複雑・ファジー小説

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.23 )
日時: 2018/07/15 11:04
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 二時間目が終わるころから空は少しずつアスファルド色の雲に覆われ始め、時計の針が正午を回った途端にぽつぽつと雨が降って来た。僕が誘並市に来て初めての雨である。
 遅刻寸前でポチにたたき起こされ泡を食いながら登校したものだから傘なんか持ってきているはずもない。机に頬杖をついたまま、窓の外で湿りを帯びていくグラウンドを睨みつける。その間にも少しずつ雨脚は強まっていく。下校するときには止んでくれるといいんだけど。
 やがて昼休みを告げるチャイムが鳴って、僕は財布と携帯だけ持って、レンとポチがいるC組の教室へと足を運んだ。レンのど派手な金髪はかなり目立つのでいい目印になる。「誰だお前」と言わんばかりの視線に迎えられながら、窓際で弁当を広げていた二人の机の方に向かう。僕の顔を見てレンとポチは「ん」と片手を上げた。

「雨降って来たね。傘とか持ってきてないんだけど」

 僕は窓に背を預けながら言った。ポチは幕の内弁当をかき込みながら「むー」と僕の方を見る。

「ふぇんひよふぉうふぇはふぁめふるっふぇ」
「食べながら喋られても何て言ってるか分からないよ。行儀が悪い」

 ポチはごくりとノドを鳴らして口の中にあったものを飲み込んだ。素直なことである。

「天気予報では雨降るって言ってたッスよ?朝の時点で六十パーだったッスもん」
「今朝は天気予報なんか見てる暇なかったからね」
「つーかつっきーは何も食わねえのか?腹減っただろ」
「何も持ってきてないからね」
「購買とか行ってくりゃいいじゃねえか」
「うーん……、金あんまり持ってないし腹もそんなに減ってないからね。大丈夫かな」
「んなこと言うなよほら」

 レンは自分の机の上にあったパンを僕に手渡した。有難く受け取っておこう。

「いいッスねー! レン、僕の分は無いんスか?」
「お前はその弁当があるだろ?……つーかよ」
「僕に届いた手紙の話?」
「そうそう。お前さ、あれどうすんだよ」
「どうするって……、別にどうもしないよ」
「確か……放課後神宮に来いって書いてたよな?どうもしないって事は今日行ったりしないのか?」
「行くわけないだろ、あんな怪しい手紙誰が信じるの」
まあ確かにな、とレンは紙パックのジュースについているストローを口に咥えた。
「あの手紙って今ここにあったりするッスか?」
「僕のカバンの中に置いてきたよ。持ってこようか?」
「いや、無いならいいんスけど。あの手紙、どっかおかしくなかったッスか?」
「馬鹿言うなよポチ。あんな手紙何から何までおかしいだろうが」
「まあ確かにそうッスけど……。なんか日本語としておかしかった気がするんスよね」
「ん?そうだったか?」

 レンは菓子パンを片手に首を捻った。確かにポチの言う通り、あの手紙には不自然なところがあった。それは僕も知っているが、口には出さない。彼らに言っても恐らく得は無いからだ。
 カタカナで書かれた手紙。
 差出人ならもう知っている。

「レン、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ん?どうしたつっきー」
「面影神宮ってどのくらいの広さか分かる?」
「ん、んー……、何平方かとかの話か?そりゃ具体的な数字は知らねえけど……。あそこ結構広いぞ」
「この前僕とレンとで行った時には全部回るのに二時間くらいかかったッスけどね」
「神様の位の高さと神社境内の広さは比例するとは限らない、なんて話は聞いたことあるけど、面影神宮は誘並市を代表する神社なんだろ?」
「お、おう。確かによく誘並ウォーカーの表紙になってるよな」
「あの手紙には面影神宮に来い、とは書かれてたけど面影神宮のどこで待ってるとかは書かれてなかったよね?時間だって同様だ。つまり」
「つまり?」
「つまりあの手紙は悪趣味ないたずらってこと。今日面影神宮に行く必要もないし、こうして貴重な昼休みを無碍にすることもない」

 レンからもらったパンの包装を開けて口へと運ぶ。二人はまだ納得できなそうな目で僕を見ているが、無視するようにパンを一口かじる。舌にまとわりつくようなブルーベリージャムの甘い味。安っぽい芳香。
 この話題はもう終わりにしたかったのだが、二人はそうじゃないらしい。口いっぱいにご飯を頬張ったポチがゴクッと音を立てて飲み込んでから僕に尋ねる。

