複雑・ファジー小説
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.25 )
- 日時: 2018/08/06 04:20
- 名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
「人間が生を全うする上で、痛みというものは常に背中合わせにあるものです」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
いつか見た、薄暗い教室。どろりと肌を舐めるような不快な空気。僕は椅子に座ってじっと身動きもせずに頭を下に垂れていた。
教卓に座っているのは少女。顔は見ることはできない。
カオナシさまの夢だ。
「赤子は命を授かってしまった痛みで泣き叫び、成長痛と共に目線が高くなり、そして激しい痛みに耐えながら傲慢にも新たな命を産み出します。どうしたって人間として息を賭していく以上、痛みは決して逃げられない不可避なものなのです」
不可避。
アトロポスの槍。
どこまで行っても付いてくる月のような──
「ではどうして人間は痛みを感じるのでしょうか?人の子よ、あなたの考えを聞かせて頂きましょうか」
僕は何も言えない。何も言わない。
「答えは簡単です。死んでしまわないようにするためです。己の体に傷がついたことに気付くようにするためです。この仕組まれたプログラムが無ければ──人が痛みを感じる事がなければ、人間は今ほどの繁栄を手にしていなかったでしょう。七日間で世界を作り上げた愚神が唯一生命に与えた命綱のようなものです」
少女の声に温度はない。人間らしい温もりや抑揚がまるで皆無だ。僕にでも理解できる言語で喋っているはずなのに、うまく飲み込めない。まるでモールス信号を聴いてるみたいだ。
「心の痛みにしたって同様です。しかしその施しが、波に攫われる人間に神が手渡した一束の藁が、仇となって人は死を自ら死を選ぶこともあります。皮肉なことですね。人間が壊れないように設定したはずが、その痛みを忌むあまりにあっけなく壊れてしまうなんて」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
「回る日常の中で、痛みを悼む暇もなく甚振られるだけ。
「さて、あなたは新しい世界で色々な人に出会いました。繋がりを持ちました。どうですか?ここに来る前のあなたと今のあなた、何か一つでも変わる事が出来ましたか?」
「そうでしょう。変われるはずなんてないんですよ。所詮人間は一人でしか生きられなく、何者にも影響を与えることなんて出来ず、与えられることもありません。一匹狼の群れは一匹狼の群れでしかなく、花束なんて花の集合体にしか過ぎない。いくらあなたが多くの人と出会おうともどこまで行っても何をしようとも結局あなたは一人なのです」
少女は言った。
僕は顔を上げなかった。
「あなたの友達──あの金髪の軽薄な少年も、あの茶髪の痴れた少年も、あの気障な少年も、頭の弱い少女も、皆私の顔を見て願ってますよ。どうですか?そう頑固に首を垂れていないでこの私の顔をご覧になるつもりはございませんか」
僕は、顔を上げない。
「ふふ、強情な愚か者ですね」
そう言って少女は笑ってから。
「また近いうちに再びあなたの元に相見えます。それでは──」
僕は、顔を上げなかった。
「また夢の中で逢いましょう」
一章「Like a dream on a spring night」 了