複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.117 )
日時: 2018/11/02 12:30
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

 時は少し遡り、真凜は怒り狂う蛇の姿をした異形の使徒と対峙していた。相手の吐き出す熱線に怯むことなく、そして浴びることも無く、その包囲を、掃射を、かいくぐり、中天を駆け抜ける。空の上を意のままに泳ぐその蛇のような胴体は、今にも絡まってしまいそうなのに、器用にも檻のように真凜の逃げ場を塞ごうとするのみで、自分に不利には働かないようだ。
 しかし、複雑怪奇に絡まり合っているとはいえ、大柄な体躯故にどこかしら逃げ場はある。開けた空間は一秒、また一秒と移り変わっていくせいか、予め逃げ道を確保しておかねばすぐさま捉えられ、体表の炎鱗に焼かれてしまうだろうが、真凜にとって回避など造作も無い。
 次はそこ、今度はそちらの門が開く。駆け抜けた先には行き止まりが現れるため急下降。単純な速度だけで言えばその龍の方がよほど優れている。しかし、先見の能力がある真凜に、絶対的な速度だけでは追い越せていても捉えられない。追い抜き、その進路を断ったかと思えば、その瞬間には切り返している。
 それこそ、捕えるためには兄である奏白程の速度が無ければ不可能だ。それに加えて、適切な瞬間にカウンターのレーザーや砲撃に反応できるだけの反射神経も要求される。どの瞬間にどの位置にその姿があるのか真凜は理解した上で魔力の砲弾を射出できる以上、攻めているからといって相手は気を抜けない。
 メルリヌスの機嫌次第ではあるが、近頃では砲弾、爆弾以外にも鋭利な槍や矢のような形に錬成した魔力を飛ばせるようにもなった。気分屋なところが余りにも大きい上に、己の能力に絶対的な自負を持っているせいか、メルリヌスは曲芸じみた魔法の使い道を是とすることは少ない。適切に未来視を行い、それらを鑑みて最適な迎撃を為せばそれだけで如何様な者をも屠れると信じている。
 今日はいやに上機嫌な日だった。六月以降、こき使われることが多かったせいだろうか。フェアリーテイルという未曽有の災禍が漸く今日終結するとなれば、その華々しい千秋楽は派手に暴れたくなるものなのだろう。気分屋であることは最早否定のしようが無いが、それと同じぐらいにメルリヌスは目立ちたがり屋で自尊心も強い。その技量を誇示するためには、今日ばかりは曲芸も辞さない所存のようだ。
 飛び交い、避け続ける真凜の背後を追いかけ、一対の真紅に燃ゆる眼光は迫り続ける。振り切るために幾度となく宙で旋回を繰り返しているが、それでも執念深く追い続けてくる。おそらくは、許せないという、言葉にすればいたく短い激しい想いに駆られているだけだ。只管に、その怒りの矛先を向けた真凜を、考えなしに追い続けている。
 本能と感情だけで動く、単細胞な獣に過ぎないというのに。振り切れない現実が、彼が強者たることを明確に示していた。魔力のヴェールを鎧のように纏っているおかげで、その龍の身体から漏れ出た熱気に燃やされずに済んでいる。おそらくこれが無ければ太陽に近づきすぎたイカロスのように、無様に地に落ちていたことだろう。

「確かに貴方は強いけれど……」

 単純な実力を値として換算した、数値の大小を比較する戦であれば真凜の敗北だ。しかし、こと戦闘の勝敗において、その結果を左右するのは何もそれだけではない。心の持ちよう、環境、周囲の援助、最後に天命。様々な条件やバイアスが複雑怪奇に混ざり合った中で、勝利へと繋がる細い糸を手繰り寄せた人間にこそ、女神はほほ笑む。
 メルリヌスの未来視は、さながらその糸を大海の中から見分けられるようなものだ。徹底的に間違いを潰す。最適、あるいは最上に極限まで近づいた答えを探し出すことができる。死なないための道を、負けないための道を。そして待つのだ、その時まで。敵がおのずと敗着へ繋がるダミーの綱を手にして、思い切り引き込んでしまうまで。
 そうやって、彼女は戦ってきた。これまでの戦闘を、何度も。同じように、明らかに自分よりも格が上の者とも対峙して。

