複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.118 )
- 日時: 2018/11/19 00:24
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
助けてあげるんだから、文句言わないでよねと、最早聞く耳さえ持たぬ龍に、真凜は呼びかけた。
閃光、また一つ瞬いて。透き通る青がまた空に軌跡を残す。適切に配置した反射板でその進路を変えながら、上下左右からタイミングをずらし、光の矢が線を描く。真正面から撃ち合えば、まず間違いなく竜の息吹にてかき消されるだろう。
正面突破は困難。単純な馬力だけならば自分の方が劣っている。番狂わせを起こしたいと望むのならば搦め手を用いて、あるいは技巧を使って攻め立てる。両者の間に違いがあるのかは分からない。力の及ばない領域を知恵と技術で補うというのならばどちらも変わらない。それを小賢しいと考えるのか、あるいは理知に優れていると捉えるのか。それだけの差異だろう。
卑怯だと謗られても構わない。賢者であると褒められたところで歯牙にもかけない。彼女が欲しているのは、ただ立てた誓いを果たすことだけだ。もう二度と自分の信念を見失わず、目標を曲げず、望むがままに見たい未来を予知でなく自らの双眸で見届けて見せる。
全身全霊を振り絞る。確かに下に攻め入った他の従者達のことを考えるのならば、ここで全て使い果たしてしまうのは愚策にも思える。しかし、一番愚かであることは体力の節制を目的とした結果、目の前の手負いの獣に押し切られてしまうことだ。
だからここで、全て出し切る。理性を失った獣とはいえ、本能は失っていない。むしろ直感じみたものは研ぎ澄まされえているくらいだ。その証拠に、我が身を顧みずに戦っているように見えて、その実致命傷だけは的確に避けている。眉間を貫きかねない弾丸は灼熱の息吹で焼き払い、心臓を穿ちかねない光線は身を捻って回避している。
避けられるのは構わない。むしろそれこそが彼女の狙いだった。真正面からの一斉掃射で気を引きながら、不意に四方からの狙撃を重ねる。肉を切らせて骨を断つ、それを示さんがばかりに龍の巨躯が甘んじて真凜の魔術をその身に受けるも、どれもこれも決定打にならない。仕留める気で放ったレーザーに弾丸は、悉くが無力化されると言うのに。
だから一切の容赦は持ち合わせない。これは救いだと意志を改め、また放つ。撃って、撃って、撃ちまくって、細い糸がより合わさって太く強靭な糸となるようにメルリヌスの魔力で夜空を塗りつぶしていく。計算された道筋をなぞり、虹色の天板に跳ね返り、乱反射する青い熱線。全方位から怒れる従者に襲い掛かるも、首にぶら下げた玉石に当たりかねないもののみを、身を捩って避ける。その他の威嚇射撃はといえば、鱗を弾き飛ばし、その強靭な皮を引き裂き、鋼のような肉体に風穴を開けたというのに。衝動が支配するその巨体には、僅かばかりの痛みも走らない。
また、目元から零れ落ちる炎鱗の残滓が見えた。紅蓮が零れるその姿は、まるで血涙のようで。泣きたいのに、涙を流せないようにしか真凜には見えなかった。苦悶こそ感じているのにその事実を悲しめない様子が、哀れでならない。
対峙している自分が撃ち抜いたから、泣いている訳では無いのだろう。怒りこそは真凜自身がきっかけとなってしまったかもしれない。けれどもあの涙はきっと違う。あの血涙の要因となったのは向かい合う真凜などにはあらず、きっと龍と化した彼自身の背後に立っている。
彼はきっと、運が悪かった。四分の一の確率、最悪の外れを引き当てた。隣で戦っていた、奏白 音也に敗れた従者は、相対する者にとってはこの上なく厄介この上ない類の、災害に等しい奔放さを携えていた。それは、第二者にとっての最大の不幸者だ。
