複雑・ファジー小説

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.20 )
日時: 2018/05/28 12:38
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 すうっと、波が引くみたいに意識がはっきりしてきた。ぼやけた視界の端で誰かがじっと佇んでいる。見えるのは白天井に映える蛍光灯の眩い光。僕が目を開けたのに気付いたように僕の横の誰かが立ち上がる。

「あ、起きたかい?」
聞き慣れた優しい声色。僕は顔を声のした方向に向ける。焦点が合わずにぼけた視界が徐々にはっきりしてくる。
「──筑紫……?」
「うん、じゃあ月島くん、この指何本に見えるかい?」

 言って筑紫がピースサインを作る。蛍光灯の眩しさに耐え切れず目を細めながら僕は答えた。
「……二本──かな?」
「オーケー、意識ははっきりしてるみたいだね」

 僕は何とか起き上がろうとするが「無理しないでいいから」と筑紫が手で制した。大人しくそれに従い僕は再度頭の体重を枕に委ねた。

「大変だったんだよ、あそこから君を背負ってここまで来るの。窓口に寮監さんがいたから助かったね」
 言われて気が付いた。ここは僕の部屋だ。
 まず本棚が見えた。その横に備え付けの学習机。筑紫は椅子にゆったりと足を組んでいた。膝の上には文庫本が置いてある。僕の部屋を彼は知らないのに、と思ったがさっき言っていた通り寮監さんに尋ねたのだろう。あのバスの停留所からこの飛想館まで結構離れている。いくら僕の体重が平均より軽いとは言っても、あそこからここまで背負って歩くのは骨が折れたことだろう。
 そしてさっきまでいたもう一人がいないのに気付く。

「……灯は?」
「家の門限があるからもう帰っちゃったよ。ほら、鉄板屋の手伝いしなきゃいけないってさ」
「……迷惑かけたみたいだね。ごめん」
「大丈夫だよ。気にしないでいいさ。面影神宮にはまた今度行けばいいよ。──それより」

 そこで筑紫は言葉を切った。明らかに声のトーンを一段階下げてから続ける。

「倒れてからさ、うわ言みたいに何か言ってたよね。僕聞いてしまったんだけど」
「……?」
「よく聞き取れなかったんだけどさ、誰かの名前を呼んでいた気がするんだよね。覚えてるかい?」
「……ごめん、ちょっと記憶がないな」
「そう……。一応灯ちゃんには貧血で倒れたんじゃないかってことにしてるよ。でも本当はそうじゃないことなんて僕も分かってる。君はそんな不健康な体してないだろう?」
「そうだね、生まれてこの方倒れたことなんて一度も無かったよ」
「あの割符と一緒に入っていた紙に何て書いていたか、なんて野暮だから聞かないさ。でも僕も心配だ。あの割符はやっぱり僕が持ってた方がいいんじゃないかって思ったんだけどどうかな?」

 筑紫は真剣な眼差しで見つめる。病床に伏した僕を気遣っているようで、その目は有無を言わせないほど力があった。でも僕は首を横に振る。

「……いや、いいよ。これは僕が持っておく」

 この筑紫の言うところの『割符』というものが、何故かとても大切な、とても懐かしいものに思えたからだ。決して放してはいけないような。命綱というか、もっと抽象的な、大事なもの。

 そう、と短く筑紫は背もたれに背中を付けながら言った。

「君と仲のいい……犬飼君と清水くんだったっけ?彼らには灯ちゃんが連絡してくれてるみたいだよ。彼らが帰ってくるまで、一応ここにいさせてもらうよ」
「うん、すまないね」
「大したことないさ、おっと?」

 筑紫はドアの方に目を向ける。僕も釣られてそちらを向く。ドタドタドタと廊下のフローリングを踏み鳴らす足音が聞こえてきた。どんどんとこっちに近づいてくる。
「うわさをすればなんとやら、だね」
 ガバリとドアが開いた。見慣れないジャージ姿のポチが息を切らせてそこにいた。横眼の方でカーテンがふわりと舞う。