「あの手紙って本当にヒロくんに渡すつもりのものだったんスかねぇ?」
「ん?どういうこと?」
「どこにもヒロくんの名前書いてなかったッスよね?もしかして誰かが間違えてヒロくんの靴箱に入れたんじゃないッスか」

 それはありえない、と言いかけてから僕は少し逡巡する。

「さあね。詳しいことは僕にも分からないな。そうなのかも知らないし、そうじゃないかも知れない」
「ほえー……」
ポチはよく分からないと言った表情をした。間抜けそうな顔。
手元にある菓子パンの二口目を頂こうと口元に持っていこうとした時。
教室の真ん中の辺りから「よっしゃあーっ!」と叫ぶ声が聞こえた。不意に響いた声に怪訝に思って目を上げると、名前も知らない男子生徒が初めて首輪を離された大型犬のように狂喜乱舞しているのが見えた。

「本当だった!本当だったんだよ!『カオナシさま』の話はっ!」
 馬鹿騒ぎをしているその男子生徒に自然と教室中の視線が集まる。今にも踊りださんばかりに喜びを体中で表す彼を見て、ポチは「一体どうしたんスかね?」と小首を捻る。

「軽音部の朝倉じゃねえか。何があったんだ?」
 訝しむ僕たちをよそに、周りの事なんて知ったこっちゃないといった様子で今も理性の無い猿のようにぎゃあぎゃあと騒いでいる。

「おい朝倉ぁ、どうしたんだよ?いきなりでけえ声なんか出して。うるせえだろ」
気が狂ったように騒ぐ彼の一番近くにいた男子がそう尋ねると、「閃光スポットライトの三次選考に受かったんだよ!黙ってなんかいられねえだろ!?」と彼は目を見開いて携帯の画面を突き出しながら答えた。

「へえ、あいつすげえじゃん」
椅子にふんぞり返ったままレンが感心したように言う。
「ん?レン、知ってるの?」
「まあな。閃光スポットライトっつってよ。例えるならあれだ。音楽の甲子園みたいな感じだな。全国大会みたいなもんだ」
「ふうん、凄いんだね」

 僕は曖昧に相槌を打った。よっぽど嬉しいのか、南国の野鳥みたいな嬌声を耳ざわりなくらいに発し続けている。
 しかし。
 さっき確かにカオナシさま、と言った。つまりあの願いを叶える都市伝説が今目の前で本当だと判明してしまったことになる。

──人生と言うのはことごとく負け戦であるものです──
 あの夢の中の少女が言った言葉がふと脳をよぎる。

 手の中のパンを口の中に一気に口の中に入れ、咀嚼してから飲み込む。
「レンありがとう。ご馳走様」
「お?おう。もう帰んのか?」
「うん。ちょっとやることがあったんだ」
 これは嘘だ。本当はすることなんか何もなかった。
 ただ。ただ目の前であれだけ幸福に包まれている人間を見るのは少し苦手だった。

「今日も僕部活ッスから次は寮ッスね!」

 ポチの言葉にうん僕は頷いてから、よしかかっていた窓から背中を離す。
 少し落ち着いた様子の朝倉と呼ばれた生徒の姿を横目に、僕はC組の教室を後にした。向かうのは一つの教室を挟んだ先の自分の教室だ。

 カオナシさま。
 願いを叶える悪夢。
 正直言って僕は未だ信じてなんかいない。偶然の一言で片づけることなんかいくらでも可能だ。
 ──しかし。
 何か妙な予感めいたものが胸の内で充満している。

 A組の教室はポチ達のクラスと負けず劣らず騒がしかった。読みかけていた『日の名残り』でも読んで時間を潰そうかな、と自分の席まで近づく。そして違和感に気付いた。
 僕はこの教室を出る前、確かに机の横に学生カバンをかけておいた。だが今は違う。机の上に黒いカバンがぽつんと置かれている。
 慌てて机まで駆け寄ってその中を開く。財布と携帯はポケットの中にある故、貴重品が抜き取られているという心配はないが、嫌な予感がふつふつと雲のように湧いてくる。

「……マジかよ」

『ホオカゴ オモカゲジングウニコイ』
そう書いてあったあの怪文書がカバンの中から無くなっていた。

 6校時目の終了を告げるチャイムが鳴り、帰りのホームルームを終えた。何かから追われるように部活生は教室から出て行った。生憎僕はどこの部活にも所属していない故、学校にいても何もすることはない。早々に寮へ帰ってしまおうと窓の外を見て気が付いた。ぱらぱらと雨がまだ降っている。