「私、番狂わせは得意なの」

 気は抜くな、緊張の糸を緩めるな。しかし視界を狭めるな。自分には見える景色が他人より広大に広がっている。自分にしか見えない不明瞭な領域さえも。未だ確定し得ない事象さえも思うまま、大魔法使いの能力にて察知することができる。
 熱くならず、意固地にならず。冷静に、勝利への方程式を解くほかない。近道など無く、石橋を叩いてでもその安全性を確認しろ。無事な姿を待ってくれる人がいる。自分が乗り越えられると信じてくれる人がいる。沈着に分析するべきだ。この敵と比べたら、アレキサンダーの軍隊の方がよほど把握が困難だ。桃太郎の方が、よほど迅い。さらには、赤ずきんの方が、ずっとずっと一打が重たい。
 バランスよく全ての基礎値が高水準かと問われれば、そうだとも言えない。特に状況判断能力など、理性と共に憤怒の業火に焼け朽ちている。ただただ腹の奥から煮え滾り、溶岩のように吹き出す衝動に衝き動かされ、殺すべき対象を追っているのみ。そのような深謀遠慮のまるきり駆けた、剥き出しの敵意になど、負けてやるつもりは毛頭ない。
 再び、スノーボードを滑空させる向きを直角に折り曲げる。一瞬後には眼前に、赤い炎を纏った胴体が出現するのが視えたためだ。代わりに障害の無くなった上方へと駆け抜ける。炎の格子から脱した真凜は、その龍の頭上から全貌を見下ろしていた。醜い炎に身を包む、怒りと復讐の化身。あまりにも醜い感情のみを与えられた、悲しい怪物だ。
 彼自身は悲しいだなどと感じられないのだろう。涙を流す能も与えられていないのだろう。しかし真凜の目には血の涙が見えるようであった。強大な能力を持つ誰かを妬み、苛立ちの形でぶつけるしかなかった自分が、不甲斐ない自分の無能ぶりを許せず、路を誤ったあの日の己が、怒り狂う化生の姿に重なって離れない。癒着したまま、醜い感情を剥き出しにさせていた自分を悔い、そこから脱せていない怒れる従者を憐れまずにはいられなかった。
 絡めとるはずの彼女が、いつしか鳥かごから脱出していたことに、より一層の苛立ちを募らせる。もうとっくに、深く思考するだけの余地はその頭に残されていないというのに、より一層に、熱を帯び。さらには、よりどす黒く染まっていく。煤混じりの黒煙が上がるというよりも、その憎悪の篝火はそれそのものが、どす黒く淀んでいた。
 その、胸の内の感情をあるがまま投影しているかのように。
 知っている。彼女はそんな様子を眺めるに、誰に言うともなく頷いた。周りのものが、何一つ見えなくなってしまう程、自分さえも見失ってしまう程、怒りはその人を呑んでしまう。自力では絶対に脱出できない。できたとしても、引き裂かれそうな心痛に耐えねばならない。こんなにも赤熱した想いを抱えているというのに、誰にぶつけることもできず、ただ一人その身体の芯を焦がし続けたまま、向き合い続けねばならない。孤独のまま乗り越えられる者など、一体どれほどいたものだろうか。
 だから誰かにぶつけてしまう。ぶつけられた誰かも、また別の人に。そうして連鎖して、繋がって、ぶつけ合って押し付け合って、最後の最後に、誰にもそれを渡せない人が抱えてしまう。心配かけないようにと笑って、その裏で、涙を隠す人間に、押し付けてしまう。
 そんなのはもう御免だ。優しい人が壊れてしまう姿など、もう彼女は見たくなかった。だが、それだけではなく、願ってしまう。志してしまう。どうせなら自分も、そう言う人になりたいものだと。
 そっぽを向けたくなるような、汚い自分の反面と、向き合えるだけの人間に。実のところ、『彼』もかつては、そんなことできてはいなかった。けれども、為し遂げてみせたのだ。真凜の目の前で、さらには他の仲間の目の前で。無二の親友の、目の前で。
 ずっと受け入れることを拒絶し続けてきた、己の映し身を、自分の一部だと、必要な欠片の一つだと受け入れた。認めていた。だからこそ今の彼は、以前の彼よりもずっと大きく見える。以前の彼でさえ、彼女よりもずっと大きな存在だというのに。

