複雑・ファジー小説

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.17 )
日時: 2018/05/28 02:37
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

「そういやつっきー、カオナシさまって知ってっか?」

 板張りのフローリングの廊下に僕とレンの足音。新年度だからだろう、塗られたばかりのワックスが窓から入ってくる太陽の日差しを受けてテカテカとぬめるように光る。レンは僕より頭一つ分ほど背が高いので彼と話すためには僕は少し上を向かなければいけない。もっと低くなれとか思いながら僕は彼のその言葉に首を傾げた。
 一年A組の教室から図書室へ向かう廊下を僕たちは歩いていた。主棟と副棟を繋ぐ連絡通路を抜けて、今は特別教室が軒を連ねる道。

「え、何?アナと雪の女王の話?」
「ディズニーの話はしてねえよ。あと俺が言ってんのは黒い布被った仮面の化け物じゃねえ」

レンはくくっと押し殺すように笑う。僕は長編アニメ映画を細田守しか見ないので詳しくは知らないけど、それじゃないのなら何なのだろうか。
 ポチはどうやら課題をやり忘れていたようで教室に残って格闘中。その点レンはしっかりとやっているみたいだ。少し意外ではある。

「で、そのカオナシさまがどうしたの?」
「んー、誘並に最近流行ってる都市伝説みたいなものらしいんだけど、願いが叶うとか言ってたぜ」

 安直な話だった。僕は眉をひそめる。

「じゃあ何?そのカオナシさまってドラゴンボールとか空白の才みたいなもんなの?」
「懐かしいな空白の才って!絶対最近の高校生とか知らねえぞ!」
「僕たちも最近の高校生じゃないか……」
「俺が空白の才手に入れたら透視の才とかにするな……、まあうえきの法則の話はどうでもいいんだよ。最近のここいらの高校生のトレンドはカオナシさまらしいぞ」
「ドラゴンボールは7つ集めないといけないし、空白の才は神候補戦を勝ち抜かなくちゃいけないよ。じゃあそのカオナシさまはどうやったら願いを叶えてくれるの?」

 廊下には埃を被った赤い消火器。段ボールで作られたゴミ箱には空き缶の山。横の窓から入ってくる日差しが僕たち二人の影を黒く板張りの廊下に映す。
「何かなーセーラー服を着たのっぺらぼうのが夢に出てきてなー」
「うん」
「その顔を見たら願いが叶うんだってよ」
「いや訳が分からない」

 飛躍しすぎな話だと僕は思った。ただでさえ眉唾な話なのにこう順序も段階も飛ばしてしまえば疑わざるを得ない。

「で、実際にその夢を見て願いが叶ったって奴いるの?」
「んー、……そうだな。お前のクラスの理河っていんだろ。そいつがこの前願いが叶ったとかで騒いでたぜ」
「誰だよそいつ」
「お前クラスメイトの名前ぐらい覚えとけよ」
「僕今日入学して一日目なんだって」

 とことこと僕とレンの足音が響く。向かいから女子生徒二人が歩いてくるのをレンは凝視している。横を通り過ぎて行った所で間髪入れずに、「おいお前どっち派だ?」と小声で僕に聞いた。
「どっちも興味ない」
「ほー、じゃあ俺がどっちとも頂くぜ」
「好きに持っていきなよ」
「お前あれか、cool core目指してんのか?今時そんなの流行らないぜ?」
「何なのその単語?」
「まあ俺はゴールデン馬鹿だけどな」

 何の話だよと僕は心の中で呟いた。
 僕たちは階段を上る。掃除が行き届いているようで、ゴミ一つ落ちていない。銀色の鉄で出来た手すりに手垢がわずかにこびり付いている。僕はその手すりを触らないで足を進める。
「いやでも最近マジで流行ってんだよ。男子も女子もこぞってこの話に夢中。それこそ気持ち悪いくらいにな。」
「気持ち悪い?」

 レンはおう、と言ってから一段飛ばしに階段を駆け上がり、踊り場に脚をつけてまだ後ろにいる僕に振り返る。

「だって気持ち悪いだろ?」
「……」

 逆光を背に受けるレン。綺麗に染まった金髪が陽に当たり、鈍く黄色を放つ。

「俺はこの誘並の出身だからよ、神様の存在は割と信じる方だが、ぶっちゃけカオナシさまってのはあんま信じてねえな。気持ち悪いってのはカオナシさまの話じゃねえ、カオナシさまの話をする奴らが気持ち悪いんだ」

 彼の珍しく吐き捨てるような口ぶりに僕は思わず階段の途中で立ち止まる。

「何か熱に浮かれたみたいっつーか、妙な新興カルト宗教に嵌った信者みたいな。皆が皆ありもしねえ話を熱心にするなんて気味悪いと思わないか?」

「そうだね」

 僕はそう答えた。「だろ?」とレンは踊り場で僕に向いたまま笑った。

「いくら誘並が神様が住まう町とか言われてると言っても———」

 そこで。



——人生というのはことごとく負け戦であるものです———




 何かがフラッシュバックした。

 薄暗い教室。机。椅子に座った僕。語る言葉。騙る言葉。セーラー服を着た女の子。

 生きる意味。

 僕がこの誘並に向かう新幹線の中で見たあの夢はもしかして。

「おいどうしたんだー?つっきー?」

 レンは訝しげな顔をしながら階段を下りて来た。はっとして僕は頭をかく。

「いくら誘並が神様が住まう町とか言われてると言っても、その神様は節操が無いね。僕は割と神様は信じるタイプなんだけど」

 平穏を装いながら僕は言った。彼はまだもの問いたげに僕を見ていたが、僕が階段を上りだしたのを見てから納得のいかないような顔をして僕の横に並んだ。
 都市伝説。流言飛語。街談巷説。嘘か真か。
 願いを叶える悪夢。



——それでもあなたはこの世界にまだ生き長らえますか?——




「おう、図書室着いたぞ」

 階段を登り切ってからレンは右側を親指で指した。彼の言う通りそこには木で出来た扉がある。ガラスからは白色蛍光灯の光が漏れていて、中からは図書室にあるまじきほどの賑やかな声が聞こえてくる。

「んじゃ俺はもう行くぞ」
「うん、どうも」

 僕がそう言うとカハハと寛容そうに笑ってからレンはくるりと踵を返してもと来た道を引き返す。階段の先に彼の金髪が消えていくのを見送ってから僕はふうと息をついた。『あやめ』という女の子は何者なんだろうか。どこまで僕の事を知っているのだろうか。
 図書室のドアノブを捻ってその中に入った。がちゃり、と金属の触れ合う音。まず入ってすぐのところに大量の机と椅子が備え付けられていて、昼休みに暇を持て余した生徒ががやがやと駄弁りながらたむろしていた。その奥にはまるで雑木林みたいにぞろぞろと立ち並ぶ本棚の群れ。紙の乾いたような独特な匂いがたゆたっている。
 ドアを閉めて横のカウンターの方に向かう。緑色のカーペットが足に擦られて乾いた音を立てる。 図書委員が書いたのだろう、『今月のオススメ!』と銘打たれてレビューが貼ってあるボードが目に付いた。少し気になったがこれを見るのは後でいいだろう。

 カウンターの向こう側に座り、暇そうにライトノベルを呼んでいた図書委員らしき女の子に「すいません」と声をかけた。

「は、はい!?何でしょうか!?」

 よほど読書に集中していたのだろうか、図書委員の女の子はぎょっとした顔で僕を見た。肩のあたりで切りそろえられた髪がふわっと揺れる。びっくりさせてしまったようで少し申し訳なく思ったが、気にするだけ損だ。

「図書委員にさ、あやめって子いるだろ?どの子か教えてもらいたいんだけど」
「あ、あやめさんですか……?」

 カウンターの向こうの女の子はおどおどと頼りない様子で立ち上がって、辺りを見回す。ブラインドの欠けられた窓の方に目をやってから、眉間に皺を寄せて腑に落ちないような顔をして僕を見る。

「……おかしいですね。いつもだったらあそこの窓際にいるんですけど……」
「いないの?」
「……はい。あっ、書庫の整理とかしてるかもしれません」

 ちょっと見てきますね、と言い残して、彼女はたたた、とカウンター横の小さな扉に向かって行った。この場所には僕一人が残される形になった。
 僕の後ろにあるテーブルでは今も本を読む気なんて端から無さそうな生徒たちがやいやいと騒いでいる。これでは読書なんかできる環境じゃないだろう。無類の本好きである僕からすると苦言を呈したくなった。
 女の子が戻ってくるまで手持ち無沙汰だ。しょうがないのでさっき通り過ぎたカウンター横の小説のレビューを読んでみようと、ボードの方まで向かった。
 見てみるとやはりというか、どれもこれも流行りのライトノベルばかり紹介していた。アニメ化決定だとか、そんな謳い文句では読んでみようという気にもならない。

「ん?」

 ボードの一番下。目に映ったのは『詩苑あやめ』という名前。詩苑というのがあやめという女の子の苗字なのか。なんと読むのだろう、シオンだろうか。彼女がレビューしていたのは『夏への扉』という知らない外国の小説だった。ナイフで切り裂いたかのような鋭利な彼女の字がつらつらと並んでいる。内容に目を向けたところで、「あの……」と後ろから声が聞こえた。

「あ、どうだった?」

 振り向くとさっきのカウンターに座っていた図書委員の女の子が申し訳なさそうに立っていた。何故か怯えているようにも見える。彼女と僕では少し身長差があるので何だか小動物を虐めているようで心苦しい。

「あやめさんなんですけど……」
「やっぱりいなかったの?」
「いないというか……、体調不良で早退していたみたいです」
「は?」

 思わず威嚇するような声が出てしまった。彼女は更にびくびくとたじろいて「す、すいません!」と大袈裟に頭を下げた。

「きょ、今日の昼前から具合が悪くなったみたいで……!四時間目が終わってすぐに早退したって……先生が言ってましたっ……」

 どうやら書庫の中に誰か教師がいるみたいだ。僕は肩を落とす。
 うん、それならいろいろと納得もいく。今日の朝、『あやめが昼休み図書室で待ってる』と言っていたのに筑紫が『今日は来なくていい』と言っていたのも合点がつく。

「あの……」
 
 目の前の図書委員の女の子がおずおずと口を開いた。あまりに怖がり過ぎじゃないだろうか。少し僕は傷付いた。

「うん?何?」
「何か言伝とかあれば私が代わりにあやめちゃんに言っておきますけど……」
「大丈夫だよ。ごめんね」
「は、はい……」

 では、とだけ言い残して彼女は逃げるようにカウンターへと戻って行った。僕みたいな善良な一般男子でそんなに怖がるなら、ド派手金髪二連ピアスのレンあたりと相対したらどうなるのだろうか。少し試してみたくもなったが、とにかく。
 あやめという女の子が早退してしまったのならば、今日の所は彼女に会うのは不可能だろう。まあやろうと思えば教師を適当に言いくるめて住所を聞きだせばいいのだが、それは倫理的にどうかと思うので実行はしないでおこう。明日彼女が学校に来ていればその時にでもいいだろう。

 そこで昼休みを終える予鈴が間抜けに鳴った。左手につけたジーショックを見れば五時間目が始まる五分前だ。机の周辺にたむろしていた生徒たちが気怠そうに立ち上がったのが見えたので僕も教室に戻ることにした。
 次の授業はなんだったか。確か古文だったような。だとしたら移動教室じゃなくてA組の教室で良かったっけ。

 じり、とした感覚。
 
 僕は動かそうとした足を思わずひっこめた。

「……なんだ?」

 一瞬横の方から視線を感じたような気がした。ねばりつくような、身の丈を越える巨大な舌に舐め回されるような、そんな感覚。
 いや、確かに誰かから見られていた。それもチラッと僕を見たとか、そんなものではない、凝視されていた。
 これは確証だ。
 横の方を見てみても、もう誰もいない。

「何なんだ一体……?」

 僕の横というと、ちょうどさっきの図書委員の女の子が入った書庫の方だ。もしかしたらあの図書委員が僕を見ていたのか、と一瞬思ったけど即座に否定できる。あの子の弱弱しい目つきではなかった。それより遥かに強い、確固とした感情を持って僕を見ていた、第三者の目だ。
 僕はあまり気にしないようにした。何か不気味だ。少しだけ背筋に冷たいものが通るのを感じる。後ろからぞろぞろとたむろっていた生徒が歩いてくる。通行の邪魔になりそうなので、僕も図書室の出口へと首をひねりながら向かった。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.18 )
日時: 2018/05/19 20:25
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

「古来から誘並には、幾柱のも神様が居を構えてたんですね」
 チョークをつまんで黒板に向き合った教師が、教壇の上で退屈そうな口調で言った。
 今は六時限目。古典の授業だったが、途中から教科書の内容から脱線し、三木谷と言う名前の教師はなにやら関係なさそうなことを言っている。
「日本書記にてイザナギノミコトとイザナミノミコトが一番最初に作ったとされる場所がこの誘並の土地だとされているそうで。これがさっき教えた国産みの話ですね。何でも天沼矛という矛から滴り落ちたものが積もってこの地が出来たみたいですね。そして最初に作られたここに降り立ったイザナギノミコトとイザナミノミコトはこの地で結婚の契りを結んだそうです。故にこの地はイザナミノミコトから取り、誘並と名付けられたそうです──」
 壇上の上で生え際が危うい教師が何やら言っていたが、僕は右から左に受け流した。この土地が大昔にどう作られたって僕にはどうでもいい。ましてや神話上の話だ。眉唾物の話を授業中に聞かされてそれを大人しく甘受するほど僕は律儀じゃない。木目の目立つテーブルに頬杖を突きながら窓の外を眺めていた。
 都会の灰色の景色が見えている。ビル群が棒グラフみたいに凸凹に連なっていた。登潟では見る事が出来なかった景色だ。教室の中の内装は中学とはそれほど変わらない。だけど窓枠の額縁の向こうに見える眺望だけ異なっている。遠いところまで来てしまったなあと少しだけ、ほんの少しだけ郷愁に駆られた。
「また、太陽神で知られるアマテラスオオミカミが邪知暴虐な弟に怖れをなして、天岩屋戸という大きな岩屋に隠れてしまい、世界中が闇に包まれるという神話もありますが、一説によるとその天岩屋戸があったところが、この誘並の八意面影神宮だという話もあります——」
 面影神宮、という単語で僕は少しはっとした。
 昨日誘並駅で女の子から手渡された朱色のお守り。それに書いてあった紋章。今は恐らく筑紫の手元にあるのだけど。あれは一体何だったんだろうか。そしてあの不気味なほどに色白な女の子は何やら僕の事を知っているようだった。
 朱色のお守り。生命の意味を問う悪夢。カオナシさま。そしてあやめという女の子。
 むず痒いほどに不可思議な事が多すぎる。
「天岩戸に隠れてしまった天照大御神を下界に連れ戻すために、知恵を巡らしたのが八意面影神宮の主宰神の人柱であるオモイカネノミコトなんですが、はい、えっと月島くん……、でしたっけ」
 授業に集中せず、窓の外を眺めている僕に気付いたように、教師は僕の名前を呼んだ。
「……はい」
 僕は黒板の方を向いた。教師が不機嫌そうな顔で僕を見ている。教師だけではなくクラス中の視線も僕に集まる。哀れみ、奇異、興味。その視線は多くの色に染まっていた。僕は少し辟易する。

