複雑・ファジー小説
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.12 )
- 日時: 2018/04/29 11:05
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: KZRMSYLd)
番外編です。ポチくん視点の話です。本編に飽きたわけじゃないです。
ポチとレンの出会いの物語。
「飛ぼうとしたって羽なんかない」
いつだっただろう、スピーカーから流れてきたアーティストの声。確か姉ちゃんのウォークマンの中に入っていた古いロックバンドの歌だった。曲名は分からない。音楽にはあまり詳しくないけど、ゆっくりと上る朝日みたいなイントロから始まる曲。とにかく、歌い出しのその歌詞は僕の脳裏に深く焼き付いている。染み付いている。まるで知らない間に出来た水膨れのように僕にじりじりと痛みを与える。
翼が欲しかった。猛禽類のような逞しい翼じゃなくたっていい。蝶のような薄っぺらい翅でも構わない。蝋で作られた偽物の羽だって、空を飛べるならそれでいい。
でも僕は人間だ。鳥でもない。蝶でもない。太陽に近付き過ぎて墜落死したイカロスでもない。僕の両足は、55キログラムの体重と、肩にのしかかる後悔の残滓を受け止めて、それでも前に進めるほど強靭なものではない。
これはなんでもない僕の話だ。僕が立ち上がって重力に逆らうようになるだけの話だ。
そして。
僕、犬飼圭とレンこと清水連示が出会うだけの話だ。
*
「うん、今寮に着いた。もう大丈夫ッスよ」
スマートホンからなお口うるさい母親の声が聞こえていたけど、僕は無視して通話終了の所をタップした。プチっと電波が遮断される音。もう僕だって高校生だ。そんなに心配しなくてもいいのに、と思いながら僕は携帯をパーカーのポケットの中に入れた。
場所は誘並市永鳴地区の学生寮飛想館の前。天照学園に入学するために隣の馬片県から引っ越してきた僕からすると、目が回りそうなほどの都会だ。ここらへんは住宅街なんだけど、それでもかなり賑わっている。遠くには灰色のビルがどかどかと乱立している。ゴジラみたいな怪獣がいきなりあそこに出現したら、ドミノみたいにバタバタ倒れるな、と幼稚なことを考えた。
狭い駐車場には青色の軽自動車が一台だけ止まっている。誰のものなんだろうか。多分寮監さんのものかなとか考えながら僕は学生寮飛想館の入り口に向かって歩いた。
春の淡い風が僕の肌にまとわりつく。横の植え込みに裸の桜。茶色のごつごつした幹がまだ目立つ。つぼみは少しだけ膨らんでいるけど、まだ咲くには早いみたいだ。桃色の花びらが地面に落ちる頃には、友達の一人も出来ているだろうか。そんな柄でも無いことを考えながら段差を上がった。
少しだけ嘆息。息を吐いて気持ちを整える。今日からは高校生だ。
段差を一段上がり、入った寮の建物の中。
人が倒れていた。
「だだだ大丈夫ッスか!?」
僕は慌ててそのコカコーラの自販機の前でうつ伏せで伏せている人に駆け寄る。ド派手な金髪の男。不良は怖いが、そんなこと考えてる場合じゃなかった。えっと、まずは気道を確保だったっけ。それとも心臓マッサージで良かっただろうか。LEDはどこ?あれAEDだったっけ?
大混乱の中、倒れてる金髪の脇にしゃがんだ時に、うううという呻き声を彼は発した。どうやら息はあるようだ。でもまだ安心は出来ないだろう。嘔吐したものが喉に詰まって窒息することがある、と部活のコーチが言っていたのを思い出す。
「大丈夫ッスか!?僕の声が聞こえるッスか!?」
「────」
「き、聞こえるッスか……?」
そこで彼は僕の足首の辺りをガシッと掴んだ。かなり強い力だ。思わず僕はビクリと硬直してしまう。
「──ずを──れ」
「えっ、今何て?」
「み、水をくれぇ……」
「……水?水ッスか!?」
僕は立ち上がって自分のズボンのポケットの中をまさぐった。黒い財布を取り出して、その中から小銭を指で挟む。赤い自販機に100円玉を入れて上段左端のミネラルウォーターのボタンを押す。ガコン、と音を立ててペットボトルが出て来たのでそれを大急ぎで取り出す。冷え切ったペットボトルの表面についた水滴が僕の手を濡らした。
「ほ、ほら!水ッス!」
金髪にそのペットボトルを差し出す。うつ伏せのまま顔だけ動かして、彼はじっと僕を見つけた。
「──水……?水!!」
