複雑・ファジー小説
- Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.29 )
- 日時: 2018/09/27 23:18
- 名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA (ID: 7/g4bQJJ)
五月五日は端午の節句、即ちこどもの日として知られているが、二十四節気の一つ、立夏の日としての側面もある。この日から立秋の日までが暦の上での夏とされてあるが、誘並の地に吹く風はまだ爽やかな温度を保っている。
ゴールデンウィークの最終日。連休中この学生寮飛想館の一室で亀のように閉じこもり、本棚の中で眠っていた未読の本を読んでいたのだが、そろそろ尽きた。両隣部屋の二人はというと、ポチは地元の馬片に帰省しており、レンは部活で多忙を極めている。手持ち無沙汰だ。
机の棚にある道尾秀介の「向日葵の咲かない夏」を手に取って読んでみても、何十回と繰り返し読んだ本だ。冒頭の『油蝉の声を耳にして、すぐに蝉の姿を思い浮かべる事が出来る人はあまりいないだろう』というセリフぐらいは諳んじることができる。
時計を見てみると、二つの針は丁度てっぺんを指していた。空腹を感じないでもない。近くのコンビニでパンでも買ってくるかな、と思った時、机の上に置いていた携帯がブーンと唸った。
「ん?」
ディスプレイには見たことのない電話番号が表示されている。誰だろう。レンやポチならラインで連絡してくるだろう。訝しく思いながら携帯を手に取り、『応答』と書かれた受話器のマークを押す。
「もしもし?」
「ちゃーんヒロー!ハローハロー!灯ちゃんだよーっ!」
「……」
電話の主は言わずもがなというか、灯だった。相変わらず鼓膜にキンキンと響く甲高い声。
「ん?ちゃんヒロ?もしもーし?生きてるー?」
「……」
「ちゃんヒロー!月島博人くーん?」
「……」
「つきしまひろとくーん!会計までお越しくださーい!」
「……」
「ぐーてんもーげーん!にいはお!」
「……」
「も、もしかして番号間違えちゃった!?し、失礼しました!」
「朝っぱらからうるさいよ、灯」
これ以上だんまりを決め込むのも可哀想になってきたので、しょうがなく僕は返事をする。携帯の向こう側から「はっ!」と鳩が豆鉄砲を食ったような声が返ってきた。
「き、聞いてたの!酷いよ!あんまりだよ!アドルフヒトラーだよ!」
「……久しぶりに聞いたねそれ」
「というか全然朝っぱらじゃないよっ!もうお昼時だよ!」
「ついさっき起きたんだよ。僕にとっての朝は起床して二時間経つまでなんだ」
「その理論でいうとあたしにとって今は夕方だよ!」
「……?」
それはあんまり理解できなかった。
電話口から灯の声に混じってコトコトと換気扇が回るような軽い音が聴こえている。料理でもしている最中なんだろうか。
「っていうか何で僕の番号知ってるの?交換した覚えないんだけど」
「こないだ連示っちに教えてもらったの。ほら、ちゃんヒロって聞いても教えてくんなそうでしょ?」
「そんな事ないけど……」
「そんな事なくないよ。中学の時も聞いたのに適当なテレビショッピングの電話番号言ってきたじゃん」
「懐かしいね……、それ」
一応弁明するとすれば、あの頃は自分の携帯なんか持ってなかったのだ。突発的な行動ばかり繰り返すこの娘が実家に電話をかけてきたりしたら、それはそれで面倒なことになるだろうし。
「で、何の用なの?いきなり電話なんかかけてきて」
「あ、そうだったそうだった」
こほん、と灯は咳払いを一つ。
「今さ、不動心の新商品を開発してたんだけどさ。ちゃんヒロに試食してもらいたいなって」
「試食?」
不動心というのは灯の父親が経営している鉄板屋の事で、誘並最大の繁華街である平阪の路地を分けた所に暖簾を掲げている。ネオン街の中で一際目立つ古めかしい店で、灯曰く、「あたしは不動心の看板娘なんだよー」とのこと。僕がこの街に引っ越して来た初日、レンとポチの二人にこの店に連れて行ってもらったが、まあ味に文句のつけようはなかった。地元でひっそりとした人気を誇る隠れた名店なんだそうだ。
「……なんで僕なの?」
「んー、暇そうだったし」
「……」
そうですか。
確かにこのゴールデンウィーク中、常に暇を持ち余し日が落ちるのを横目で見ていたのだけど、今日ばかりは別だった。
「悪いけど今日予定が入ってるんだよね」
「予定?」