「オモイカネミコトと言えば何を司る神様なのか、知っていますか」
「……」
 頬杖を解く。普通の生徒だったら答えられるわけなんてない質問だ。恐らく僕に恥をかかせようとしているのだろう。だけどこの答えを僕は知っていた。
「知恵と学問、至誠と天候安定でしたよね」
「……はい、その通りですね」
 筑紫から昨日聞いた話がこんなところで役に立ったようだ。頭が寂しい教師は不服そうな顔をしてから、「……はい、教科書に戻ります」と黒板に向かい合った。クラスの生徒も僕が答えられると思わなかったのか、空気に小さい波を起こすように僕を見ながらざわめいた。
 再び僕は頬杖を突いて窓の外をぼんやりと見晴るかした。無機質なビルの谷間をあざ笑う青空。それを真っ二つにぶった切る飛行機雲がやけに克明に、無垢そうに白く見えた。
「──ちゃんヒロっ」
「……?」
 灯の声が聞こえた。斜め前の席からだ。そちらを向くと灯がぱちぱちとウインクしているのが見えた。ウインク、とは言ってもかなり下手くそだったが。何を伝えたいのか。よく答えられたね!とでも言いたいのか。
「……」
 ここで話をしてまた教師に指名されたら敵わない。返事の代わりに僕は灯に向けてひらひらと小さく手を振った。ぱあと花が咲くように笑顔を見せた彼女に、こいつは何がしたいんだろうとぼんやり考えた。


 少し時間が経って、きんこんと間抜けにチャイムが鳴る、教壇の上の教師は不服そうな顔をしながら教室を出ていった。パタンとスライド式のドアが閉じたのを見計らったようにクラス中は堰を切ったように騒がしくなる。どやどやと浮足立つ生徒の中、これで授業が終わった、と僕は黙って教科書類をカバンの中に入れる。レンとポチが違うクラスなのでこういう時に少し所在がない。このクラスにも灯以外に仲のいい奴作っといた方がいいかな、と思った時、「月島—!」と声がした。カバンの中に入れる手を止めて、目を上げると、名前も知らない男子が僕の机の前に立っていた。

「あれ?お前月島でよかったっけ?敷島だったか?」
「月島で間違ってないよ」
「あっ、マジで?そりゃよかったわ」
 髪が短くて、快活な印象。曇りのない柴犬みたいな目が僕を見ている。
「で、何の用なの?」
 僕がそう尋ねると「あー」と彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「月島って何の部活にも入ってねえだろ?だからさ、サッカー部によ──」
「はいどーん!」
 僕の前に立っていた男子生徒は横から押されてくらっと体勢を崩した。が、それも一瞬のことですぐに立て直して、「何してんだよ魅鬼!」と自分を押した相手を威喝した。
「ごめんごめんキョータっち、手がちょっと滑っちゃってさ!」
 灯は手の平を合わせながら、片目をつぶって舌を出して見せる。見ようによってはかなりあざとい仕草だが、この場では挑発行為と同義だ。押された男子生徒は僕のことなんかお構いなしに灯に向き合う。
「てめぇ……」
「んー、ていうかキョータっち。ちゃんヒロはサッカー部なんか絶対入らないと思うよ?」
「なんかってお前なぁ……」
「だってちゃんヒロって剣道やってたんだよ!サッカーなんかやんないって!」
「はあ!?」
 男子生徒は僕の顔をまじまじと見る。疑惑のこもったような目だ。何か面倒臭そうなことになったな、と僕はふうと息をついた。
「うん、剣道部!全国大会まであたしと一緒に行ったもん。ねーっ!ちゃんヒロー?」
「このひょろい奴が全国大会!?マジで!?」
「……ひょろいって言うな」
 僕はようやくここで口を開いた。だけれど僕のそんな声なんか聞こえないみたいにまだ二人はびゃあびゃあと騒ぎ立てる。灯はとうとう痺れを切らしたのか、「もう!」と怒ったように言った。
「ちゃんヒロは剣道部に入るんだって!ほら!あっち行って!」
「……ちっ」

 腹立だしそうに舌打ちをして男子生徒は教室の端っこの方の机まで去って行った。それを僕は目で追いかける。これで僕の友達になったかも知れない奴が一人減ったなあとか思いながら、はぁとため息をついた。僕の吐いた呆れが机の木目に反射して灯にぶつかればいいのにと、脳内でふざけたことを考えた。

「っていうことでちゃんヒロっ!」
「何?」
 灯は僕の机に手をついて僕を見下ろす。
「これでウチの剣道同好会に入んないといけなくなったね!」
「……なんで君といい、あやめとかいう女の子といい、僕をそんなに強制的に入部させたがるの?」
「だって中学時代一緒に全国行った仲だよ!?誘並の剣道部みんなで作ろうよ!」
「……」
 灯とあやめという女の子と筑紫、加えてその姉である姫菜で廃部になったこの学校の剣道部を再建させようとしている、という話は昨日も聞いた。しかしそれは途方もない道程が必要とされるだろう。レンが言うには数世代前の先輩たちが暴力事件を起こし、それが問題で全国有数の規模と実力を誇った剣道部は泡のように消えた。一度地に堕ちたものを再び積み上げるのにはかなりの時間と努力が伴う。
 果たして僕がこいつらの活動を手伝ったとして、在学中に剣道部が再び隆盛を極めるなんてことはあり得るのだろうか。
 その時、スライド式のドアを開けて担任の教師が教室に入って来た。それと同時に、辺りで蜂のように騒いでいた生徒たちが、ぞろぞろと自分の机へと戻る。これからホームルームが始まるようだ。
 それを見た灯は気に食わなそうにむーっと頬を膨らまさせて、「んじゃ、また後でね」と言い捨てて僕の斜め横の席に座った。
 クラス全員が机に着いたのを確認してから担任の教師は「委員長、号令」と気怠そうな声色で言った。すぐさま遠くのスポーツ刈りの委員長が「きりーつ」と声を張る。僕もそれに応じて立ち上がる。がちゃがちゃと椅子の足とフローリングの床が擦り合う耳障りな音。
 委員長の号令と共に僕は教壇の上の担任に向かって形だけのお辞儀をした。普遍。出る杭は打たれる。できるだけクラスメイトと波長を合わせないと。
 こうべを垂れる。僕は彼ら──灯や筑紫たちに必要にされているのだろうか。もしそうならば飛行機の残骸、鉄くずの中でぐちゃぐちゃに死んだ父と母、そして片っ方の妹に胸を張れるだろう。


 ホームルームが五分も立たずに終了し、さっきの予告通りに灯は僕の机まで突撃してきた。誇張ではない。本当に突撃という単語が相応しい勢いだった。担任が教室を出て行くよりも早く、クラスメイトが部活へ行こうとバッグを担ぐよりも早く、僕の目元までダッシュで駆けて来た。灯のオレンジがかった髪が彼女の移動速度について来れずに後ろに靡くほどに。
 何度目か分からないほどの僕のため息をかき消すように「ちゃんヒロっ!」と灯は言った。

「何?僕は今から寮に返って本を読む予定なんだけど」
「本なんかいつでも読めるよっ!でもあたしとちゃんヒロのアバンチュールは今がオンリーワンなのっ!」
「僕は灯よりもカズオイシグロの日の名残りの方が大事なんだよ」
「酷いよ!ちゃんヒロってばポルポトもびっくりだよっ!」
 僕の机を真っ二つにしようとばかりにバンバンと机を力一杯叩く灯に「そこまで言うか……?」と僕は些か呆気に取られる。呆気に取られてから僕は「で、何の用?」と尋ねる。
「ちゃんヒロ暇でしょ?どっか寄り道しようよ!」
「だから僕はスティーブンスとファラディさまの関係について読み解かなきゃいけないって言ってるだろ?」
「だからそんなのいつだってできるでしょっ!!」
 バン、と灯の手によって僕の机が大きい音を立てた。あまりに凄い音だったのだろう。まだ教室に残っていたクラスメイト達の困惑したような視線が僕と灯に集まるのを感じる。しかし当の彼女は意に介さない様子で、茶色に澄んだ大きい瞳で僕をじっと見つめる。有無も言わさず言う事を聞かせてやる、といった目だ。

「……はぁ」
 僕は灯から目を離す。その目に耐え切れなくなった。
「……分かったよ。オーケー、どこへ行くつもりなの?」
 そう言うと、灯はぱあっとカーテンを開けたみたいに純真無垢な笑顔を見せた。
「ツクヨミ!ツクヨミ行こうよ!」
「あそこのショッピングモールなら昨日行ったんだけど……」
「じゃあ面影神宮行こうよ!まだ行った事ないでしょ!?」
「……まあ行った事ないけど。ゴールデンウィークにレンとポチで行く予定してるんだよ」
「じゃあ今回は下見ってことでいいでしょ!あっ、あそこ行くならつくしんぼの方が詳しいよ!ちょっと呼んでくるねっ!」
 そう言い残すや否や、まるですばしっこいリスのように机の合間を抜けて教室の出口の方に向かって灯は突撃していった。風を切る音さえ聞こえそうなスピードだった。そのあまりのスピードにまだ教室に残っていた生徒たちはぎょっとした目線で彼女の後ろ姿を見送った。

「なあ坂島……だっけ?」
 僕と灯の一部始終を見ていた隣の席の髪の長い男子が僕に疑わしそうな目で話しかけて来た。
「月島だよ」
「ああ、悪い悪い──、お前さ、灯と付き合ってんの?」
「……そんなわけないだろう……」
 僕は大きくため息をついた。「あ、そっか」とその男子は拍子抜けしたような顔。
 寮に帰ることが出来るのはいつになるだろうか、と僕は暗澹とした気持ちで机の上にあった筆箱を引き出しの中に直した。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.19 )
日時: 2018/05/22 20:53
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

「でさ、面影神宮ってどこにあるの?」

 筑紫と灯で僕を挟むようにして三人で一階の昇降口を目指して廊下を歩いていた。授業が終わり今から帰路に着くのだろうか、あっけらかんとした顔で足を進める生徒もいれば、今から部活のきつい練習が控えているからだろうか、逆に重そうな足取りで歩く生徒もいる。僕たちはどちらかと言えば前者だ。
 現役の頃、僕も学校が終わるや否や始まるきつい練習に憂鬱になっていたっけ。学生寮に置いてきた、あの中学の時に買った防具はもう二度と身に着けることもないのかも知れない。残念に思う。
 僕の特にどちらにも向けていない質問に「誘並駅から少し電車で行ったとこにあるよ」と筑紫は答えた。
「少しってどの位なの?」
「そうだね、電車なら三十分くらいかな。バスでも行けるんだけどあの辺りの道路は結構混むからね。電車で行こうか」
「結構離れてるね……」

 流石に寮の門限には間に合うだろうけど、それでも帰れるのは遅くなるだろう。
 僕の隣を歩く灯をチラリと見たら、ご機嫌よさそうな顔を顔をして鼻歌を歌っていた。今更行きたくないとか言ったら間違いなく怒るだろう。そして間違いなく僕に危害が及ぶ。
 灯が筑紫を呼びに行った時、彼はまだ教室にいたようだ。筑紫は今から行く面影神宮にとても造形が深いらしく、灯の誘いに快く了承した。まあ確かに灯とサシで行くより彼もいた方が心強い。それにさっき灯と交際していると勘違いされた身分だ。

「こうやってさ!ちゃんヒロとつくしんぼと一緒に歩いてるとさ!中学の全国大会の時を思い出すね!」

 朗らかに灯。
 誘並に住んでいた灯や筑紫と登潟にいた僕では県は違うが、登潟から全国大会に出場したのは僕しかいなかったのであの時は一緒に行動していたのだ。同じホテルに泊まり、同じ食卓でご飯を食べた。今では遠い昔のことに思える。だけど、一人足りない。

「姫菜がいないけどね」
「……それを言っちゃうとさぁ……」

 姫菜。白縫姫菜。そこにいるのにいないようで、そこにいないのにいるような、不思議な雰囲気を醸した少女。筑紫の年子の姉である。『Azathoth』という誘並のご当地アイドルに所属しているのだが、その人気はこの誘並に留まらず全国に広がり、今では東京を拠点にして活動しているようだ。一応姫菜はこの天照学園に籍を置いているようだが、現在は休学中らしい。
 僕の言葉に灯はしゅんとしたような顔をする灯。それを見て筑紫は「まあまあ」と微笑む。
「姫菜は東京で元気にやってるみたいだよ。ゴールデンウィークにはこっちに帰ってくるみたいだし」
「え!?ホントに!?」
「うん。……でもやっぱり忙しいみたいだよ。一日しかいられないんだって」
「うー……、やっぱ姫っちょ人気だもんね」
 昇降口に辿り着いた。木製の靴箱が図書室の本棚みたいに行儀正しく並んでいる。まるで駅の改札口のように今から下校する生徒で込み合う。バタンという靴箱の扉を閉める音と革靴を床に投げ捨てるカツンという音。緑蛍光色の誘導灯が上に掲げられた出口からぞろぞろと生徒たちは抜けていく。

