複雑・ファジー小説
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.22 )
- 日時: 2018/06/13 07:16
- 名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
「起きるッス!!ヒロくーん!」
体の上に何か重い物が乗っかってきた感触。みぞおちが押され、こふっと肺から息が漏れる。
その衝撃で夢から半ば強制的に覚醒した。寝ぼけ眼のぼんやりとした視界がやがて輪郭を表して来る。布団の上、茶色の塊、その正体がポチだとやっと気付く。
「遅いッスよ!入学二日目にして遅刻するつもりッスか!?」
「……へ?」
ポチはそんなことを言いながら僕の胸を焦った様子でバンバンと叩く。未だよく回転しないままの脳内は、その言葉を飲み込むのに時間がかかった。彼に上体を押さえ付けられたまま首を動かして、壁に掛けられた時計を見る。時刻は昨日寮を出発した時間をとうに過ぎていて──
「……やっば!」
僕は軽いポチの体をはじき飛ばすようにがばりと跳ね起きた。ポチはベッドから落ちてカーペットの床にカエルみたいな体勢でひっくり返る。「ぎゃう!」と彼が変な声を出したのを無視しつつ、カーテンのレールに垂れ下げられている制服の方に向かう。
「いたた……、酷いッスよヒロくん!」
「時間がないんだって!ポチ、カバンの中に財布が入ってるか確認して!」
「人使いが荒いッスねぇ!……ん?」
着ていたジャージを脱ごうとした時に、ポチは驚いたような声を上げた。こんな忙しい時に、と内心苛立ちながらポチを見ると、彼も同様に僕を不思議そうに凝視していた。
悠長にしていられるシチュエーションではないのに、首を傾げて、眉をひそめて。
「どうしたの?ポチ?僕の顔に何か付いてる?」
「いや……ついてるっていうか……」
彼にしては珍しくもごもごと言いよどむような口調。言おうか言うまいか迷っているような。
「……?」
「ヒロくん、何で泣いてるんスか?」
「は?」
僕は驚いて、片目を指でぬぐう。指先に僅かな涙が付着しているのが分かった。ぎょっとするのと同時にもう片方の目からつうっと一筋、暖かいものが頬を滑った。
慌ててごしごしと両目をこすってから、ポチから見られないように顔を背ける。
「……あくびしたからだよだよ。なんてことないさ」
「あくびしたぐらいでそんなに涙は出ないと思うんスけど……。まあいいッス!遅刻するッスよ!」
「分かってるって」
僕は着ていたジャージを今度こそ脱いで、白いシャツに腕を通す。脱いだ服はあとでカゴに入れて寮母さんに渡しておかないといけない。だが遅刻寸前の今考える事でもないだろう。
制服に着替えて、カバンを手に持つ。出口の方ではポチが焦るように僕を見ていた。「今行く」と言って机の上に置かれていた文庫本に目を遣った。
宮部みゆきの『返事はいらない』。昨日筑紫が僕の部屋に置いて行った本だが、重要なのはこの本ではない。この本の中に挟まれていたものだ。自分の姉以外の顔をぐちゃぐちゃに、まるで呪いにでもかけるように塗り潰された一枚の写真だ。何の為に、どのような思いでそんなことしたのか、僕が知る由もない。今日学校であった時に何事も無かったかのように彼に渡すことにするしかなかった。
「何ボケっとしてるんスかぁ! いい加減に遅刻するッスよ!」
「……そんなに怒ることないだろ……」
その文庫本をカバンの中に入れて、ポチの待っている出口の方に小走りで向かった。何か忘れているものなかったっけ、と頭の中にチラッと何かがよぎったけど今考えている時間はなかった。喉に魚の小骨が引っかかったようなじれったさを抱きつつ、先に部屋を出たポチの後ろ姿を眺めた。
寮の昇降口で足踏みをしながら待っていたレンと合流して、三人で並んで学校までの道を急いだ。信号が赤になる度にレンは信号のライトを憎らしげに睨みつけていた。僕たちをあざ笑うように猛スピードで横切る軽自動車。歯痒そうな様子のレンとポチを眺めながら僕は今日の朝の事について考えていた。
涙を流したのは何年ぶりだろうか。飛行機事故で両親を亡くした時だって涙なんて出なかったのに。何故か目が覚めた時、何か大事な物を失ったような、何か大切な物を忘れたような、そんな気がしたのだ。まるでドーナツのように僕を僕たらしめるあるべき穴を、一瞬だけ何かが、誰かが、埋めてくれたような気がした。そしてその埋めてくれた何かが一瞬にして消えてしまった気もした。
