複雑・ファジー小説
- Re: Re:Logos ( No.9 )
- 日時: 2018/04/19 20:40
- 名前: noisy ◆7lGlqurDTM (ID: eldbtQ7Y)
生還者の存在に、クレメンタインは喜び、不器用な薄っすらとした笑みを湛えながら彼等を出迎えた。左頬の傷跡のせいか、やや引き攣ったように見えていたが、それでも彼女なりの精一杯の笑顔なのだろう、と陸は思ったのだが、彼女は陸にとって、不快感を抱かせるような言葉を述べていた。
「君達は使い捨ての英雄にならずに済んだようだ」
この言葉が陸の頭の中を反復する。自分達は使い捨ての存在なのだろうか。それとも、人から待ち焦がれられる英雄なのだろうか。はたまた、言葉の綾なのか。普段から尊大な言い回しをするクレメンタインだったが、この言葉はやや無神経に思える。死んでしまった人たちは使い捨てで、自分達は英雄なのだろうかと頭を悩ませる。
ふと、自分の腕に繋がれた点滴のパックを見遣る。まだ七割以上残っており、全てを投与し終えるまで、暫く時間が掛かるというのが見て取れる。一端、Nファクターを使用した者達はこの液体を定期的に投与しなければ、化物へと変質してしまう。本でも持ち込めば良かった、と少し反省しながら隣のベッドを見ると、自身と同じようにNファクターの再投与を受けているヴァルトルートが眠っていた、彼女は普段の様子からは信じられない程に静かな寝息を立てている。
「ネーベル? これ終わるまでどのくらい掛かりそう?」
点滴を繋がれた腕とは逆の腕を上げ、点滴パックを指差しながら陸は問う。ネーベルと呼ばれたオートマタは、モスグリーンの瞳を彼へと向けて、くすりと小さく鼻で笑いながら近寄ってくる。
「五時間は見た方が良いわね」
「……随分掛かりますね」
「えぇ、急に入れたら副作用があるから」
さも当然のように語るネーベルは椅子へと腰掛け、医療品のカタログを見つめていた。安そうな物を探しては、五科へと購入請求を掛けるのだろう。それもしつこく、何度も。
「副作用、ですか」
「体質次第だけどね」
「いまいちそういう知識がないんですよ、どんなもんなんですか? 副作用って」
「そうねぇ……。五科長が詳しいわよ」
「元三科でしたっけ」
「それもあるけど、彼女にはそれ以外もあるのよ。取り合えず私は忙しいから、点滴終わるまで寝てなさい。"英雄"ちゃん」
どこかネーベルの毒を孕んだ言い回しに、陸はややムッとした表情を浮かべるも、抗議の声を発する訳でもなく、ぼんやりと天井を見据えた。ネーベルが整理している書類同士が擦り合わされて発せられる音が、何処か心地よく、瞳を閉じれば襲い来る獰猛な睡魔に抗う術はなく、いつの間にか微睡に堕ちていた。
はっと目が覚めた時、医務室には誰も居なかった。厭に静まり返り、橙色の薄明かりだけが天井から降りてくる。その明かりを頼りに腕を見ると、点滴は外されていた。Nファクターを投与し終えた時、特有の酩酊感を感じながら陸はベッドから身を下ろした。隣のベッドにヴァルトルートの姿はない。ベッドサイドの鏡の中の自分は、酷く呆けたような表情をしていて、これではいけない、と頭を左右に振るい、頬を軽く叩く。そうして再び鏡を見ると、いつもの自分が戻ってきていた。ホテルカリフォルニアから、漸くチェックアウト出来たらしい。涼しい風が髪を靡かせる訳でもなく、コリタスの匂いが漂っている訳でもない。
自分の部屋に戻り、寝直そうと思い、陸は医務室から出て行く。食堂とラウンジを併設したスペースは深夜だというのに、明るく白けている。ラウンジではオートマタ達が百年も前の映画を見ながら、興奮気味に雑談をしていた。食堂の明かりはラウンジと比べると少しだけ暗くなっていたが、微かに水の音が聞こえていた。五科のコック達が蛇口でも締め損ねたのだろうかと、首を傾げながらゆっくりとした足取りで厨房へと向かっていく。一歩ずつ進む毎に水の流れる音は大きくなり、同時に人の気配らしきものをしてきていた。
「気配も足音も消して何をしにきたのだね」
