その言葉の範疇の外に位置する人間を知っている。
その名を白縫筑紫。才色兼備にして才貌両備に加え文武両道。具体的に言うと、その浮世離れした血の凍る様な美形。剣道の全国大会でベスト8に入るその腕前と、隣の県に住んでいた僕の耳まで「誘並に神童がいる」との噂が入るほどの出来のいい頭脳。まさに齢15にして人類の一つの完成形である。
何なんだよ。
お前が主人公しろや。
出る作品間違えてんだろ。
完全におまけなんだけど、彼の年子の姉もまた、剣道の有名な選手である傍ら、現役アイドルとして活動していると聞く。
何を間違えたのか、僕の様な量産型の人間と彼は繋がりを持っている。まあ普通に剣道の地区大会で知り合ったんだけど。彼とは地区大会の決勝で戦い、普通に僕の完敗だった。
ともあれそんな彼が、この天照学園のがらんどうの武道場の前で僕と再会した。
赤っぽい瓦の屋根。和風の趣が漂う木造の建物。
その下にこの世のものとは思えないほどの美少年、白縫筑紫は生け花のように佇んでいた。
僕は筑紫に「あれ?」と言って。
彼は僕に「やあ」と言った。
「奇遇だね月島くん。君もこの学校だったっけ」
「うん、ちょっと野暮用で入学が一か月ぐらい遅れて、やっと明日から登校」
「へえ、そうだったの」
筑紫はそう言って微笑む。ミロのビーナスも白旗を上げるほどの美しいスマイルである。黄金比という言葉は彼の顔面にこそ相応しい。
「筑紫はここで何してたの?」
「いや、大したことじゃないんだ。武道場の掃除だよ」
「掃除?」
「そうさ。いつでもここで練習できるようにね。……もちろん月島くんは剣道部が廃部になったっていうはなしは知ってるよね?」
「ああ、当たり前だろ?」
今日の今、先ほど知ったけど。
筑紫は武道場の扉の上の看板をゆるりと見ながら言う。
「悲惨で陰惨な出来事だったよ。剣道部に入部することを熱望していた僕からしても廃部もやむなしと言った感じだね。……だからこそ僕や——ちゃんは再建のために動いてるんだけど……。」
「ん?」
今何て言った?風が吹いて上手く聞き取れなかったけど。
訝しむ僕はよそに、筑紫は花のように笑って続ける。
「こんなところで立ち話もなんだし、どこか行かないかい?全中時代の積もる話もあるだろうし。」
「別にここで良くないか?」僕は武道場前の外階段を指さす。
「んん?月島くん、階段なんかに座るのかい?」
本当に理解できないと言った顔の筑紫。めちゃくちゃ育ちの良い人間だった。人間性までも僕の全敗である。
「あ、えっと。僕今日越したばっかりで旅疲れしてるんだよ。二時間新幹線に揺られたんだ。腰を下ろせればどこでもいいって感じ」
「それは良くないよ月島くん」筑紫は眉をひそめる。「『人間は考える葦だ』なんてジョークは言わないけど、自分の価値をみすみす下げるような真似はしない方がいいよ。何よりも君の品位を著しく低下させる行為だ」
「そこまで言うか……」
出会い頭に同い年から説教を受けた僕。コンビニでたむろしているヤンキーあたりに聞いてほしい言葉だった。
それに、と筑紫は続ける。「君がどう思うにしろ、僕自身の価値が下がるのは許せない」
「……。」
こんなキャラだったっけ、筑紫。まあ中学時代はそんなに深い話はしてなかったけど。
完全無欠。
最終完成。
僕みたいなまがい物とは——
僕はふとバイトに行ったレンを思い出した。
「じゃあ今からマック行こうぜ。この近くのショッピングモールで友達がバイトしてるんだ。」
「マック?」
おっと?
「マックって何だい?」
「えーっと……」
マジかこの人。
「Mac?」
「その発音だと確実にパソコンとかの方だ。そうだな……、ハンバーガーとか食べられるとこ」
「へえ、近くにそんなところがあるんだね。僕は知らなかったよ。美味しいのかい?」
お前ここらへんの出身だろ、と僕は内心毒づきながら「美味しいよ。筑紫の口に合うかは分かんないけど」と答えた。
「ああいいね。じゃあそこに連れてもらえるかい」
「オーケー」
まあマクドナルドがあるショッピングモールは校門の辺りから見えていたし、いくらここに来たばかりの僕と言えど迷うことはないだろう。
「そうと決まれば早速行こうか。僕も君が来る前に用事は済んでたし」
くるりと筑紫は踵を返してから、首だけ僕の方を向いて。
「あといろいろ月島くんに聞きたい事はあるからね」
にこりと笑った。それはうっかりしたら男の、同性の僕ですら見惚れてしまう程の笑みだった。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.7 )
- 日時: 2018/04/19 22:20
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
「うおおうめえうめえすげえ美味いよ月島くん!! 何が入ってるのこれ! いくらでも食べられるよこれ! 何で僕はこんな美味い物を知らなかったんだ! 人類としての恥だね! 馬鹿だ! 何て馬鹿なんだこの僕は!あ!月島くん!!君の方にあるこのベーコンの奴も食べていいかな!?」
「落ち着け」
天照学園の近くのショッピングモール、その名をショッピングシティツクヨミ。地方最大の規模を誇る巨大商業施設で、地元の人間は勿論、この誘並市に来た観光客もここによく来るらしい。4つの建物で構成されていて、それぞれイーストビル、ウェストビル、サウスビル、ノースビルと名付けられている。
施設の中には部活帰りらしき、天照学園の制服を着た人たちで賑わっていた。僕の隣にいるのは空前絶後にして天下無双の絶世の美少年の筑紫である。こそこそと耳打ちをする周りの目、特に女子の目線が多少気になる。
確かに学校からツクヨミに来るまではまっすぐ来ることができたが、恥ずかしながら入り組みに入り組んだダンジョンの様な施設の中で盛大に迷ってしまった。いい年こいた男子が二人揃って仲良く迷子である。30分ほどうろちょろと彷徨った結果、ようやくノースビルの連絡通路のそばにマクドナルドの看板を見つけた。
小奇麗な店内に僕と筑紫が丸いテーブルを挟んで座っているが、そのテーブルにはうず高く積まれたハンバーガーの山。今にも崩れそうなそれを、凄い勢いで筑紫はがつがつと捕食している。その光景はさながらブルドーザーが整地していく様を彷彿とさせた。あるいは草食動物の死骸を貪るライオンのようだった。
「今日は僕が初めてハンバーガーを食べた日だからこの日をハンバーガーの人して日本の総人口一億総動員でお祝いしよう!!未来永劫にこの日は記念日だ!!」
「……」
僕はコーラをストローで吸い込んだ。弾ける炭酸が僕のノドを刺激して、胃の奥に流れていく。その臓器の中でゴボゴボと空気が生まれる。
人が変わったような筑紫。変貌というか二重人格か。というか登場していきなりキャラ崩壊すんな。
怖えよ。
さっきの自らの価値がどうだとかいう高説はどこに行った。
「ねえ、筑紫」
「何だい?僕のハンバーガーは一つたりともあげないよ」
「いや、そうじゃなくて…、周り見てみてよ」
「む?」