灯は僕に尋ねた。電話の回線を挟んでも彼女のトボけた表情が想像できる。
「うん。誘並駅で音楽祭があるじゃん。それに姫菜が出るから見に行くつも──」
「──メだよ」
「え?」
食い気味に遮られた。何を言ったかは上手く聞き取れなかったが、彼女に似合わない鋭い声色だった。
「ごめん灯、もう一回言ってくれる?」
「……」
「……灯?」
「行っちゃダメだよ、ちゃんヒロ」
灯にしては珍しい、有無を言わさぬ言葉。いや、珍しいとかいうレベルじゃない。いつもの軽い調子の彼女からしたら想像できない様子だ。
「……何でかって聞かせてもらってもいい?」
「そ、それは──」
電話の向こう側で灯は口ごもる。数コンマの間、どんよりした沈黙が落ちていたが、すぐに灯は口を開く。
「ほら!姫っちょの出番って六時とかでしょ!?今から行っても絶対暇じゃん!」
「……二時からレン達の吹奏楽部の演奏があるからそれも見たかったんだけど……」
「吹部の演奏なんて文化祭とかでいくらでも聴けるでしょ!?」
「……」
なんて、とまで言うか。この学校の吹奏楽は県内でもトップクラス、とかレンが言ってた気がするけど。
「ほら!つくしんぼも来るから!あの人味覚がバカだからちゃんヒロいないと正当な判断できないよ」
「筑紫も来るのかよ……」
まあ確かに筑紫がいたらハンバーガー入りお好み焼きとかが店頭に並びかねない。
「お願いちゃんヒロ!来ないと飛想館に打ち上げ花火突撃させるよ!」
「……」
懇願に見せつけた脅迫である。
「……そこまで言うならしょうがないな。今から行けばいいの?」
「うん!三十分ぐらいで着くよね!待ってるよ!」
強引に言い通されて、そこで一方的にプツリと電話が切られた。ディスプレイに『通話時間2:30』という文字が映る。
付和雷同というのか、意志薄弱というのか。他人の意見に無理やり押し切られる事が昔から多かった。何度も僕にとって不都合な事を押し付けられ、何度も甘んじて享受することの繰り返しだった。 正直に言うと平阪まで行くのが面倒くさい。
ふう、と息をつく。
目の前の文庫本を本棚の中に戻す。アイウエオ順で整理しているので松本清張と村上春樹の間。そこで机の上に置いていたあの怪文書がふと目に止まった。
『ホオカゴ オモカゲジングウ二コイ』
これが僕の元に届いてちょうど十日経った事に今気付いた。
「あなたに決定権を与えましょう」
少し回想しよう。これはあの怪文書をもらった日の放課後の事だ。
「今から私があなたにこの手紙を差し出しましょう。あなたが私との糸を拒むのならばどうぞ、これを受け取って下さい。あなたが望むのなら私もこれまでにしましょう。そして私たちの五本目の轍になってもよろしいなら、この手紙を受け取らないで下さい」
眼鏡をかけたポニーテールの女の子、あやめが僕に手紙を差し出しながらそう言った。ここは本しかない殺風景な僕の部屋。
彼女の白くて細い手に僅かだが水滴が浮かんでいるのが見えた。未だに外では雨が降っているのだろう。
「……」
僕はあやめに向かってゆっくりと手を伸ばした。その瞬間、今まで一貫して無表情を保っていた彼女の唇が、ピクリと動いたような気がした。親指と人差し指で挟んで僕はその手紙を受け取った。少し湿り気を纏っているのを感じた。
「……そうですか」
ポツリと彼女はそう言った。ほんの、ほんの僅かに落胆の色が感じられた。
「私たちの中には入らない、と。それがあなたの気持ちでよろしいのですね?」
「うん、そうだね」
「……残念です」
あやめはくるりと踵を回した。僕に理由さえ尋ねないまま、彼女は出口に向かって早足で歩いて行った。彼女の華奢な後ろ姿がドアの向こう側に消えていったのを見送ってから、僕は深く息を吐いた。一体何を考えているのか、なぜこんな強硬手段を取ってまで僕を勧誘しようとするのか、まるで分からなかった。
「……一体何だったんだよ……」
僕は彼女が来襲するまでそうしていたように、ベッド脇のソファーに腰を下ろした。今日は厄日なのだろうか。どっしりとした疲労感が肩にのしかかっている。
彼女の勧誘を断った理由は二つ。
一つ目は彼女があまりにも不気味過ぎたからだ。まるで心臓のないアンドロイドのような、あるいは体温のないマネキンのような。その点においては同じく剣道同好会に所属する筑紫だって同様だ。何を考えてるかまるで分からない。あまり関わり合いになりたくないタイプだった。
それともう一つ。
安穏が欲しかった。何も波風の立たない、広い湖のような安穏が。
『人探しをしています』