「あっ、ポチ。おかえり」
「うわああああああヒロくんが!ヒロくんが死んじゃったッス!!」
「は?」

 手に持っていた学生カバンを勢いよく投げ捨てた。壁にぶつかり鈍い音がしてから床に落ちる。僕の下半身を覆っていた布団にすがるようにして顔を伏せる。

「死んじゃ嫌ッス!一緒に神宮に行くって約束したんじゃないッスか!!またお好み焼き食べに行くって言ってたじゃないッスか!うああああああ!?」
「えっ、待ってポチ?」
 そんなポチを見かねてか、「ちょっと?犬飼君……だったかい?」と後ろから文庫本を片手にポチの肩を掴んだ。するときっとポチは振り返って、敵意丸出しの獣みたいに睨みつけた。

「お前がやったんスね!」
「は?」

 頬けたような顔をした筑紫を目掛けて、ポチは拳をギッと握りしめて彼の頬を殴りつけた。完全に不意を突かれた筑紫は「おぶっ!?」と言って背後にあった本棚にぶつかる。どちゃどちゃと本の雪崩が起きる。
「この殺人犯野郎! 僕がぶっ殺してやるッス! この野郎!」
 馬乗りになりマウントを取っ上からボコボコと殴りつけている。筑紫はその剣幕に抵抗できないのか「助けて月島くん……」と僕の名前を呼んで手を伸ばす。僕ははあとため息をついて体にかけていた布団を剥いだ。

「ちょっと?ポチ、やめたげなよ。痛がってるだろ?」
「うわっ!?ヒロくんッス! 幽霊ッスか! 悪霊退散ッス!」
「……あのね」

 またがったまま目をひん剥かせるポチを、筑紫の体から無理矢理引きはがして、ボロボロになった筑紫に「大丈夫?」と尋ねる。か細い声で「なんで僕がこんな目に……」と言った。大丈夫そうだ。

「生きてたんスねヒロくん! 良かったッス! 心配したッスよ!」
「バス停で倒れただけだよ。……とりあえずポチは筑紫に謝ろうか」
「えっヒロくんは筑紫くんから気絶させられたって聞いたッスけど」
「どう間違ったらそんなに情報が錯綜するんだよ……」

 大方灯のせいだろうけど。あの女。

「レンがそう言ってたんスけどねぇ」

 ポチは首を傾げながら小さくこぼした。彼が冷静になったのを確認して僕はベッドに腰掛ける。

「レン? 灯から連絡来たんじゃないの?」
「僕灯ちゃんの連絡先知んないッスから」
「ああ……、なるほどね……」

 大方レンにポチへの言伝を頼んだ時に間違った情報が伝えられたとかだろう。

「せっかく部活早退したんスけど、心配して損したッスよ」
「うう……、何で僕がこんな目に……?」
「あっ、筑紫くん。初めましてッス」
「こんな初めましてがあるのかい?」

 荒れた髪を髪を手で直しながら筑紫はゆっくりと立ち上がる。ネクタイを締めてブレザーの裾をポンポンと叩きながら言う。


「じゃあ僕はここいらでおいとまさせてもらうよ。犬飼くんも来たことだしね」
「うん、すまないね」
「別に大丈夫だよ。……んじゃあ明日、学校に来れるんだったらまたね」

 そう言って机の上に置いてあったカバンを持って筑紫はドアの方まで歩いていった。「それじゃ」と微笑みながら手を振ってバタンと扉の閉まる音。

「やー! びっくりしたッスよー! いきなり楽器持ったレンがグラウンドに来て『つっきーが筑紫に殺された!』みたいに言うんスからー」
「多分灯が大袈裟に言ったんだよ」
「んで、何があったんスか? 倒れたとか言ってたッスけど」
「……」

 まさかお守りの中に入ってた紙を見たら気分が悪くなって倒れた、なんて言えない。僕は「ちょっと気分が悪くなってね」と言葉を濁す。

「うーん、疲れてるんスかねぇ……。いきなり環境が変わったから体調が崩れたんスよ。僕も馬片から越してきた直後は風邪引いて寝込んだりしたッスから」
「そうなの?」
「大変だったんスよ。あの時はレンに面倒見てもらったッスけど」
 そこでポチはふと立ち上がって、「ちょっとポカリ買ってくるッスねー!」と言って壁際の自分のカバンの中を漁った。やがて財布を取り出して「下に行ってくるッスからどっか行っちゃダメッスよ!」ととことこと部屋を出て行った。ここには僕一人が残される。