「じゃあ僕はこっちだから」

 筑紫はそう言って僕と灯を顧みた。彼は僕たちとは別のクラスで、靴箱も少し離れたところにある。軽く僕は頷いて、灯と一緒に一組の方へと向かう。

 僕の靴箱は蜂の巣みたいに並んだ扉の一番下だ。身をかがめないと靴を取り出せない。灯は早くも革靴に履き替えて遅いと言わんばかりに僕を見ている。

「ちゃんヒロ—!遅いよー!」
「分かったよ……、ちょっと待って」
 上履きを木製の扉の奥にしまって、僕も靴を履いた。固いタイルの上に立ち上がる。
 灯と一緒に並んで出口を抜けた。外はあっけらかんと晴れている。校門に向かって歩くいくつものブレザー姿の背中。筑紫は開けっ放しの出口のすぐ近くで待っていた。僕と目を合わせて「それじゃ行こうか」と言う。

「まずはどうするの?」
「そうだね。バスで誘並駅の方に行こうか。ここからだとバス停は……新律狩通りの方が近いかな」
「オーケー」

 新律狩通りは飛想館の近くにある大通りだ。飛想館に至る角を通り過ぎるので、ざっと徒歩で15分くらいだろうか。それほど遠くはない。
 足を進める。今から向かうのは面影神宮だ。少し楽しみにしている自分に気付いた。誘並駅で三つ編みの女の子に手渡された朱色の面影神宮のお守り。そして新幹線の中で見た、『カオナシさま』の夢。そして、『ともみ』という名前。
 これらの謎のどれか一つは面影神宮に行くことによって解決できる気がした。気がしたのだ。
 かと言って僕はその神宮にそれほど詳しくはない。これは予感だ。
「────?」
「────、────」
 僕を挟んで何やら灯と筑紫が話をしていたが、僕の頭にはうまく入ってこなかった。
 二人を遮るようにして、僕は言う。
「ねえ、灯、筑紫、ちょっと質問いい?」
「ん?」
「どうかしたのかい?」
 ステレオで反応された。やっぱり言うまいか、と逡巡したが僕は続ける。

「一つだけ、願いが叶うなら何をお願いする?」
「……?」

 二人はさも意味の分からない、といった顔で僕を見る。僕も訳の分からない質問をしているのは分かっている。

「いきなりどうしたんだい?月島くん。何の話?」
 筑紫は口角を少し上げて僕に向かって微笑んだ。対して灯は得心を得たように「あー!」とうんうんと頷いた。
「ちゃんヒロ、それってもしかしてカオナシさまの話だったりする?」
「……うん、そうだ」
「なるほどね」と筑紫も思い出したように首肯する。

 僕だったら何をお願いするか、なんて決めていない。
 恐らく、何も願わないだろう。

「ちゃんヒロってば意外とミーハーなんだね!こんな都市伝説なんて信じないタイプだと思った」
「……そう?」

 僕は灯から顔をそむける。自分の心の中をがしっと掴まれたようで気恥ずかしかった。

「そうだね──」

 腕を組んで筑紫は少し悩む様子。それから遠いところを思い浮かべているような、心ここにあらずといった顔をして言う。
「そうだね、僕だったら『また姫菜と一緒に暮らしたい』かな」
「……なんかごめんね……」
「いいのさ、姫菜も月島くんに会いたがってるからね。ゴールデンウィークに会ってあげてよ」

 少し空気が鉄のように重くなる。払拭するように僕は「灯は?」と尋ねた。

「うーん、何にしよっかなぁ……」

 校門を通り過ぎる。四月下旬の桜の肌にはすっかり葉が茂っていて、瑞々しく視界の端でさわさわと揺れる。コンクリートが靴裏に擦られてジャリっと鳴く。
「あっ、思いついた!」
 頭の上に豆電球が浮かんでそうな顔で灯は言った。「何?」と僕は彼女を促す。すると大袈裟そうな手ぶり。

「ゴジラみたいな怪獣が出てきてさ、街をどっかーんって破壊してるとこが見たい!」
「……あのね、灯、それじゃ僕らもただじゃすまないと思うよ」
「そんな問題なのかい……?」
 呆れたような顔で筑紫は目を細めて僕を見た。自動販売機の影が彼を覆っている。
 バス停の方に向かう。背の方には昨日筑紫と行ったショッピングシティツクヨミのビル群。四車線の道路には車が凄い勢いで行き交っている。まだ点いていない街灯と黒黒としたケヤキの行列。黄色の点字ブロックが僕たちを誘っているようだ。

「それならあれだよ!あたしたちは地下シェルターみたいなとこに入るの!あのでっかいビルとか誘並タワーとかがさ、ばっきばきに壊されてるとこ見たくない?」
「確かにちょっと見たい気もするけどさ……」
「月島くん?」
「でもさ、そんなゴジラみたいな怪獣がこの誘並に現れたらそりゃもう地獄絵図になるよ。ただでさえビルとかがめちゃくちゃ多いんだし。復興するのに何年かかると思ってんの?」
「それなら大丈夫だよ!」
 灯はととと、といきなり数歩前に駆け出す。僕と筑紫に振り返る。
「指をパチンってしたら全部元通りになるの!煙がファって消えるみたいにさ!粉々になった誘並駅も、へし折られた誘並タワーも壊される前に元通り!みたいな!」

「今から誘並駅に行くのに縁起でもないこと言わないでくれるかい?灯ちゃん」

 たしなめるように筑紫が言った直後に信号が赤になった。僕たちは立ち止まる。

 目の前を白い車が凄いスピードで駆け抜けて行った。道路は絶えず循環している。僕の地元の登潟は田舎で、こんなにくるくると水車みたいに慌ただしく回る交通は目新しく見えた。止まることは許されないかのように、体中を駆け巡る血液のようにくるくると回る。血液は体中に酸素を運ぶが、この車たちは何を運んでいるのだろうか。貨物とかみたいな具体的な話じゃなく、幾人への憩とか慕いとか抽象的な話で。
 街をのんびり歩く僕たちだって同様だろう。何かを運ぶ。誰かに何かを伝える。
 そんな意味の分からないことを考えてる内に信号が青になった。エンジンの音が聞こえ車が見計らったように発進して、何かから逃げるように凄いスピードで消えて行った。


 しばらく歩いて、バスの停留所に辿り着いた。新律狩通りと名付けられた大通り。誘並の中心部と比べるとやはり人通りも少ないが、登潟から来た僕から見れば十分に都会の様相だ。この喧噪に慣れるのはいつになるだろうか。

「あと10分後にバスが来るみたいだね──そうだ、月島くん」
 そう言って筑紫は学生カバンの中に手を突っ込んだ。教科書が詰め込まれているのだろう、ぎゅうぎゅうになったカバンの中で、何かを探している様子。
「はいこれ」
「ん?」
 筑紫が僕に手渡したのは、見覚えのあるもの。手のひらの上にちょこんと乗っかっているのは、昨日僕が誘並駅で女の子に渡された朱色のお守り。
「これ、やっぱり君に返しておくよ。これはやっぱり君が持っておくべきだ」
「え?でもこれ面影神宮の偽物のお守りなんだろ?これを持っておくと良くないことが起こるかもしれないって昨日言ってたじゃないか」

 僕はそれを受け取らない。「ん?どうしたのー?」と灯が横から筑紫の手の平を見つめる。

「これが面影神宮の名を騙る偽物ならば、ね。──でもこれは正真正銘、面影神宮のものだ」
「でもそこってお守りを作ってないんだろ?」
「うん、確かに面影神宮はお守りは作ってない。神そのものを具現化することも許していない。だけどこれは違う。昨日お守りの結を解いて中を見たら分かったよ……。これは割符だ」
「割符……?」
「そう、割符。面影神宮には二柱の主宰神がいるってことを昨日話しただろう?知恵や学問を司る常世の神の八意思兼命、それと追憶と邂逅を司る地着神、面影さまの二柱。割符っていうのは面影さまの方の分野でね。──試しにその布の中にあるものを見てごらん」
僕はお守りをがっちりと閉ざしている白い紐を急いで解く。よく分かない結び方をされてるため、少々苦心したが、やっとするりとほどけた。中を見ると、一枚の薄い板片。
そこには達筆な筆文字で『月島博人』と書かれている。
何でだ。
何で僕の名前が?

「ぼ、僕の名前……?」
「それが割符だよ。面影神宮には言い伝えがあってね、抗いようのない別れに際した二人が、御神木からできた小さい板にお互いの名前を書き合って、その板を二つに割って持ち歩くんだ。それでいつかまた会えるようにっていういわばおまじないみたいなものだよ」
「じゃあこの片割れは誰が持ってるっていうの?」
「それが分からないんだよね。君は今まで面影神宮に行った事がないんだろ?だけどこの割符は間違いなく君のものだ。もしかして小さい時に来たことがあるんじゃないかい?月島くんはそれを忘れているだけで」
「……そんなことはないよ。僕は……」
「まあいいさ。もう一回言うけど、これは君が持っておくべきだ。袋の中に手紙みたいなものが入ってたからそれにも目を通してみてよ」
「手紙?」
僕はその赤い袋の中を覗き込む。筑紫の言った通り、四つ折りにされた小さくて白い紙が入っているみたいだ。僕はそれを取り出して指で広げる。そこに書いてあったことは。

『     いつかまた どこかで
                   おかむら ともみ より』
 ともみ。
 岡村朋美。
 誰だ?
 揺れる青いスカート。
 お前は誰だ?
『ねえ博人くん』

 誰だ?

『博人くんはずっと一緒にいてくれるよね?』

 だれだ?
『博人くんはどこにも行っちゃわないよね?』

 何を忘れた?何を思い出した?何を失った?何を得たんだ?

 いつの記憶だ?
 瞼の裏のこの残像、この輪郭、この面影は誰のものだ?
 欺瞞も背信も虚飾も糊塗も全て包み込むこの相貌は誰のものだ?

 ともみ。

 誰だ?こいつは誰だ?何だ?いつ出会った?どこで出会った?何をしたんだ?
 一緒にいたのか?
 僕は誰だ?

「──ちゃんヒロっ!!」
「月島くんっ!!」

 灯と筑紫の声がどこか遠くで聞こえたと同時にぐらりと体が揺らいだのを感じた。視界が霧がかったように白ずむ。足に力が入らない。全身を回る血液が全て冷たい水に変わってしまったみたいだ。
くらくらする。ふらふらする。ぐらぐらする。むやむやする。有耶無耶になる。

「──ロっ!──ぶ!?──ぇ!!」

 必死に灯が叫んでるみたいだけど頭が処理してくれない。ヘッドホンをつけたようによく聞き取れない。
 僕の体重を支える誰かの腕?誰だろう?筑紫かな?誰でもいい。呼吸が苦しい。どくんどくんと脳味噌が心臓になったみたいに早いペースで波打つ。鼓動の音がする。僕の音。一定。
 焦点が合わない。顔を覗き込んでいるのは誰だろう。分からない。
 あかり?
 つくし?

 それともともみ?

 だれだろう。

『ずっと一緒だよね』
 そう言った。遠い昔に誰かがそう言った。昔じゃないかもしれない。僕が生まれるより前の話かもしれない。
 誰だろう。話がしたいな。久しぶりに。いつかのように。馬鹿みたいに笑いながら。
そこまで、考えたところで、僕の視界はすっと幕を下ろすように暗転した。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.20 )
日時: 2018/05/28 12:38
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 すうっと、波が引くみたいに意識がはっきりしてきた。ぼやけた視界の端で誰かがじっと佇んでいる。見えるのは白天井に映える蛍光灯の眩い光。僕が目を開けたのに気付いたように僕の横の誰かが立ち上がる。

「あ、起きたかい?」
聞き慣れた優しい声色。僕は顔を声のした方向に向ける。焦点が合わずにぼけた視界が徐々にはっきりしてくる。
「──筑紫……?」
「うん、じゃあ月島くん、この指何本に見えるかい?」

 言って筑紫がピースサインを作る。蛍光灯の眩しさに耐え切れず目を細めながら僕は答えた。
「……二本──かな?」
「オーケー、意識ははっきりしてるみたいだね」

 僕は何とか起き上がろうとするが「無理しないでいいから」と筑紫が手で制した。大人しくそれに従い僕は再度頭の体重を枕に委ねた。

「大変だったんだよ、あそこから君を背負ってここまで来るの。窓口に寮監さんがいたから助かったね」
 言われて気が付いた。ここは僕の部屋だ。
 まず本棚が見えた。その横に備え付けの学習机。筑紫は椅子にゆったりと足を組んでいた。膝の上には文庫本が置いてある。僕の部屋を彼は知らないのに、と思ったがさっき言っていた通り寮監さんに尋ねたのだろう。あのバスの停留所からこの飛想館まで結構離れている。いくら僕の体重が平均より軽いとは言っても、あそこからここまで背負って歩くのは骨が折れたことだろう。
 そしてさっきまでいたもう一人がいないのに気付く。

「……灯は?」
「家の門限があるからもう帰っちゃったよ。ほら、鉄板屋の手伝いしなきゃいけないってさ」
「……迷惑かけたみたいだね。ごめん」
「大丈夫だよ。気にしないでいいさ。面影神宮にはまた今度行けばいいよ。──それより」

 そこで筑紫は言葉を切った。明らかに声のトーンを一段階下げてから続ける。

「倒れてからさ、うわ言みたいに何か言ってたよね。僕聞いてしまったんだけど」
「……?」
「よく聞き取れなかったんだけどさ、誰かの名前を呼んでいた気がするんだよね。覚えてるかい?」
「……ごめん、ちょっと記憶がないな」
「そう……。一応灯ちゃんには貧血で倒れたんじゃないかってことにしてるよ。でも本当はそうじゃないことなんて僕も分かってる。君はそんな不健康な体してないだろう?」
「そうだね、生まれてこの方倒れたことなんて一度も無かったよ」
「あの割符と一緒に入っていた紙に何て書いていたか、なんて野暮だから聞かないさ。でも僕も心配だ。あの割符はやっぱり僕が持ってた方がいいんじゃないかって思ったんだけどどうかな?」

 筑紫は真剣な眼差しで見つめる。病床に伏した僕を気遣っているようで、その目は有無を言わせないほど力があった。でも僕は首を横に振る。

「……いや、いいよ。これは僕が持っておく」

 この筑紫の言うところの『割符』というものが、何故かとても大切な、とても懐かしいものに思えたからだ。決して放してはいけないような。命綱というか、もっと抽象的な、大事なもの。

 そう、と短く筑紫は背もたれに背中を付けながら言った。

「君と仲のいい……犬飼君と清水くんだったっけ?彼らには灯ちゃんが連絡してくれてるみたいだよ。彼らが帰ってくるまで、一応ここにいさせてもらうよ」
「うん、すまないね」
「大したことないさ、おっと?」