これは誘並に来た初日、天照高校の近くであやめと会った時に言われた言葉だ。
『あなたはともみ、という女の子をご存知ですか』
酷く昔の事に思えるが、つい二日前の事だ。
果たして『ともみ』は本当にこの世界にいるのだろうか。
「──ん……?」
何かが頭の端っこに引っかかった。何かを忘れているような気がする。それもあやめに関する何かを。
何だったんだろう。あの時あやめが読んでいた本?……いや、違う。ともみの名前を彼女から聞いた後。その後だ。
「あっ……」
思い出した。彼女が落としていったもの。紫色の花が描かれラミネート加工された栞。恐らくあの日来ていた上着のポケットの中にまだ入っている。
僕はソファーから立ち上がり、クローゼットの引き手に手をかける。ネイビーブルーの上着の胸ポケットを探るとやはり栞は中に入っていた。今からあやめを追いかければ間に合うだろう。これは値が張りそうなものだ。
外に出るため短い廊下に出た時に、あちら側からドアが引かれた。見るとポチがドアの隙間から顔を出している。あやめが帰る音を聞いて自分の部屋からこっちに来たのだろう。
「ヒロくーん……大丈夫ッスかー?」
心配そうに眉を落としてポチは僕に尋ねる。その顔は昔実家近くに住んでいた野良犬を彷彿とさせたが、今は彼に構っている場合じゃない。
「ポチごめん!どいて!」
いそいそと部屋に入って来たポチを撥ね飛ばして出口に駆け寄る。「にゃう!?」とポチの驚く声が後ろから聞こえたが、意に介さずにスニーカーに履き替えてから部屋を出た。
フローリング張りの廊下にずらっと扉が並んでいる。雨が降っているからか床が湿気を纏い少し滑りやすい。ランドリーで乾燥機がガタゴト音を立てている。人ひとりいない自習室の横を通り抜け、階段を下り一階へ。
ちょうど部活を終えた生徒たちが帰ってくるぐらいの時間帯だ。昇降口の近くで肩を濡らした生徒の姿が目に留まった。傘立てに置いてあった誰のものかも分からないビニール傘を引ったくって、飛想館から飛び出した。
雨は僕が下校した時よりも更に強まっていた。辺り一面白っぽく煙っている。傘を差してトボトボと歩く天照高校の生徒が何人か見受けられたが、その中にあやめらしき姿は見当たらない。
もう行ってしまったのだろうか。というか今から追いかけても間に合わないんじゃないか?シャワーを浴びて少ししか経っていないのに、と憂鬱に思いながらビニール傘を開いた。長く使われていなかったのか、開く時にぺりぺりという音がした。
「……めんどくさいなぁ」
ため息をつく。また濡れ鼠にならなくちゃいけないのか。
水たまりの中を突っ切っていく。びちゃびちゃ水が跳ねてスニーカーが濡れるのを感じる。すれ違った天照の生徒が、急ぐ僕の姿を見て振り返った。
やがて交差点にたどり着いた。信号機の赤色が濡れたアスファルトにどろりと反射して鈍く光っている。見回して見てもやはりあやめの姿は見つけられなかった。
「つっきー?」
横から聞き馴染みのある声がした。振り向くとレンが傘を差してこっちに歩いて来ている。黒いショートカットの女子生徒が横に並んでいる。
「うわっ!お前どうしたんだよそんな馬鹿みたいに濡れて」
「……まあちょっといろいろあってね」
目を剥くレンに、僕は適当に誤魔化した。彼の隣にいる女子が「連示、こいつは?」と聞いた。
「ん?ああ乃祈、こいつ月島だよ、月島」
「あー……月島くんか」
ショートカットの女の子は妙に納得したような顔をしたが、僕はこの人に見覚えはない。何者なんだろうか。どうせレンの彼女とかガールフレンドとかだろう。
「それよりレン、聞きたいんだけど」
「ん?」
「あやめ見なかったか?」
「あやめ?あやめってあのあやめか?あの眼鏡オンナか?」
「そうだよ」
「あー……、確かさっきバス乗り場に──」
後ろを振り返ったレンの言葉を遮るように大きなバスが横を結構なスピードで通り過ぎた。派手に水たまりの中に突っ込み、茶色に濁った水が僕とレンに向かって勢いよく降りかかる。
「うわっ!」
「ぬおっ!」
洗濯したばかりのジャージの肩口に茶色のシミが一瞬で出来上がった。車道側にレンがいたおかげで女の子は一滴も濡れていないみたいだ。
「──あ、つっきー!あのバスだ!」
「……は?」
レンが指を指した先を見る。さっき僕たちに水を跳ねていったバス。その一番後ろの窓際。眼鏡をかけた、ポニーテール。
「うっわ……」
今日はやはり厄日だったようだ。濡れたジャージはとても冷たく、僕の体温を奪っていった。