だが、彼はどうだろう。怒りしか知らぬと口にして、怒りと縁遠い涙を流し、頬に赤い線を引くこの男は。この怒りの従者こそがきっと、最大の不幸をその一心に背負ってしまった男だ。
私が相対するのはお門違いなのかもしれない。そんな事も、考える。強すぎる怒りが身を滅ぼすと、彼女以上に知っている者がいるから。その人こそが、彼に諭してあげるべきではないかと、伝えてあげるべきではないかと。身を焦がす怒りに晒されたことのある人間こそ、教えられることがあるのではないだろうか。
嫉妬はきっと、ただの淀みだ。怒りが炎に例えられ、本人にも危害を加えてしまうのに対して、それはあまりにも矮小な影響しか及ぼさない。ただ、『私』だとか『僕』という人間をより汚い誰かに染めてしまうだけ。私はあの人と比べて色褪せてるから、淡い色をしているから、もっと濃くならなくちゃって絵の具のチューブを握りつぶす。溢れたのは、陰惨な、憎悪と同じ色の塗料だけ。元々あったはずの自分だけの色さえも全部上から塗り替える。卑怯で、可哀想で、心が汚くて見ていられない。性格の悪い誰かさんにしかなれなくなってしまう。
憤怒と比べてしまうと、あまりにも凡庸で、ちっぽけで、取り上げるに値しない、卑怯者の逃げ道。乗り越えたとはいえ、その程度のもの。この声が届くのかは分からない、けれども。
どうして、こんなに冷たいんだろうなあ。
あんなに、暖かそうに見えたのに。
あんな事、もう思わせてはいけないのだから。
チャンスは一度きり。機会を窺え、決して気を緩めるな。己に言い聞かせ、またしても全方位掃射。もう一体、どれほどの砲撃を撃ち放したことだろうか。しかし、気力はまだ残っている。メルリヌスから借り受ける魔力にもまだまだ余裕がある。未来視を重ね、最善の未来を選択し続ける。次に狙撃すべき地点は、次に取るべき進路は。
炎に呑まれないか、その体躯に弾かれることは無いか。あるいは、真凜への関心を失った炎の化身が奏白や地上へと矛先を向けたりはしないか。つかず離れずの距離、極限の集中状態を乱すこともなく維持し続ける。
一直線に眉間へ、次の弾道は敢えて外す。急に体を縮ませた大蛇は、速度を増して彼女に飛び掛かる。迎え撃つ魔力の弾丸も弾かれて、瞬きする頃には鼻先にて牙がぎらりと瞬いた。けれども、織り込み済み。下方へと舵を切り、何とか難を逃れる。髪の毛先が焦げ付いて、嫌な臭いが鼻を掠める。避けきれなかったことを把握するには充分な判断材料だ。
おそらく自分は気力体力集中力、全てにおいて摩耗している。それは間違いない。生きている人間だ、疲労とは切っても切り離せない。もし倦怠感を全て取り去って、敵意と闘争心だけを残した生物が居るとすれば、それは兵器ですらなくてただの鬼や悪魔に過ぎない。
かぐや姫の従者は、果たして彼女が疲弊している事実に気が付いているのだろうか、それは問うまでも無かった。目玉がまた、一際強くギョロリと除く。この好機は逃してやらんと言いたげに、牛一頭容易く丸呑みするほどの口を大きく開いた。その奥ではまた、紅炎が踊っている。
息を強く吸い込んでいる。夜を否定するほどに明るい天の海、炎によって生じた煤や灰といったものが吸い込まれていくのが見えた。自分が優勢に立った自覚があるのか、本能的に真凜が劣勢に陥ったと察知したのか、立ち振る舞いからは余裕が窺えられた。先ほどまでは感情的に真凜を追いかけるだけであったのに、明確な意図を持った火炎を吹こうとしている。
振り返れば、兄である音也が一人の従者を下したところであった。きらきらと、天の川の雫のような何かが地面に向かって落ちていく。一人の屈強な兵士が失墜しているのと重なったせいか、兄の寂寥に包まれた顔に影響を受けたせいか、その姿に彼女も、侘しさを感じ取る。
「分かるよ、兄さん。……正しいことって分かってても、生きてる人間じゃないって分かってても、辛いものは辛いわよね」
本当は悪意など持っておらず、平和に暮らしていただけの守護神の分体でしかない。そのはずなのに、誰かに利用された結果、彼らの正義にぶつかってしまった。人間界の平和に刃先を突き付けてしまった。