彼はいきなり生き返ったかのようにがばりと起き上がった。僕はそれにぎょっとする。あっけに取られている僕から引ったくるように彼はペットボトルを奪う。勢いよくキャップを捻って、彼は喉仏を上下させながらそのミネラルウォーターをゴボゴボと飲む。その光景は実家で飼っていたハムスターの姿を思い出して少し滑稽に思えた。口の横から水が垂れているがお構いなしの様だ。みるみるうちに中の水は減っていく。喉元をびちゃびちゃに濡らしながらあっという間に500ミリリットルのペットボトルは空になった。
「かはー、生き返ったー」
口元を拭いながら金髪の男はそう言った。自販機の前の、赤いカーペットに胡座をかいて清々しい表情だ。さっきまで死体みたいに横たわっていたとは思えない程だ。横のゴミ箱に空のペットボトルを入れてから金髪は続ける。
「ありがとな、お陰で助かったぜ」
「……あんたはスポンジか何かッスか?」
「ん?まあ同じようなもんだな」
かははと彼は鷹揚に笑った。よっこらせと口で言いながら彼は立ち上がる。160センチの僕より遥かに高い上背。左耳につけた2つのピアスがキラリと光る。金髪だが不良ではないらしい。どちらかと言うと、かなり取っつきやすい明朗そうな雰囲気。
「俺は清水連示って言うんだ。よろしく」
金髪の彼──清水連示は僕に右手を差し出した。握手を求めてる様子だ。少しだけ小っ恥ずかしかったが、僕はその手を握る。ゴツゴツした男らしい手だ。
「犬飼圭ッス。今日からこの飛想館に越してきたもんッス」
「ん?犬飼?」
間の抜けた顔をして清水連示は握手を解く。むーっと少し考えるような顔をしてやがて思い出したような晴れやかな表情になる。
「あーそうだそうだ思い出した!馬片中の野球部のピッチャーだった奴だろ!」
「……」
ずさりと。心にナイフが刺さった。
「去年の中学野球の地方大会で3位入賞に導いた奴!カッコよかったよな!あの時のお前!」
「それは……」
思い出したくない記憶。思い出したくないけど忘れるわけにはいかない記憶。マウンドの茶色い土。僕の遥か頭上に放物線を描いた白い玉。真夏の青い空。
「あの時お前坊主だったから全然気付かなかったぜ!ほら、こんな入り口に突っ立ってないでさっさとお前の部屋に行こうぜ!」
「……僕の部屋?」
「おうっ!」
清水連示は直視できないぐらいの笑みを浮かべた。
「俺とお前すぐ近くの部屋だぜ」
*
彼は僕にとって苦手なタイプみたいだ。
間合いを考えないでズカズカと入ってくるタイプ。僕は今まで明るく模範的な人間を演じてきていたが、その実、心の奥底に人と接するのを苦手とする自分がいた。その自分と目を合わしたく無かった。気付いていたのだ。野球部の奴らと肩を組んで馬鹿みたいに騒ぐ度に風船みたいに膨れ上がる自分の暗い一面に。
そしてその風船は弾けた。中学時代最後の試合で渾身の力で投げたボールが、バットに当たってフェンスの向こう側に飛んでいった時に。
「俺は清水連示。レンって気軽に呼んでくれ」
ここは僕の部屋。学生寮の階段を上がった二階。実家から送られてきていた荷物を彼に手伝ってもらいながら出して、一息ついた。 白いカーテンが薄く陽の光を通して、清水連示の金髪をキラキラ輝かせている。僕は壁沿いに置いたソファーに腰を下ろした。
「で、圭くんだっけ?」
清水連示はベッドに座りながら言った。真新しいシーツに皺が寄る。
「ん?何ッスか?」
「アダ名とかあったりすっか?ほら俺のレンみたいによ」
「いや……特に無いッスね!」
中学時代は圭くん、と呼ばれていた。仲がいい奴には犬くんとも。しかし僕が準決勝でヘマをした時にその両者が違う呼び名になった。
「そっか!んじゃ圭でいいか!」
いきなり呼び捨てか、と僕は思った。まあでもそんなものか。中学にもいやに距離感の近い人は何人もいた。
「んじゃ僕は何て呼べば良いっすか?」
「レンでいいぜ」
そう言って清水連示は親指を立てた。唇の間から白い歯が覗く。なんかどこかで見た外国の通販番組をふと思い出した。
腰掛けたソファはふんわりと、とても柔らかかった。心地よく僕を包んでくれているような、そんな感じがした。
「やっぱ圭ってあれか、この高校でも野球やるつもりか?」
「そうッスね……」
僕は悩む振りをした。
「まだ決めてないッス!」
「そっか、でも絶対やった方がいいと思うぜー、ウチの高校の野球部って結構強えからよ。お前が入りゃ百人力だ」
「あはは」
