複雑・ファジー小説
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.24 )
- 日時: 2018/08/02 23:19
- 名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
学生寮飛想館。自分の部屋のドアノブを水滴の滴る手で捻った。全身を長時間雨に晒されたわけではないが、身体の芯まで冷え切っている。
あと一週間も経てば五月になるというのに何でこんなに僕は凍えているのだろうか。何というか、黄土色に濁った泥水をバケツ一杯飲まされたかのような気分だ。
ぐじゃぐじゃに濡れた靴を脱いで、絞ればコップ一杯分は満たせるくらいに同じく濡れた靴下を、廊下に置いた洗濯物用カゴの中に入れる。早いとこ身体を暖めないと風邪を引きかねなかった。ブレザーを脱ぎながら部屋に足を踏み入れて、それをハンガーに通してからカーテンのレールにかける。右胸につけた真新しい金色の校章が、水気を帯びた淡い輝きで僕を見ていた。
この飛想館は全室個室で洋式トイレとシャワーが各部屋に完備されている。それは生徒のパーソナリティを尊重している故、というわけでは決して無いようだ。この建物は元々はホテルでその名残なんだそうだ。
制服を全て脱いでからバスルームへ入る。裸足にタイルの冷たさが伝わる。乳白色のバスタブ、謝るように頭をもたげたステンレス製のシャワーヘッド。僕がこの部屋に入居する以前に念入りにクリーニングされたのだろう、水垢一つついてない鏡が僕の顔を映している。ワカメみたいに濡れた前髪が目を隠している。
浴槽に水を溜めて浸かる気にはなれなかったので、レバーを上に向けてから赤の印が入ったハンドルを捻る。しばしの間シャワーから吹き出す水に頭を差し出す。雨に降られて冷えた体には心地良い。昔からシャワーを浴びるには好きだった。物思いに耽る事が出来るし、汗も雑念も屈託も洗い流せる。小さい頃から、詳しく言えば小学生の頃から親から有無を言わさず剣道をやらされていたのだが、防具にこびり付き道着にまとわりつくあの独特の匂いが噎せるほどに嫌いだった。物心ついた頃から受動的で自主性もなく両親に黙従していた僕ができた唯一の些細な反抗が、あの嫌いな匂いを身から清める事だったように思える。
まあ、今は親なんてとっくに死んでしまったし、剣道をやる義務なんてどこにもないんだけど。
「……ふぅ」
シャンプーを手のひらの上に落として髪につける。白い泡が次々と湧き出てきて、こめかみから顎筋までをなぞる。
いくら浴室では物思いに耽ることが出来るからといっても、今の僕には考える事が多過ぎる。願いを叶えるのカオナシさま。あやめという女の子。筑紫の精巧なブリキ人形のような顔。今日受け取った怪文書──いや、これは誰が渡したなんて分かりきってる。思考するだけ無駄だ。
怪文書だけの話ではない、カオナシさまだって、顔も知らない女子の事だって同様に考えても詮無きことだ。
コンディショナーはミルクみたいに白い。いつもやってる通りに髪に馴染ませてからシャワーの水で流す。
厭悪をぶつけるようにぐちゃぐちゃに塗りつぶされた姫菜以外の顔。瀟洒な仮面の下に隠された筑紫のもう一つの顔。
あと十日後──ゴールデンウィークになれば姫菜がこの誘並に訪れるらしい。彼女と会うのは九ヶ月振りとなる。彼女と会えば何かが変わるような気がする。ビー玉が床に落ちるように、何かが確かに変わる気がする。
ハンドルを捻って水を止める。前髪からぽとぽとと雫が垂れ、バスタブの排水孔に渦がつむじ状に巻く。浴室の外にあらかじめ置いていたバスタオルで全身を拭いて、生乾きの髪のままジャージに着替えた。少し湿ったタオルをカゴの中に入れて火照った体のまま、今からのんびり本でも読もうかと部屋のドアノブを握った。
「おーっす、来てたッスよ!」
「……」
声の主はポチだった。ドアを開けた僕の方を向いて軽やかな口調で言ってみせた。ベッドの上で僕の本を読んでいる。僕の本棚から抜き取ったのだろうか。
「……いつから来てたの?」
「ぬー……、シャワーの音が起き始めた時ッスねー。十分前ぐらいッスかね」
「部活もう終わったの?」
「あれ?言ってなかったスっけ?」
そこでポチはベッドからむくりと起き上がって読んでいた本を閉じた。表紙が見えた。道尾秀介の文庫本。僕が人生で読んだ本の中で一位二位を争うほどの好きな本だ。
「今日雨降ってたじゃないッスか。グラウンド使えなかったから軽くストレッチして終わりだったんスよ」
「ふーん、そうだったんだ」
つまりもう少しポチを待っておけば筑紫と一緒に帰らないで良かったのだろう。というか間違いなくその話は聞いてなかった。
「暇だったから適当な本読んでたんスけど……あんまり面白くないッスねえ」