僕の言葉に店内を見回す筑紫。まあ何というか、それなりに混雑したこのマクドナルドで、大量のハンバーガーを大騒ぎしながら爆食いすると当然の如くかなり目立つ。それが筑紫のような人並み外れた美少年なら尚更である。やはり近くのテーブルに座っている人たちからの痛々しい視線をひしひしと感じる。
ようやく我に返った筑紫が「こほん」と咳払いをする。
「見苦しいところを見せてしまったね。さて、さっきのシュミレーティッドリアリティの話の続きなんだけど。」
「そんな話はしてなかったけどね」
今になって知的ぶろうとしても最早手遅れである。危うく謎の記念日が一つ増えるところだった。
「この僕としたことが取り乱してしまったね。恐るべし、マクドナルド。侮れないね」
「恐ろしいのは筑紫だと思うけど」
取り乱すどころか狐憑きみたいになっていたけど。
厨房の方を見ると制服姿のレンが時折こっちの方をちらちらと見ながら働いている。ポテトが上がった時の電子音が聞こえ、いそいそと作業に勤しんでいた。
「どうだい月島くん、この誘並は?」
すっかり落ち着きを取り戻した筑紫が僕に聞いた。彼の口の端にソースが付着しているのを見なかったことにして、僕は答える。
「やっぱ人が多いね。びっくりしたよ」
「君は登潟中学の出身だっけ、あそこは割と田舎だよね」
「随分とはっきり言うね……」
まあ否定はしない。どころか全身全霊で肯定する。
「僕がびっくりしたのは何よりも天照学園で月島くん、君に出会ったことかな」
「僕に?」
「そう、まさか全中時代に背中合わせで共闘した君とこんな所で会うとはね」
「……」
この人は僕を買いかぶり過ぎな気がする。第一筑紫はベスト8に入ったけど僕は一回戦で惨敗した。地方大会の決勝でもボコボコにされたし。背中合わせなんて形容するのも馬鹿馬鹿しい、完全なピラミッドの様な関係である。
「君との出会いは僕にとって揺るぎない価値観をぶっ壊されるような、酷く衝撃的なものだったよ」
「そこまで言うか……?」
「当たり前じゃないか。地区大会の決勝で八百長を持ち掛けたのは僕の10数年の人生の中で君が当然の如く初めてだからね」
「……」
ノーコメント。
「ところで月島くん、聞きたいことがあるんだけどいいかい」
筑紫はポテトを頬張りながら言った。机の上のハンバーガーの山は先ほどよりもいつの間にか随分と低くなっている。
「うん、何だ?」
「言いたくなかったら言わなくていいよ。答えたくなかったら答えなくていい。これは僕の純粋な興味と知識欲だ」
「うん」
「君が1か月入学が遅れた理由を教えて欲しい」
「えっと——……。」
隠すようなことでも無いけど、しかしここで吹聴することでも無い。
いくら中学時代の友達の筑紫が相手と言えど。
僕には無意味に秘匿したいことの1つ2つある。
「言いたいか言いたくないかで言えば言いたくないかな」
「じゃあこうしよう」筑紫が指を5本立てた。「僕が5つだけ質問する。君はそれにイエスかノーかで答えてもらえるかな。それ以外は何も言わなくていい。まあ軽いゲームみたいなものかな」
「ウミガメのスープだね、OKそうしよう」
僕は筑紫の歯形が付いたベーコンレタスバーガーをかじりながら頷く。うん、おいしい。
「1つ目、その出来事は、君の地元で起こった、イエスかノーか」
「イエス」
「2つ目、その出来事は持続的なものでは無い、単発的なものだ、イエスかノーか」
「イエスとも言えるしノーとも言える。どちらかと言うとイエス」
「なるほどね……、3つ目、それは今日君がわざわざ新幹線を選んでこっちに来た理由に関係している」
「うわあ……」もう確信を突きに来ている。「イエスだよ」
「4つ目、これで王手だよ。その出来事で多くの人間が……、凄い数の人が、命を落とした、イエスかノーか」
「イエス」
「もう十分だね」筑紫はにこりと口角を上げる。「何というか、随分と数奇的な運命を辿ってるじゃないか。——いや、奇数的な運命とも言うかな、君にとっては善か悪か、良か不良か、何にしろ二つになんて『割り切れない』んだろうし」
「上手いこと言わなくていいから……」
僕は火の消えたマッチ棒のような気持ちになる。そりゃあこんな的確に的を射るような質問ばかりされると、心の中をのぞき見されてるようで気が滅入る。
「で、あと一回質問をする権利があるけど、それを行使する?」
「うーん、そうだね……」シニカルに笑って考えるような仕草の筑紫。「じゃああと一つだけ聞こうか」
「OK、何を聞く?」
筑紫は言う。
「さっきも言った通りこれはただの僕の興味と知識欲だ。何なら答えてくれなくても、沈黙を解答としよう。5つ目——」
知識欲。
感心。
貪欲で聡明な人間ほど、恐ろしい生物はいない。
「——5つ目、君はその出来事において、被害者でもあり、加害者でもある。」
「答えは、」
僕は答える。
「答えは『どちらともいえない』」
なるほどね、と筑紫は頬杖を突く。
「結構ニュースになったっけね。まさか僕の予想通り君が絡んでたとは。」
「僕の予想通りって……。」
まあ僕の平和な地元で起こった唯一と言っていい程の前代未聞の大事故であり大事件である。筑紫くらいなら僕が入学が遅れたと聞いた時点で気づいてもおかしくは無い。誘並でもニュースで大体的に報道された出来事である。
これを知ってるのは筑紫を除けば、レンやポチの言うところの『月じい』と、僕の親戚の月じいとその娘、憩ぐらいか。
「……そういえば」僕は話を変える。「そういえばこれを見てほしいんだけど」
「んん?」
ふと思い出して僕はポケットからお守りを取り出した。誘並駅で色白の三つ編みの女の子から受け取ったあの朱色のお守りである。
それを僕から受け取った筑紫は「むー……」と眉をひそめながら唸って穴が開くんじゃないかと言うほど見つめてから言った。
「月島くん。これってどこで手に入れたんだい?」
「誘並駅。知らない女の子から僕が落としたとか言って渡されたんだけど、絶対に僕の物じゃないんだよね」
「むー……」
めちゃくちゃ悩むような筑紫。めちゃくちゃ悩みながら口にハンバーガーを運ぶ。
「この裏に書かれた勾玉のマーク、見えるよね?」
筑紫はお守りを指で示す。言った通り勾玉が三つ向かい合わせに寄り添った紋章。
「うん、これがどうしたのかい?」
「このマークは『面影神宮』っていう神社の紋章なんだけどね」
「ああ、あの……」
面影神宮なら僕も少しの知識がある。この誘並市の中心部にある、かなりの規模を誇る神社。『神の棲まう町』と呼ばれるこの誘並市においても、トップクラスの知名度がある、と観光ガイドに書かれてあった。
「この紋章、巴勾玉と言われてるんだけど——がこのお守りに書いてあるってことがちょっと、いや猛烈におかしいんだ。」
「は?どういうこと?」
「まずは面影神宮について説明しようかな、うおっ!チキンフィレオも美味え!!」
「集中しろ」
「面影神宮。正式の名を八心面影八幡宮。日本中の八百万の神という神が集う誘並市の中でも指折りの規模を誇るどでかい神宮だよ。主宰神は常世の神、八意思兼命とも、誘並の地に古来から済む『よくわからない』土着神、『面影さま』とも言われてるね」
「へえ」
流石専門分野。勉強になる。
「ご利益は八意思兼命を由来とする知恵や学問や至誠、あと天候安定。それと土着神の『面影さま』を由来とする記憶や追憶などと言われている」