 筑紫はドアの方に目を向ける。僕も釣られてそちらを向く。ドタドタドタと廊下のフローリングを踏み鳴らす足音が聞こえてきた。どんどんとこっちに近づいてくる。
「うわさをすればなんとやら、だね」
 ガバリとドアが開いた。見慣れないジャージ姿のポチが息を切らせてそこにいた。横眼の方でカーテンがふわりと舞う。

「あっ、ポチ。おかえり」
「うわああああああヒロくんが!ヒロくんが死んじゃったッス!!」
「は?」

 手に持っていた学生カバンを勢いよく投げ捨てた。壁にぶつかり鈍い音がしてから床に落ちる。僕の下半身を覆っていた布団にすがるようにして顔を伏せる。

「死んじゃ嫌ッス!一緒に神宮に行くって約束したんじゃないッスか!!またお好み焼き食べに行くって言ってたじゃないッスか!うああああああ!?」
「えっ、待ってポチ?」
 そんなポチを見かねてか、「ちょっと?犬飼君……だったかい?」と後ろから文庫本を片手にポチの肩を掴んだ。するときっとポチは振り返って、敵意丸出しの獣みたいに睨みつけた。

「お前がやったんスね!」
「は?」

 頬けたような顔をした筑紫を目掛けて、ポチは拳をギッと握りしめて彼の頬を殴りつけた。完全に不意を突かれた筑紫は「おぶっ!?」と言って背後にあった本棚にぶつかる。どちゃどちゃと本の雪崩が起きる。
「この殺人犯野郎! 僕がぶっ殺してやるッス! この野郎!」
 馬乗りになりマウントを取っ上からボコボコと殴りつけている。筑紫はその剣幕に抵抗できないのか「助けて月島くん……」と僕の名前を呼んで手を伸ばす。僕ははあとため息をついて体にかけていた布団を剥いだ。

「ちょっと?ポチ、やめたげなよ。痛がってるだろ?」
「うわっ!?ヒロくんッス! 幽霊ッスか! 悪霊退散ッス!」
「……あのね」

 またがったまま目をひん剥かせるポチを、筑紫の体から無理矢理引きはがして、ボロボロになった筑紫に「大丈夫?」と尋ねる。か細い声で「なんで僕がこんな目に……」と言った。大丈夫そうだ。

「生きてたんスねヒロくん! 良かったッス! 心配したッスよ!」
「バス停で倒れただけだよ。……とりあえずポチは筑紫に謝ろうか」
「えっヒロくんは筑紫くんから気絶させられたって聞いたッスけど」
「どう間違ったらそんなに情報が錯綜するんだよ……」

 大方灯のせいだろうけど。あの女。

「レンがそう言ってたんスけどねぇ」

 ポチは首を傾げながら小さくこぼした。彼が冷静になったのを確認して僕はベッドに腰掛ける。

「レン? 灯から連絡来たんじゃないの?」
「僕灯ちゃんの連絡先知んないッスから」
「ああ……、なるほどね……」

 大方レンにポチへの言伝を頼んだ時に間違った情報が伝えられたとかだろう。

「せっかく部活早退したんスけど、心配して損したッスよ」
「うう……、何で僕がこんな目に……?」
「あっ、筑紫くん。初めましてッス」
「こんな初めましてがあるのかい?」

 荒れた髪を髪を手で直しながら筑紫はゆっくりと立ち上がる。ネクタイを締めてブレザーの裾をポンポンと叩きながら言う。


「じゃあ僕はここいらでおいとまさせてもらうよ。犬飼くんも来たことだしね」
「うん、すまないね」
「別に大丈夫だよ。……んじゃあ明日、学校に来れるんだったらまたね」

 そう言って机の上に置いてあったカバンを持って筑紫はドアの方まで歩いていった。「それじゃ」と微笑みながら手を振ってバタンと扉の閉まる音。

「やー! びっくりしたッスよー! いきなり楽器持ったレンがグラウンドに来て『つっきーが筑紫に殺された!』みたいに言うんスからー」
「多分灯が大袈裟に言ったんだよ」
「んで、何があったんスか? 倒れたとか言ってたッスけど」
「……」

 まさかお守りの中に入ってた紙を見たら気分が悪くなって倒れた、なんて言えない。僕は「ちょっと気分が悪くなってね」と言葉を濁す。

「うーん、疲れてるんスかねぇ……。いきなり環境が変わったから体調が崩れたんスよ。僕も馬片から越してきた直後は風邪引いて寝込んだりしたッスから」
「そうなの?」
「大変だったんスよ。あの時はレンに面倒見てもらったッスけど」
 そこでポチはふと立ち上がって、「ちょっとポカリ買ってくるッスねー!」と言って壁際の自分のカバンの中を漁った。やがて財布を取り出して「下に行ってくるッスからどっか行っちゃダメッスよ!」ととことこと部屋を出て行った。ここには僕一人が残される。

 ポケットの中。まだあのお守り──割符とあの手紙が入っている。
 面影神宮の古くからの言い伝え、と筑紫が言っていたのは覚えている。一つの板を半分に割って、そこに再開を誓う二人がお互いの名前を書き合い、それを肌身離さず持ち歩く。そうすれば二人はまた出会えるという。
 だけど僕はそんなもの書いた覚えは無い。そもそも面影神宮には行ったことは間違いなく無い。これは断言できる。誘並に来たことだって片手で数えても指が数本余るくらいしかない。じゃあ、あの板は一体何だろう。

「『いつかまた、どこかで』か……」

 手紙に書かれていたことを何となく口にした。一人の部屋にむなしくぽつんと浮かんで、シャボン玉みたいに天井に昇った。おかむらともみ、と名前が書いてあったけど、その名前に見覚えは無かった。

 ──あなたは『ともみ』という名前の女の子をご存知ですか?

 昨日学校であの眼鏡の少女に会った時に尋ねられた言葉が脳裏に浮かんだ。あの眼鏡の少女が『あやめ』ならば、彼女に会えば何か分かるかもしれない。何か変わるかもしれない。そんな気がした。
しばらくして、がちゃりとドアが開いてポチが帰って来た。「はいアクエリッスよー!」と左手に持ったペットボトルを僕に向かって投げる。弧を描くというよりストレートで飛んできたそのペットボトルを額の辺りでキャッチする。

「……危ないじゃないか」
「やっぱり左じゃまだ慣れないッスねぇ」
「何の話なの?」

 今度はちゃんと机の上にカバンを置いて、さっきまで筑紫が座っていた椅子にポチは腰掛けた。この椅子はいつもは学習机の近くにあるものだ。その上にあぐらをかいて「まあ怪我とか無くて不幸中の幸いッスよ!」と笑顔を浮かべてみせた。

「うん。──そういえばポチ。一つ尋ねたいことがあるんだけどさ」

 彼は「ん?」と首を傾げる。ポチにこれを聞いても多分何のためにもならないかと思うけど、誰かに聞きたかったのだ。

「例えばさ、あるところ……そうだね、登潟でしか買えないお土産とかあったとして、そこにポチは行ったことは間違いなく無い。だけどそこには自分の名前、犬飼圭って書いてある。こういうことがあったりしたらさ、ポチならどう考えるかな?」
「うー、難しい質問ッスねー。クイズ番組のひっかけ問題ッスか?」
「いや、どう考えるかっていうことだけ聞きたいんだ」
「そうッスねー……」

 口を一文字に閉じ、腕を組んで悩んでいる様子。

「ただの同姓同名の赤の他人ってわけじゃないんスよねぇ」
「うん、そうよくある名前じゃないしね」

 それが月島博人だろうが、犬飼圭だろうが、気まぐれな神様の悪戯というのはあり得ないだろう。それも、『ともみ』という単語は前日にあの眼鏡の少女から聞いている。これは偶然の一致ではなく運命の合致。このお守りを僕に渡した三つ編みの女の子と、あの眼鏡の少女にもう一回会うことができれば何か分かるかも知れないが。

「難しいこと聞かれても僕は分かんないッスね。お手上げッス」
「だよね。ごめん、変な事聞いてしまったみたいだ」
「やっぱヒロくん疲れてるんじゃないッスか? 早めに寝た方がいいッスよ?」
「結構ポチって見た目によらず辛辣だよね……。じゃああと一つ質問していい?」

 これは灯や筑紫に聞いたのと同一。この誘並に伝わる都市伝説。

「一つだけ、願いが叶うとしたらポチなら何を願う?」
「……願いッスか──?」

 部屋に沈黙が落ちた。そして僕は驚いた。さっきまでへらへらと笑っていた彼が酷く暗い顔をしていたからだ。思わずぎょっとする。暗澹や鬱積、わだかまり、そういうものに一見無縁そうなこいつもこんな表情ができるのかと僕は正直、度肝を抜かれた。しかし、すぐにいつもの無垢な笑顔に戻り、「カオナシさまの話ッスか?」と僕に尋ねる。

「そう、ここらへんで流行ってるんだろ?ポチだったら何を願うか聞きたかったんだけど、答えたくなければ答えなくていいよ」
「……そうッスね、僕だったら──」

 少し含みを入れて、彼は自分の右手を物憂げに一瞥してから言った。

「──中学の時に戻りたいッスねぇ」
「……?」

 それってどういうことだと尋ねようとした、その時にドンドンドン、と三回壊れんばかりにドアがノックされる音に遮られた。がちゃがちゃと強くドアノブが引かれてるのが見えたが、鍵がかかってるため入れないみたいだ。再度焦燥に駆られたみたいにドンドンドン、と最早ノックというか殴りつけてるんじゃないかと思う程つ強い音。

「あっ、レンが帰って来たみたいッスよ!」
「帰って来たみたいッスよ、じゃないんだよ。何で鍵かけてるんの……」

 僕は体に掛けられた布団をめくってベッドから立ち上がる。バス停で倒れた時にどこかにぶつけたのか、肩の疼痛が目立つ。あとでどっちかに湿布でも買ってきてもらおうかな、とか思いつつ、ドアのサムターンを回した。するとがばりとドアが開いた。そこにいたのはもちろんというか、金髪の長身、レンだった。

「つっきー!AED持ってきたぞ!ってうおっ!幽霊!」
「何をどう間違えたんだよ……」


 それから。
 僕とポチがいた部屋にレンを加えて、しばらく話をした。ひたすら僕は二人に大丈夫、大丈夫と壊れたおもちゃの喋るロボットみたいに繰り返して、レンとポチはそれぞれの自分の部屋に戻って行った。枕元にはポチが下の自動販売機で買ってきたアクエリアスとレンがコンビニで大量に購入したウィダーインゼリーが飲みきれなくて置いてある。この借りは二人にいつか返さないといけないなとか思いながら、それらを冷蔵庫の中に入れて、ベッドの方に向かおうとした時だ。

「ん?」

 床に落ちていた一冊の文庫本を見つけた。見覚えのない装丁。これは僕のものではない。なんだろうと思い僕はそれを拾い上げる。著者は僕も知っているけどこの題名は聞いたことがない。宮部みゆきの『返事はいらない』だ。
 こんな本買った覚えも借りた覚えもないんだけどなぁ、と一瞬思ってすぐに納得した。この部屋で筑紫が読んでたものだ。
 部屋に本忘れてたよと連絡でもしようかな、と枕元にある携帯を取ろうとした時、その薄い文庫本の中から一枚の紙がひらりと葉が風に舞ったように落ちた。振り子が左右に揺れるみたいな動きをして、カーペットの床に音もなく落ちた。

「……参ったな……」

 恐らく何かの紙を栞代わりに使っていたのだろう。読んでいた本がどこまで読んだか分からなくなることの遺憾さはとても耐えがたいものだ。読書好きの僕からすると縁を切ることも視野にいれるだろう。しまった、菓子折りの一つでも彼に寄越すべきだろうか、と思いながらその紙を拾うために膝を曲げる。

 そして気付く。

「何だ……これ……?」

 その紙は写真だった。それもただの写真ではない。とても異様な絵面だった。八人の女の子が何かのステージ衣装を着て並んでいる。その中の一人を除き、全員の顔が黒いインクのようなもので塗りつぶされている。憎悪をぶつけるように。狂気と怨嗟を表現するかのように。ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに。その写真の中心。唯一顔面を黒く染められていない人。その女の子は僕も知っていた。よく知っていた。
 筑紫の年子の姉、姫菜だ。
 そこでようやく、この写真が姫菜の所属するアイドルグループ、『Azathoth』のものであることに気付いた。恐らく塗りつぶしたのは筑紫だろう。だとしたら──彼は一体何のために?
あの瀟洒な微笑みの裏で一体何を考えている?