この天照学園の野球部が強豪だったことは勿論知っていた。確か過去に誘並代表で甲子園にも出場したこともあるとか。しかし今はそれほどでもない。地元に残り実家から一時間ほど離れたの高校に進学した方がより良い環境で競技が出来ただろう。そうしなかったのは知っている人間しかいない地元から逃避したかったからだ。
「というか連示くんって」
「レンでいいぜ」
「……レンって、何でさっきあんな所で倒れてたんスか?」
「や、ただの空腹だ。俺も一昨日この寮に来たばっかでな、金が無かったんだ」
「バイトでもしたらどうッスか?」
僕の提案に「うーん」と悩む様子の清水連示。
「そうだな、考えてみるわ。お前的にはどこが良いと思うよ?」
「そうッスねー。ここいらの近くがいいんじゃないッスか?」
「んじゃツクヨミの方にすっかなー」
そう言って僕のベッドに清水連示は仰向けに寝そべった。一層シーツの皺が大きくなる。僕は自分のベッドに横になられて不機嫌になるほど神経質なタイプじゃないが、少しだけうーんと思った。
ちなみにツクヨミというのは僕たちの学校のすぐそばにあるショッピングモールのことだ。かなり大きい建物で、観光客や学校帰りの生徒たちで賑わうらしい。オープンスクールの時にここのスポーツショップでニューエラを買ったので覚えている。
「そういやよ、あとで学校行かねえか?」
寝っ転がったまま天井を見て清水連示は言った。
「ん?何でッスか?」
「ほら、県トップクラスのピッチャーの球受けてみたいじゃん!?」
それは──
「いや、全力で投げてくんなくていいぜ、あんな玉投げられたら俺死んじまうからよ」
ぐっと上体だけ起こして彼は僕に言った。満面の笑みだ。眩暈がするほどに眩しい。
彼に悪意は無いのだろう、断言できる。僕があの大会を境に投げられなくなったことは、清水連示には知る由も無いんだから。
右腕。かつて硬式球の縄目を掴んでいた人差し指と中指。ボールを支えていた親指。しならせる肘。全てもう僕のものじゃないとまで思えた。だったとしたら誰に奪われたんだろうか。今ソファーの布地を握りしめるこの右腕は誰のものなんだろうか。
僕は馬鹿だ。噛み締めた奥歯が痛い。今更こんなことを考えたって詮無きことなのに。
「そうだな……今は学校のグラウンドはどっかの部活が使ってるだろうしな、夜あたり行こうぜ」「お、おっけー!了解ッス」
僕は軽率に口角を上げた。そうするしかなかった。言えない。この邪気の無い彼に嫌だなんて言えなかった。僕がボールを投げられなくなった理由なんて、言えるわけもなかった。
「んじゃ今から飯食いに行こーぜ!」
「ん?どこにッスか?」
「ここからちょっとバスで行ったところに俺がよく行ってた鉄板焼き屋があんだよ。馬片から来たお前にも食わせてやりたいんだ」
「自販機の前で倒れるほど金持ってなかったんじゃ無かったッスか?」
僕の言葉に照れくさそうに「かはは」と彼は笑う。
「いーんだよ、俺が小さい時から行ってるとこだからツケてくれるからな!」
「……だったらいいんスけど」
この誘並はラーメンが有名なんだけど、それと同じぐらいに鉄板焼きも名物なんだそうだ。ただでご飯が食べれるなら、まあ付いて行ってもいいのかもしれない。
この男はやけに距離が近いけど、悪い奴じゃ無さそうだし。
「じゃあ行こうぜ!」
「い、今からッスか!?」
「おう、今から行っとかないと満席になっちまうぞ」
「そんな人気なんスか?」
おう、と彼は言った。そしてベッドから立ち上がる。
「ほらほら、行こうぜ」
彼は笑顔だった。金髪がキラキラ。僕を照らすように輝く。
去年の大会の帰路でバスの窓から見えた、過ぎ去って行く向日葵の畑を思い出した。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.13 )
- 日時: 2018/05/06 18:56
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
マウンドの上。両チームの投手によって踏み荒らされた茶色い土。地面に埋め込められたプレートは白かったことさえ疑わしいほどに茶色に汚れていた。他より少し盛り上がったそこから僕はキャッチャーの目を見ていた。