 ポケットの中。まだあのお守り──割符とあの手紙が入っている。
 面影神宮の古くからの言い伝え、と筑紫が言っていたのは覚えている。一つの板を半分に割って、そこに再開を誓う二人がお互いの名前を書き合い、それを肌身離さず持ち歩く。そうすれば二人はまた出会えるという。
 だけど僕はそんなもの書いた覚えは無い。そもそも面影神宮には行ったことは間違いなく無い。これは断言できる。誘並に来たことだって片手で数えても指が数本余るくらいしかない。じゃあ、あの板は一体何だろう。

「『いつかまた、どこかで』か……」

 手紙に書かれていたことを何となく口にした。一人の部屋にむなしくぽつんと浮かんで、シャボン玉みたいに天井に昇った。おかむらともみ、と名前が書いてあったけど、その名前に見覚えは無かった。

 ──あなたは『ともみ』という名前の女の子をご存知ですか?

 昨日学校であの眼鏡の少女に会った時に尋ねられた言葉が脳裏に浮かんだ。あの眼鏡の少女が『あやめ』ならば、彼女に会えば何か分かるかもしれない。何か変わるかもしれない。そんな気がした。
しばらくして、がちゃりとドアが開いてポチが帰って来た。「はいアクエリッスよー!」と左手に持ったペットボトルを僕に向かって投げる。弧を描くというよりストレートで飛んできたそのペットボトルを額の辺りでキャッチする。

「……危ないじゃないか」
「やっぱり左じゃまだ慣れないッスねぇ」
「何の話なの?」

 今度はちゃんと机の上にカバンを置いて、さっきまで筑紫が座っていた椅子にポチは腰掛けた。この椅子はいつもは学習机の近くにあるものだ。その上にあぐらをかいて「まあ怪我とか無くて不幸中の幸いッスよ!」と笑顔を浮かべてみせた。

「うん。──そういえばポチ。一つ尋ねたいことがあるんだけどさ」

 彼は「ん?」と首を傾げる。ポチにこれを聞いても多分何のためにもならないかと思うけど、誰かに聞きたかったのだ。

「例えばさ、あるところ……そうだね、登潟でしか買えないお土産とかあったとして、そこにポチは行ったことは間違いなく無い。だけどそこには自分の名前、犬飼圭って書いてある。こういうことがあったりしたらさ、ポチならどう考えるかな?」
「うー、難しい質問ッスねー。クイズ番組のひっかけ問題ッスか?」
「いや、どう考えるかっていうことだけ聞きたいんだ」
「そうッスねー……」

 口を一文字に閉じ、腕を組んで悩んでいる様子。

「ただの同姓同名の赤の他人ってわけじゃないんスよねぇ」
「うん、そうよくある名前じゃないしね」

 それが月島博人だろうが、犬飼圭だろうが、気まぐれな神様の悪戯というのはあり得ないだろう。それも、『ともみ』という単語は前日にあの眼鏡の少女から聞いている。これは偶然の一致ではなく運命の合致。このお守りを僕に渡した三つ編みの女の子と、あの眼鏡の少女にもう一回会うことができれば何か分かるかも知れないが。

「難しいこと聞かれても僕は分かんないッスね。お手上げッス」
「だよね。ごめん、変な事聞いてしまったみたいだ」
「やっぱヒロくん疲れてるんじゃないッスか? 早めに寝た方がいいッスよ?」
「結構ポチって見た目によらず辛辣だよね……。じゃああと一つ質問していい?」

 これは灯や筑紫に聞いたのと同一。この誘並に伝わる都市伝説。

「一つだけ、願いが叶うとしたらポチなら何を願う?」
「……願いッスか──?」

 部屋に沈黙が落ちた。そして僕は驚いた。さっきまでへらへらと笑っていた彼が酷く暗い顔をしていたからだ。思わずぎょっとする。暗澹や鬱積、わだかまり、そういうものに一見無縁そうなこいつもこんな表情ができるのかと僕は正直、度肝を抜かれた。しかし、すぐにいつもの無垢な笑顔に戻り、「カオナシさまの話ッスか?」と僕に尋ねる。

「そう、ここらへんで流行ってるんだろ?ポチだったら何を願うか聞きたかったんだけど、答えたくなければ答えなくていいよ」
「……そうッスね、僕だったら──」

 少し含みを入れて、彼は自分の右手を物憂げに一瞥してから言った。

「──中学の時に戻りたいッスねぇ」
「……?」

 それってどういうことだと尋ねようとした、その時にドンドンドン、と三回壊れんばかりにドアがノックされる音に遮られた。がちゃがちゃと強くドアノブが引かれてるのが見えたが、鍵がかかってるため入れないみたいだ。再度焦燥に駆られたみたいにドンドンドン、と最早ノックというか殴りつけてるんじゃないかと思う程つ強い音。

