複雑・ファジー小説
- Re: Re:Logos ( No.7 )
- 日時: 2018/02/07 00:39
- 名前: noisy ◆7lGlqurDTM (ID: eldbtQ7Y)
暗闇に包まれ、厭に冴える触覚。指を一本、二本と動かし、腕を振るう。すると、何か生暖かい物が手に触れた。掛けられたままの暗視ゴーグルを下ろし、それが何なのかを視認すると同時にクレメンタインは言い得がたい動揺を覚え、すぐに視線の先の人物を抱き寄せた。自分が赤黒く染まっていくのを気にする様子もない。抱き寄せた人物は何処かに強打したのだろうか、瞳は潰れ、貫かれたような大きな傷を腹部に曝していた。出血は夥しいが幸いにも微かにだがまだ息はある。これほどの大出血だというのに、血の臭いが微塵も感じられないのは車内に充満する軽油の臭いに掻き消されているからだろう。
「……サリタ、目を閉じるなよ。まだ助かる、まだ大丈夫だ」
平静を装い、掛けた声にサリタと呼ばれた女は反応を示していた。クレメンタインの右腕をぐっと掴んで離そうとしないのだ。彼女の手に込められた力は強く、それは彼女の生きようという意志の強さを表しているように感じられ、クレメンタインは大きく息を呑んだ。自分は第三科に所属する者、第三科は負傷者の救護を目的としているのだ、死んでいないのならば、生きようとしているならば、是が非でも救わなければならないのだ。それが親友であるなら尚更だ。
車内で充満している軽油の臭いは気分を少しずつ害し、また同時に車内に散る火花がクレメンタインに危機感を覚えさせた。何処かで電路が切れているのか、それとも何かの計器が故障しているのか、火花の原因は分からず、何時引火するか分からない不安は彼女を動揺させるに充分だった。
「……シンディー」
「黙ってろ、すぐに出す」
自動小銃のストックで窓ガラスを執拗に叩くも、それは防弾仕様であるため、蜘蛛の巣のように皹が入るだけで割れる気配は全くない。本来ならば散弾銃でも使って、蝶番を破壊し無理矢理ドアを打ち破るのだが、軽油の臭いが充満している以上、銃を使ってのは破壊という行為は出来なかった。もし事を起こそうものなら、散弾銃から発せられる燃焼ガスに引火し、車内で焼かれてしまい、死ぬ前より煉獄にて身を焼かれるという結末が待っている可能性が払拭出来なかった。
「……ねぇ」
「黙れッ! 痛み止め位は自分で打て!」
語気を荒げるクレメンタインであったが、それは血を、命を流す友に対する怒りではなく、車内で焼かれるとも分からない不安、焦りによるものだ。沸々と自身に対する不甲斐なさが沸き立ち、思わず泣きたくなってくる。叫び、取り乱せば誰かが助けてくれるだろうか、ぐるぐると回っては乱れていく思考に吐き気すら覚えてしまう。それでも尚、彼女の腕は止まらず防弾ガラスを執拗に叩いていた。
「ねえ」
耳に届いたサリタの声がとても冷たく、そしてはっきりとしていた。今にも消え入り、死んでしまいそうだった彼女から発せられたとは信じがたい、その声。悪寒を覚えながらも、小銃の安全装置を解除しつつ、クレメンタインはゆっくりと振り向いた。彼女の厳かで据わった青い瞳が大きく見開かれた。
視線の先の友は——サリタは人成らざる化物の姿をしていた。肌は死人のように白く、瞳は大凡人間に有るまじき漆黒。瞼には赤黒い血がこびり付き、腹の風穴はすっかり塞がっていて、穴の空いたフラックジャケットから覗く肌もまた白い。その姿は変異生物、人間の敵、ノスフェラトゥという仮称を与えられた化物、その物だった。
「ねぇ、シンディー。撃って」
介錯を求めているのか、はたまた此処で共に死ねと言うのか。彼女の意図を押し計らう程、思考出来ず、また彼女が求めるように引き金を引けなかった。
「やっぱり……、そうね。貴女は私を救えないのね」
その言葉がクレメンタインの心を突き刺し、抉り取るよりも早くサリタだった化物は彼女へと飛び掛っていく。最早、人間の物ではない爪がクレメンタインの左の頬を掠め、頬の肉と数本の歯、歯茎とその骨を削り、抉り、奪い取っていく。痛切な悲鳴の一つ、上げる事もなく、瞳を見開きながら自動小銃の引き金を引いた。銃弾はサリタの胸と額を穿ち、人間の物よりも黒く、粘性の強い血液を辺りに撒き散らした。見開かれた青い瞳と黒い瞳は閉じられる事なく、激痛に歪む事もない。目の前で静かに死んでゆく嘗ての友をぼんやりと見下ろしながら、クレメンタインは抉り取られた頬に手を添え、慟哭するのだった。
飛び上がるようにして、起き上がると枕が宙を舞っていた。荒く呼吸を二度ばかし繰り返し、辺りを見回す。見知った天井と壁紙が視線の先にあった。眼鏡はベッドサイドのテーブルに置かれていて、その脇にはミッターナハツゾンネが書いたのだろうか、お世辞にも上手いとは言えない文字で書かれた置手紙があった。飲み過ぎたのだろうか、それとも悪い夢のせいだろうか。僅かに痛む頭を擦りながら、ゆっくりと起き上がった。眼鏡を掛け、鏡も水に手櫛で髪を整えて、手紙を取る。案の定、酔っ払って潰れた、部屋まで連れて来た。という旨の内容であった。
「後で詫びるか……」
自嘲を浮かべ、再びベッドに腰掛ける。まだ電源の入っていないタブレットに写る自分の顔、その左に走る大きな傷跡を指先でなぞれば、あの悪夢の光景が蘇っていく。そうやって指先が傷から離れると同時にクレメンタインは大きく溜息を吐いた。死んだはずの彼等は全員がNファクターを投与していた。死んだなら皆が皆、人間の敵である化物と成り果てた可能性がある。生前の姿をある程度保ったままで、異形と化し、嘗ての同胞は何れ敵として舞い戻ってくるのだろうか。その時、自分は無遠慮、無感情に引き金を引けるのだろうか。サリタを手に掛けた時のように、引き金を引けるのだろうか。頬の傷とサリタの死はクレメンタインの精神を朝から蝕んでいた。気に病むな、気にするな、そう自分に言い聞かせながら身支度を始める彼女の足取りは重く、動作は緩慢とし、何故か痛む頬の傷跡に表情は冴えなかった。