「全く……意味が分かんないよ……」

 深くは考えないことにして、その気味の悪い写真を文庫本の適当なページに挟み込んだ。携帯を枕元にポイっと投げ捨てる。柔らかい布団に小さくバウンドしたのが見えた。もう今日は寝よう。この世界には知らない方がいいことがある。そんなこと、僕は百も承知だ。明日、何も見てない振りをして彼にこの本を返却しよう。
 出口のそばにある電機のスイッチをオフにした。部屋の中が浅い闇に満たされる。何も見えない道を辿り、ベッドに寝そべる。
 目を閉じる。睡魔がすうっと雨が降る前の暗雲みたいに忍び寄る。
 徐々に意識が沈んでいく中、今日聞いた筑紫の言葉が耳鳴りみたいに脳の中で残響する。僕が願いを聞いた時、彼は何と言っただろうか。僕はその言葉を純粋に姉を想う言葉と信じた。

──僕だったら『また姫菜と一緒に暮らしたい』かな──

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.21 )
日時: 2018/05/31 19:08
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 僕は夢を見ていた。これは夢だ。明晰夢、というのだろうか。自分が今深い眠りの中にあって夢を見ているという自覚がある。
 河原を僕と女の子の二人で並んで歩いていた。カオナシさまの夢じゃない。女の子にはぱっちりとした目があって、すっと通った鼻があって、桃色の唇があって、栗毛色の短い髪が肩の上でゆらゆら揺れている。僕と彼女の二人だけがはちみつ色の月明かりに照らされていた。

 女の子の名前は今のところよく思い出せなかった。夢の中であるせいだろうか、頭にもやがかかったような感覚。

 だけどどこか懐かしいような、既視感のあるような、遠い昔からずっと一緒にいたような感じがする。

「ねぇ、博人くん」

 河原の道には、地面を隠すように草や花が茂っていた。蝶みたいな形をした菖蒲の紫色の花や、にょきりと顔を出す土筆。季節感はてんでばらばらだ。それらを踏まないように女の子はぴょんぴょんとジャンプしながら進んでいる。川には何も流れてないじゃないかと邪推してしまうほどに透き通った水がさらさら。

「この世界はゲームなんじゃないかって考えたことないかな?」

 僕は何も喋らなかった。声を発さなかった。それは別に不機嫌だったわけじゃない。女の子の話を聞いていたからだ。

「あっ、まずこの話をさせて」

 遠くにはリンゴみたいに赤い大きな橋が架かっている。だけど車通りは無い。人っ子一人として歩いてない。世界中に僕とこの女の子の二人しかいないみたいだ。それもいい。それでいい。この女の子だけいればそれだけでいいとその夢の中の僕は思った。

「先週さ、いとこの家に遊びに行って、最新型のゲームさせてもらったんだよ」

 空には今にも落ちてきそうなくらいに弱弱しい太陽。白色の月がそのすぐ横に寄り添っている。まるで僕と女の子みたいだ。現実の空がこんな風になったら誰しもが困惑するだろう。でも僕は、この光景が当然のように思えた。

「それがすごくリアルでさ、何ていうの?自分が映画の主人公になったみたいな気分なの」

 女の子があの空の中で泣きそうなくらいに光る太陽だとしたら、僕は月だ。あの月のようでありたかった。いつまでも寄り添っていたかった。

 そう思ったのは夢の中の僕だろうか、あるいは夢を見ている僕だろうか。
 そんなのどっちでもいい。
 またこうして会えたんだから。

「何でもできるんだよ、そのゲームの中。例えば大都会の中を散歩したり、スポーツできたり、車でレースしたり、それこそ——人を殺せたり」

 僕と彼女は適当な川辺の石に腰を下ろした。二人の間を赤いハート型の実を付けた一つのホオズキが隔てていた。彼女は靴と靴下を脱いで裸足になった。
清い水が何の音もせずに流れるその水面に脚を突っ込んだ。冷たそうに顔をしかめから、僕に向かって恥ずかしそうにはにかんでみせた。
 そのくしゃりと笑う顔が愛しかった。
 言葉にするのもおこがましいほどに──愛しかった。

「それでさ、思ったんだ。私たちが住んでいるこの世界も、本当はゲームなんじゃないかなってさ」

 裸足のまま女の子はすっくと立ち上がって、小石をその細い指で摘まんだ。空気みたいに透明な水面を見つめてからぽーんと彼女は石を川に放り投げた。ぽちゃんと水面が鳴く。真円状に波紋がふわりと広がる。
 一重。
 二重。
 三重。
 重なって、ゆらゆら揺らめいて、波を作って、やがて波紋は消えた。

「本当はこの世界はゲームで、私はそのゲームのキャラクターで、私以外の全員NPCなんじゃないかってさ」

 また彼女は石を投げた。軌道は半月の形になぞる。水面に入った時、今度はぽちゃんと言わなかった。
 カリン、と固い音。水面は石が投げ込まれたところを中心に凍りついていく。
 カチカチと閉じ込めるように凍結。
 パキパキと守るように氷結。
 瞬く間に川は凍っていく。
 今までしらしらと流れていた清い水はやがて動きを止め、僕の視界に入る全ての川幅は完全に凍りに覆われた。

「こう、三人称視点のゲームでさ、神様みたいな人が私たちを俯瞰で操作して。あ、こいつ今悲しんでるぞとか言いながらポテチとか食べながらげらげら笑ってるんじゃないかって思ったんだ」

 彼女は一歩足を裸足のまま前に繰り出した。何かの宝石のように綺麗に固まった川に、ぴたりと彼女の足の裏がつく。危なっかしくふらふらと両の腕でバランスを取りながら彼女はその氷の上を歩いていく。
 危ないよと、立ち上がって彼女に手を伸ばすのは簡単だろう。その華奢な体を支えてやることだってできるだろう。でも、彼女が僕に背を向けて歩いて行くのを、座ったまま眺めることしか出来なかった。

 指先一つさえ触れてしまえば、この夢が不意に終わってしまって。

 もう二度と彼女に会えなくなるかもと思ったのだ。

「最初の方はあたしも楽しかったんだけどさ、途中で何だか気分が悪くなってやめちゃったんだ」

 彼女はよたよたと進んでいく。
 僕は何も言えなかった。
 彼女が僕から遠ざかるのを黙って見ていた。

「私も博人くんもさ、他の誰だってそれぞれ性格があって、個性があって、人格があって、自分で考えて行動しているように思えるけど、実際それって神様みたいな人が付けた設定みたいなものだったりしないかな?」

 彼女はぴたりと立ち止まった。僕に背を向けて、後ろで手を組んで。

「全員に役割とキャラ設定が定められていて、運命なんてただの筋書きで、赤い糸なんてあってもそんなのはシナリオの中で。全部が最初から決まったもので、神様が全て操作してて」

 くるんと、彼女は僕の方に振り返った。

「博人くんは──」

 彼女の足元の厚い氷から、淡い緑色の可愛らしい若芽がにょきりと顔を出した。その近くから、また一つ、また一つと同じように小さい芽がどんどんと芽生えていく。そして目も眩むほどの早さで川幅いっぱいに張っていた氷の上は新緑の芽で覆いつくされた。その上に立っている彼女は僕につつましく笑いかける。それと同時に、視界中に広がった緑は一斉に目映いほどに黄色い花を咲かせた。
 
「博人くんは、どう思うかな?」

 彼女は僕に尋ねた。
 僕はゆっくりと立ち上がる。目の前に広がる黄色の絨毯に向けて、足を進める。一歩踏み出すごとにめしゃり、めしゃりと花の潰れる音がする。
 近づく。彼女と近づく。距離を狭める。少しずつ、少しずつ。
 手を伸ばせば彼女と触れ合えるほどに相対する。すぐそこにいるようで、膨大な隔たり。
 向かい合ってるからこそ、隣にはいられない。
 目を合わせているからこそ、彼女のことなんて、何も見えやしない。
 だからこそ、僕は──





「そんな悲しいこと言わないでよ、ともみ」




 夢の中の僕は、彼女の名前を思い出した。

「またこうして逢えたんだ。いつかみたいに、さ、もっと楽しい話しようよ」

 僕は言う。

「さよならがいつ来てもいいように、できるだけずっと僕の目の前にいてよ」


「あはは──」

 ともみは笑った。

「変わらないね、博人くんは」
「変わらないんじゃなくて変われないんだよ。どこにも行けないんだ」
「じゃあずっと一緒にいられるね、私もどこにも行かないからさ」
「そうだね、時間が許す限り。許してくれなくたっていつまでも一緒だ」
「いつまでっていつまで?この菜の花が枯れるまで?」
「いや、月が沈むまでだよ」
「それじゃ足りないよ、博人くん。この下の氷が溶けるまでいて欲しいな」
「そんなんじゃ足りないな、ともみ。どれだけの年月だって僕なら大丈夫だ」
「まだ足りないよ。私がお婆ちゃんになっても一緒にいてくれる?」
「当然だろ。僕らが死んでしまって、生まれ変わって離れ離れになってもすぐにともみを見つけ出すよ」
「あはは、やっぱり面白いね。博人くんは」

 ともみはやっぱり笑った。
 叶わない契り。誰かに決められたシナリオは、容赦なくそんな絆の糸なんて容易く引きちぎる。

「ねえ博人くん」
「なに?」
「みんなをよろしくね」
「どうしたんだ?皆って誰だよ」
「そうだね、いっぱいいるんだけど。灯とあやめかな?あの二人、すぐケンカしちゃうんだから」
「あー……、そうだね。僕がどうにかしとくよ」
「約束だよ?嘘ついたら針千本飲んでもらうよ?」
「そんなの飲み込んだら僕の体がただじゃすまないよ。指切りしよう」
「あはは、そうだね」

 ともみは笑ってから、その小さい小指を僕に向かって伸ばした。
 僕も彼女をまねてその指に手を伸ばした。
 そして。
 指と指が絡み合うことなく、ともみはふっと、煙みたいに、僕の目の前から消えた。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.22 )
日時: 2018/06/13 07:16
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

「起きるッス!!ヒロくーん!」

 体の上に何か重い物が乗っかってきた感触。みぞおちが押され、こふっと肺から息が漏れる。
 その衝撃で夢から半ば強制的に覚醒した。寝ぼけ眼のぼんやりとした視界がやがて輪郭を表して来る。布団の上、茶色の塊、その正体がポチだとやっと気付く。

「遅いッスよ!入学二日目にして遅刻するつもりッスか!?」
「……へ?」

 ポチはそんなことを言いながら僕の胸を焦った様子でバンバンと叩く。未だよく回転しないままの脳内は、その言葉を飲み込むのに時間がかかった。彼に上体を押さえ付けられたまま首を動かして、壁に掛けられた時計を見る。時刻は昨日寮を出発した時間をとうに過ぎていて──

「……やっば!」

 僕は軽いポチの体をはじき飛ばすようにがばりと跳ね起きた。ポチはベッドから落ちてカーペットの床にカエルみたいな体勢でひっくり返る。「ぎゃう!」と彼が変な声を出したのを無視しつつ、カーテンのレールに垂れ下げられている制服の方に向かう。

「いたた……、酷いッスよヒロくん!」
「時間がないんだって!ポチ、カバンの中に財布が入ってるか確認して!」
「人使いが荒いッスねぇ!……ん?」

 着ていたジャージを脱ごうとした時に、ポチは驚いたような声を上げた。こんな忙しい時に、と内心苛立ちながらポチを見ると、彼も同様に僕を不思議そうに凝視していた。
 悠長にしていられるシチュエーションではないのに、首を傾げて、眉をひそめて。

「どうしたの?ポチ?僕の顔に何か付いてる?」
「いや……ついてるっていうか……」

 彼にしては珍しくもごもごと言いよどむような口調。言おうか言うまいか迷っているような。

「……?」
「ヒロくん、何で泣いてるんスか?」
「は?」

 僕は驚いて、片目を指でぬぐう。指先に僅かな涙が付着しているのが分かった。ぎょっとするのと同時にもう片方の目からつうっと一筋、暖かいものが頬を滑った。
 慌ててごしごしと両目をこすってから、ポチから見られないように顔を背ける。

「……あくびしたからだよだよ。なんてことないさ」
「あくびしたぐらいでそんなに涙は出ないと思うんスけど……。まあいいッス!遅刻するッスよ!」
「分かってるって」

 僕は着ていたジャージを今度こそ脱いで、白いシャツに腕を通す。脱いだ服はあとでカゴに入れて寮母さんに渡しておかないといけない。だが遅刻寸前の今考える事でもないだろう。
制服に着替えて、カバンを手に持つ。出口の方ではポチが焦るように僕を見ていた。「今行く」と言って机の上に置かれていた文庫本に目を遣った。
 宮部みゆきの『返事はいらない』。昨日筑紫が僕の部屋に置いて行った本だが、重要なのはこの本ではない。この本の中に挟まれていたものだ。自分の姉以外の顔をぐちゃぐちゃに、まるで呪いにでもかけるように塗り潰された一枚の写真だ。何の為に、どのような思いでそんなことしたのか、僕が知る由もない。今日学校であった時に何事も無かったかのように彼に渡すことにするしかなかった。

「何ボケっとしてるんスかぁ! いい加減に遅刻するッスよ!」
「……そんなに怒ることないだろ……」

 その文庫本をカバンの中に入れて、ポチの待っている出口の方に小走りで向かった。何か忘れているものなかったっけ、と頭の中にチラッと何かがよぎったけど今考えている時間はなかった。喉に魚の小骨が引っかかったようなじれったさを抱きつつ、先に部屋を出たポチの後ろ姿を眺めた。

 寮の昇降口で足踏みをしながら待っていたレンと合流して、三人で並んで学校までの道を急いだ。信号が赤になる度にレンは信号のライトを憎らしげに睨みつけていた。僕たちをあざ笑うように猛スピードで横切る軽自動車。歯痒そうな様子のレンとポチを眺めながら僕は今日の朝の事について考えていた。
 涙を流したのは何年ぶりだろうか。飛行機事故で両親を亡くした時だって涙なんて出なかったのに。何故か目が覚めた時、何か大事な物を失ったような、何か大切な物を忘れたような、そんな気がしたのだ。まるでドーナツのように僕を僕たらしめるあるべき穴を、一瞬だけ何かが、誰かが、埋めてくれたような気がした。そしてその埋めてくれた何かが一瞬にして消えてしまった気もした。

 懐かしい誰かと喋る夢を見た記憶はあるが、その詳細はどう頭を働かせても何も思い出せなかった。
 何も。
 何一つさえ。

「つっきー! 何ぼーっとしてんだ! 信号青んなったぞ!」

 レンの声にはっとした。その言葉通り向かいの歩行者用の信号は緑色に光っていて、二人は横断歩道を半分渡ったくらいのところで僕を見ていた。なかなか渡ろうとしない僕を急かすように左折車が傍らで待っている。
「ごめん、行こうか」
 僕は足を進めた。やはり今考えるべきことではないだろう。小走りで二人の横に並ぶ。レンとポチは不思議そうに顔を見合わせたが、「マジで遅刻すっから急ぐぞ!」と言ってから学校の方角に向けて駆けだした。

 やがて白い校舎に辿り着いた。予鈴はまだ鳴っていないようで、遅刻はしないで済んだみたいだ。ショートホームルームの時間がギリギリに迫っているからだろうか、校門の付近は閑散としていた。僕たち以外には誰もいない。静かな学校を見るのは初めてで、何かから取り残されたものを見ているような違和感さえ感じる。
「間に合ったー……!」
と僕の横でレンは膝に手をついて苦しそうに肩を上下させた。熟れたトマトみたいな色の顔色のレンとは対称的にポチは涼し気な顔をしている。
「レン体力無いッスねぇ……。これだから文化部はダメなんスよ」
「う、うるせぇ……、あーきちいわ……。何で朝っぱらからこんな猛ダッシュしなきゃいけねえんだよ」