場面は僕たちのチームが1点リード。1回の表。この回を守り抜けば僕たちは決勝へと駒を進めることが出来た。たった1点。その差は途方もなく大きいが、途方もなく小さい。応援席でウチの吹奏楽部が何なら演奏していたが耳に入ってこない。脳が余計な情報をシャットアウトしているみたいだ。自分の呼吸音だけ聞こえる。風が吹いているのだけ感じる。夏特有の舐め回すような風だ。被った野球帽に頭が締め付けられる。目に入るのは僕の思いを幾度となく受け止めてきたキャッチャーグローブと、ピッチャープレートと同じく踏み荒らされ薄汚れたホームベースだけだった。
キャッチャーが股の間から何やらサインを出した。指を二本下向きに立てたこの合図はフォークを投げろという意味だ。頭では理解している。だけど僕はその指示に従わなかった。この大事な場面ならなおさら直球で勝負するのが男だろうなどと、夏の熱に浮かされた脳で考えたのだ。
そして僕は壊れてしまえと言わんばかりにボールを握りしめて──長い間一緒にいたキャッチャーの目を深く、深く、深く、見つめて──その腕を振りかぶった。
永遠と思える一瞬を経て、白球はカキンという悲鳴を上げて、僕の頭上遥か上の太陽に吸い込まれていった。
「はー!よく食ったなー!」
僕の隣で歩いている清水連示は満足そうに腹を叩いた。ぽんぽんと音が鳴る。狸みたいだ。
「そうッスねー!」と僕は返事をしてからポケットに手を突っ込んだ。
清水連示がオススメする鉄板屋で大量のお好み焼きを平らげ、寮に戻る帰路の途中だ。今は寮の最寄りのバス停の途中で歩いている。鉄板屋不動心とかいう名前の古めいた店だった。妖しい光に満ちるネオン街の片隅で、一際異彩を放つ落ち着いた雰囲気のお店で、やたら元気な女の子が接客してくれていた。
空を見上げた。都会の夜空はうっすらと白んでいて少しだけ明るい。白濁しているようだ。星なんか一つも見えない。月だけが独りぼっち、寂しそうに浮かんでいる。
「──1ヶ月後な」
「ほえ!?」
いきなりぽつりと清水連示が呟くように言ったので僕は驚いた。さっきまでの奔放な彼の様子とは、少し違って見えた。なんだか毒を吐き出すような、この暗い夜道に一滴絵の具を浮かべるような、そんな口調だった。
「俺と圭くんの間の部屋一個空いてるだろ?1ヶ月後な、そこに新しく入寮する奴が来るんだよ」
「へえー」
「そいつが来た時、またあの鉄板屋に行こうぜ」
「あ、おっけーッス!美味しかったッスし」
「おう、気に入ってくれたみたいで嬉しいぜ」
僕の頭二つ分ぐらい高いところから彼はケラケラと笑った。道の街灯の光が彼のピアスに鈍く反射している。
名前も知らない何かの木が等間隔に植えられた並木道が三叉路に変わった。信号がチカチカと点滅する。ここを左に行けば寮に辿りつく。けれど清水連示は点字ブロックの上に立ち止まって、「こっちに行こうぜ」と右側を指差した。
「え、そっちって」
「おう、言っただろ?キャッチボールしたいってよ」
右側を進むと僕らがこの春から通う天照学園にたどり着く。とてつもなく大きい敷地と校舎を誇るあの学校にだ。
「でもこの時間って校門とか閉まってるはずッスよ」
「おう、その点は心配いらねえよ。最近暇だったからよ、学校周り散歩してる時にフェンス破れてるとこ見つけたんだ」
そう屈託なさそうに彼は言った。一ミリの悪気も無いのだろう。それは分かる。理解できる。しかし──
大通りを真っ二つに割る信号が青になった。薄暗い夕道にぼんやりと浮かぶ青色だ。「ほら、行こうぜ」と彼は僕を促してスタスタと歩いていく。その後ろ姿が僕はほんの少し、ほんの僅かだけど憎く思った。何の引け目も背負っていないようなその背中。何の空虚も満ちていようなその体。彼に劣等感を抱いても仕方ないのだろう。どうしようもないのだろう。彼の金髪は後ろ髪を引かれることなんてないのだろう。追い風ではない臆病風が僕の背筋をくすぐるみたいになぞる。彼は白線の上で立ち止まり、点字ブロックの上で立ち竦んでいる僕に振り向いた。
「ん?何してんだ?」
「あ、ああ。今行くッス!」
僕は急ぎ足で歩いて彼に並んだ。隣の彼は嬉しそうにキラキラ笑っている。周りの人達が僕たち2人を見たらどう思うだろうか。綺麗に咲く1本のヒマワリと、壊れて泥に汚れたプランターとかに見えるのかな、とか僕は思った。
青信号は点滅。対面の左折車両が僕らが渡りきるのを止まって待っている。
それから少し歩いて天照学園の前にたどり着いた。やはりというべきか、人っ子ひとりいない。赤レンガの校門が暗い夜道にぽつり。道脇の桜はまだ咲いていない。夜の校舎は何故これほど不気味に思えるのだろう。僕らを威嚇しているみたいだ。
「ん、ほらこっちこっち」