「後者だけ何だか曖昧だね」
「そう、『面影さま』は未だに不明なところの方が多いんだよ。八意思兼命と一身同体の姿と書かれてる書物もあれば、その従属と記されてるものもある。で、このお守りの話に戻るけど」
「うん」
「面影神宮にはお守りは売ってないんだ」
「はあ?」
まさかの発言。僕の口からストローが離れた。
「面影神宮の神は面影神宮の外には出ない——なんて話を聞いたことがある。なんてたって土着神が祭神だからね。言うなら八意思兼命もとい面影さまがこの神宮に縛りつけられてるような感じかな。だから神の加護を身に着けて持ちあるく祭具——お守りはこの神宮では作られていない。」
「だったらこれは何なんだい?」
「恐らく偽物だね。今すぐに処分した方がいい。」ジュースを飲みながら筑紫はそう言い切る。「土着神は基本的に祟り神だ。まあ必ずしもじゃないけどね。でも神様の意向にそぐわない物を持っていることは極めて危険だ。何なら僕の知り合いにお願いして処分してもいいよ?」
「じゃあお願いしようか」
「OK」
筑紫は言ってお守りを懐の中に入れた。
「一応このお守りについて調べてみるよ。面影神宮の名を騙ってお守りを販売する輩がいるかも知れないし。ある意味これは一種のテロみたいなものだ」
「テロとまで言うか……」
「地着神をあまり舐めない方がいいよ。元を正せば大自然そのものに畏敬を表し生まれた信仰だ。有名なクナドの神、ミシャグジさまとか聞いたことないかい?」
「あー諏訪大社の神様だっけ」
ミシャグジさま。
諏訪信仰に関わる、境界と豊穣を司る神様。神官に憑依して宣託を下す蛇神。祟り神として有名で、敬称を略したゲーム会社が盛大に祟られたという話があったり。
「ところで月島くん」
ハンバーガーを掴んで筑紫。さっきまであった大量のハンバーガーは全ていつの間にか無くなっていた。代わりに丸められた包み紙がテーブルの上を埋め尽くしている。
「君は剣道の推薦でこの学校に入学したんだろ。でももうその剣道部は無くなっている。だったら君はこれからどうするのかい?」
「うーん、まだ分からないかな…。こうなったらいろんな部活を見学して、気に入った所に入ろうとは思ってるけど……」
「もし良かったら僕たちの所に来ないかい?同好会という形で剣道部の再建を目指して何人かで活動してるんだ」
「あー……」
確かレンが言ってたっけ、そんなこと。
何も置いてなかった、誰もいなかったがらんどうの武道場。インターハイ元優勝校の凋落。
まるでこの僕のように地に堕ちていて。
「まあ考えてみるよ」
僕は曖昧に返事をした。今返事をしても仕方ない。
「そうだね、まだ誘並に来たばっかりなんだからゆっくり考えるといい。この学校は誰も把握してない程多くの部活があるからね。」クスリとほほ笑む筑紫。「じゃあもう出ようか。お腹一杯になったしさ」
そりゃああれだけの量のハンバーガーを一つ残らず食い尽くしたらお腹いっぱいにもなるだろ、と言いたかったけど口には出さなかった。トレイからはみ出さんばかりの包み紙を乱雑にまとめてから筑紫は席を立った。
「ウチの同好会には面白い人がいるからいずれ君にも紹介するよ。僕の姉の姫菜も一応在籍してるし、今のところこの僕と灯ちゃんとかあやめちゃんの4人が居るから是非月島くんにも入部してほしい」
「姫菜は知ってるけど、灯ちゃん、ていう人とあやめちゃん、っていう人は僕は知らないな。どういう人?」
「まあそこは追い追い紹介するよ。」
にこりと芸術品のような笑みを浮かべて、「行こう」と筑紫は言った。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.8 )
- 日時: 2018/04/16 07:36
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
マクドナルドから出た僕と筑紫はその足で映画を見に行った。このショッピングシティツクヨミの一番上のフロアに映画館があるとか。どうしても筑紫が見たいものがあったので一緒にいったのだけど。ピエロが人々を惨殺していくホラー系の洋画で、昔に発表された作品のリメイクらしい。あまり映画を見ない僕でさえ知って居るような有名なタイトルだった。
「死ぬ!ホントに死ぬ!勘弁して!僕が悪かった!!うおおお!?腕がぁ!!」
冒頭から隣で美少年が引くぐらい怖がっていた。座席に縮こまるような体勢。めちゃくちゃ顔色が悪い。そんなに怖いなら見なきゃ良かったのに、と指の隙間から画面をチラチラと見ている筑紫を見て思った。大画面にピエロの顔が出てくるたびに、隣から「ひっ!」と小さい悲鳴が聞こえてくる。座席が振動しているのに気が付いて怪訝に思い、横を見ると筑紫がガタガタ震えていた。
一時間程経ち、エンドロールが流れ僕たちは席を立った。床には筑紫がひっくり返したポップコーンが散乱していた。照明に照らされたそのポップコーンはとてもとても哀愁が漂っていた。
紫色の唇をわなわなと震わせて、散らばったポップコーンを避けながら筑紫は口を開いた。
「……た、大したことなかったね……。つ、月島くんはどう思ったかい?」
「……」
何を言ってんのかこの男は。
それから歩きながら筑紫はいろいろな話を僕に聞かせてくれた。箱の中のカブトムシの話。重病に罹患したバイオリニストの話。そんな思考実験の他にも何気ない日常の話もしてくれて。
場面転換。
筑紫と別れて場所は学生寮、飛想館——……じゃなくて。
「ねえポチ」
「どうしたッスか?」
「このバスどこに向かってるんだっけ?」
「平阪ッスよー!」
「……」
そう言われても分かるか。
言わずもがな、歩道橋の下から出発したバスに僕たちは揺られていた。僕たちというのは僕とポチとバイトから上がったレンの三人。バスの一番奥、後部座席に座っているのでバスの揺れが激しい。
外はもうすっかり日は暮れていた。腕時計は8時30分を指している。窓の外ではぽつぽつと等間隔に並んだ街灯が流れている。夜道をとぼとぼ歩く年老いた老婆の姿。まるで鮮度を失ったエビみたいだと僕は思った。寮の前でスタンバイしていたレンとポチに行き先も知らされぬままこのバスに飛び乗ったけれど、僕の歓迎会でレンのおすすめの店に行くってことは聞いた。今は穏やかな住宅街の中を進んでいる。
そして田舎育ちの僕が驚いたのは夜になっても空が少し明るいことだ。目を凝らして見ても星は見えなった。ガタンとバスが大きく揺れて膝の上に置いていた僕の携帯が飛び跳ねた。慌ててそれをキャッチする。
「何ていう店に行くんだっけ」
「鉄板不動心っつーとこ」
僕の横、窓際に座って景色を見ているレンが答えた。疲労に満ちたような表情。
「俺ちゃんってさ誘並生まれ誘並育ちの根っからの誘並っ子だったりするだけどよ、小っちゃい時から通ってる店だ」
「へえー」
「誘並ってラーメンが有名だけどさ、お好み焼きも結構美味えんだ。お前がここに来た記念に連れてってやるよ」
「じゃあレンくんのおごりッスね!」
「うるせえぞポチ。あー疲れたー、マジ疲れたー、尋常じゃなく疲れたー」
「どうかしたの?」