 恨みがましそうにレンは僕を睨みつけた。まあ寝坊した僕を待ってくれただけありがたいのだろう。起き抜けの運動に荒れ狂う呼吸を押し殺しながら、僕は「今度何かおごるから許してよ」と言った。
 しかししばらく運動してなかったからだろうか、こんなにも体力が落ちていることに自分でも驚いていた。心臓だけ別の生き物になったかのように激しくリズムを刻んでいる。胸の辺りに痛みに似た感覚。部活をしていた中学時代ならばこのくらいの運動は軽くこなせたはずだが、今や息も絶え絶えだ。ランニングでも始めるか、と息を整えながら考えて校舎の中に入った。

 下駄箱はクラス別に分けられている。C組の靴箱の方に歩いて行ったレンとポチを尻目に、僕も自分の靴箱へと向かう。一番下の段だから身をかがめないと上履きを取り出すことは出来ない。胸のポケットに刺したボールペンを少し煩わしく思いながら横開きの戸を開けて、自分の上履きを取り出そうとした時に気付いた。

「……何だこれ……?」

 僕の目に映ったのは一つの封筒。青色の上履きの上で僕を待っていたかのように置いてあった。いつの間に、と頭を巡らせる。当たり前だが、昨日下校した時にはこんなもの入ってなかったので今日の朝ここに誰かが入れたのだろう。
 封筒を手に取る。それは無機質なほど白く、端にシャーペンか何かで『月島博人へ』と僕の名前が書かれている。汚れていたりはしていないまっさらな薄い封筒。中に紙が入っているのが分かる。カミソリの刃や汚物は入ってないみたいだ。とりあえず安堵のため息。
 封を開けてみる。糊が甘かったので開けるのにそれほど苦労しなかった。その中の紙に書いてあったことは。

「なるほどね……」

 見覚えのある字。あいつの顔が脳に浮かんだ。
だったら僕ができることは。

「おーい何してんだー!今度こそマジで遅れるぞー!」
「そーッスよー!」

 なかなか出てこない僕を待ちかねたのか、既に上履きを履いたポチとレンが僕を急かす。僕は立ち上がってボールペンを胸ポケットに入れてから「ちょっとこれ見て」とレンに中に入っていた紙を渡す。
「ん?何だ?この紙」
「靴箱の中に入ってたんだよ」
「へー! ラブレターか何かか?」

 そんな冷やかすような事を言ってからレンは紙に書いてある字を見て、「は?」と間抜けな顔になる。ポチもそれを眺めて「ん?」ととぼけた顔をした。

「何の目的で誰が僕のとこに入れたんだろうね、それ」

 『ホオカゴ オモカゲジングウニコイ』
 漢字にすると、放課後 面影神宮に来い。

「どー考えてもラブレターみてーな色気のあるもんじゃねえみたいだな……」
「そうッスねー…」

 カタカナで書かれたこれは、どんな呆けた頭の頭の持ち主でも恋文では無いことが分かるだろう。 どちらかと言うと、あえて言うと果たし状だ。手紙というよりも、怪文書といった方が正しい。

「マジで遅刻すっからとりあえず教室に行こうぜ!話は昼休みに!」

 焦燥に駆られるようにレンは言う。僕はそうだね、と頷いてその怪文書をカバンの中に滑り込ませた。

 ショートホームルームが始まる寸前で僕はA組の教室のドアを開けた。
 乱暴に開けられたドアが派手な音を立てて、それを合図に教室中の目線が僕にアイスピックのように突き刺さる。まだクラスメイトの名前は一人を除いて全く覚えてない。そんな目で僕を見るなと声を大にして言いたかったが、そんなこと言ったってメリットなんか一つもないことは知っている。
 将棋盤みたいに並べられた机の合間を、目を伏せてくぐり抜ける。僕が通り過ぎた後ろからも名前も知らないクラスメイトからの視線を感じた。登校し始めて二日目で遅刻寸前というのは確かに悪目立ちするだろう、用心しないと。
 ということを考えながら窓際の自分の席に近づいた時に灯の横を通り過ぎた。彼女は僕の顔を見なかった。珍しく無言で自分のオレンジがかった茶髪をくるくると指に巻き付けている。

「……ねえ灯」
「ほ、ほえっ?」

 静まり返った教室の中に灯の呆けた声が響いた。再びクラス中の目線が僕に銃口を向けるように集まる。

「ちょっと話があるんだけど、いい?」
「ん……んん?だ、大丈夫だけど?」
「おっけ、じゃあ後でね」
 彼女の横を通り過ぎて、僕は自分の席の机を引いて座った。机の上に筆箱を取り出してから、横の留め具に手紙が中に入ったカバンをかける。
 黒板の横に今日の日付が書いてあった。4月24日。僕の両親が死んだ飛行機事故が起きた日から早くも半年が経ったみたいだ。
 1分ほど過ぎた時にがらりとドアが開いて担任が教室に入ってきた。教壇の上に担任が上がると同時に、委員長らしい男子生徒が「起立!」と張りのある声で号令をかけた。クラス中が立ち上がり、椅子の足と板張りの床が擦れてがちゃがちゃと煩わしい音が響く。
 ホームルームが終わると同時に僕はポケットの中に手紙を忍ばせて席を立った。向かう先は勿論灯の所へ。

「ねえ、灯」

 後ろから彼女の肩に手を置いた時、大袈裟なくらいにビクリと体を硬直させて、ぎしぎしと壊れたロボットみたいな動きで僕に振り返った。

「ちゃ、ちゃんヒロ……?びっくりさせないでよ!」
「さっき話があるって言ったじゃん」
「昨日倒れた時心配したんだよ?もう大丈夫なの?」
「うん、体調は戻ったよ。すまないね」

 昨日ポチとレンに僕が死んだかのような報告をしたことについては取り立てて言わなくていいだろう。それよりも聞くべきことがある。

「灯、ちょっと見て欲しいものがあるんだけど」
「ん?何かな?」

 首を傾げて見せる灯。ポケットからあの封筒に入っていた怪文書を取り出して「今日の朝届けられてたんだけど」と彼女に渡す。おずおずと彼女はそれを受け取って折られた紙を広げた。

「ほ、放課後?」
「……ん?」
「あ、いや。何かなこれ。ラブレター?」
「これのどこを見てラブレターって思ったんだよ……」
「えー!だってそうでしょー!下駄箱に手紙ってラブレターに決まってるって少女漫画で見たもん!」
「変な漫画の読み過ぎだよ」

 言って僕は彼女から手紙を奪い取る。「あぁー!」と名残惜しそうな顔をして僕の手がポケットの中に入っていくのを見送った。

「で、ちゃんヒロって面影神宮行くつもりなの?」
「まさか。こんな怪しい手紙に従うわけないだろ。ゴールデンウィークにポチとレンと行く予定はあるんだけど」
「ふーん……。おととい鉄板屋でそんな話してたもんね」

 僕の方を向いて鳥のように口をすぼめてみせる灯。

「でさ、灯はこの手紙見てどう思う?」
「ん?んんー。……変な手紙だよね」
「それだけ?」
「うん。誰が出したんだろーね」
「そっか。変な物見せちゃってごめんね」

 次の授業は移動教室だ。早いとこ準備しとかないとな、と灯の席から離れようとした時に「ちゃんヒロ」と小さい声で僕に呼びかけた。

「何?」

 僕は振り返る。片脇に教科書類を抱えて灯は椅子から立ち上がっていた。

「昨日倒れたばっかなんだからさ、無理しないでね」
「……どうしたの?いきなりガラでもないこと言って」
「あ、それでさ。ゴールデンウィークは面影神宮ってすんごい混むからさ。行かない方がいいと思うよ」
「……」

 『行かない方がいい』、か。
 誰があの手紙を渡したかなんてもう分かりきった話だ。
 言うなればこれは、フーダニットではなくてホワイダニット。

「心遣いはありがたいけど、もうポチやレンと約束したんだよ。それに……言ったよね灯、僕は天邪鬼なんだ」
「『来いって言われれば行きたくなくなるし来るなと言われたら行きたくなる』だったっけ?」

 それは一昨日、鉄板屋から帰る時にタクシーの窓越しに僕が言った言葉。

「じゃあ行こうか」
と灯は教科書を胸の前で抱いて僕の前を歩いていった。それに僕も続いた。 


Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.23 )
日時: 2018/07/15 11:04
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 二時間目が終わるころから空は少しずつアスファルド色の雲に覆われ始め、時計の針が正午を回った途端にぽつぽつと雨が降って来た。僕が誘並市に来て初めての雨である。
 遅刻寸前でポチにたたき起こされ泡を食いながら登校したものだから傘なんか持ってきているはずもない。机に頬杖をついたまま、窓の外で湿りを帯びていくグラウンドを睨みつける。その間にも少しずつ雨脚は強まっていく。下校するときには止んでくれるといいんだけど。
 やがて昼休みを告げるチャイムが鳴って、僕は財布と携帯だけ持って、レンとポチがいるC組の教室へと足を運んだ。レンのど派手な金髪はかなり目立つのでいい目印になる。「誰だお前」と言わんばかりの視線に迎えられながら、窓際で弁当を広げていた二人の机の方に向かう。僕の顔を見てレンとポチは「ん」と片手を上げた。

「雨降って来たね。傘とか持ってきてないんだけど」

 僕は窓に背を預けながら言った。ポチは幕の内弁当をかき込みながら「むー」と僕の方を見る。

「ふぇんひよふぉうふぇはふぁめふるっふぇ」
「食べながら喋られても何て言ってるか分からないよ。行儀が悪い」

 ポチはごくりとノドを鳴らして口の中にあったものを飲み込んだ。素直なことである。

「天気予報では雨降るって言ってたッスよ?朝の時点で六十パーだったッスもん」
「今朝は天気予報なんか見てる暇なかったからね」
「つーかつっきーは何も食わねえのか?腹減っただろ」
「何も持ってきてないからね」
「購買とか行ってくりゃいいじゃねえか」
「うーん……、金あんまり持ってないし腹もそんなに減ってないからね。大丈夫かな」
「んなこと言うなよほら」

 レンは自分の机の上にあったパンを僕に手渡した。有難く受け取っておこう。

「いいッスねー! レン、僕の分は無いんスか?」
「お前はその弁当があるだろ?……つーかよ」
「僕に届いた手紙の話?」
「そうそう。お前さ、あれどうすんだよ」
「どうするって……、別にどうもしないよ」
「確か……放課後神宮に来いって書いてたよな?どうもしないって事は今日行ったりしないのか?」
「行くわけないだろ、あんな怪しい手紙誰が信じるの」
まあ確かにな、とレンは紙パックのジュースについているストローを口に咥えた。
「あの手紙って今ここにあったりするッスか?」
「僕のカバンの中に置いてきたよ。持ってこようか?」
「いや、無いならいいんスけど。あの手紙、どっかおかしくなかったッスか?」
「馬鹿言うなよポチ。あんな手紙何から何までおかしいだろうが」
「まあ確かにそうッスけど……。なんか日本語としておかしかった気がするんスよね」
「ん?そうだったか?」

 レンは菓子パンを片手に首を捻った。確かにポチの言う通り、あの手紙には不自然なところがあった。それは僕も知っているが、口には出さない。彼らに言っても恐らく得は無いからだ。
 カタカナで書かれた手紙。
 差出人ならもう知っている。

「レン、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ん?どうしたつっきー」
「面影神宮ってどのくらいの広さか分かる?」
「ん、んー……、何平方かとかの話か?そりゃ具体的な数字は知らねえけど……。あそこ結構広いぞ」
「この前僕とレンとで行った時には全部回るのに二時間くらいかかったッスけどね」
「神様の位の高さと神社境内の広さは比例するとは限らない、なんて話は聞いたことあるけど、面影神宮は誘並市を代表する神社なんだろ?」
「お、おう。確かによく誘並ウォーカーの表紙になってるよな」
「あの手紙には面影神宮に来い、とは書かれてたけど面影神宮のどこで待ってるとかは書かれてなかったよね?時間だって同様だ。つまり」
「つまり?」
「つまりあの手紙は悪趣味ないたずらってこと。今日面影神宮に行く必要もないし、こうして貴重な昼休みを無碍にすることもない」

 レンからもらったパンの包装を開けて口へと運ぶ。二人はまだ納得できなそうな目で僕を見ているが、無視するようにパンを一口かじる。舌にまとわりつくようなブルーベリージャムの甘い味。安っぽい芳香。
 この話題はもう終わりにしたかったのだが、二人はそうじゃないらしい。口いっぱいにご飯を頬張ったポチがゴクッと音を立てて飲み込んでから僕に尋ねる。

「あの手紙って本当にヒロくんに渡すつもりのものだったんスかねぇ?」
「ん?どういうこと?」
「どこにもヒロくんの名前書いてなかったッスよね?もしかして誰かが間違えてヒロくんの靴箱に入れたんじゃないッスか」

 それはありえない、と言いかけてから僕は少し逡巡する。

「さあね。詳しいことは僕にも分からないな。そうなのかも知らないし、そうじゃないかも知れない」
「ほえー……」
ポチはよく分からないと言った表情をした。間抜けそうな顔。
手元にある菓子パンの二口目を頂こうと口元に持っていこうとした時。
教室の真ん中の辺りから「よっしゃあーっ!」と叫ぶ声が聞こえた。不意に響いた声に怪訝に思って目を上げると、名前も知らない男子生徒が初めて首輪を離された大型犬のように狂喜乱舞しているのが見えた。

「本当だった!本当だったんだよ!『カオナシさま』の話はっ!」
 馬鹿騒ぎをしているその男子生徒に自然と教室中の視線が集まる。今にも踊りださんばかりに喜びを体中で表す彼を見て、ポチは「一体どうしたんスかね?」と小首を捻る。

「軽音部の朝倉じゃねえか。何があったんだ?」
 訝しむ僕たちをよそに、周りの事なんて知ったこっちゃないといった様子で今も理性の無い猿のようにぎゃあぎゃあと騒いでいる。

「おい朝倉ぁ、どうしたんだよ?いきなりでけえ声なんか出して。うるせえだろ」
気が狂ったように騒ぐ彼の一番近くにいた男子がそう尋ねると、「閃光スポットライトの三次選考に受かったんだよ!黙ってなんかいられねえだろ!?」と彼は目を見開いて携帯の画面を突き出しながら答えた。

「へえ、あいつすげえじゃん」
椅子にふんぞり返ったままレンが感心したように言う。
「ん?レン、知ってるの?」
「まあな。閃光スポットライトっつってよ。例えるならあれだ。音楽の甲子園みたいな感じだな。全国大会みたいなもんだ」
「ふうん、凄いんだね」