己の意志も、感情も無いのに。必要だからと劇薬じみた心の断片を押し付けられて、したいとも思っていない破壊の衝動に衝き動かされている。
救わなくてはならないのは、ただ危機にさらされている人々だけではなくて。利用されるだけされて、罪を背負えない程に抱えさせられたフェアリーテイル達も同じだ。
奏白は一線終えたばかりの状況で、放心状態になっているようだった。それを見逃すほど敵は甘くない。いつしか状況を判断できる冷静さも取り戻したのだろう。五秒の後真凜のみならず、その遥か後方に位置する奏白をもまとめて、一息に紅蓮の業火を吐き出すと予知できた。
本当に、今回の戦いは“あの時”を思い出して仕方ない。
「壊死谷の時と、することは変わらないみたいね」
あの時からどれだけ変われたのかを見せるなら、それはきっと今。「撃たせない」と叫びながら、最低限炎を弾き返せるだけの力だけを残し、メルリヌスから借り受けたエネルギー全てを一筋の光線へと変換する。
これまでの戦いの間に、貯蓄は積み重ねてきた。そしてこれが、最後の一つ。自らに込められるだけの力、それら全てを一つに込めた結晶を、向き合った相手よりも先に撃ち放つ。これまで見せてきたどの裂閃よりも澄んだ青が、淡い水色を広げた空を走る。その閃光は、己の存在感を強く知らしめるように、空の遥か高みにおいて、深海のごとき深い藍を示していた。
その光は地上までも届く。彼女の才覚を知らしめるがごとく、あるいは、誰かに大丈夫だと伝えるように。
これまでのように回避を怠ってくれれば。そんな期待は簡単に裏切られる。期待通りに事が運べば想定よりも遥かに楽に終わってくれるのだが。胸の辺りをぱんぱんに膨らませた龍は、器用に体を折り曲げながら、その青い一閃に触れることも無く後方に見送った。
既定の時刻。真凜は一枚を除き、作り得る限りの反射板を自分と炎との間に乱雑に配置した。流石に奏白の位置は危険なままだが、地上までは到達しないだろうと、上下左右に均等に振りまくように反射板の行列を配置する。鏡のような性質があるとはいえ、障壁と同じように耐久出来る限界の強度は定まっている。
刻一刻と、数十枚、百有余枚と創造した虹を切り取ったかのような天板は溶けていく。僅かに炎の出力を四方に分散させながら、己の身体も同じように消え失せていく。
威力の大半を削ぎ落したところで、展開していた反射板の全てが消失する。プラン通りでは、これだけでしのぎ切るつもりであった。一応このまま飛んで回避することもできる。しかし、兄の方はというと、まだ少しぼんやりとしているようだ。
退く訳に行かない。念のために保持しておいた、文字通り最後の気力の一滴。エネルギーの消耗の激しい反射板はもう満足には使えないだろう。単なるエネルギーを壁の形に集約させた障壁を代わりに眼前に展開した。
- Re: 守護神アクセス ( No.119 )
- 日時: 2018/11/19 00:23
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
耐えられるだろうか。それは分からない。目の前で受け止めたせいか、その熱気全てが伝わってくる。メルリヌスの魔力のヴェールによる熱気の遮断も弱っている証拠だ。肌の水分が全て飛ぶ。喉の奥が乾燥でヒリヒリと痛みだす。束ねた髪の毛がそのまま燃え始めてしまうのではないか、じりじりと、目の前に張ったバリアさえも燃えていく感触が手の中にある。しのぎ切ることはできるのか、貫かれ、灰燼と化してしまうのか、それさえももう予知できない。
人事は尽くした。持ち得る限りの全ての能力は尽くした。されど、やはり本番と言うのは想定外の事ばかりだ。本来自分が視ていた光景では、もう少し楽にしのげていたはずなのだけれど。