あんまりにもテンションが低いのでちょっと心配になってきたので僕は尋ねた。すると、がばっとレンが隣の僕の頭に腕を回し、脇に抱えてきりきりと締め付けてきた。ヘッドロックの体勢である。こめかみが圧迫されてかなり痛い。
「お・ま・え・らがバカみたいな量のハンバーガーを注文するからだろうが!!ギャル曽根か何かか!帰れま10でもしてんのか!!」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!だいたいあれはほとんど筑紫が頼んだものだ!!僕は関係無え!」
「うるせえ!!連帯責任だ!」
なるほど、マックでこっちをちらちら見ていたのは抗議の視線だったのか。まあそりゃあれだけ大量のハンバーガーを頼むと忙しくなるだろう。レシートの長さが尋常じゃなかった。
「あ、筑紫?筑紫っていうと白縫の筑紫か?」
レンは驚いたような声を上げてふっと腕の力を弱めた。これ好機と僕はヘッドロックからかいくぐる。
「そう、去年の剣道の全国大会でベスト8に入った白縫筑紫。知ってるの?」
「知ってるけど喋ったことはないが。昨日告った女が『ごめんなさい、私白縫筑紫くんが好きなの』っつってたから。あー!思い出すだけでイライラする!」
「そりゃ可哀そうに」
「今度見かけたらナイフで一突きしてやる。」
「可哀そうに!」
筑紫が。
「そういやポチ、お前今日何してたんだ?お前が誘並駅方面に用事があるって珍しいじゃんかよ」
これはレン。
「ただ知り合いに会ってきただけッス」僕の左に座ったポチは頭を掻く。「誘並に中学生時代の知り合いが来てたから会いに行ったんスよ」
「女!女か!?」
「そうだったら良かったんスけど……。」
「ポチって出身どこだっけ」僕は聞いた。
「僕は馬片ッスよ。わかるッスか?」
「あー、登潟と誘並の間だっけ」
と、そこで車内の耳障りな停車ベルが鳴った。どうやら窓際のレンがボタンを押したようだ。もうすぐ着くらしい。
やがてバスがスピードを落として道路の端に停車した。慣性の法則に従って緩い重力が体にかかる。運転手のやけに聴き取りづらいアナウンスが流れた。僕は立ち上がり、財布から500円玉を取り出して運賃箱に入れた。
「うわあこりゃまたすげえな……。」
バスから降りた僕は早速嘆息した。
目の前に広がっているのはネオンが眩く光る繁華街の景色だった。鮮明に目に映る橙色や青色の光。誘並中心部が高層ビルが建ち並ぶ昼の町だとしたら、この平阪地区は飲み屋や飲食店などが軒を連ねる夜の街と言える。僕の地元にはこんなところなかったので新鮮に思った。仕事終わりらしきスーツを来た人たちがふらふらと頼りない足取りで僕の横を通り過ぎる。町中にアルコールの匂いが立ち込めているようなそんな雰囲気だった。
「何ボケっとしてんだーつっきー。置いてくぞー!」
僕がこの風景に圧倒されている間にすたすた歩いていくレンとポチ。二人は人の多さに慣れているので楽なんだろうけど、今日田舎から越してきたばっかりの僕にとってはそう簡単にはいかない。幾度となく人とぶつかりそうになりながら二人に追いつく。
しばらくたわいもない話をしながら歩いて、細い路地に入って突き当り。
「あ、ここだここ」
ネオンの光に溢れるこの町の中で異彩を放つ、趣のある木造の少しさびれた建物。街路に置かれた木の看板には達筆な筆文字で『鉄板不動心』と書いてある。店の中から壁を通して騒がしい声が聞こえてくる。焦げたソースの匂いが鼻孔にふんわりと入ってくる。
「あ、予約なしの三名でー!」と早速店のドアをがらがら開けて指を三本立てているレン。一日目にして気付いたけど彼はかなりのせっかちな性格らしい。「ほら入るぞ」と手招きしている。
その声に応じて僕とポチも店内に入った。まるで時代の流れに逆らっているようなレトロな雰囲気。耳の欠けた招き猫とブラウン管テレビが小さな卓に置かれている。
「あ、いらっしゃいませーっ!」
カウンターの中で皿を洗っていた店員らしき若い女の子が小走りでこっちに向かってくる。
「二名様だね?じゃあこっちなんだよ!」
店員が前掛けで手を拭いてから奥の座敷を示す。年齢は僕と同じぐらいだろう。アルバイトの学生さんだろうか、まだ幼さの残る顔つき。少し既視感を覚えたけど気のせいだろう。
「よーっす!アッカリーン、久しぶり!」
途端にテンションを取り戻したレンが片手を上げた。店員らしき女の子も右手で手刀を作って敬礼する。
「練示っちおひさおひさー…っていうか先週あたりも来てたじゃん!そこのポチくんとー!」
女の子はびしっとポチを指さす。指さされたポチは少し照れくさそうな様子。そしてその横で所在なさげにしている僕に女の子はやっと気が付いたらしく「ん?」と目を細めて首を傾げる。
「あ、こいつは今日誘並に越して来た月島——」
「わあああああああああああああああああ!!!!」
レンが僕を紹介しようとしたが、叫び声を上げながら僕に女の子は飛びかかってきた。猫のように俊敏な動きだった。もしかしたら肉食動物だったかも知れない。ともかく物凄い勢いで彼女は僕の肩をがしりと強く掴んでがくんがくんと前後に揺さぶる。
「知ってる知ってる登潟の月島くんじゃん!!うわあああ!なんか見たことあるなって思ったら!!」
「ちょ待っ……、」
「灯ちゃんだよー!!覚えてるー!!?灯ちゃんだよーう!!!」
問答無用だった。暴れ馬に乗っているかの如く視界が揺れる。首が痛い。
「れ、レン!どうにかして!」
「お、おう!」
とりあえずレンとポチの二人がかりで無理くり引っぺがしてもらった。ようやく落ち着いた女の子に導かれて店の一番奥の座敷に着いた。畳が敷いてあってその真ん中に鉄板の付いたテーブルがある。奥の上手側に僕が座り僕の向かいにポチ、その横にレンが腰を下ろす。
「よっこらショコラティエー!」
何故か僕らに続いて、そんなことを言いながら僕の横に女の子が席に着いた。
肩に届くほどの長さの明るい茶髪。くるんとした瞳の童顔。こんな元気はつらつなテンションの高い娘、どこかで会ったら忘れない自信はあるけど、僕はこの子のことを知らない。
「やーホントは昼ぐらいにね!駅の広場で月島くんみたいな人とすれ違ったんだよね!」そう言って笑いながら手の平を合わせる。「でも誘並に月島くんがいるわけないって思って無視したんだよねっ!あ、ちゃんヒロって呼んでもいいかな!?」
「待て待て待て」
「んんー?」
不思議な顔をする女の子。いや不思議そうな顔をすべきなのはどちらかいうと僕だと思うんだけど。あと座るな仕事しろ。
「僕、君の事知らないんだけど、どっかで会ったことあるっけ?」
「うええ!?マジマジ!?ちゃんヒロってばあたしのことボーキャクの彼方!?」
女の子は大仰に驚いたような顔をする。両手で鉄板の付いた木製のテーブルをバンバンと叩く。
「酷いよ!あんまりだよ!!ディオニュシオス一世だよ!!」
「僕は走れメロスに出てくる邪知暴虐の王様か。…いやマジで覚えてないんだけど。登潟の人だったりする?」
「違うよ!!あんな縄文時代みたいな所に行ったこと無いよ!」
「縄文時代っていうな」いくら女の子でもぶっ飛ばすぞ。「名前教えてくれたら思い出すかも知んないけど」