懐かしい誰かと喋る夢を見た記憶はあるが、その詳細はどう頭を働かせても何も思い出せなかった。
何も。
何一つさえ。
「つっきー! 何ぼーっとしてんだ! 信号青んなったぞ!」
レンの声にはっとした。その言葉通り向かいの歩行者用の信号は緑色に光っていて、二人は横断歩道を半分渡ったくらいのところで僕を見ていた。なかなか渡ろうとしない僕を急かすように左折車が傍らで待っている。
「ごめん、行こうか」
僕は足を進めた。やはり今考えるべきことではないだろう。小走りで二人の横に並ぶ。レンとポチは不思議そうに顔を見合わせたが、「マジで遅刻すっから急ぐぞ!」と言ってから学校の方角に向けて駆けだした。
やがて白い校舎に辿り着いた。予鈴はまだ鳴っていないようで、遅刻はしないで済んだみたいだ。ショートホームルームの時間がギリギリに迫っているからだろうか、校門の付近は閑散としていた。僕たち以外には誰もいない。静かな学校を見るのは初めてで、何かから取り残されたものを見ているような違和感さえ感じる。
「間に合ったー……!」
と僕の横でレンは膝に手をついて苦しそうに肩を上下させた。熟れたトマトみたいな色の顔色のレンとは対称的にポチは涼し気な顔をしている。
「レン体力無いッスねぇ……。これだから文化部はダメなんスよ」
「う、うるせぇ……、あーきちいわ……。何で朝っぱらからこんな猛ダッシュしなきゃいけねえんだよ」
恨みがましそうにレンは僕を睨みつけた。まあ寝坊した僕を待ってくれただけありがたいのだろう。起き抜けの運動に荒れ狂う呼吸を押し殺しながら、僕は「今度何かおごるから許してよ」と言った。
しかししばらく運動してなかったからだろうか、こんなにも体力が落ちていることに自分でも驚いていた。心臓だけ別の生き物になったかのように激しくリズムを刻んでいる。胸の辺りに痛みに似た感覚。部活をしていた中学時代ならばこのくらいの運動は軽くこなせたはずだが、今や息も絶え絶えだ。ランニングでも始めるか、と息を整えながら考えて校舎の中に入った。
下駄箱はクラス別に分けられている。C組の靴箱の方に歩いて行ったレンとポチを尻目に、僕も自分の靴箱へと向かう。一番下の段だから身をかがめないと上履きを取り出すことは出来ない。胸のポケットに刺したボールペンを少し煩わしく思いながら横開きの戸を開けて、自分の上履きを取り出そうとした時に気付いた。
「……何だこれ……?」
僕の目に映ったのは一つの封筒。青色の上履きの上で僕を待っていたかのように置いてあった。いつの間に、と頭を巡らせる。当たり前だが、昨日下校した時にはこんなもの入ってなかったので今日の朝ここに誰かが入れたのだろう。
封筒を手に取る。それは無機質なほど白く、端にシャーペンか何かで『月島博人へ』と僕の名前が書かれている。汚れていたりはしていないまっさらな薄い封筒。中に紙が入っているのが分かる。カミソリの刃や汚物は入ってないみたいだ。とりあえず安堵のため息。
封を開けてみる。糊が甘かったので開けるのにそれほど苦労しなかった。その中の紙に書いてあったことは。
「なるほどね……」
見覚えのある字。あいつの顔が脳に浮かんだ。
だったら僕ができることは。
「おーい何してんだー!今度こそマジで遅れるぞー!」
「そーッスよー!」
なかなか出てこない僕を待ちかねたのか、既に上履きを履いたポチとレンが僕を急かす。僕は立ち上がってボールペンを胸ポケットに入れてから「ちょっとこれ見て」とレンに中に入っていた紙を渡す。
「ん?何だ?この紙」
「靴箱の中に入ってたんだよ」
「へー! ラブレターか何かか?」
そんな冷やかすような事を言ってからレンは紙に書いてある字を見て、「は?」と間抜けな顔になる。ポチもそれを眺めて「ん?」ととぼけた顔をした。
「何の目的で誰が僕のとこに入れたんだろうね、それ」
『ホオカゴ オモカゲジングウニコイ』
漢字にすると、放課後 面影神宮に来い。
「どー考えてもラブレターみてーな色気のあるもんじゃねえみたいだな……」
「そうッスねー…」
カタカナで書かれたこれは、どんな呆けた頭の頭の持ち主でも恋文では無いことが分かるだろう。 どちらかと言うと、あえて言うと果たし状だ。手紙というよりも、怪文書といった方が正しい。
「マジで遅刻すっからとりあえず教室に行こうぜ!話は昼休みに!」
焦燥に駆られるようにレンは言う。僕はそうだね、と頷いてその怪文書をカバンの中に滑り込ませた。
ショートホームルームが始まる寸前で僕はA組の教室のドアを開けた。