僕から少し離れたところで清水連示は手招きしていた。指差しているのはとてもじゃないけど乗り越えられないほど高いフェンス。明らかに3メートル以上は目算であるだろう。怪訝に思いながらそこまで行くと、ちょうど人一人が通れるほどの大きさに金網が破れていた。
「俺って誘並の出身なんだけどよ、2、3年前からここ破れてんだぜ。中学んときはよくチャリでここまで来て友達とサッカーとかしてたんだよな」
「それってふほーしんにゅーって奴じゃないスか……?」
「細けえことはいんだよ。ほら、入ろうぜ」
言って早速彼は体をたたんでその隙間の中に頭を通す。慣れてるのだろうか、尖った針金に当たらないように器用に潜り抜けて、金網のフェンスの向こう側に立って僕にピースサインをしてみせた。少しだけ逡巡して、僕は彼に続いた。金網に手をかけながらその裂け目の中に体を通す。僕は体が小さいため、それほど苦労しないで学校の敷地内に侵入できた。
「な、余裕だろ?」
「……なんか凄いヤバいことしてる気になってきたッス……」
「んなことねえだろ。ハードルは高けりゃ高えほど潜り抜けやすくなるっつーいい例だ」
「これハードルじゃなくてフェンスッスよ?」
「んな違いねえだろ」
かははと笑いながら彼は恐らくグラウンドがある方に足を動かした。辺りは暗い。もう完全に陽は落ちた。当然だがこの辺に街灯なんてものはない。黒色の絵の具をまき散らしたような闇の中に彼の金髪は溶けていく。1人取り残されるのは嫌だから急いで彼に並ぶ。
グラウンドの細かい砂に足を引きずりながら歩いて、学校の敷地の最果てにたどり着いた。高いバックネットがそびえ立っている。横には倉庫。そこからボールとグローブ二つを彼は取り出してきた。いくらなんでもこの学校は管理体制がずさんなんじゃないだろうか。
「ちょっとこれ持っといてくれ」
清水連示は僕に二つのグローブを手渡した。その皮の感触と独特の汗臭さに僕の心はじくりと釘が刺さるように痛んだ。どうしたってあの夏のことを思い出さずにはいられない。
「……どうしたの?」
「いやこんな暗いんじゃ何も出来ねえだろ」
そういう彼の表情は闇に隠れれてよく見えなかった。分からないけど、恐らく声色からすると飄々と笑っているのだろう。ざっという砂を擦る足音だけ聞こえる。彼の金髪さえ今はどこにあるか分からない。まとわりつくみたいな夜の黒に包まれる。
「──ちょっと待ってな。──よいしょっと」
パチっという音がした。一瞬で暗闇が飛んでいくように、明転。眩しいくらいの明かりが僕を照らした。手をかざしてその光を思わず目から遮る。
「うし、これで明るくなっただろ」
バックネットの横にあるナイター用の照明に手をかけながら彼は言った。そんなに大きいものではない。清水連示の身長と同じぐらいの高さのライトなのでそんなに広範囲は照らせないみたいだ。それでも僕ら2人がキャッチボールをするのには十分な空間に光が与えられた。
「おう、グローブとボールよこせよ」
「あ、おっけーッス」
「ん、あんがとー」
言いながら彼は僕と距離を取った。僕もそれに倣い後ろに下がる。いびつな楕円形に明るくなった地面の端と端で僕と彼は対峙する。向かい合う。当然のようにあたりは静かだ。夜空が音を吸収してるのかも知れない。もしかしたらこの世界に僕と彼しかいないんじゃないかと馬鹿げた事を思った。まるでスポットライトに照らされる劇みたいだ。
グローブを左手にはめる。手全体が皮に包まれる苦いほど懐かしい感触だ。彼が適当に選んでくれたものなので少し大きい。少しどころかぶかぶかだといってもいいくらいだ。
「準備できたかー!んじゃ行くぞー!」
彼は手でボールを示しながら声を張った。僕は何も言わずにグローブを左右に振ることでそれに応える。彼は大げさなくらいに腕を振りかぶって、ひょいっとボールを放った。白い軌道が照明の光の中を描く。弓なりに僕に迫る。おせじにも勢いがあるとは言えないそのボールを僕は頭の少し上の方で受け止める。ぱしっという音。グローブ越しに左手に伝わる、そのじんとした痛み。懐かしい。あの大会から一年も経ってないのに、とてつもなく遠い昔のことに思えた。あの時の記憶ももう脳の中では色彩を失っている。でも思い出してしまって、僕の心に蛇のように巻きついてじりじりと今も締め付けている。
「どうだったー?今のボールー!」
「まあまあッスねー!」
次は僕が彼にボールを投げる番だ。投げる、投げてやるんだ。あの時のように、全力の球を。中学の時みたいに何もかもを込めた球を!