不意に背後からする聞き覚えのある声に、陸は驚いた様子で一瞬だけ硬直し、すぐさま振り向いた。声の主はクレメンタインだった。彼女は相変わらず、愛想も愛嬌も微塵も見られないような仏頂面で陸を見つめていた。心なしか、彼女の顔はやや紅潮して見えたが、手に持たれたジョッキとショットグラスから酒でも呷ったのだろうと容易に憶測がついた。
「いえ、蛇口が開いてたみたいなんで」
「洗い物の最中に何かが近寄ってくるもんだからな。思わず後に回っただけだよ。持ちたまえ」
「え、あ、はい」
押し付けられるような形でジョッキとショットグラスを持たされた陸だったが、特に不快に思う事はなかった。彼女をじいっと見つめていると、ネーベルの言葉が脳裏を過ぎるも、いきなり問うのは得策ではないだろうと、少しだけ雑談を挟もうとしていた。
「だいぶ飲んだみたいですね」
「あぁ、スタウトを沢山、テキーラを少々。ボイラー・メーカーを沢山だ」
口調はしっかりとしているが、何杯といわないあたり酔いが回っているのだろう。クレメンタインを現場主義で、事務方では昼行灯だと揶揄するお偉方も多いが、彼女は決してそういう訳ではない。仕事は完璧にこなす、云わば現場の神様である。記憶力とて普通の人間より優れている。でなければ、二十代半ばで王立陸軍医療軍団第254医療連隊の大尉にまで上り詰めていないだろう。
「あんまり飲むと残りますよ?」
「だろうな、寄越せ」
「あ、はい。──ああっ!」
ジョッキを手渡したつもりなのだが、クレメンタインが取っ手を掴み損ね、シンクに叩き付けられるように割れてしまった。すると、クレメンタインは自分の手を見据えたまま、固まってしまい何の反応も取らず、陸は不安気に彼女の顔を覗きこんだ。
「五科長……?」
「切れた」
陸の目の前で開かれた手は、確かに掌にガラスの破片が刺さっていて、血が滲んでいた。
「今救急箱持ってきます」
「問題ない」
右掌の傷に舌を這わせ、血を舐め取りながらクレメンタインは言う。何処か背徳的に見えるその光景に目を奪われていた陸だったが、彼女は横目で彼を見るなり、小さく鼻で笑っていた。
「この程度で貴重な医療品が使えるか、唾でも付けておけば治る」
「……良いんですか、傷の処置は大事だって三科の人たちは口酸っぱくして俺に言って来ますよ」
「三科は自分の怪我は後回しだ、他の負傷者救護が先だと叩き込まれてきたからな。それに私は非戦闘員だ、多少傷があったとしても差し支えはないよ。寧ろ箔が付く」
やや上機嫌に見えるのは気のせいだろうか、クレメンタインの言葉が妙に軽く、少しばかりの違和感を陸は感じていた。
「そういえばネーベルから、五科長がNファクターの副作用に詳しいって聞いたんですが、本当ですか?」
「詳しいというより覚えざるを得なかった、実例も見たしな」
「実例ですか」
「あぁ、実例だ」
それ以上はクレメンタインも語ろうとせず、どうにも陸の性格上聞き入ってはならない領分の様に感じてしまい、適当な相槌を打つ事しか出来なかった。というよりもクレメンタインの様子はNファクターの副作用について、教えたくないというように見えた。「実例」という言葉を吐いた時の彼女の表情は、まるで苦虫を噛み潰したかのような表情で、思い出したくもない物を思い出したかのように見えたのだ。
「そうですか……」
「あぁ、そうだ。陸も此処に居る内に何時か実例を見る事になるだろうさ。辛いが……仕方ない事なんだ」
それだけ呟くように語ったクレメンタインの眼差しは、どこか憂いを帯びているように感じられ、らしくないと陸は見入っていた。そのせいか、陸の頭に伸ばされたクレメンタインの右手を避ける事もなく、黙ったまま撫で付けられていた。まるで案ずるなとでも言わんばかりに、宥めるように優しげだった。しかし、それは陸に向けられた物ではなく、まるでクレメンタイン自身が自分を落ち着かせるためにやったかのように、陸には思えて仕方がなかった。その理由は何故か分からない。だが、そこに口に出せない、出したくない何かが確かに存在しているような気がしていた。