「本当に?それ僕のお気に入りの小説だよ」
『向日葵の咲かない夏』。ミステリー作家道尾秀介の作品の中でもずば抜けて異質で、ずば抜けて難解。爽やかそうなタイトルと表紙と裏腹に、その内容は極めてどす黒く醜悪でグロテスク。
「文字ばっかでよくわかんないッスよ。あの本棚めっちゃぎゅうぎゅう詰めの癖に漫画とかないじゃないッスか」
「僕小説しか読まないからね……」
ポチはベッドの上を這い這いで進み、本棚の隙間の中にその文庫本を差し込んだ。見ればベッドの端に彼のものであろう制服が雑に丸められていた。彼は白いワイシャツ姿だ。僕はベッドの傍らにあるソファーに腰を下ろした。
「そういえばポチ」
「ん?何スか?」
「カオナシさまにさ、何かお願いするなら何て願う?」
「……うーん、そうッスねぇ……」
ベッドの上で顎に手を突くポチ。
「僕だったら……、ボールを投げれるようになりたいッスかねぇ」
「ん?」
一瞬ふざけてるのかと思ったのだが、彼はいたって真面目な顔だった。ふざけてるどころか、思いつめたような、車に轢かれた動物の死骸を見たような苦い表情。
「いつか言うッスよ」
一転していつも通りのにこやかなポチ。だがどこか無理しているような、無理に作り上げた粘土細工みたいな笑顔だった。
「まだ雨止まないッスねぇ」
窓の外を見つめる。正午から降り出した雨は依然降り続いている。この室内からでも雨が屋根を打つ音が聞こえていた。
「今日の夜はどうする?食堂にする?」
「ぬー、レンが帰って来たらどっか行くッスかねぇ。ラーメンとか」
そこでドンドン!とすごい勢いで入口のドアが外側から叩かれた。びくりとして僕とポチは振り返る。
「ん?レンッスかね?もう帰って来たッスか」
「……誰だろうね?」
レンだったらあんな強い力でノックしたりしないだろう。このドアには鍵なんか備えられていない故、レンならばとっくに入ってきているだろう。あとは考えられるといえばここで働いている寮監さんとかだろうか。それも同様にこう激しくドアを叩いたりしない。
再度ドンドンドンと三回、執拗にドアが鳴った。部屋の外から僕らを威嚇しているような音。
「ちょっと見てくるね」
「あ、僕が見てくるッスよ。たまーに寮母さんがお菓子作ったとか言って持って来るんスよね。寮母さんだったら僕の方が慣れてるッスから」
言うが早いか、ポチはぴょこんとカエルみたいに飛び起きては廊下の方に向かってとことこと消えていった。
さっきのノックの主は誰なんだろうか。少し頭の中で考えてみる。少なくともレンという線は考えづらい。僕に部屋に用がありそうな人物はかなり限られる。レンではないのなら筑紫だろうか。いや、筑紫だったとしてもあんな勢いでノックなんかしないだろう。だとすれば残されるのは──
数呼吸置いてから「はーい、どなたッスかー?」というポチの声と、その後にドアを開けるガチャッという音。
「──まします──」
廊下の方から聞こえてきたのは女性の声だった。それも灯のものではない。もっとピキリと張った針金のように鋭くて凛とした声。ここからでも冷たさを感じる声色。それと重なるように「えっ……、ちょっ……」とポチの狼狽する声。
「ポチー?どうしたー?」
問いかけて見ても彼の応えはない。代わりに返ってきたのはドアの閉まる音。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
焦ったポチの様子が耳で聞き取れる。流石に僕も座っている場合ではない。廊下の方からどちゃどちゃと争うような音。よく考えなくても異常事態だ。彼の方に向かおうと椅子から立ち上がった時、ガバリとあちらからドアが開かれた。
目に映ったのは、天照高校の制服を着た背の高い華奢な女の子。
「御機嫌よう。月島博人さん」
その女の子は僕を睥睨しながら温度を感じさせない冷たい声でそう言った。ノンフレームの眼鏡。長い髪を後ろで一つにくくった、理知的な佇まい。一見すると地味な文学少女のようにも見えるが、眼鏡の奥の眼光はネコ科の猛獣を彷彿とさせるほどに鋭い。
一度見ればとても忘れられないほどの印象的な姿。そして僕は、彼女の風貌に見覚えがある。
「ちょ、ちょっと待つッス!いきなり入って来て何の用なんスか!?えっと……そうだ、とっとと出てかないと寮監さん呼んでくるッスよ!」
女の子の背後で不審者に出くわした犬のように騒ぐポチ。現役運動部員の彼ならば力ずくでこの眼鏡の女の子を部屋の外に叩き出すことなんて容易いことだろう。しかしそれをしなかったのは彼の中の甲斐性なのか、それとも彼女の目力の所為だろうか。
「少し耳障りですよ。黙って下さい」
後ろのポチにピシャリと女の子は言い放って、僕の方に向かって一歩、足を踏み出した。
「……えっと……」