じっ、とボールの鳴く音がした。
縄目に指先を沿わせて。
ぶっ壊れろというぐらいに強く。
握りしめて。
振りかぶって。
一瞬だけ、清水連示が目を瞑って怖がるような顔をするのが見えた。
そして。
「は?」
ぽとりとボールは落ちた。
僕から3メートルも離れてないところでぽとりとボールは落ちた。小さくとーんとーんと地面に跳ねて、勢いを無くしたそれはやがてコロコロと転がって、僕と彼を分かつちょうど間ぐらいのところで止まった。ボールの影が楕円に地面に伸びる。
「あはは」と僕は笑った。これは嘲笑だ。ボールひとつまともに投げることのできない自分に向けての失笑だ。
「もしかしてと思ったけどやっぱ無理ッスね。僕はもう駄目なんスよ」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
清水連示は初めて焦ったような顔を見せて、早足で僕に向かってくる。金髪が照明に照らされてキラキラと光る。ボールを拾い上げて、困惑したような顔で僕を見る。
「な、何の冗談なんだよ?あれか?俺をビビらそうとしてんのか!?」
「……黙れよ」
「お、お前去年あれだけすげえ球ぽんぽん投げてたじゃねえかよ!」
「……うるさいッスよ」
「馬片を3位に導いたのお前じゃなかったのか!?」
「うるさいって言ってんスよ!!」
僕はグローブを外した。右手に持って彼の顔面めがけて投げつけようとした。でも無理だ。
手首が壊れそうなくらいに、千切れそうなくらいにずきりと痛んで、やはり僕の手から離れたグローブは力なく僕の足元に落ちた。どさっと、地面が鳴る音が聞こえる。
夜の風が僕と清水連示の間を通り抜けた。冷える。三月の風は熱を奪う。僕をあざ笑うように吹く。
中学時代。僕のせいで準決勝で馬片中学の野球部は敗退した。全ての責任は僕にある。僕のエゴでキャッチャーの指示に従わずに、本塁打を打たれたのだから。僕はいろんな人から責められた。監督は勿論、チームメイトや後輩。試合を見に来ていたOBや選手の保護者までも次々に僕に思いつく限りの罵声を浴びせた。どうしたって償えない罪だ。僕はそれらを甘んじて受け止めた。享受するしかなかった。俯いて耐えるしかなかった。
そして次の日に行われた三位決定戦。僕はスタメンから外された。ベンチの日陰からその試合を見ていた。いっそ負けてくれればどんなに良かっただろうか。こんなにも僕の自尊心が傷つくことはなかっただろう。
結果的にチームは勝った。勝ってしまった。そしてこのチーム内に僕の居場所は完全に無くなった。
「……なるほどな」
清水連示はボソリと呟いた。ため息みたいに吐き出したその言葉は、照明の頼りない光の外側に抜けていくみたいだ。
「あの大会の後に何かあったみてえだな。ごめんな、よく確認もせずにこんなとこ連れてきてよ」
「謝るくらいなら今すぐどっか消えてくんないッスか?」
「……そりゃごめんだなあ」
カハハと軽快に笑ってから、彼はボールを下向きでふわりと僕に向かって放った。ゆっくりと弓なりに迫るその球を僕は反射で受け止める。グローブを着けてなかったから少し手のひらが痛んだ。
「あの頃みたいに右じゃ投げられねえんだろ?じゃあ今度は左で投げてみろよ」
「ふざけてるんスか……?」
「んや、真剣だぜ?右がダメならそうするしかねえだろ」
「何を言ってんスか……!」
「俺思うんだけどよ、苦手なモンって無理矢理に克服するもんじゃねえって思うんだよ」
その言葉は僕の中の何かに触れた。琴線だったのかもしれないし、癪だったのかもしれない。あるいは心そのものだったのかもしれない。僕の視界は確かに真っ赤に染まって、いつのまにか彼の胸ぐらを掴んでいた。
「あんたなんかに何が分かるんスか!?僕の挫折が!僕の苦痛が!どんなに惨めだったかあんたには理解出来るんスか!?」
彼の身長は僕の頭二つ分ぐらい高い。はたから見れば金髪のヤンキーに僕がぶら下がってるように見えるだろう。でも僕はこうせざるを得なかった。自分でもどうしてこんなに激情に駆られているのかも分からない。自分でもどうして彼の胸ぐらを掴んでいるのかよく分からない。身体中を廻る血がマグマにでもなってしまったんじゃないかと思うほどに全身が暑かった。
「ちょっとはな──」
彼は風に流されるほど小さい声で何か言った。熱で上気した今の僕には上手く聞き取れなかった。
「はぁ!?」
「俺もちょっとはな、分かるわ」
「何を言って──…!」
僕は絶句した。ナイター用の背の低い照明の光を背に受けた彼の顔が酷く、この上ないほどに悲しそうだったからだ。何故彼がこんなに悲愴感に塗りたくられた表情をしたのか分からない。分からないけど、僕の体内を冷やすのには十分だった。胸ぐらを掴んでいた手を離す。彼の着ているTシャツの襟首は少しよれていた。
「……そうだよな、誰だって思い出したくねえもんの一つや二つ、抱えてるもんだよな。ごめんな」
俯いたままで何も言えず僕は、彼の謝罪の言葉を聞いていた。いろんな感情が入り混じったその声。『誰だって』という言葉は彼にも当てはまるという事は、いくら愚鈍な僕でも何となく理解できた。
