複雑・ファジー小説

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.28 )
日時: 2018/09/03 22:25
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)

 カタカタカタカタ……とフィルムが回る音だけが聞こえる。

 ここはどこだろうか。眼前に広がるのは行儀よく並んだ赤い椅子の群れ。その先にあるのは大きくて白いスクリーン。両脇を見れば黒い手置きがあって、僕の体重を柔らかなクッションが包み込んでいる。
 僕は今、どこかの古い劇場の席に座っているようだ。輪郭を歪ませるどろりとした薄暗さの中で、スクリーンだけが青白く光を放っている。僕以外の観客はいない。誰もいない。スクリーンの端で四角の列がすごいスピードで下に流れていく。

 カタカタカタカタ……とフィルムはひたすらに、滞りなく回り続ける。

「また逢えたね、博人くん」

 控えめに囁く声が隣から聞こえた。感じるのは懐かしさ、それと愛しい気配。

「うん、久しぶりだね、ともみ」

 僕は答えた。彼女はふわりと微笑んだ。
 フィルムは耳障りな音を立てながら、目まぐるしく回る。忙しそうに回り続ける。
 これは夢なのだろうか。いや、疑うらくもないだろう。彼女に会えるのは夢の中だけだ。

「ともみ、ここはどこなの?」
「どこって聞かれても答えにくいなぁ。あえて言うなら夢の世界……かな?」
「それは分かってるよ。今から何が始まるの?」
「待ってて、すぐに始まるよ」

 ともみはパン、と何かを合図するように手を叩いた。それと同時にフィルムが回る音がパタリと止んだ。今まで不気味な青白い光を放っていたスクリーンがべっこう飴みたいな色に変わる。やがて、ぽそぽそと聞き取りづらい音声とじゃりじゃりとざらついた映像が流れ出す。

──初めまして。月島博人くん、だね──

 スクリーンの奥の女の子はそう言った。雀の音みたいに高くて甘い声。ざらつく映像の中でも彼女の長い髪はとても綺麗で、つややかだった。そして、その女の子には見覚えがある。

「これは……?」
「うん、そうだよ。博人くんの友達の──誰だったっけ?」

 見紛うはずがない。スクリーンに映る女の子は白縫姫菜だ。そして、姫菜と相対しているのは僕。

──君は誰?──

 スクリーンの中の僕は姫菜に尋ねた。不思議な感覚だ。他の誰でも無い自分と誰かが喋ってるのをこうして第三者の視点で見るのは。

──あ、ごめん。次の決勝戦で君と戦う人の姉だよ──

 僕はこの姫菜のセリフに聞き覚えがあった。今映写されているのは、姫菜と僕が実際に初めて会った時の光景だ。確か、剣道の試合で筑紫と戦った後の出来事だった。

──初めましてでこんな事頼むのも変だけどさ──

 姫菜は僕をしっかりと見据えて言う。

──次の試合わざと負けてくれないかな?──

 ともみは手を叩く。静かな劇場の中でパン、と乾いた音が虚しく響いた。その音と示し合わせたようにスクリーンの映像は途切れて、辺りは光を失った。視界は完全な黒に包まれる。

「ともみが消したの?」

 僕は何も見えない中、隣にいるだろうともみに聞いた。うん、と横から返事が返って来た。

「ほら、博人くんと他の女の子が仲良くしてる所なんてあんまり見たくないでしょ?」
「仲良くって……」

 あれが仲睦まじく見えたのなら心外だ。姫菜のせいで初対面の筑紫に八百長を申しかける羽目になったのだから。

「この映像ってともみが流してるの?」
「うーん……、そうなんだけどね」
「……」

 僕は首を捻る。

「私が出来るのは言わば電源のオンとオフだけなんだ。次にどんな映像が流れるかは分からないの。一回消したら自動的にチャンネルが切り替わるテレビみたいなものなんだ」
「ふぅん……」
「ほら、博人くん。また次が始まるよ」

 言うが早いか、またスクリーンから違う映像が流れだす。またセピア色の光で辺りが照らされる。
 スクリーンを眺めて僕は驚いた。映っていたのは僕の後ろ姿だったからだ。それだけならば何も驚くべきことはない。重要なのはその状況だ。
 スクリーンの中の僕がいたのは空港のラウンジだった。
 ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに、原型も留めてないほどにひしゃげた鉄の塊。唯一残った機体の鼻先がその巨大なスクラップが元は飛行機であったことを知らせている。キノコのような形をした爆炎が捲き上るのを、ガラス越しに見ていた。隣には力なく床に膝をついた妹もいた。もくもくと黒煙が止めどなく空に向かっていく。