攻撃の方に魔力を配分しすぎたのだろうか。きっと逆だとは理解していた。自分が見ていた未来図では、お互いに満身創痍と言った様子だった。何度か胴体をレーザーで貫通させたとはいえ、攻め手が不十分であったことは否めない。より激しく攻め立てて、心身により一層の負担を強いておくべきだった。
人はその姿を優しさと言うのだろうか。きっと、甘いと述べる人は少ないだろう。配分を間違えたとはいえ、全霊でぶつかったのは事実だ。手ぬるい過程を選択してしまったのは事実だが。それでも、全力を賭した者に甘いと述べる者は少ないだろう。
自分の周囲の人間は、心根が優しいから、きっと厳しい言葉は投げかけない。だからこそ、自分だけは必ず、自分のことを甘やかしてはならない。これはきっと、自分の弱さだ。正しいことを為すために、超えてはならない一線を超えることを躊躇っている。実際、その線を跨いだら帰ってはこれない。だからこそ、声無いという選択肢は間違っていない。
足りていないのは、そのギリギリのところに立つ覚悟だ。そして覚悟が足りていなかったのならば、その責任は自分で果たさなければならない。
それが、彼女の信じる、子供に示すべき大人の姿なのだから。
「見てなさい、二人とも……。人魚姫ちゃん、入れたら……三人かしらね?」
単純な強さだけでは、兄にも知君にも敵わないだろう。だから、数値で表すことのできない意志だけは、教えられる人間にならなければならない。
いいや、違う。そんな義務など存在しない。そんな傲慢は存在しない。ただほんの少し、強欲なだけだ。
「私が、そうなりたいだけ。そしてなるのだとしたら……」
楽になりたいと体が叫んでいる。眩暈も少しずつ訪れる。己の目で見る景色が褪せていく。吸い込んだ吐息さえも身を焼くほどで、全身にこめた力が抜けていきそうになる。酸素が足りているのだろうか、息を吐き出してまた吸っても、胸の内側から焼けてしまいそうな息苦しさ。
後僅かでも気を緩めてしまえば、自身の身体は、骨さえ残すこともなく燃え尽きてしまうだろう。苦しみなんてきっと無く、一瞬で全てが終わるのだろう。堪えていても辛いだけ、それならば。
だがしかし、そんな甘い誘惑に流される事など無くて。指先にまで、再び力を込める。意志を固め、ピントがぼやけそうな目を細め、討つべき敵を見据えた。折れてたまるかと、芯の方から意地が力となり、彼女を支える。
嫉妬は乗り越えた、だからこそ、彼女の胸の内から湧き上がってくる原動力は負けず嫌いの唯一点。
「今以外ありえないじゃない」
日頃攻撃に転じる際に用いる砲弾の炸裂、それは素材を同じくするこの魔法の障壁でも同じことが可能だ。炸裂と同時に彼女を乗せたボードが後方へとスライドした。猛火を吹き飛ばした青白い光と熱風の奔流の中から、彼女の身体が飛び出す。自爆と同義の防御であったため、全身煤だらけの姿になりこそしたが、それでも迫りくる炎全ては無力化した。
「どう……見直したかしら?」
強がって笑ってみるも、最早余力は使い果たした。本当はもう少し楽に片づけて、地上に駆け付けようとしたものだが、結局はこのざまかと自嘲する。それも仕方ない。格上と戦っている自覚はあった。その上で、余力など残さないと決めたではないか。
それにしても、もはやこれ以上滑空することさえできそうにない。数秒でも時間を稼ぐことができればすぐさま飛び立てるだろうに、それは不可能。
「◆■〇△×★□◎▼◇××××××××!!!!」
最早、その咆哮は言葉の体を為していなかった。ようやく、怒りに溺れながらも翻弄され続けた真凜のことを殺せたと思ったら、しぶとく、執念深く、生き残っていたその事実がまた勘に触れたのだろう。
ぼろ雑巾のようになってまで、生に縋ろうとするこの様子がそんなに醜く映っているのだろうか。最早その怒りの原因など突き止められそうにも無い。人間の感情は複雑で、様々な思いが絡まっているから。たった一つの些事で怒り狂う人間はそうそういない。