僕が黙ったまま顔を上げないままで少しばかりの時間が経った。経過したのは60秒だったかも知れない、それとも1時間だったのかも知れない。その間清水連示も何も口を開かないままだった。
何を考えてるのか。
どんな言葉がその体の中を循環しているのか。
分からない。
ライトの光が届かない闇が無色な静かさを吐き出した。
そこで僕らの横にある体育館の窓が突然ガラリと空いた。懐中電灯の鈍い光が僕達を照らした。僕は驚いて、思わずその光の方に顔を向ける。
「おい!そんなところで何やっとるんだ!」
怒気を孕んだ声。突然の第三者の登場で僕は何が起きたかよく分からなかったけど、僕の正面に突っ立った清水連示は「やべっ!」と小さく焦ったような声を上げた。
「巡回の教師だ!逃げんぞ!」
「ちょっ、ボールとか照明とかはどうするんスか!?」
「んなもん置いとけ!捕まりゃ退学だぞ!」
そう言って清水連示はボールとグローブを投げ捨てて、脱兎の如く駆け出した。金髪が揺れて闇の中へと消えてゆく。はっと我に返り僕も彼を追いかける。後ろから「待てぇ!」という声が聞こえたけど気にしないで彼に並ぶ。グラウンドを猛ダッシュで駆け抜ける。久しぶりにこんなスピードで走ったので肺が張り裂けそうだ。足に砂がまとわりつく。
さっき通り抜けた金網の裂け目を清水連示の後に潜って、遠くに見える街明かりを目指した。
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.14 )
- 日時: 2018/05/02 22:00
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
必死な思いで寮に辿り着いて、僕は清水連示の部屋に上がった。僕の部屋から一つ飛ばした横だ。部屋はかなりゴミで散らかっている。床を埋めつくさんばかりのビニール袋に僕は少し辟易しながらも、備え付けのソファーに腰を下ろした。今も体はどくどくと脈打っている。いきなり激しい運動はするもんじゃなかった。呼吸器官が張り裂けそうだった。
それから。僕は彼に中学時代の事を一つも隠さずに語った。自分のせいで準決勝に負けたこと。メンバーから外された試合でチームが三位を決めたこと。大会が終わって少しした時に誰かにより階段から突き落とされ、その後遺症で満足に右手が動かせないこと。
そして今でも野球を諦めてないこと。
彼は神妙な顔つきでそれを黙って聞いていた。時折相槌を打ちながら。僕が語り終えた時、何も言わず席を立って麦茶の入ったコップを持ってきて僕に差し出した。
「ほら、喉乾いただろ。飲めよ」
僕はそれを受け取った。ゴツゴツした氷が浮かべてある。水滴が僕の手のひらを心地よく冷やした。一息に飲み干す。よく冷えてるので少しだけ歯に沁みた。
「ん、ご馳走さま」
「おう、いいってことよ」
「っていうか……家に麦茶あるんならなんで今日の昼、自販機の側で倒れてたんスか……?」
僕がそう聞くと彼は照れ臭そうに笑いながら頭を掻いた。
「いや、ありゃ演技だよ。お前が今日ここに越して来るって聞いてたからよ。隣部屋の奴だから一番に仲良くなりたくてよ」
「何なんスかそれは……」
確かにペットボトル一本の水を飲んだくらいであんなに一瞬で元気になるわけないか。僕がこの寮に来るのを死んだ振りをしながら今か今かと待っていたのか。
「ん?お前今笑ったか?」
彼は僕の顔をにやにやと意地悪そうな笑みを浮かべながら見た。いたずらっ子のような、何の屈託もない目だ。
「笑ってなんかないッスよ」
「んなこと言いながら笑ってんじゃねえかよ」
からからと彼は笑った。重苦しい曇天さえ吹き飛ばすような、どんな煩わしい向かい風だって気にしないような。そんな表情だった。
この男なら。
このヒマワリのような金髪なら。
僕の中で今も微睡む毒だって。
「ねえ、清水くん」
「あ?」
「レン、って呼んでいいッスか?」
僕の言葉に、「あのなあ」と彼は呆れたようにため息をつく。
「いいに決まってんだろうが。……つーか、最初っからそう呼んでくれって言ったよな」
「あはは、そうだったッスっけ」
僕は言う。
「これから3年間、……と言わずもっと永い時間、よろしくッス。レンくん」
「おう!」と彼は快活に笑った。
手に持ったコップの氷がカランと鳴る。
「お前が俺をレンって呼ぶならそうだな、お前の事を何て呼ぼうか」
「何でもいいッスよ」
大会の後、チームメイトから名付けられた『負け犬』とかじゃなかったら、と僕は心の中で呟いた。彼はしばらく腕組みしながら、まるで数学の問題を解くような顔をしながら考えて、「これはどうだ?」と僕に尋ねた。
「何ッスか?」
「ポチってのはどうだ?やっぱお前犬っぽいし」
「僕はレンくんのペットか何かッスか?」
「あー、他のやつがいいなら考え直すけど」
「ぬー……」
ポチ、僕はその単語を奥歯の間で噛みしめる。うん、負け犬よりかは100倍いいだろう。
「おっけーッスよ。今日から僕はポチッス」
「ホントにいいのかよ」
やっぱりレンは軽やかに笑った。それにつられて僕も思わず口角が上がる。
彼をヒマワリと例えた僕はやはり間違っていなかったようだ。そこにいるだけで辺りを明るく照らす。その金色の前では、僕の背にのしかかった後悔の亡霊など、なんて事もない行く手を邪魔する雑草のようなものだとさえ思えた。