「仲間なんだって、言ってあげたからにはちゃんとそれらしい事見せてあげなきゃね」

 だって私は、大人なんだから。

 何もない空間から、次第に蒼い粒子が立ち昇る。収束し、幾千の槍を展開する。指すは龍の眉間、あるいはその首にて輝く橙色の玉石。穿ち、引き裂くのは均衡。互いに消耗を重ねるのみの不毛な時間はもう終わらねばならぬ。真凜は当然体力の摩耗、そして相対する化け物はと言えば、神経がすり減っている。疲れ知らずの肉体は羨ましく想えども、自分でさえ自覚できないまま怒りに自我を溶かしていくその姿は、見ていられない。
 おそらく自分では、あの度し難い感情を発散させてはやれない。それ以上の正の感情に、転換させてはあげられない。ならばできることは何だろう。考えても、一つしか結論は見当たらない。そこに至るしか無いのかと、思慮の足りない己が嫌になる。
 仕方の無い事だと割り切る。情けをかけていいのは、同情した上で圧倒できるだけの強者の特権だ。今や彼女は自覚していた。私は、才能だけの弱者に他ならないのだと。より強い才能を持つ人を見てきた、同じだけの才を自分以上の努力で磨いた肉親を見てきた。私は弱いから、だから、非常に徹することだけが、最も人道的な選択だと断定した。
 あれは敵だ。その理屈を後押しする。あれは所詮傀儡に過ぎない。立ち塞がる人影を、人間では無いと言い聞かせる。これから自分は人間を手にかけるのではない。哀れなかぐや姫の人形を、処分するだけだ。見た目が人間と同じだけ、血も通っていなければ人間らしい感情も、ただ一つを除きその他一切を欠落している。
 青空の遥か高みよりもよく澄んだ、透き通る蒼の槍。指揮者のごとく腕で指示を出す。真凜のイメージに寄り添って、思い思いに刃の葬列は天を駆けた。真正面から鼻先へ眼へと降りかかる先駆けを、灼炎一つで従者は消し飛ばす。真凜の放った槍を焼き尽くしたまま、その紅蓮の業火は彼女のもとまで迫りくる。虹色の反射板を用いて跳ね返したところで、全身が炎に包まれた怒りの化身は、怪我一つ負おうともしない。
 天に唾を吐く愚か者とは違うという訳ねと、攻撃の反射に意味は無いと再確認する。事前に周囲へと迂回させておいた残る槍の群れが、四方から次々と蛇の如き体躯に降り注いだ。ここまで戦闘が長引いて、いくつか気づいていることはある。体表に纏った炎は、あくまで鎧。人間が直に触れられないようにという程度のものでしかない。口から吐き出す、触れた者を全て一瞬で消し炭へと変容させる類の猛火ではない。
 だからこそ、先ほどからこちらの攻撃も通用してきた。砲撃をぶつければ顔を顰め、光線を浴びせれば苦悶に喘ぐ。ならば鋭利な斬撃でも斬り裂ける可能性がある。宙を踊るように、あるいは這うようにしてまた、南天の空を大蛇が泳ぐ。槍の間隙を縫うようにしているようだが、それさえも全て真凜の掌の上だ。未来予知の結果によって導き出される進路に向けて、予め矛先を向けておく。
 またもや鼻先を掠める切っ先にも、もはや反応しているだけの余裕が従者には無かった。それは別段、それ程までに焦っているためではない。確かに余裕が無いというのは事実ではあるが、忙しないせいで平静を失っているのとは程遠い。耐えられないほどの狂気が湧いてくるためだ。全て壊せと、我が身さえも顧みるなと。
 南の天に高く昇る、神聖な光放つ炎の化身。それが今の俺の姿なのだから。であれば、気に食わぬもの全て、万象一切灰燼と帰すべし。短絡的な衝動のみが、またしても理性を押しつぶす。端からそんなもの存在していなかったと己に錯覚させるように。真っ当な判断能力も冷静な状況把握も何一つできないまま、それで構わないと雄たけびを上げる。