乱暴に開けられたドアが派手な音を立てて、それを合図に教室中の目線が僕にアイスピックのように突き刺さる。まだクラスメイトの名前は一人を除いて全く覚えてない。そんな目で僕を見るなと声を大にして言いたかったが、そんなこと言ったってメリットなんか一つもないことは知っている。
将棋盤みたいに並べられた机の合間を、目を伏せてくぐり抜ける。僕が通り過ぎた後ろからも名前も知らないクラスメイトからの視線を感じた。登校し始めて二日目で遅刻寸前というのは確かに悪目立ちするだろう、用心しないと。
ということを考えながら窓際の自分の席に近づいた時に灯の横を通り過ぎた。彼女は僕の顔を見なかった。珍しく無言で自分のオレンジがかった茶髪をくるくると指に巻き付けている。
「……ねえ灯」
「ほ、ほえっ?」
静まり返った教室の中に灯の呆けた声が響いた。再びクラス中の目線が僕に銃口を向けるように集まる。
「ちょっと話があるんだけど、いい?」
「ん……んん?だ、大丈夫だけど?」
「おっけ、じゃあ後でね」
彼女の横を通り過ぎて、僕は自分の席の机を引いて座った。机の上に筆箱を取り出してから、横の留め具に手紙が中に入ったカバンをかける。
黒板の横に今日の日付が書いてあった。4月24日。僕の両親が死んだ飛行機事故が起きた日から早くも半年が経ったみたいだ。
1分ほど過ぎた時にがらりとドアが開いて担任が教室に入ってきた。教壇の上に担任が上がると同時に、委員長らしい男子生徒が「起立!」と張りのある声で号令をかけた。クラス中が立ち上がり、椅子の足と板張りの床が擦れてがちゃがちゃと煩わしい音が響く。
ホームルームが終わると同時に僕はポケットの中に手紙を忍ばせて席を立った。向かう先は勿論灯の所へ。
「ねえ、灯」
後ろから彼女の肩に手を置いた時、大袈裟なくらいにビクリと体を硬直させて、ぎしぎしと壊れたロボットみたいな動きで僕に振り返った。
「ちゃ、ちゃんヒロ……?びっくりさせないでよ!」
「さっき話があるって言ったじゃん」
「昨日倒れた時心配したんだよ?もう大丈夫なの?」
「うん、体調は戻ったよ。すまないね」
昨日ポチとレンに僕が死んだかのような報告をしたことについては取り立てて言わなくていいだろう。それよりも聞くべきことがある。
「灯、ちょっと見て欲しいものがあるんだけど」
「ん?何かな?」
首を傾げて見せる灯。ポケットからあの封筒に入っていた怪文書を取り出して「今日の朝届けられてたんだけど」と彼女に渡す。おずおずと彼女はそれを受け取って折られた紙を広げた。
「ほ、放課後?」
「……ん?」
「あ、いや。何かなこれ。ラブレター?」
「これのどこを見てラブレターって思ったんだよ……」
「えー!だってそうでしょー!下駄箱に手紙ってラブレターに決まってるって少女漫画で見たもん!」
「変な漫画の読み過ぎだよ」
言って僕は彼女から手紙を奪い取る。「あぁー!」と名残惜しそうな顔をして僕の手がポケットの中に入っていくのを見送った。
「で、ちゃんヒロって面影神宮行くつもりなの?」
「まさか。こんな怪しい手紙に従うわけないだろ。ゴールデンウィークにポチとレンと行く予定はあるんだけど」
「ふーん……。おととい鉄板屋でそんな話してたもんね」
僕の方を向いて鳥のように口をすぼめてみせる灯。
「でさ、灯はこの手紙見てどう思う?」
「ん?んんー。……変な手紙だよね」
「それだけ?」
「うん。誰が出したんだろーね」
「そっか。変な物見せちゃってごめんね」
次の授業は移動教室だ。早いとこ準備しとかないとな、と灯の席から離れようとした時に「ちゃんヒロ」と小さい声で僕に呼びかけた。
「何?」
僕は振り返る。片脇に教科書類を抱えて灯は椅子から立ち上がっていた。
「昨日倒れたばっかなんだからさ、無理しないでね」
「……どうしたの?いきなりガラでもないこと言って」
「あ、それでさ。ゴールデンウィークは面影神宮ってすんごい混むからさ。行かない方がいいと思うよ」
「……」
『行かない方がいい』、か。
誰があの手紙を渡したかなんてもう分かりきった話だ。
言うなればこれは、フーダニットではなくてホワイダニット。
「心遣いはありがたいけど、もうポチやレンと約束したんだよ。それに……言ったよね灯、僕は天邪鬼なんだ」
「『来いって言われれば行きたくなくなるし来るなと言われたら行きたくなる』だったっけ?」
それは一昨日、鉄板屋から帰る時にタクシーの窓越しに僕が言った言葉。
「じゃあ行こうか」
と灯は教科書を胸の前で抱いて僕の前を歩いていった。それに僕も続いた。