「これって……何?」

 心なしか少し震えた声でともみは僕に問いかけた。僕はその映像を見ていられなくなって目を伏せたが、ともみの大きな目が僕をじっと見つめているのは何となくわかった。
 ラウンジの中は嵐のようなざわめきで支配されていた。何が起こったか理解できずに窓に向かっていく人。僕と同じように飛行機の中に家族が乗っていたのだろう、呆然と立ち竦む人。青ざめた人。
 僕がどんな顔をしていたか、その映像からは窺い知れなかった。だけど、恐らく無表情でその地獄絵図を眺めていたことだろう。ちょうど今の僕と同じように。

「ちょっと……これはあんまり見たいものじゃないね」

 ともみはパン、と手を叩いた。それと同時に映像は切り替わる。次に映ったのはまたもや見覚えのある風景。目立つ木製の箪笥。大きめなテーブルに椅子が四つ。茶色のファミリーサイズのソファー。登潟で僕が家族と住んでいた家だ。ブラウン管の古いテレビがニュースキャスターの顔を濁らせている。
 スクリーンの中で小学生くらいの年代の僕と、今はもう死んだお母さんの姿があった。ずっと昔の光景だ。お母さんが口を開く。

──あんた、またお母さんの顔に泥を塗ったね──

 吊り上がった目が幼い僕を見下ろす。幼い僕は何も言わず、その目をじっと見ていた。

──何なのその目は……。そんな化け物みたいな目で……。気持ち悪い──

 何も言わない。じっと。じっと見ている。

──見ないでって言ってるでしょ!?──

 お母さんが勢いよく手を振りかぶった。僕に向かって飛んでくる敵意を、幼い僕は瞬きもしないで見ている。
ともみが無言でパンと手を叩く。パチンと映像が切り替わる。

──お母さん達旅行に行くんだって。私はお兄ちゃんと一緒に残るけど──

 ともみがパンと手を叩く。映像が切り替わる。

──すまないけどウチはあの子を引き取れないね──

 ともみがパンと手を叩く。映像が切り替わる。

──博人。お前さえ我慢すれば丸く収まるんだ。他のクラスの子達に迷惑かかるだろ──

 ともみがパンと手を叩く。
 黒い煙がもくもくと上がる。腹に響く爆音。アクリル製の窓がキシキシと軋む。

「──もういいよ」

 隣からボソッとそんな声が聞こえた。慌ててともみの方を見るとすっくと椅子から立ち上がっていた。

「もういいよ、博人くん」
 ともみは両手でパン、と音を立てた。それと同時にスクリーンのキャラメル色の灯が途端に消えた。
 その光だけではない。回りの赤茶色の劇場椅子が、黒い手置きが、視界の端で頼りない光を放っていた誘導灯が、全て最初から無かったかのようにふっと消えた。
 明かりを全て失ったのに、友美の姿だけははっきりと見える。それだけだ。あとはどろりと僕を吸い込まんとするような黒と黒と黒。くるりと、ともみは僕の方に振り向いて言う。

「向こうの世界なんかさ──頑張ったって裏切られる事の方が多くて、求めたって落としていく物の方が多くて、初めましてよりもさようならの方がずっと──ずっと多いんだよ。もうさ、向こうに帰らずにこのままわたしと一緒にこの世界で過ごしちゃおうよ」
「……」

 僕は目を閉じて首を横に振る。僕なりの拒否のシグナルだ。

「……そう……」

 ともみは残念そうな顔をした。その表情に僕はズキリと心が痛んだ。アイスピックを胸に穿てられたような鋭い痛みだ。

「そうだよね……。博人くんはあっちの世界の人だもんね。うん。あっちにいる方がずっといいよ」
「……」

 僕は。
 僕は何を言えるだろうか。

「もうすぐ朝だよ。夜が明けるよ。またさよならだね」

 ともみの体が、その小柄でか弱そうな体が、少しずつ薄らんでいく。川の水のように半透明に、透き通っていく。
 彼女は僕に言う。

「博人くんは向こう側に大切にすべき人がいる。大切にしてくれる人がいる。それだけ、それだけ忘れないで」

 僕は何も言えない。ともみの姿は段々と、すうっと、見えなくなっていく。

「でも私のことも忘れないで。約束だよ」

 何も。

「さよならは言わないよ。またいつか、だね」

 ともみの姿はその声を最後にふわりと消えた。
 何もない空間を黒だけが揺蕩う暗闇の中、僕一人だけが残された。


二章 「Does yellow innocence dream of no face?」開始