「ミオニだよう!!」一層テーブルを叩く力が増した。今にも壊れそうな音を出して軋んでいる。「魅鬼灯だよ!アッカリーンだよ!!剣道やってたじゃん!!」
「剣道?」
少し脳内の海馬の中を遡ってみる。えっと、魅鬼と言ったら……。
中学時代。
ひらひら揺れる白い袴。
決勝戦。
「あー……」
「思い出してくれた!!?」
「うん」
僕は頷いた。
中学時代の地方大会。僕と筑紫が決勝で戦って僕が負けたあの試合だけど、その一方で女子部門の決勝も行われていた。一方が筑紫の年子の姉、蓬莱中学の白縫姫菜。そしてもう片方がこの当時絵殿中学の魅鬼灯。延長に延長が重なる接戦と激闘の末、辛くも白縫姫菜が勝利したんだけど。
「そりゃ分かんないよ。だってあの頃って君太ってたじゃん」
「それを言うなああ!!」
思いっきり灯から顔面を殴られた。それも普通の女の子の力では無い、剣道で全国級の腕前を持つ彼女のパワーである。ものすごい激痛が左目の辺りを貫く。向かいのレンとポチが驚いたような声を上げるのが聞こえた。
「酷いよ!あんまりだよ!!ナイアーラトテップだよ!!」
「僕はクトゥルフ神話に出てくる邪神かよ……。ごめん、今のは失言だった」
「それはさすがにデリカシーゼロなんだよ!!頑張って…頑張ってダイエットしたのに!!もうちゃんヒロなんて知らないよ!!タンスに足の小指ぶつけて死んじゃえ!!」
すげえ壮絶な死に方だ。
あまりに激昂して立ち上がった灯だったが、流石に周りの客からの視線に気づいたのか、壁に掛けられていたメニューをぞんざいに取って、乱暴にテーブルに広げた。
「じゃあこれメニューね!決まったら呼んでね!ちゃんヒロは天かすでいい?」
「いいわけないだろ」
「じゃあごゆっくりー!!」
小走りで厨房の方に戻っていく灯。鉄板不動心と書いたエプロンがふらふらと揺れていた。
「つっきーお前さぁ……」レンが頬杖を突いて言った。「モテねえだろ。」
「うるさいな……。レンってここの常連なんだろ。おススメは何?」
「やっぱ海鮮玉かなー。豚玉とかもうめえ。あとアッカリーンエターナルアルティメットスペシャル。」
「何て!?」
「ほらここ書いてあるだろ」
レンがメニューの端を指さした。見ると確かに筆文字で『アッカリーンエターナルアルティメットスペシャル』とある。他が麺玉とか焼きそばとか牛タンとかだから嫌でも目に入る。
「これ何が入ってんの?」
「アッカリーンがその時の気分でいろいろ持ってくんだよ。特に決まってねえな」
「今僕が頼んだら絶対天かすが来るぞ……」
「ちなみにこの前来た時はガリガリ君が入ってたよねー」
いかにもおかしそうにポチが言ったけど絶対美味しくないだろう。僕が海鮮玉に決めたので二人も同じものにした。
「そういえばレン。ポチでもいいけどさ、面影神宮ってどこにあるの?」
僕が尋ねると、レンが不思議そうな顔をしながら答える。
「面影神宮?誘並駅からちょっと歩いたとこにあるけど。観光にでも行くのか?」
「うん、ちょっと行って見たくてさ」
「あー、じゃ今度三人で行くか!いいよなポチ?」
「いいッスね!賛成ッス!」
とポチが親指を立てたところで灯が近くをふらりと通る。レンがおーい!と呼びかけて灯は振り向いた。
「アッカリーン!!海鮮玉三つと生ビール三つ!」
「はーい!海鮮玉二つ、生二つ、紅ショウガと泥水ねー!」
「……」
店員にあるまじきことを言う灯に、少し僕は肩を落としつつ、メニューの端のドリンクの欄を意味もなく見つめた。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.9 )
- 日時: 2018/04/16 07:46
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
結果としては、紅ショウガと泥水は出てこず、海鮮玉はとうに僕たちの胃の中に入った。誘並市は海に面した街で、海産物は豊富。エビや貝をはじめとして、名前も知らないような魚の切り身が入っていた。ソースが焦げた香ばしい匂い。お好み焼きの他に焼きそばや焼き鳥も頼み、その全てを平らげ、テーブルは空いたお皿で埋まっている。
「食らえワンコロぉ!スーパー犬殺しパニッシュメント!!」
「うわああ尻尾が生えるッスーっ!!」
「……。」
普通に未成年飲酒。二人は湯水のようにアルコールを摂取し、熟れたリンゴのように真っ赤に染まった顔。レンがタバコを吸っているため辺りは少し煙たい。僕は度数の少ないお酒を数杯飲んだだけで今はオレンジジュースをちびちび飲んでいる。いや大丈夫なんだろうかこの店。近い将来警察にしょっ引かれたりしないだろうか。木目の目立つ年季の入ったテーブル。今までどれだけの人がここで時間を過ごして来たのだろう。くぐもったラジオの音声と僕の向かいで騒いでいるポチとレンの声が重なる。
「やっほー、ちゃんヒロー!」
そうこうしているうちに再び僕の横に灯が座った。手には赤っぽい物が入ったコップを持っている。
「さっきは殴っちゃってごめんねー!謝りに来たよー!」
「いや、別にいいんだけど。…っていうかそれ何?」
「カシスオレンジ!」
「僕にくれるの?」
「んなわけ無いじゃん!あたしが飲むんだよ!」
「……」
めちゃくちゃ不真面目な灯だった。見ると彼女も少し顔が赤い。
「ふい—、さてさて、元気いっぱいなあたしはちゃんヒロに質問なのです」
カシスオレンジを一息に飲み干した灯。
「何で今になってこの誘並に来たの?転校?」
「いや、ちょっといろいろあってね。入学が一か月遅れたんだ」
「あれ?高校どこなの?天照?」
「そう、天照学園だよ」
「あ、じゃああたしとおんなじだね!」いかにも光栄とばかりに両手を合わせる。「っていうかいろいろあったって何があったの?」
「何でレンにもポチにも教えてない事を君に言わないといけないかを教えて欲しい。」
「酷いよ!あんまりだよ!!サカキさまだよ!!」
「僕は初代ポケモンにおけるロケット団のボスかよ」
持ちネタかそれは。さっきから文学上の悪王だったり空想上の邪神だったりゲーム上の悪役だったりで節操が無い。
「いーじゃんいーじゃん!隠すようなことでもないでしょー!」
「かと言って言いふらすようなことでも無いんだよ」
「絶対。ずえーっっったい誰にも言わないから教えてよー!」
「……」
まあ言ってもいいか。ポチとレンは酩酊状態だし。僕もアルコールが回って気分がいい。
「飛行機事故」
「うえ?」
僕は言う。
「飛行機事故で家族が僕ともう一人残して皆死んじゃったんだ」もう一人も既に死んでいるようなものだけど。「離陸に失敗して大爆発したんだっけ。乗客も乗員も根こそぎ全員死亡したぐらいのデカい事故だからニュースにもなったんだけど見たこと無いかな?」
「え、待ってそれって——」
「僕には望と祈っていう二人の妹がいたんだけど、望が当日に熱出しちゃって急遽僕と望はキャンセルして、二人だけ生き残ったんだ。あいつに感謝しないとだね。」
「じゃあその望ちゃんは今は——」
「地元に残ってるよ。連絡してないけど」
「そうなんだ……」