「あっ、レンが帰って来たみたいッスよ!」
「帰って来たみたいッスよ、じゃないんだよ。何で鍵かけてるんの……」

 僕は体に掛けられた布団をめくってベッドから立ち上がる。バス停で倒れた時にどこかにぶつけたのか、肩の疼痛が目立つ。あとでどっちかに湿布でも買ってきてもらおうかな、とか思いつつ、ドアのサムターンを回した。するとがばりとドアが開いた。そこにいたのはもちろんというか、金髪の長身、レンだった。

「つっきー!AED持ってきたぞ!ってうおっ!幽霊!」
「何をどう間違えたんだよ……」


 それから。
 僕とポチがいた部屋にレンを加えて、しばらく話をした。ひたすら僕は二人に大丈夫、大丈夫と壊れたおもちゃの喋るロボットみたいに繰り返して、レンとポチはそれぞれの自分の部屋に戻って行った。枕元にはポチが下の自動販売機で買ってきたアクエリアスとレンがコンビニで大量に購入したウィダーインゼリーが飲みきれなくて置いてある。この借りは二人にいつか返さないといけないなとか思いながら、それらを冷蔵庫の中に入れて、ベッドの方に向かおうとした時だ。

「ん?」

 床に落ちていた一冊の文庫本を見つけた。見覚えのない装丁。これは僕のものではない。なんだろうと思い僕はそれを拾い上げる。著者は僕も知っているけどこの題名は聞いたことがない。宮部みゆきの『返事はいらない』だ。
 こんな本買った覚えも借りた覚えもないんだけどなぁ、と一瞬思ってすぐに納得した。この部屋で筑紫が読んでたものだ。
 部屋に本忘れてたよと連絡でもしようかな、と枕元にある携帯を取ろうとした時、その薄い文庫本の中から一枚の紙がひらりと葉が風に舞ったように落ちた。振り子が左右に揺れるみたいな動きをして、カーペットの床に音もなく落ちた。

「……参ったな……」

 恐らく何かの紙を栞代わりに使っていたのだろう。読んでいた本がどこまで読んだか分からなくなることの遺憾さはとても耐えがたいものだ。読書好きの僕からすると縁を切ることも視野にいれるだろう。しまった、菓子折りの一つでも彼に寄越すべきだろうか、と思いながらその紙を拾うために膝を曲げる。

 そして気付く。

「何だ……これ……?」

 その紙は写真だった。それもただの写真ではない。とても異様な絵面だった。八人の女の子が何かのステージ衣装を着て並んでいる。その中の一人を除き、全員の顔が黒いインクのようなもので塗りつぶされている。憎悪をぶつけるように。狂気と怨嗟を表現するかのように。ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに。その写真の中心。唯一顔面を黒く染められていない人。その女の子は僕も知っていた。よく知っていた。
 筑紫の年子の姉、姫菜だ。
 そこでようやく、この写真が姫菜の所属するアイドルグループ、『Azathoth』のものであることに気付いた。恐らく塗りつぶしたのは筑紫だろう。だとしたら──彼は一体何のために?
あの瀟洒な微笑みの裏で一体何を考えている?

「全く……意味が分かんないよ……」

 深くは考えないことにして、その気味の悪い写真を文庫本の適当なページに挟み込んだ。携帯を枕元にポイっと投げ捨てる。柔らかい布団に小さくバウンドしたのが見えた。もう今日は寝よう。この世界には知らない方がいいことがある。そんなこと、僕は百も承知だ。明日、何も見てない振りをして彼にこの本を返却しよう。
 出口のそばにある電機のスイッチをオフにした。部屋の中が浅い闇に満たされる。何も見えない道を辿り、ベッドに寝そべる。
 目を閉じる。睡魔がすうっと雨が降る前の暗雲みたいに忍び寄る。
 徐々に意識が沈んでいく中、今日聞いた筑紫の言葉が耳鳴りみたいに脳の中で残響する。僕が願いを聞いた時、彼は何と言っただろうか。僕はその言葉を純粋に姉を想う言葉と信じた。

──僕だったら『また姫菜と一緒に暮らしたい』かな──