しかし、目の前の一匹の獣はそういった心しか持っていないらしい。
「また、目の前しか見えなくなってるわね」
少し、話があるのだけれどと、今にもまた真凜に飛び掛かりそうな龍の形相を見つめながら、語りだす。
「私の反射板の能力はね、攻撃と防御の両方に使えるのだけれど、それはとある特性のおかげなのよね」
その声に聴く耳など持たず、細長い胴体が宙を翔け抜ける。最早身動きも取れず、防御もできない真凜は、ただただその姿を受け入れていた。
「おい真凜!」
兄の声が遠い。ああ、心配をかけてしまっているのだろうか。それは申し訳ない事をしたなと、彼女は振り返る。果たして奏白にその表情は届いていたというのだろうか、彼女は柔らかく微笑みを湛えていた。
大丈夫だから、そんな事、呟くことも無く。悲痛と、虚しさに満ちた危機を伝える声の主。奏白の心配する声も虚しく、無情にも彼の眼前で決着はついた。燃え盛る炎鱗に包まれた鬼のような顔つきの龍が、そのまま華奢な真凜を丸呑みにしてしまう。
そんな姿を、目にするまでも無く奏白が瞼の裏に思い描いたその瞬間の出来事であった、光の雨が降ったのは。
降り注ぐ閃光が、またしても空のキャンパスに線を描いていく。もう、画家は筆を手にしていないというのに、流れ星のように空一面を引き裂いていく。完全に油断しきった意識の外、流星群が怒りの権化、逆鱗に触れられた龍の身体を貫き、降り注ぎ、一息に引き裂いた。
「これ、どうなって……」
「反射板の能力は、名前の通りキャパシティを超えない範囲であらゆる能力を跳ね返す、ただ……」
真凜の目の前で、怒りの従者は龍化を解除していた。それは彼の意思によるものではない。後頭部から喉を一直線に突き破った濃紺の光線が、首元に下げていた珠を貫通し、撃ち砕いたせいだ。
「その際にエネルギーは、完全に保存されるの」
この戦闘において、数え切れぬほどの光線を撃ち放った。何百、で済むのだろうか。千に達しても可笑しくは無い。それらのほとんどは、確かに無力化され、打ち消され、かき消された。しかし、打ち消されることなく回避されたものだけでも、数十と存在する。
「それを雲の中で維持していたの。見られることが無いように、飛び出すことが無いように。雲の動きを未来予知で見ながら反射板の位置をこまめに移動させるのなんて初めてだったから、大変」
それを巨竜と相対し、かいくぐりながらこなす処理能力が末恐ろしいと、先ほどまでと異なる冷や汗を奏白は浮かべる。切迫していた緊張など今更どこへやら、かぐや姫から受け取った道具を打ち砕かれ、身体中を貫かれた一介の月の民に過ぎない従者は、もう星屑となって消え失せるしかない。
「なぜ……なぜ……」
彼は泣いていた。損傷しすぎた体には、もう何者の声も届いておらず、何者の姿も映っていない。できることと言えば、今まで言えなかった思いの丈を吐き出すことだけ。それを聞いてあげられるのが、真に伝えたい相手などではなく、求めるままに怒りをぶつけていただけの敵に過ぎない人間のみという事実は、悲劇と呼ぶほかない。
「こんな醜い感情を、よりによって……俺に……」
きっと、彼は悲しかったのだろう。怨むことしかできない感情譲渡が。愛することもできないまま、自分もろとも誰かを壊してしまう感情だけを与えられてしまった事実が。辛くて、苦しくて、悲しくって。主君相手に文句を言うこともままならなくて。
悲しむこともできないまま、ひたすら憎悪の念を押し殺し続けて、与えられた心が砕け散った結果、血の涙を流すほどに苦しんでしまった。
「だったら、解放してあげるのがせめてもの優しさよね」
その声は、彼に届いていたのかは、もう誰にも分からない。龍の首の珠同様に、彼を苦しめるものさえも撃ち砕くことができていたならば。それは私にとっても誇らしいことだと、夜空に溶けるように漏れ出ていく、星の残滓をその手に掴みながら、昇りゆく魂をただただ見送ることしか、彼女にはできなかった。