一気にテンションが低落したような灯。ふとレン達の方を見ると二人ともテーブルに突っ伏していた。ポチに関してはいびきをかいている。もう酔い潰れたようだ。鉄板の電源を落としているにしても余熱で暑くはないのだろうか。
「ごめんねー!無理やり聞いちゃってー!言いたくなかったよねー」
「うん。言いたくなかった」
別に言いふらすことでは無かったけど。
言ったら言ったで雰囲気が台無しになるし。
こんな話、笑顔で聞ける奴なんていない。
ほら。そんな顔をするな。
同情でさえ不愉快だ。
「じゃ、じゃああたしに何か聞きたいこととかある!?あ、セクハラはあきまへんで!」
「灯はここでバイトしてんの?」
「あーそこ聞くんだね…。——や、ここあたしのおとーさんがやってるお店で。その手伝いやってるの」
「ふーん……」
「興味が無さげ!!」
灯はばんとテーブルを叩いた。どうやら感情が高ぶると手近にあるものを叩く癖があるそうだ。アルコールが入っているので尚更である。
「っていうかさ!ていうかさ!今うちの高校剣道部無くなってるじゃん?あれだったらあたし達の同好会に入らない?」
「あー……」
そういえば筑紫も灯の名前を出していたっけ。あの時は完全に魅鬼灯という存在を失念していたけど。もしかしたら筑紫の言う『あやめちゃん』という人ももしかしたら著名な剣道選手なのかも知れない。
「ねえ灯。『あやめ』っていう人ってどんな人なんだい?」
「あたしの質問に答えないんだね!」
テーブルがまた派手な音を立てる。軋む。この年季かなり古そうだしもうすぐ壊れるんじゃないんだろうか。
「同好会に入るかはまだ決めてないよ。ほら、次は灯のターンだ」
「何か雑じゃない?えっと、あやめん……、あやめちゃんね、何ていうか『怖い人』だよ!」
「怖い人?」
「そう、えっとねー、何か定規で書いた直線みたいな人だね!」
そりゃまた変な比喩だ。
「その人って剣道の経験者だったりするかい?ほら、灯みたいに中学の地方大会とか全国大会で会ってたりする?」
「うーん、会ってないと思うよ!」灯はかぶりを振る。「あの人未経験者だし。中学は誘並の蓬莱中学で、文学部だったと思うよ」
「ふーん……」
蓬莱中学だったら筑紫や姫菜と同じ中学か。筑紫が『あやめちゃん』と僕が知り合いみたいな言い方するから紛らわしいことになっている。この調子だとその『定規で書いた直線みたいな人』とニアミスするかも知れない。
「っていうかよくあやめんの事知ってたね!誰に教えてもらったの?」
灯はポチの方にあったビールジョッキを自分の方に寄せながら首を傾げる。そちらのポチとその横のレンと言えば引き続きいびきをかいている。
「筑紫に聞いたんだ。君とか姫菜とかが剣道部の再建を目指して頑張ってるって」
「いや特に何もしてないんだけどねー!」
言って灯はぐびぐびビールを飲む。いい飲みっぷりだ。「姫っちょも同好会はともかく学校にも滅多に来てないみたい」
「そうなのか?」
「うん。ほら、あの子アイドルやってるじゃん」
「あー……」
この誘並発祥の8人ダンスアンドボーカルグループ、有体に言うとご当地アイドル。その名を『Azathoth』。そのグループに筑紫の年子の姉である姫菜は中学の時から所属している。僕はあまり詳しくないのだけど、今をときめく超大人気のグループらしい。その名声は誘並に留まらず全国の津々浦々まで轟いているようだ。
「姫っちょみたいな可愛い女の子がねー!本気出してあたしたちに手伝ってくれたらいいんだけどねー!例えばさ、学校のお偉いさんにすっぽんぽんで土下座とかしてくれたら一発じゃん!?」
「馬鹿なことを言うな」
「あたしだとほら、そうはいかないじゃん!?」
「まあそりゃそうだね」
「否定してよ!!!」
灯は空のビールジョッキを思いっきり振り上げて僕の頭を勢いよく殴った。側頭部に鋭い衝撃が走る。完全にデジャビュである。今回は道具を使った上、酔いが入り力のストッパーが外れている故にめちゃくちゃ痛い。理不尽。
ジョッキは割れてないし僕の側頭部から血が出てないことから、猫の額ほどは手加減したみたいだけど。
「酷いよ!あんまりだよ!!メフィストフェレスだよ!!」
「僕はゲーテのファウストに出てくる高名な悪魔じゃねえ……」
「女心を察してよ!このデリカシーマイナス273℃男!ちゃんヒロなんて深淵の見学中にあちら側に飲まれちゃえばいいんだよ!」
「それはニーチェじゃなかったっけ……」
ごっちゃにするな。僕もうろ覚えだけども。意外と灯、博学である。
「いや、ていうか灯は厨房とか手伝わなくていいの?」
「うるさいっ!ちゃんヒロが働けっ!」
「理不尽だなぁ……。」
ふと周りを見ると、この店内にいるのは僕たちだけだった。やけに周囲が静かだと思ったら他のテーブルにいた客はもう帰ったみたいだ。そりゃ灯もサボるわけだ。腕時計を見ると時針が10の数字を示している。
「うわっ、もうこんな時間かよ……。」
僕は立ち上がって、皿の山の中に埋もれるようにして寝ているレンの肩をテーブル越しに揺する。金髪の先にマヨネーズが付着している。
「ほら、レン、ポチも。もう10時だ。起きろ帰るぞ。」
「むにゃぁ………、もう飲めねえよ……。」
「ベタすぎる寝言を言うな。」
明日学校だろうが。寮の門限は12時だから少し余裕があるけど、早めに着いた方がいいだろう。
「灯、勘定お願い。あとタクシーで帰るから大通りまでポチを運んでくれる?僕がレンを運ぶから。」
「あ、おっけー!」
財布と携帯をポケットの中にあることを確認してから僕は立ち上がった。
まずは僕が通路側にいるレンに肩を貸して、灯も僕に倣ってポチを軽々と持ち上げる。しっかりとした足取りで出入口の傍らまで行って、和風な店の内装にそぐわないハイテクそうなレジを灯は片手で操作する。
「お会計が12300円になりまーす!」
「…いやに高くないか?」
僕は財布を取り出しながら辟易。確かに二人は暴飲暴食の限りを尽くしていたけど、そんなに食べた覚えが無い。
「うーん?都会だからこんなものだよー?」
「もしかして君が飲んだカシオレもこの中に含まれたりしない?」
「ぎくっ」
「ぎくって言ったな今!」
まあ灯が飲んだ分は12000円の中だったら微々たる数字だろう。また殴られるのはご免なので僕は大人しく財布を開いた。レンを脇に抱えながらがらりとスライド式のドアを開けて、外に出た。外気は春の温度。アルコールで火照った体には心地良かった。僕の後ろにポチを背負った灯が付いてくる。
「ごめんね、重くないか?」
「ううん、めっちゃ軽いよ!」
灯はかぶりを振る。流石は元全国大会出場者。女の子にしてはかなり鍛えている方だろう。
大通りまで出て、タクシーが来るのを少し待つ。やがて僕らの前にタクシーがゆるりと止まり、後部座席に二人を荷物のように投げ込む。
「じゃあねー、ちゃんヒロ!また来てねー!」と灯は言いながらタクシーに乗り込もうとする僕に手を振る。
「うーん、二度と来ないかな。」僕は助手席に座る。
「ひ、酷い!あんまりだよ!」
「僕は天邪鬼でね、来いって言われたら行きたくなくなるし、来るなと言われたら行きたくなるんだ」
言って。僕は片手を上げた。白髪交じりの妙齢のタクシー運転手に永鳴の飛想館まで行くように告げる。「かしこまりました」と運転手は低く返事をした。やがて緩く体に重力を感じながら僕は少し感傷にふける。