まるで蛇に睨まれた蛙のような気分だ。もしくは肉食獣に遭遇したひ弱なシマウマか。
「お久しぶりですね。一昨日に会った以来でしょうか。どうです?『ともみ』について何か思い出せましたか?」
ともみ。
カオナシさまとはまた別の、夢の中の女の子。
朧げに脳裏に焼き付いた、黄色の花畑の中で消えた少女。
「……君が『あやめ』っていう人?」
「……ええ、そうですよ。詩苑あやめと申します。以後お見知り置きを」
彼女は新月に近付いた三日月みたいに口角を上げた。だがその微笑みに親愛の情や友好の念などは欠片ほども見当たらなかった。目は一切笑ってなんかいない。
「少し月島博人くん、あなたとお話ししたいことがあるんですが──一名ほどこの場に不必要な人がいらっしゃいますね」
女の子──あやめは後ろにいたポチの方に振り向く。そのポチは「えっ、僕ッスか!?」と自分の顔を指差した。
「そうに決まっているでしょう、犬飼圭くん。脳みそまでニックネーム通りになってしまったのですか?」
「ちょっ、ちょっと待つッス!何で僕の名前を知ってるんスか!?」
「そんな事答える必要はありませんよ。邪魔だと言っているのです。今すぐ自分の部屋に戻って下さい」
「……」
あやめの肩越しにポチは僕を見る。助けを求めているような目だ。僕はふうと一息吐いてから彼に言う。
「ごめん、ポチ。すぐに終わらせるからちょっとこの場は退いて欲しい」
「ヒロくんがそう言うなら……」
渋々といった面持ちのポチ。しゅんと肩を落としてトコトコと廊下に向かっていった。ゴトンと控えめにドアを閉める音が後から聞こえた。
「で、ポチは帰ったけどさ。一体僕に何の用なの?皆目見当もつかないんだけど」
僕はあやめに問いかける。対する彼女は変わらぬ無表情のままで答える
「白縫筑紫くんに渡して頂くように言伝たはずですよ。剣道同好会の入部届。まだ私に渡ってないようですが」
「あー……」
完全に忘れていた。確かに筑紫から貰っていたのだけど、その後に色々とあったので頭の中から優先順位の低い事項として消えていたのだ。恐らく今も学生カバンの中にあるだろう。
「でも待ってよ。僕はまだ入部──いや、同好会だから入会か、どっちでもいいけど入るとは決めてないよ」
「あなたに入って頂かないと私が困るのですよ──私が」
あやめはそこで一旦言葉を切って、そのまま早口で続ける。
「もうこれは決定事項なのですよ、月島博人くん。あなたがこの誘並に来た以上、私とコネクトを繋げなければいけません」
「……」
コネクト。まるで製品みたいな表現を使うものだ。
「あなたが強情な愚か者であることは私も重々承知してます。だから──交換条件です」
あやめはそう言ってか、ブレザーの胸ポケットの中に手を突っ込む。一秒の間も置かないでそこから何かの紙を取り出した。
「今日の昼休みにあなたのカバンの中を調べさせて頂きました。入部届を書いて来ているか見たかったのですが──面白いものを見つけました。あなたは入部届なんか書いてなかったわけなのですが」
言いながら、手に持った折りたたまれた紙を広げる。刑事ドラマで警部が警察手帳を示す時のような所作。そしてそれは見覚えのある紙。
「『ホオカゴ オモカゲジングウヘコイ』……ですか。どうやら面白いことに巻き込まれているようですね」
「……君が盗ってたの?」
「ええ、見たまま、その通りです」
「……何のために?」
「言ったでしょう?交換条件ですよ」
あやめはのそりと僕にゆっくりと近づいてくる。一歩、また一歩と。眼鏡の奥から睨め付けたまま。今から捕食せんとする肉食の恐竜みたいな、鋭い瞳のまま。
「私ならば三日間とあれば容易くこの手紙の送り主を特定することができます。あなたが望むなら──の話ですが」
「……」
「それだけではありません。あなたが不可思議に思ってること、例えるなら『カオナシさま』、例えるなら白縫姉弟のこと──その全てをあなたに明らかにする事が出来るのです」
「……」
「あなたにはデメリットはないでしょう?差し置いてメリットもさほどないようですが。──しかし、どうしたってあなたには私たちの所に入って頂きたいのです」
有無を言わせぬ口調。見るからにその言葉の奥に何らかの意図があるのが分かるが、それが何なのかは見当もつかない。
「あなたに決定権を与えましょう。今から私があなたにこの手紙を差し出します。あなたが私との糸を拒むのならばどうぞ、これを受け取って下さい。あなたが望むのなら私もこれまでにしましょう。そして私たちの5本目の轍になってもよろしいなら、この手紙を受け取らないで下さい」
言葉の通り、彼女は僕の胸辺り目掛けてあの怪文書を差し出した。少し湿っているようだ。よく見れば彼女の細い腕にもいくつか雫が控えめに浮かんでいた。
「……」
僕は。
僕はその手を、その手紙を。