「……はぁ」

 幸か不幸か正午降り出した時よりも少し雨脚は弱まっている。多少濡れるのを承知で校門付近のコンビニまで駆け込んで傘を買えばいいだろう。そう決めて既に準備していたカバンを手に取って教室を出ることにした。
 ケラケラとふざけ合う生徒たちの合間を抜け、廊下。階段を下りる。
 そして辿り着いた昇降口。今から下校するのだろう生徒の群衆の中に見慣れた秀麗な顔立ちの男子生徒が一人。言わずもがな筑紫だった。僕が来たのに気付いたように顔を上げると「やあ」と片手を上げにこやかにほほ笑んで見せた。

「待ってたよ月島くん。途中まで一緒に帰らないかい?」

 その微笑に僕は思わずぎくりとしてしまう。理由は一つ、昨日見てしまった写真のせいだ。禍々しささえ感じられるほど、真っ赤に塗り潰された顔。殺意でもぶつけているようだった。心なしか僕に向けられたこのたおやかな笑みさえどこか機械めいて見えた。

「……そうだね、丁度良かったよ。傘を忘れたから一緒に入れてくれないか?」
「そんなのお安い御用さ」

 そう言って筑紫はスタスタと自分の靴箱の方まで向かっていった。どうやら余計な邪推はされてないみたいだ。ほっと胸をなでおろす。僕もA組の靴箱まで足を進め、上履きからスニーカーに履き替える。

「そうだ筑紫。昨日僕の部屋に忘れ物してたよ」
「ん?何だい?」

 やたら値が張りそうな傘を片手に不思議そうに首を傾げる筑紫。僕はカバンの中からあの文庫本を取り出して彼に手渡す。「あー!」とおもちゃを与えられた子供のような無垢な顔で彼はそれを受け取った。
「やっぱり月島くんのところに忘れてたんだね。ついうっかりしたよ。すまないね」
 ぱらぱらとその文庫本をめくってから口角を上げて、彼はそれをカバンの中に入れた。
「いや、構わないよ。昨日迷惑かけたしね」

 言いながら二人並んで校舎を出た。筑紫は傘をぱっと広げて僕もそこの中に入れてもらう。どんよりと重苦しい空と僕らの間に傘が割り込む。降雨を受けてペタペタと傘は音を立てる。

「月島くんは本を読むのが好きなんだってね」
 雨の音をかき消すように筑紫は口を開いた。そんなこと彼に言ったっけと一瞬考えを巡らすが確か中学の時によく彼の前で本を読んでいたことを思い出す。

「ん?……うん、そうだよ」
「じゃあさっきの本は読んだことあるかい?」
「いや、無いね。宮部みゆきはあんまり詳しくないんだ」

 僕らの他にも傘を指して歩いている生徒の姿がちらほらあった。雨は歩くスピードを遅らせる。まるで川に流される枯れ葉みたいにとぼとぼと校門へ向かって歩いて行く。

「この本は短編集でね。その中の一つが表題作にもなっている『返事はいらない』っていう話なんだけど。読んでご覧よ。おススメだよ」
「ふうん。どんな話なの?」
「ある失恋した女性がコンピューター犯罪に手を汚すミステリーだよ。揺れ動く女性心理を緻密に書いた話だよ。……そうだ。このラストに『〇〇には返事はいらないでしょう』っていうセリフが出てくるんだけど、月島くんならこの○○に何て言葉を当てはめるかい?」

 筑紫はそう僕に尋ねた。薄く絵の具で線を引いたような瀟洒な笑みだ。雨で一筋の髪の毛が顔に貼り付いているのが見えた。
 その笑顔でさえ、何か他意めいたものを感じるのは気のせいだろうか。

「……そうだね」

 少し考えてから僕は答える。

「……僕だったら『独り事に返事はいらない』ってするかな」
「へえ、面白いね。なるほど……、月島くんらしいな」
「……」
「ちなみに宮部みゆきはこう書いたんだよ」

 足を止めずに、僕の顔を見ないで彼は続ける。

「──『さよならには返事はいらない』って」

 思わず僕は口ごもる。弱い雨が傘に打ち付ける音。
 校門を抜ける。雨が降っているからか、制服を着た生徒の姿は昨日より少ないように見えた。

「告別に返す言葉なんてなくても構わない、なんて美しいとは思わないかい?相手を想う最後の感傷さ。劇中では一方的に別れを告げられた女性がこのセリフを言うんだから尚更のことだよ」
「……」