 もはやわざわざ回避に転じる暇さえも惜しい。腹が貫かれようが、鱗が剥がれ落ちようが、殺せぬ屈辱と比較してしまえば全てが些事だ。破壊の追いつかぬ自身の不出来を呪うことと並べてみれば、全てが矮小な事実だ。腹の奥底が熱い。燃え盛る血が滴っているせいだ。煮え滾る体液が零れているせいだ。血と呼ぶには似つかわしくない、水銀のごとき雫ではある。彼らの身体の蘇生は人間とは違う。あくまでも、虚構の存在。
 それでも、負傷した事実に間違いは無い。ぼたぼたと命が漏れ出ているというのに、それさえも気が付けない。腸(はらわた)が煮え滾っているのは何も今に始まった事ではないのだから。この我が身をも燃やし尽くそうとする、精神をも蝕む感情は、常に五感を鈍らせていた。気を抜けば、仕えるべき主君にも、この激情をそのままぶつけてしまいそうな程だ。
 どうして、どうして、どうして。その四文字までが頭の中を埋め尽くしている。そこから先は思い浮かばない。果たして自分は、主君に何を抗議しようとしているのだろうか。感謝の感情を与えられていないとはいえ、それでも特別な道具を賜った事実に敬服せざるを得ないはずなのに、何を訴えようとしているのだろうか。
 分からない。分からない事実が、加えて、分からないのに主に牙を向けようとしている自分のことが、より一層に許せない。護るべき者に反駁しようだなどと、存在意義に反してしまう。しかし、持てあますこの怒りというものはそれ程までに見境が無い。理不尽にも、手当たり次第に隣に立つ者に降り注ぐ。
 それはさながら、見たままの己の姿と何も変わらなかった。炎の化身である自分にはもはや、常人であれば近寄ることも叶わない。降りかかる火の粉を浴びるだけで、そのまま不幸を嘆いて死んでしまう。寄り添うことも能わない。なぜなら、近づこうとするだけでその肌を突くような痛みに、拒まれてしまうから。
 何人をも拒む孤独な業火。熱いはずだ。肌はヒリヒリと灼けるだろう。喉もからからに乾くだろう。下の上は罅割れて、汗ももう一滴も落とせぬほどの乾物となるだろう。それなのに、龍の胸の奥は嫌に冷たかった。腹の方はそのまま焼け落ちてしまいそうなのに、凍てつくほどの吹雪が、肺の中を渦巻いているようだ。
 極北の突風のようだと思っているのに、口から吐き出せばそれは途端に劫火となって宙を飛び交う。触れた物質にその熱を映し、形を歪めて黒く塗りつぶす姿に、違和感を覚える。これが炎であるならば、この絶対零度の胸の内は、一体何だと言うのであろうか。
 それは当然、彼には分からない。判る由も無い。失ってしまった訳では無い、初めから与えられていなかったせいだ。心ある者が、その精神を砕いてしまわぬため、定められている筈の機構が、彼には与えられていなかった。ストレスだけは、怒りのせいで溜まってしまうというのに。
 身体の中頃の部分を、数百の刃に貫かれたまま、またしても獰猛な獣のごとく、咆哮が打ち鳴らされる。強い振動が臓腑を揺らし、弱い嘔吐感が真凜を襲った。胃の内容物が逆流しそうになるが、何とかその催吐をもねじ伏せ、呑み込む。
 己が傷ついた事にも、気が付かず、ただその血潮をだらしなく垂らしながら、それでも涙は一つも流すことができない。

「可哀想ね、本当に」

 見ていられなかった。怒りに囚われ、他人にその苛立ちをぶつけることしかできない獣が。その行動に、振舞いに、きっとあの従者は本能的に、違和感を抱えている。それが『悲しいこと』であると、悲哀の感情を知らないままに勘付いている。
 されども、彼は悲しむことができなかった。だからこそ、その違和感の正体が分からない。それゆえ、氷のような異物と、身を焦がす衝動の狭間で、常に心の安寧は失われている。人間であれば、悲しければ泣けばいいというのに。かぐや姫の従者には、それさえ許されていなかった。

 だから。


「……荒療治で申し訳ないけれど」

 助けてあげるんだから、文句言わないでよねと、最早聞く耳さえ持たぬ龍に、真凜は呼びかけた。