「“飛ぼうとしたって羽なんかない” か……」
僕はいつか聞いたロックバンドの歌の歌詞をふと呟いた。耳に染み付いて離れてはくれずに僕の体を火傷みたいにチリチリと蝕んだあの曲だ。誰が歌っているのかも分からないし、題名さえ知らない。だけどベッドに腰かけたレンはその言葉に「ん?」と反応した。
「お前BUMP知ってんのか?」
「ばんぷ……?そんな曲名なんスか?これ」
「違う違う。BUMP OF CHICKENっていうバンドのすげえ昔の曲だよ──ほら、これこれ」
レンはポケットから携帯を取り出し、しばらくディスプレイをタップしたあと、その画面を僕に示した。黄土色の木星のジャケット写真の下に『stage of the ground』という文字。
「へえ、曲名は知らなかったッスねぇ」
「あ、そうなのか?いい歌詞だよなこれ」
「歌い出ししか知らないッス」
「それ絶対損してんぞ……」
呆れたように言いながらレンは携帯の画面、下の方の白い矢印を一回タップした。聴き覚えがあるイントロがすぐに再生される。澄んだギターの音色がキラキラと同じメロディを繰り返す。まるで朝の日差しみたいに晴れやかに跳ねる音色。ずっと前に聴いた時はその明るい曲調が僕を責めるように聴こえたけど、今ならちゃんと言える。良い歌だ。
“飛べない君は歩いて行こう”
“絶望と出会えたら手を繋ごう”
“悲しい夜を越えて笑おうとするなら歌ってやるよ”
ボーカルは高らかにそう言った。全て過去の俯いていた僕に聴かせてあげたい言葉だった。
もっと早くこの歌を聴いていれば、という後悔さえ、このボーカルは抱き止めて歌い飛ばすのだろう。
「迷いながら間違いながら歩いていくその姿が正しい、ってよ。良い歌だよな、これ」
携帯を僕の前に置いてから彼はそうしみじみと言った。
「……でもこの曲一つ間違ってるとこがあるッスよ」
「へえ?どこだ」
僕の指が携帯の画面のツールバーを左側に引き戻す。2番のAメロを演奏していたのがまた1番のサビ前に戻る。
「ここの“飛べない君は歩いていこう”のところッスよ。羽がないからってのんびり歩いてちゃダメッスよ。時間がかかるッス」
レンはニヤつきながら「じゃあポチならどうすんだ?」と尋ねた。
そんなの決まってる。
「飛べないなら、走って行くんスよ」
***
「──チ、おーいポチー?」
額をペチンと叩かれてはっと目が覚めた。びくりと体が硬直。目をこすりながら見ると、対面に不機嫌そうに机に頬杖を突いた月島博人くんの姿。机にはルーズリーフと山積みになった参考書。
「……せっかくの休日に僕がいろいろ教えてたのに寝るってどんな神経してんの……?」
「……えへへ」
まだはっきりとしない頭の中、僕は力なく笑ってから小さく背伸びをした。変な体勢で寝ていたから背筋が凝っているようだ。ぽきぽきと関節がなる。
ここは誘並の図書館。6月の終わり、そういえばテストが一週間先に控えていたので僕は彼に勉強を教えてくれと頼んだのだった。机の木目が目に入る。
「期末テストやばいって泣きついてきたのはポチだろ?ほら、やるよ」
「むー」
半分くらいしか埋まってないルーズリーフ。寝てる途中でボールペンが紙に当たったのか、ミミズの這ったようなふにゃふにゃした赤い線が書いてある。
博人くんの指の間で黒いシャーペンがくるくる回る。かなり手慣れた様子。
彼は僕らと会う前に飛行機事故で家族を亡くしていた。彼は周りに隠そうとしてるんだけど、申し訳ないが僕らはそれを知っている。
だけど言わない。
それも多分一つの優しさなのだろう。
無表情という仮面を被った彼は、本当は、きっと本当はとても誰よりも繊細な人間なのだろう。そう見えた。必要以上に間合いを詰めない、一定の距離感を保つまるで熟練した剣豪のような人間だ。誰かに触れることで自分が傷つかないように、自分が触れることで誰かが傷つかないように。僕の足りない頭でそう思った。
彼が独りぼっちにならないように。
ここに来たばかりの僕に接してくれたレンのように。
『あいつここに来る前に家族をみんな亡くしたらしいんだ』
これはレンの言葉。
『だから俺たちがあいつの家族みたいなのになってやろうぜ』
うん、僕だってそのつもりだ。
彼らの肩を濡らす雨が降るのなら、僕は傘になろう。やっぱり向日葵には快晴の笑顔しか似合わないから。
「もー勉強飽きたッスー!ヒロくん面白い話があるんスけど聞くッスか?」
「……あのね、ポチ。飽きたって言うほど全然やってないじゃないか」
「いいから聞くッス!」
「……はぁ」
彼は小さくため息をついて手に持ったシャーペンを机の上に置いた。少し呆れたような顔をしてから僕を見る。
「……ん?どうしたの?ニヤニヤして」
「してないッス!」
「いや、してたじゃん」
「してないって言ったらしてないッス!」
もうすぐ夏だ。夏が来る。僕が立ち上がれなくなったあの季節が。
一年前にバスの車窓から見えたあのヒマワリ畑を、夏になったら見に行きたいな、と思った。今度は独りぼっちじゃなく、三人で。
そして僕は語る。
「これは僕がこの誘並に引っ越してきた時の話なんスけど────」
「MAD ROCK DOG /微睡む毒」 了