遠いところまで来た。
登潟から一つ県を越えて誘並。
新しい環境。
変な夢。
存在しないはずの面影神宮のお守り。
後ろで寝ている両隣部屋の住人。
中学時代の剣道の知り合いの筑紫、灯、そして姫菜。
僕が入学が遅れた理由を知っているのは親戚の『月じい』とその孫、僕からしたら従妹に当たるところの憩、それと筑紫とさっき口を滑らせた灯、あとはせいぜい学校の教師ぐらいだろう。
車内はぼそぼそとラジオの音声が流れるだけで、運転手は何も喋らなかった。
窓の外を眺める。
空は夜なのに微かに明るくて。
星も月も見えなかった。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.10 )
- 日時: 2018/04/06 21:01
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
月は沈み太陽は顔を出して翌日。僕がこの街に来て二日目の朝。半開きのカーテンの隙間から見える空は昨日と引き続き清々しい晴天だった。目覚まし時計にかけたアラームより三十分ほど早く起きてしまった。頭が少しだけ痛い。喉が渇いている。ひとまず洗面所まで歩いて行って蛇口を捻り、コップを水を満たして喉を潤す。食道に冷たい物が通っていく感覚。都会の水道水はカルキの匂いがしてあまり美味しくないが、ミネラルウォーターなんか買っていられる身分じゃない。正面の鏡に映る僕の顔を見る。鏡というのは不思議な物だ。在りのままを映す。精巧に映してしまう。他人の目から見た僕はこんなに無感動そうに見えるのか。不思議と言うより不気味だな、と僕は思った。
藍色のブレザーに袖を通し、ボタンをはめながら、剣道の防具を閉じ込めてるクローゼットに目を向けた時、コンコンと二回ノックの音がした。
「つっきー!起きてっかー?」
けだるげなレンの声がドアの向こうから聞こえてきた。予定の時間より十分ほど早い。昨日も思ったが彼は随分とせっかちな性格をしているらしい。
「うん、今開けるね」
僕はそう答えて視線の照準をクローゼットから黒いドアの方に移す。この学校の剣道部が廃部になった以上、あの中の防具は無用の長物だ。いくつもの試合を潜り抜けた僕の相棒と呼んでもいいものだったが、これはこれでしょうがないだろう。机の上に置いてあったカバンを掴んでからドアの方に向かった。ドアのカギを開錠して開くと、心なしか顔色の悪いレンの姿。
「うっす、つっきー。ちゃんと寝られたか?」
しかめっ面でレンが片手を上げた。今日初めて見る制服姿だった。彼の金髪が昨日よりも少し心なしか萎れてるように見えた。
「うん、おかげさまで。……ていうかなんか具合悪そうだけど大丈夫?」
「あー、昨日飲み過ぎたんだわ。二日酔い。もう準備はできてっか?」
そういえば昨日平阪の鉄板屋でぐびぐびお酒飲んでたっけ、と僕はあの灯の働く店を思い出した。鉄板屋不動心とかいう店名。従業員はこの上なく騒がしかったけど、とてもいい雰囲気の店だった。
「大丈夫だよ。ていうかポチはいないの?」
「あー、あいつは陸上部の朝練だってよ。ほら、早く行こうぜ」
うん、と言って僕は頷いた。ドアのそばにあるボタンを押して電気を消す。部屋の中は薄く暗がりで満たされた。部屋には剣道の防具だけが置いてけぼりで取り残された。
私立天照(テンショウ)学園。いわずもがな、僕がこの春から通う高校で、生徒たちはここを『テンガク』と呼んでいるらしい。らしいと非断定的な言い方をしたのは、この呼び名で呼んでいるのがレンだけだったからだ。僕が寝泊まりをする飛想館から30分ほど歩いた所にある。今や無くなってしまった剣道部を始めとして、レンが入っている吹奏楽部や野球部、ダンス部などが全国区の実力を誇り、その他ジャンルを問わず部活動が活発な学校として有名。
初登校はつつがなく進んだ。淡々と進んだとも言ってもいい。
初めて入った1−Aの教室。白髪の目立つ妙齢の担任教師に連れられ、僕は教壇へ上った。コツコツと音を立てて教師が黒板にチョークで『月島広斗』と角ばった文字で書いた。漢字が間違っている。正しくは博人だ。僕はあまり気にしないで横目で見送った。そこから見るクラスメイトの顔は入学したばかりだからだろうか、どこかよそよそしく、どこかお互いを牽制し合うような陰気な雰囲気があった。まあそれも仕方無いのかも知れない。1人を除いて。
「ちゃーんーヒーロー!!!」
一時間目終了、シャーペンを筆箱に入れるよりも早く、教科書のページを閉じるのよりも早く、僕に飛び掛かって来た輩がいた。飛び掛かって来たというか、腕を水平に伸ばして対象の首を狙う、いわゆるプロレス技のラリアット。僕はそれを頭を下げてかわすことで彼女に抗議の念を表明する。
「灯…、朝っぱらから元気だね……」
「うん!みんなのアイドル灯ちゃんは昼夜問わず春夏秋冬!エブリタイムエブリウェア24時間365日お電話一本でいつでも元気だよっ!」
「……」
低血圧で明瞭としない脳内に灯の声がけたたましく響いた。
灯は昨日のエプロン姿と打って変わって、まあ当然の如くブレザー姿。チェックのスカートから病的に細い脚が見えていて、少し心配になった。そういやダイエット頑張ったとか言ってたっけ。
「ちゃんヒロって同じクラスだったんだね!びっくらこきました!全然気が付かなったよ!」
「あー……、うん。そうだね」
僕は適当に受け流した。
「ポチくんと練示っちは二つ向こうのクラスだよっ!つくしんぼとあやめんは特進クラス!」
「つくしんぼって誰?」
「筑紫くんに決まってんじゃん!」
「……」
お前すげえな!あいつをつくしんぼって呼んでんのか!
筑紫のファンに八つ裂きにされかねないぞ!
「姫っちょは芸能クラスだよ!」
ともかく。入学初日から灯のような可愛くないとは口が裂けても言いがたい女子(まあ姫菜には遠く及ばないが)に詰め寄られている僕の姿は否が応でもにでも目立つだろう。事実、周りの名前も知らないクラスメイトからの視線を背中にひしひしと感じる。加えてこの女は中学時代から人と話す時の距離が恐ろしく近いので、あと50キロぐらい離れてから喋って欲しい。
「何か今、ちゃんヒロがめっちゃ失礼なこと考えてた気がするであります……。」
「気のせいだよ」
勘の良い灯だった。女の勘と言うやつか。侮れない。
「あ、そうそう!」
灯は閃いたようにポンと手を打つ。
「あやめんからちゃんヒロに伝言があったんだっけ!」
「僕に伝言?」
「うん!」
顔も知らないような人からの伝言。何だろうか。やはりもしかしたらあやめという人と僕は昔知り合ったことがあるのだろうか。
「『今日の昼休み、図書室の奥の書庫でお待ちしてます』だそうだよ!凄いね!ちゃんヒロってばモテモテだねっ!」
「モテモテって……。っていうか僕あやめっていう人知らないよ」
「えーっ?でもあやめんはちゃんヒロの事知ってたよ?『飛行機事故で入学が遅れた登潟中学出身の血液型A型の月島博人くんに伝えて下さい』って言ってたもん!」
「は?」
血液型はまずは置いておこう。飛行機事故?
何でその事を?