 僕は曖昧に相槌を打った。よっぽど嬉しいのか、南国の野鳥みたいな嬌声を耳ざわりなくらいに発し続けている。
 しかし。
 さっき確かにカオナシさま、と言った。つまりあの願いを叶える都市伝説が今目の前で本当だと判明してしまったことになる。

──人生と言うのはことごとく負け戦であるものです──
 あの夢の中の少女が言った言葉がふと脳をよぎる。

 手の中のパンを口の中に一気に口の中に入れ、咀嚼してから飲み込む。
「レンありがとう。ご馳走様」
「お?おう。もう帰んのか?」
「うん。ちょっとやることがあったんだ」
 これは嘘だ。本当はすることなんか何もなかった。
 ただ。ただ目の前であれだけ幸福に包まれている人間を見るのは少し苦手だった。

「今日も僕部活ッスから次は寮ッスね!」

 ポチの言葉にうん僕は頷いてから、よしかかっていた窓から背中を離す。
 少し落ち着いた様子の朝倉と呼ばれた生徒の姿を横目に、僕はC組の教室を後にした。向かうのは一つの教室を挟んだ先の自分の教室だ。

 カオナシさま。
 願いを叶える悪夢。
 正直言って僕は未だ信じてなんかいない。偶然の一言で片づけることなんかいくらでも可能だ。
 ──しかし。
 何か妙な予感めいたものが胸の内で充満している。

 A組の教室はポチ達のクラスと負けず劣らず騒がしかった。読みかけていた『日の名残り』でも読んで時間を潰そうかな、と自分の席まで近づく。そして違和感に気付いた。
 僕はこの教室を出る前、確かに机の横に学生カバンをかけておいた。だが今は違う。机の上に黒いカバンがぽつんと置かれている。
 慌てて机まで駆け寄ってその中を開く。財布と携帯はポケットの中にある故、貴重品が抜き取られているという心配はないが、嫌な予感がふつふつと雲のように湧いてくる。

「……マジかよ」

『ホオカゴ オモカゲジングウニコイ』
そう書いてあったあの怪文書がカバンの中から無くなっていた。

 6校時目の終了を告げるチャイムが鳴り、帰りのホームルームを終えた。何かから追われるように部活生は教室から出て行った。生憎僕はどこの部活にも所属していない故、学校にいても何もすることはない。早々に寮へ帰ってしまおうと窓の外を見て気が付いた。ぱらぱらと雨がまだ降っている。

「……はぁ」

 幸か不幸か正午降り出した時よりも少し雨脚は弱まっている。多少濡れるのを承知で校門付近のコンビニまで駆け込んで傘を買えばいいだろう。そう決めて既に準備していたカバンを手に取って教室を出ることにした。
 ケラケラとふざけ合う生徒たちの合間を抜け、廊下。階段を下りる。
 そして辿り着いた昇降口。今から下校するのだろう生徒の群衆の中に見慣れた秀麗な顔立ちの男子生徒が一人。言わずもがな筑紫だった。僕が来たのに気付いたように顔を上げると「やあ」と片手を上げにこやかにほほ笑んで見せた。

「待ってたよ月島くん。途中まで一緒に帰らないかい?」

 その微笑に僕は思わずぎくりとしてしまう。理由は一つ、昨日見てしまった写真のせいだ。禍々しささえ感じられるほど、真っ赤に塗り潰された顔。殺意でもぶつけているようだった。心なしか僕に向けられたこのたおやかな笑みさえどこか機械めいて見えた。

「……そうだね、丁度良かったよ。傘を忘れたから一緒に入れてくれないか?」
「そんなのお安い御用さ」

 そう言って筑紫はスタスタと自分の靴箱の方まで向かっていった。どうやら余計な邪推はされてないみたいだ。ほっと胸をなでおろす。僕もA組の靴箱まで足を進め、上履きからスニーカーに履き替える。

「そうだ筑紫。昨日僕の部屋に忘れ物してたよ」
「ん?何だい?」

 やたら値が張りそうな傘を片手に不思議そうに首を傾げる筑紫。僕はカバンの中からあの文庫本を取り出して彼に手渡す。「あー!」とおもちゃを与えられた子供のような無垢な顔で彼はそれを受け取った。
「やっぱり月島くんのところに忘れてたんだね。ついうっかりしたよ。すまないね」
 ぱらぱらとその文庫本をめくってから口角を上げて、彼はそれをカバンの中に入れた。
「いや、構わないよ。昨日迷惑かけたしね」

 言いながら二人並んで校舎を出た。筑紫は傘をぱっと広げて僕もそこの中に入れてもらう。どんよりと重苦しい空と僕らの間に傘が割り込む。降雨を受けてペタペタと傘は音を立てる。

「月島くんは本を読むのが好きなんだってね」
 雨の音をかき消すように筑紫は口を開いた。そんなこと彼に言ったっけと一瞬考えを巡らすが確か中学の時によく彼の前で本を読んでいたことを思い出す。

「ん?……うん、そうだよ」
「じゃあさっきの本は読んだことあるかい?」
「いや、無いね。宮部みゆきはあんまり詳しくないんだ」

 僕らの他にも傘を指して歩いている生徒の姿がちらほらあった。雨は歩くスピードを遅らせる。まるで川に流される枯れ葉みたいにとぼとぼと校門へ向かって歩いて行く。

「この本は短編集でね。その中の一つが表題作にもなっている『返事はいらない』っていう話なんだけど。読んでご覧よ。おススメだよ」
「ふうん。どんな話なの?」
「ある失恋した女性がコンピューター犯罪に手を汚すミステリーだよ。揺れ動く女性心理を緻密に書いた話だよ。……そうだ。このラストに『〇〇には返事はいらないでしょう』っていうセリフが出てくるんだけど、月島くんならこの○○に何て言葉を当てはめるかい?」

 筑紫はそう僕に尋ねた。薄く絵の具で線を引いたような瀟洒な笑みだ。雨で一筋の髪の毛が顔に貼り付いているのが見えた。
 その笑顔でさえ、何か他意めいたものを感じるのは気のせいだろうか。

「……そうだね」

 少し考えてから僕は答える。

「……僕だったら『独り事に返事はいらない』ってするかな」
「へえ、面白いね。なるほど……、月島くんらしいな」
「……」
「ちなみに宮部みゆきはこう書いたんだよ」

 足を止めずに、僕の顔を見ないで彼は続ける。

「──『さよならには返事はいらない』って」

 思わず僕は口ごもる。弱い雨が傘に打ち付ける音。
 校門を抜ける。雨が降っているからか、制服を着た生徒の姿は昨日より少ないように見えた。

「告別に返す言葉なんてなくても構わない、なんて美しいとは思わないかい?相手を想う最後の感傷さ。劇中では一方的に別れを告げられた女性がこのセリフを言うんだから尚更のことだよ」
「……」

 どこか。
 どこか今の僕には彼の言葉が紛い物めいて思えた。その人並み外れた美貌さえブリキ人形のような体温のないもののように感じた。
 さよならに返事はいらない。
 ひどく傲慢な言葉に聞こえるのは僕だけだろうか。

「このセリフが僕はとても好きでね。そのページに栞を挟んでいつでも読み返せるようにしてたんだけど」

 その言葉にはっとした。横を通り過ぎる車が水溜まりの中を突っ切って行って、撥ねた茶色の水がびちゃりとズボンにかかった。
 背筋を指で沿われたような気分だ。小雨に白む背景の中、僕の隣で不気味なほど爽やかな笑みを筑紫は浮かべている。傘のJ字の取っ手が僕たちを二つに隔てている。

「そりゃ気付くよ月島くん。……あの写真の事、どこにも多言しないことを約束してくれるかい?」
「ああ」

 僕は平静を装って頷く。

「約束するよ筑紫。──友達だからね」
「あはは、それは良かったよ」

 軽快に彼は笑った。
 それから、僕たちを覆う傘は無言が渦巻いていた。少しばかり歩いてからやっと学生寮飛想館の前に辿り付いた。
 スニーカー越しに染みた水で靴下が生ぬるく濡れている。身も心も不快感にまとわりつかれていた。

「じゃあここまでだね。僕はこっちだから」

 にこりと笑みを作ってから筑紫は僕と目を合わせた。僕はその双眸から逃げてから、花柄の傘を潜り抜けてから飛想館の昇降口の方に向かおうとする。
 早くこの場所から離れたかった。もっと言えば筑紫と早いとこ別れてしまいたかった。
 弱い雨が僕をじわじわと濡らす。躊躇するようにゆっくりと降る雨。曖昧なままでいたいとする僕の様だ。

「あ、月島くん。ちょっと待ってくれるかい?」
「何?」

 筑紫の声に僕は振り向く。彼は差した傘で顔を隠していたが僕を見ているようだった。その先の顔は笑っているのだろうか、それとも真顔なのだろうか。

「昨日さ、僕と灯ちゃんに聞いただろう?“一つだけ願いが叶うなら何を願うか”って」
「……ああ」
「肝心の君の願いは何も言ってくれなかったじゃないか。聞かせてよ。月島くんなら、月島博人くんなら何と願うんだい?君の目には、世界はどう見えている?」

 世界がどう見えてるかって?
 それはこっちの質問だ。

「平穏に過ごせたらそれでいいよ」

 僕は端然と筑紫に言い放つ。

「何も、何も起こらず、誰も悲しまず、誰も苦しまず、悠久に、泰平に、波風も立たず嵐も怒らずずっと凪のままで、安寧に甘んじて、平穏無事に過ごせたらそれでいい」
「それは本当に君の本心かい?」
「ああ、そうだ」

 小雨が肩を濡らした。

「君がそう言うならそれでいいよ。ただ一つだけ忠告させてくれる?」
「……」

びちゃびちゃと。

ばちゃばちゃと。

「水は流れないと腐ってしまうよ。立った波風が砂を運んで新たな土地を形成することもある。嵐の後の快晴が一番綺麗だ。何も起こらない人生なんてただの回り続ける歯車でしかない。それでも君は無の平穏を望むのかい?」
「それでも僕は望むよ」

 僕がそう答えると、「そっか」と彼は真顔で息を吐いた。

「もういい?筑紫。濡れて寒いんだけど」
「うん、じゃあね。また明日会おう」

 ひらひらと手を振って彼は身を翻した。花柄の傘が筑紫の後ろ姿を隠していた。あの花は何だろう。紫色の花。
 彼の姿が見えなくなるまで僕は小雨の中、指一つ動かせないままそこで立ち尽くしていた。ブレザーはずぶ濡れ。筑紫が曲がり角を曲がってから、ようやく僕は「……はぁ」と息をついた。

「何かすげえ疲れた……」

 手に持った学生カバンは雨で鈍い光沢を浮かべていた。濡れたシャツが素肌に貼り付いて体温を奪う。これ以上雨に打たれると風邪を引きそうだ。無数にできた水溜まりを意に介さないで、昇降口へ向かうことにした。
 雨はもう少し降り続きそうだ。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.24 )
日時: 2018/08/02 23:19
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 学生寮飛想館。自分の部屋のドアノブを水滴の滴る手で捻った。全身を長時間雨に晒されたわけではないが、身体の芯まで冷え切っている。
 あと一週間も経てば五月になるというのに何でこんなに僕は凍えているのだろうか。何というか、黄土色に濁った泥水をバケツ一杯飲まされたかのような気分だ。

 ぐじゃぐじゃに濡れた靴を脱いで、絞ればコップ一杯分は満たせるくらいに同じく濡れた靴下を、廊下に置いた洗濯物用カゴの中に入れる。早いとこ身体を暖めないと風邪を引きかねなかった。ブレザーを脱ぎながら部屋に足を踏み入れて、それをハンガーに通してからカーテンのレールにかける。右胸につけた真新しい金色の校章が、水気を帯びた淡い輝きで僕を見ていた。
 この飛想館は全室個室で洋式トイレとシャワーが各部屋に完備されている。それは生徒のパーソナリティを尊重している故、というわけでは決して無いようだ。この建物は元々はホテルでその名残なんだそうだ。

 制服を全て脱いでからバスルームへ入る。裸足にタイルの冷たさが伝わる。乳白色のバスタブ、謝るように頭をもたげたステンレス製のシャワーヘッド。僕がこの部屋に入居する以前に念入りにクリーニングされたのだろう、水垢一つついてない鏡が僕の顔を映している。ワカメみたいに濡れた前髪が目を隠している。 
 浴槽に水を溜めて浸かる気にはなれなかったので、レバーを上に向けてから赤の印が入ったハンドルを捻る。しばしの間シャワーから吹き出す水に頭を差し出す。雨に降られて冷えた体には心地良い。昔からシャワーを浴びるには好きだった。物思いに耽る事が出来るし、汗も雑念も屈託も洗い流せる。小さい頃から、詳しく言えば小学生の頃から親から有無を言わさず剣道をやらされていたのだが、防具にこびり付き道着にまとわりつくあの独特の匂いが噎せるほどに嫌いだった。物心ついた頃から受動的で自主性もなく両親に黙従していた僕ができた唯一の些細な反抗が、あの嫌いな匂いを身から清める事だったように思える。
 まあ、今は親なんてとっくに死んでしまったし、剣道をやる義務なんてどこにもないんだけど。

「……ふぅ」

 シャンプーを手のひらの上に落として髪につける。白い泡が次々と湧き出てきて、こめかみから顎筋までをなぞる。
 いくら浴室では物思いに耽ることが出来るからといっても、今の僕には考える事が多過ぎる。願いを叶えるのカオナシさま。あやめという女の子。筑紫の精巧なブリキ人形のような顔。今日受け取った怪文書──いや、これは誰が渡したなんて分かりきってる。思考するだけ無駄だ。
怪文書だけの話ではない、カオナシさまだって、顔も知らない女子の事だって同様に考えても詮無きことだ。
 コンディショナーはミルクみたいに白い。いつもやってる通りに髪に馴染ませてからシャワーの水で流す。
 厭悪をぶつけるようにぐちゃぐちゃに塗りつぶされた姫菜以外の顔。瀟洒な仮面の下に隠された筑紫のもう一つの顔。
 あと十日後──ゴールデンウィークになれば姫菜がこの誘並に訪れるらしい。彼女と会うのは九ヶ月振りとなる。彼女と会えば何かが変わるような気がする。ビー玉が床に落ちるように、何かが確かに変わる気がする。
 ハンドルを捻って水を止める。前髪からぽとぽとと雫が垂れ、バスタブの排水孔に渦がつむじ状に巻く。浴室の外にあらかじめ置いていたバスタオルで全身を拭いて、生乾きの髪のままジャージに着替えた。少し湿ったタオルをカゴの中に入れて火照った体のまま、今からのんびり本でも読もうかと部屋のドアノブを握った。