 どこか。
 どこか今の僕には彼の言葉が紛い物めいて思えた。その人並み外れた美貌さえブリキ人形のような体温のないもののように感じた。
 さよならに返事はいらない。
 ひどく傲慢な言葉に聞こえるのは僕だけだろうか。

「このセリフが僕はとても好きでね。そのページに栞を挟んでいつでも読み返せるようにしてたんだけど」

 その言葉にはっとした。横を通り過ぎる車が水溜まりの中を突っ切って行って、撥ねた茶色の水がびちゃりとズボンにかかった。
 背筋を指で沿われたような気分だ。小雨に白む背景の中、僕の隣で不気味なほど爽やかな笑みを筑紫は浮かべている。傘のJ字の取っ手が僕たちを二つに隔てている。

「そりゃ気付くよ月島くん。……あの写真の事、どこにも多言しないことを約束してくれるかい?」
「ああ」

 僕は平静を装って頷く。

「約束するよ筑紫。──友達だからね」
「あはは、それは良かったよ」

 軽快に彼は笑った。
 それから、僕たちを覆う傘は無言が渦巻いていた。少しばかり歩いてからやっと学生寮飛想館の前に辿り付いた。
 スニーカー越しに染みた水で靴下が生ぬるく濡れている。身も心も不快感にまとわりつかれていた。

「じゃあここまでだね。僕はこっちだから」

 にこりと笑みを作ってから筑紫は僕と目を合わせた。僕はその双眸から逃げてから、花柄の傘を潜り抜けてから飛想館の昇降口の方に向かおうとする。
 早くこの場所から離れたかった。もっと言えば筑紫と早いとこ別れてしまいたかった。
 弱い雨が僕をじわじわと濡らす。躊躇するようにゆっくりと降る雨。曖昧なままでいたいとする僕の様だ。

「あ、月島くん。ちょっと待ってくれるかい?」
「何?」

 筑紫の声に僕は振り向く。彼は差した傘で顔を隠していたが僕を見ているようだった。その先の顔は笑っているのだろうか、それとも真顔なのだろうか。

「昨日さ、僕と灯ちゃんに聞いただろう?“一つだけ願いが叶うなら何を願うか”って」
「……ああ」
「肝心の君の願いは何も言ってくれなかったじゃないか。聞かせてよ。月島くんなら、月島博人くんなら何と願うんだい?君の目には、世界はどう見えている?」

 世界がどう見えてるかって?
 それはこっちの質問だ。

「平穏に過ごせたらそれでいいよ」

 僕は端然と筑紫に言い放つ。

「何も、何も起こらず、誰も悲しまず、誰も苦しまず、悠久に、泰平に、波風も立たず嵐も怒らずずっと凪のままで、安寧に甘んじて、平穏無事に過ごせたらそれでいい」
「それは本当に君の本心かい?」
「ああ、そうだ」

 小雨が肩を濡らした。

「君がそう言うならそれでいいよ。ただ一つだけ忠告させてくれる?」
「……」

びちゃびちゃと。

ばちゃばちゃと。

「水は流れないと腐ってしまうよ。立った波風が砂を運んで新たな土地を形成することもある。嵐の後の快晴が一番綺麗だ。何も起こらない人生なんてただの回り続ける歯車でしかない。それでも君は無の平穏を望むのかい?」
「それでも僕は望むよ」

 僕がそう答えると、「そっか」と彼は真顔で息を吐いた。

「もういい?筑紫。濡れて寒いんだけど」
「うん、じゃあね。また明日会おう」

 ひらひらと手を振って彼は身を翻した。花柄の傘が筑紫の後ろ姿を隠していた。あの花は何だろう。紫色の花。
 彼の姿が見えなくなるまで僕は小雨の中、指一つ動かせないままそこで立ち尽くしていた。ブレザーはずぶ濡れ。筑紫が曲がり角を曲がってから、ようやく僕は「……はぁ」と息をついた。

「何かすげえ疲れた……」

 手に持った学生カバンは雨で鈍い光沢を浮かべていた。濡れたシャツが素肌に貼り付いて体温を奪う。これ以上雨に打たれると風邪を引きそうだ。無数にできた水溜まりを意に介さないで、昇降口へ向かうことにした。
 雨はもう少し降り続きそうだ。