あの事故の被害者とその遺族の名前は伏せられていたはず。
「灯、図書室ってどこにある?」
「B棟の三階の一番奥だよっ!」
「OK」
行ってみるしかなさそうだ。昼休み、B棟の三階、図書室。脳内に忘れないようにインプットする。何を知っているのか。どこまで知っているのか。何故知っているのか。お前は誰なのか。
「んげ!もう授業始まるじゃん!」
壁に掛けられた時計を見て灯は驚愕した。両腕を頭上に上げるオーバーリアクション。周りのクラスメイトは既にいってしまったみたいだ。もうこの教室には誰もいなかった。
「ちゃんと図書室に行ってよね!あたしがあやめんに怒られるから!あと次の授業は地学だから移動教室だよっ!」
言って、灯は自分の机にどたばたと小走りで行って、教科書を胸の前に抱える。そして僕の前まで来て。
「ほら、早く行くよっ!」
「………。」
僕はカバンから教科書を取り出して、席を立って灯に続いた。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.11 )
- 日時: 2018/04/16 07:49
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
「あやめっていう人知ってる?」
昼休み。12時30分。四時限目の数学の授業を終えた僕はC組の教室へと向かった。ポチとレンの所属しているクラスだ。通学する時にレンから「飯食う時はウチのクラスに来いよ!」と言われていたからだ。別に僕としては自分の教室で一人で食べていても良かったんだけど、誘いを受けてしまったからには仕方が無い。一人にさせてくれとは言えないだろうし。ということで寮の前にあるコンビニで買ったパンを片手にC組の教室を開けた。
A組の教室とはそんなに変わらない雰囲気。ほとんど知らない顔だったけど、見知りがないのは自分のクラスだって同様だ。レンとポチは窓際で一つの机を挟み、向かい合わせて弁当を食べていた。ドアを開けた僕に気付いたレンが「よっ!」と片手を上げた。それに倣って目だけで会釈。ポチも僕に気付いたようで、キラキラと輝いた目で僕を見た。
知らない人たちからの怪訝そうな目が僕に集まる。視線は暴力と同じだ。あまり見ないで欲しいけど自分たちの教室に見慣れない奴が入ってきたらそれは見るだろう。僕はあまり気に留めないようにしてレンたちが座ってる席まで早足で向かう。規則的に並べられた机の群れの合間を縫って、窓際。
「よおつっきー!……あー、椅子ねえなあ」
「僕は立って食べるから大丈夫だよ」
僕は答えた。強化ガラスで作られた窓に背を任せる。春の間の抜けた日差しの温もりをブレザー越しで感じる。手に持った菓子パンの袋を破る。コッペパンにジャムを挟んだ安価なものだ。口に運ぶ。
「あー、そうか。で、どうよウチの学校は?」
「そうだね。まだそんなに変わったことはないよ」
「ああそうか」
とレンはケラケラ笑う。レンの対面で座るポチは唐揚げを頬張っている。それを見て僕ももっとマシなもの食べた方が良かったなとか思った。いくら金の手持ちがないと言っても菓子パン一つじゃ腹が持たないだろう。
「ん?ヒロくん卵焼き欲しいッスか?」
唐揚げを飲み込んだポチは僕の視線を感じたようだ。
「や、いらないよ」
と僕はかぶりを振って断った。そういえば、と僕は思い出す。今日の朝の事。灯が言った事。あやめという人の事。
「ねえポチ、レン。尋ねたいことあるんだけど、いい?」
「え、何ッスか?」
「おう、どうした?」
「あやめって人の事知ってる?」
おおう、とレンは唸るみたいな声を上げた。対するポチは白飯をガツガツと口へかき込む。
「ふぉくは知んないっひゅね」
「ポチいあれじゃねえか?図書室の亡霊」
「あーあの子ッスね」
ごくりとポチは口の中に入れたご飯を飲み込む。図書室の亡霊、か。確かに灯は『図書室でお待ちしてます』みたいな事言ってた事を思い出す。
「どういう人なの?」
「んー、なんつーかなぁ」
そこで。がらりと教室のドアが開く音がした。途端に今まで騒がしかった教室がどっと一際沸いた。困惑で満たされた色の歓声に似た声。主に女子の声。
なんだろう、と僕はそのドアの方を見た。僕につられたみたいにポチとレンもそちらを見る。
「あ、ここにいたんだね」とその人は僕たちの方に向かってゆるりと優雅に歩いてくる。周りの羨望の目線もその人が移動するのに合わせて追いかける。
「んげ!白縫筑紫!」
「ん?キミは僕の事を知ってるのかい?」
その人——白縫筑紫は小首を傾げながら言った。学園内で彼の姿を見るのは初めてだったが、それにしても浮世離れした彼の容姿と醸し出す雰囲気はこの教室の中ではとても異質に見えた。飛びぬけた美貌。まるで鶏の群れの中に紛れ込んでしまった白鳥のようだ。周りの視線を否応なしに集中させる。
「まあいいや。灯ちゃんに聞いたら月島くんはC組の教室にいるって言ってたからここに来たんだけど。……なんだか騒がしいね」
「……僕に何か用?」
僕はお前のその顔のせいだろ、という言葉を喉元で隠した。今の図式はいきなり他のクラスの教室に入ってきてパンを立ち食いしている謎の野郎と、それに話しかける同じく突然襲来した反則レベルの顔面を持つイケメンという謎の様相だ。
「月島くんに渡したいものがあったんだけど、建て込み中だったら場を改めるよ」
「いや、大丈夫。今渡してもらってもいいよ」
筑紫の事を知らないらしく首を少し傾げるポチと、筑紫を恨みがましい目で見るレン。そういえば昨日レンが告白した女が筑紫の事を好きだと言って振られたとか言ってたな。
「じゃあ良かった」
言って筑紫はブレザーのポケットから四つ折りにされた紙を取り出した。「はいこれあやめちゃんから」と言って僕に差し出す。
「ん?」
開く。A4で何か文字が印刷された白い紙。よく見れば、というかよく見なくとも分かる。
「入部届だよねこれ」
「うん。そうみたいだね」
筑紫も納得がいってないような顔で頷いた。ご丁寧にその紙には僕の名前がかなり達筆な字で書かれていた。『私は〇〇に入部します』の空欄に勝手に『剣道同好会』と書いてある。流石に僕の印鑑は押されてなかったけど。
「——正直あやめちゃんのやり方はあまり好ましくはないんだけどね。……彼女はどうしても月島くんを僕たちの部に入れたいみたいだ」
「……」
そこまであやめ、という人が僕に固執する理由も分からなかった。灯が言うにはその人は中学時代は剣道をしてなかったようで、いくら僕が全国大会に出場した元選手だとしても僕をそこまで剣道同好会に入れようとする理由が分からない。
そして、どうして僕が両親を飛行機事故で失ったことを知ってるのか。
「確かにこれ、渡したからね。じゃあ僕は行くよ」
にこりと筑紫は笑みを浮かべて言う。この世のものとは思えないほどの蠱惑的な微笑だ。
「——そういえばあやめちゃんが言ってたよ。『気が変わった。今日は図書室には来なくていいから印鑑を捺印してから担任に提出してくれ』ってさ」
「……まだ僕は同好会に入るって決めた訳じゃないんだけど」
「あはは」
明らかにごまかすために笑った筑紫。笑ってんじゃねえ。
じゃ失礼するよ、と筑紫はくるりと踵を返して教室の出口へ向かって歩いて行った。彼が動くのに従って教室中の目線が追いかける。やがて扉を開けて、軽く会釈をして筑紫は去っていった。
「……いきなり何だったんだ?あのイケメン野郎」
筑紫が出て行ったのを見計らったようにレンが口を開く。未だに不愉快そうに敵意を込めた目でドアの方を見ている。そんなに嫌いなのか。
「ちょっとよく分かんなかったね……、で、話を戻したいんだけど。図書室の亡霊って何?」
「文字通り図書室にいつもいる生徒って事ッス」
ポチはすっかり空になった弁当の容器をビニール袋の中に入れながら言う。
「いつもいるんスけど、なんかめちゃめちゃ話しかけにくい雰囲気の子ッス。分厚くて難しそうな本読んで、誰が何て話しかけても無視するから図書室の亡霊って言われてるッスよ」
「どんな顔の人なの?」
「スラっとした美人さんでポニーテールで、眼鏡かけてる」
眼鏡?ポニーテール?
「めちゃくちゃ目つきは鋭いんスよね」
目つきが悪い?
——ともみ、と言う女の子を知っていますか——
「その人僕見た事ある気がする」
僕は昨日、天照学園の入り口で話しかけられた女の子を思い出した。キリキリと張り詰めたピアノ線の様な女の子。眼鏡越しの抉るように鋭い眼光。あの子が落とした紫の花が描かれた栞は僕の私服のポケットに入ったままだった。ふうん、とレンはよく分からないような相槌を打った。彼もあやめの事について上手く知らないようだ。ポチも同様。
「ちょっと行ってくるよ」
言って、僕は残った菓子パンを全て口の中に入れた。イチゴジャムのしつこい甘み。飲み物を一切飲まないで食べていたため、口腔がぱさぱさと乾いていた。パンが入っていた袋をぐちゃぐちゃに丸めてズボンのポケットの中に入れる。
「どこに行くんスか?」
そんなの決まってるだろ。
「図書室に、あやめっていう女の子に会いに行ってくる」