「おーっす、来てたッスよ!」
「……」

 声の主はポチだった。ドアを開けた僕の方を向いて軽やかな口調で言ってみせた。ベッドの上で僕の本を読んでいる。僕の本棚から抜き取ったのだろうか。

「……いつから来てたの?」
「ぬー……、シャワーの音が起き始めた時ッスねー。十分前ぐらいッスかね」
「部活もう終わったの?」
「あれ?言ってなかったスっけ?」

 そこでポチはベッドからむくりと起き上がって読んでいた本を閉じた。表紙が見えた。道尾秀介の文庫本。僕が人生で読んだ本の中で一位二位を争うほどの好きな本だ。

「今日雨降ってたじゃないッスか。グラウンド使えなかったから軽くストレッチして終わりだったんスよ」
「ふーん、そうだったんだ」

 つまりもう少しポチを待っておけば筑紫と一緒に帰らないで良かったのだろう。というか間違いなくその話は聞いてなかった。

「暇だったから適当な本読んでたんスけど……あんまり面白くないッスねえ」
「本当に?それ僕のお気に入りの小説だよ」

 『向日葵の咲かない夏』。ミステリー作家道尾秀介の作品の中でもずば抜けて異質で、ずば抜けて難解。爽やかそうなタイトルと表紙と裏腹に、その内容は極めてどす黒く醜悪でグロテスク。

「文字ばっかでよくわかんないッスよ。あの本棚めっちゃぎゅうぎゅう詰めの癖に漫画とかないじゃないッスか」
「僕小説しか読まないからね……」

 ポチはベッドの上を這い這いで進み、本棚の隙間の中にその文庫本を差し込んだ。見ればベッドの端に彼のものであろう制服が雑に丸められていた。彼は白いワイシャツ姿だ。僕はベッドの傍らにあるソファーに腰を下ろした。

「そういえばポチ」
「ん?何スか?」
「カオナシさまにさ、何かお願いするなら何て願う?」
「……うーん、そうッスねぇ……」

 ベッドの上で顎に手を突くポチ。
「僕だったら……、ボールを投げれるようになりたいッスかねぇ」
「ん?」

 一瞬ふざけてるのかと思ったのだが、彼はいたって真面目な顔だった。ふざけてるどころか、思いつめたような、車に轢かれた動物の死骸を見たような苦い表情。

「いつか言うッスよ」

 一転していつも通りのにこやかなポチ。だがどこか無理しているような、無理に作り上げた粘土細工みたいな笑顔だった。

「まだ雨止まないッスねぇ」

窓の外を見つめる。正午から降り出した雨は依然降り続いている。この室内からでも雨が屋根を打つ音が聞こえていた。

「今日の夜はどうする?食堂にする?」
「ぬー、レンが帰って来たらどっか行くッスかねぇ。ラーメンとか」

 そこでドンドン!とすごい勢いで入口のドアが外側から叩かれた。びくりとして僕とポチは振り返る。

「ん?レンッスかね?もう帰って来たッスか」
「……誰だろうね?」

 レンだったらあんな強い力でノックしたりしないだろう。このドアには鍵なんか備えられていない故、レンならばとっくに入ってきているだろう。あとは考えられるといえばここで働いている寮監さんとかだろうか。それも同様にこう激しくドアを叩いたりしない。
 再度ドンドンドンと三回、執拗にドアが鳴った。部屋の外から僕らを威嚇しているような音。

「ちょっと見てくるね」
「あ、僕が見てくるッスよ。たまーに寮母さんがお菓子作ったとか言って持って来るんスよね。寮母さんだったら僕の方が慣れてるッスから」

 言うが早いか、ポチはぴょこんとカエルみたいに飛び起きては廊下の方に向かってとことこと消えていった。
 さっきのノックの主は誰なんだろうか。少し頭の中で考えてみる。少なくともレンという線は考えづらい。僕に部屋に用がありそうな人物はかなり限られる。レンではないのなら筑紫だろうか。いや、筑紫だったとしてもあんな勢いでノックなんかしないだろう。だとすれば残されるのは──
 数呼吸置いてから「はーい、どなたッスかー?」というポチの声と、その後にドアを開けるガチャッという音。

「──まします──」

 廊下の方から聞こえてきたのは女性の声だった。それも灯のものではない。もっとピキリと張った針金のように鋭くて凛とした声。ここからでも冷たさを感じる声色。それと重なるように「えっ……、ちょっ……」とポチの狼狽する声。
「ポチー?どうしたー?」

 問いかけて見ても彼の応えはない。代わりに返ってきたのはドアの閉まる音。

「ちょ、ちょっと待っ……!」

 焦ったポチの様子が耳で聞き取れる。流石に僕も座っている場合ではない。廊下の方からどちゃどちゃと争うような音。よく考えなくても異常事態だ。彼の方に向かおうと椅子から立ち上がった時、ガバリとあちらからドアが開かれた。
 目に映ったのは、天照高校の制服を着た背の高い華奢な女の子。

「御機嫌よう。月島博人さん」

 その女の子は僕を睥睨しながら温度を感じさせない冷たい声でそう言った。ノンフレームの眼鏡。長い髪を後ろで一つにくくった、理知的な佇まい。一見すると地味な文学少女のようにも見えるが、眼鏡の奥の眼光はネコ科の猛獣を彷彿とさせるほどに鋭い。
 一度見ればとても忘れられないほどの印象的な姿。そして僕は、彼女の風貌に見覚えがある。

「ちょ、ちょっと待つッス!いきなり入って来て何の用なんスか!?えっと……そうだ、とっとと出てかないと寮監さん呼んでくるッスよ!」

 女の子の背後で不審者に出くわした犬のように騒ぐポチ。現役運動部員の彼ならば力ずくでこの眼鏡の女の子を部屋の外に叩き出すことなんて容易いことだろう。しかしそれをしなかったのは彼の中の甲斐性なのか、それとも彼女の目力の所為だろうか。

「少し耳障りですよ。黙って下さい」

 後ろのポチにピシャリと女の子は言い放って、僕の方に向かって一歩、足を踏み出した。

「……えっと……」

 まるで蛇に睨まれた蛙のような気分だ。もしくは肉食獣に遭遇したひ弱なシマウマか。

「お久しぶりですね。一昨日に会った以来でしょうか。どうです?『ともみ』について何か思い出せましたか?」

 ともみ。
 カオナシさまとはまた別の、夢の中の女の子。
 朧げに脳裏に焼き付いた、黄色の花畑の中で消えた少女。

「……君が『あやめ』っていう人?」
「……ええ、そうですよ。詩苑あやめと申します。以後お見知り置きを」

 彼女は新月に近付いた三日月みたいに口角を上げた。だがその微笑みに親愛の情や友好の念などは欠片ほども見当たらなかった。目は一切笑ってなんかいない。

「少し月島博人くん、あなたとお話ししたいことがあるんですが──一名ほどこの場に不必要な人がいらっしゃいますね」

 女の子──あやめは後ろにいたポチの方に振り向く。そのポチは「えっ、僕ッスか!?」と自分の顔を指差した。

「そうに決まっているでしょう、犬飼圭くん。脳みそまでニックネーム通りになってしまったのですか?」
「ちょっ、ちょっと待つッス!何で僕の名前を知ってるんスか!?」
「そんな事答える必要はありませんよ。邪魔だと言っているのです。今すぐ自分の部屋に戻って下さい」
「……」

 あやめの肩越しにポチは僕を見る。助けを求めているような目だ。僕はふうと一息吐いてから彼に言う。

「ごめん、ポチ。すぐに終わらせるからちょっとこの場は退いて欲しい」
「ヒロくんがそう言うなら……」

 渋々といった面持ちのポチ。しゅんと肩を落としてトコトコと廊下に向かっていった。ゴトンと控えめにドアを閉める音が後から聞こえた。

「で、ポチは帰ったけどさ。一体僕に何の用なの?皆目見当もつかないんだけど」

 僕はあやめに問いかける。対する彼女は変わらぬ無表情のままで答える

「白縫筑紫くんに渡して頂くように言伝たはずですよ。剣道同好会の入部届。まだ私に渡ってないようですが」
「あー……」

 完全に忘れていた。確かに筑紫から貰っていたのだけど、その後に色々とあったので頭の中から優先順位の低い事項として消えていたのだ。恐らく今も学生カバンの中にあるだろう。

「でも待ってよ。僕はまだ入部──いや、同好会だから入会か、どっちでもいいけど入るとは決めてないよ」
「あなたに入って頂かないと私が困るのですよ──私が」

 あやめはそこで一旦言葉を切って、そのまま早口で続ける。

「もうこれは決定事項なのですよ、月島博人くん。あなたがこの誘並に来た以上、私とコネクトを繋げなければいけません」
「……」

 コネクト。まるで製品みたいな表現を使うものだ。

「あなたが強情な愚か者であることは私も重々承知してます。だから──交換条件です」

 あやめはそう言ってか、ブレザーの胸ポケットの中に手を突っ込む。一秒の間も置かないでそこから何かの紙を取り出した。

「今日の昼休みにあなたのカバンの中を調べさせて頂きました。入部届を書いて来ているか見たかったのですが──面白いものを見つけました。あなたは入部届なんか書いてなかったわけなのですが」

 言いながら、手に持った折りたたまれた紙を広げる。刑事ドラマで警部が警察手帳を示す時のような所作。そしてそれは見覚えのある紙。

「『ホオカゴ オモカゲジングウヘコイ』……ですか。どうやら面白いことに巻き込まれているようですね」
「……君が盗ってたの?」
「ええ、見たまま、その通りです」
「……何のために?」
「言ったでしょう?交換条件ですよ」

 あやめはのそりと僕にゆっくりと近づいてくる。一歩、また一歩と。眼鏡の奥から睨め付けたまま。今から捕食せんとする肉食の恐竜みたいな、鋭い瞳のまま。

「私ならば三日間とあれば容易くこの手紙の送り主を特定することができます。あなたが望むなら──の話ですが」
「……」
「それだけではありません。あなたが不可思議に思ってること、例えるなら『カオナシさま』、例えるなら白縫姉弟のこと──その全てをあなたに明らかにする事が出来るのです」
「……」
「あなたにはデメリットはないでしょう?差し置いてメリットもさほどないようですが。──しかし、どうしたってあなたには私たちの所に入って頂きたいのです」

 有無を言わせぬ口調。見るからにその言葉の奥に何らかの意図があるのが分かるが、それが何なのかは見当もつかない。

「あなたに決定権を与えましょう。今から私があなたにこの手紙を差し出します。あなたが私との糸を拒むのならばどうぞ、これを受け取って下さい。あなたが望むのなら私もこれまでにしましょう。そして私たちの5本目の轍になってもよろしいなら、この手紙を受け取らないで下さい」

 言葉の通り、彼女は僕の胸辺り目掛けてあの怪文書を差し出した。少し湿っているようだ。よく見れば彼女の細い腕にもいくつか雫が控えめに浮かんでいた。

「……」

 僕は。
 僕はその手を、その手紙を。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.25 )
日時: 2018/08/06 04:20
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

「人間が生を全うする上で、痛みというものは常に背中合わせにあるものです」

 少女は言った。
 僕は顔を上げなかった。

 いつか見た、薄暗い教室。どろりと肌を舐めるような不快な空気。僕は椅子に座ってじっと身動きもせずに頭を下に垂れていた。
 教卓に座っているのは少女。顔は見ることはできない。
 カオナシさまの夢だ。

「赤子は命を授かってしまった痛みで泣き叫び、成長痛と共に目線が高くなり、そして激しい痛みに耐えながら傲慢にも新たな命を産み出します。どうしたって人間として息を賭していく以上、痛みは決して逃げられない不可避なものなのです」

 不可避。
 アトロポスの槍。
 どこまで行っても付いてくる月のような──

「ではどうして人間は痛みを感じるのでしょうか?人の子よ、あなたの考えを聞かせて頂きましょうか」

 僕は何も言えない。何も言わない。

「答えは簡単です。死んでしまわないようにするためです。己の体に傷がついたことに気付くようにするためです。この仕組まれたプログラムが無ければ──人が痛みを感じる事がなければ、人間は今ほどの繁栄を手にしていなかったでしょう。七日間で世界を作り上げた愚神が唯一生命に与えた命綱のようなものです」

 少女の声に温度はない。人間らしい温もりや抑揚がまるで皆無だ。僕にでも理解できる言語で喋っているはずなのに、うまく飲み込めない。まるでモールス信号を聴いてるみたいだ。

「心の痛みにしたって同様です。しかしその施しが、波に攫われる人間に神が手渡した一束の藁が、仇となって人は死を自ら死を選ぶこともあります。皮肉なことですね。人間が壊れないように設定したはずが、その痛みを忌むあまりにあっけなく壊れてしまうなんて」

 少女は言った。
 僕は顔を上げなかった。

「回る日常の中で、痛みを悼む暇もなく甚振られるだけ。

「さて、あなたは新しい世界で色々な人に出会いました。繋がりを持ちました。どうですか?ここに来る前のあなたと今のあなた、何か一つでも変わる事が出来ましたか?」

「そうでしょう。変われるはずなんてないんですよ。所詮人間は一人でしか生きられなく、何者にも影響を与えることなんて出来ず、与えられることもありません。一匹狼の群れは一匹狼の群れでしかなく、花束なんて花の集合体にしか過ぎない。いくらあなたが多くの人と出会おうともどこまで行っても何をしようとも結局あなたは一人なのです」

 少女は言った。
 僕は顔を上げなかった。

「あなたの友達──あの金髪の軽薄な少年も、あの茶髪の痴れた少年も、あの気障な少年も、頭の弱い少女も、皆私の顔を見て願ってますよ。どうですか?そう頑固に首を垂れていないでこの私の顔をご覧になるつもりはございませんか」
僕は、顔を上げない。
「ふふ、強情な愚か者ですね」
そう言って少女は笑ってから。
「また近いうちに再びあなたの元に相見えます。それでは──」
僕は、顔を上げなかった。
「また夢の中で逢いましょう」


一章「Like a dream on a spring night」 了