複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.134 )
日時: 2019/03/13 18:14
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


 窮地に陥ったはずなのに、かぐや姫は身じろぎ一つしようとはしなかった。顔色の変化を観察しようと思っても、不可能だ。なぜなら彼女は兎の面でその素顔を隠していたのだから。作中の人物とはいえ、平安時代の貴婦人ともなれば、唯一懇意にしていた帝以外にその素顔を見せたくはないということなのだろう。
 十二単がそよぐことも無い。雲一つ飛ばぬ空には、ただ月が座しているのみ。そよ風すら感じられぬ静かな夜に、真っ青なお月さまだけが大地を照らしている。日本史の教科書や便覧で目にするような、腰よりさらに下まで伸ばした黒髪が、規則正しく真っすぐに背後へと伸びていた。地面につきそうになったところで、念力のようなもので重力に逆らい、宙を漂うようになっている。
 王子達の降参を促す声に従おうかと思案しているのだろうか。その沈黙が無意味ではないとだけは分かる彼らは、不意の行動に乱されぬよう周囲に気を配ることだけは忘れなかった。
 じりじりと、沈黙が這いより、精神の蝋燭を燃やしていく。熱砂が踏み入れた足を焦がすように、強く、絡めとるかのごとく。
 こういった荒事になれていない王子がしびれを切らしたのも仕方の無い事だ。それを咎める者もいなかった。なぜなら、彼がそうしなければ膠着したまま、また無為に時間が過ぎたのだろうから。

「おい、聞いてんのかよお前」
「聞こえておるわ。千年生きておるから童が耄碌しておるとでも思うたか」

 それまで出会ったフェアリーテイル達とは、纏う雰囲気を異にする声であった。毒蛇に噛み付かれたように、一瞬竦んだ手足の自由が失ったように感じられた。当然、その瞬間かぐや姫の方は何も能力など仕掛けていなかったというのに。
 フェアリーテイルと言えば、人々の幻想をそのまま絵画にしたような見目麗しい姿で現れる。シンデレラ、白雪姫、人魚姫などを見ればよく分かることだ。その声も、玉のような声、鈴が鳴るような音色、小鳥の囀るような澄んだ声、そのように表現できる。
 おそらくかぐや姫が美しいということも否定できないであろう。その声も凛と澄んだものだったと言える。だが、その喉から発せられた言葉を耳にした身として、王子にはそれらが同一のものだとは決して言えなかった。
 それも当然かと、苦笑いを漏らす。多くの姫様は、赤ずきんもそうだが、ヒロインとして誰かに助けてもらう話ではないか。それは魔女であったり王子であったり、時には猟師や木こりではあるが、護られる身であることに変わりない。
 かぐや姫は、多くの男を弄ぶ身だった。地上の人々であれば、貴族でさえ下に見るような月から来た民の一員だった。庇護欲を掻き立てる愛らしい声など必要ない。高圧的で揺らぐことの無い支配者の声。いずれ異世界の王となることを科せられた彼女に必要なのは、覇道を歩むための貫禄こそ求められる。
 ただし、それ以上に滲み出ているのは蛇のような悪女の気配。音も無く忍び寄ったその長細い体に、全身を締め付けられる悪寒。あるはずもない圧迫感に、手足が囚われる。心根の優しい人間、あるいは小悪党程度としか接したことの無い一介の少年、王子 光葉が、彼女の身に纏う空気だけで気圧されるのも無理のない話だった。

「あんまビビんなよ、ぷりんすが要だかんな」
「分かってる……」

 呼びかけたクーニャンも、初めは刃を交える敵であった。彼にとってはあの時以上に、死を身近に感じたことはない。赤ずきんから奏白たちが撤退しようとしている時も、怪我や最悪の事態などは覚悟していたつもりだった。
 しかしあの時は共に、向き合う相手は烈火の如き衝動に衝き動かされていたというのに、対照的に月の姫は、冷気の如き殺意を孕んでいた。人に仇なすという一点においては何ら変わりないというのに、そのための手段には天と地ほどの差がある。
 ただ己の精神さえ焦がし尽くすような破壊願望を得たフェアリーテイル達とは違う。ドルフコーストの能力を直に受けた彼女は、その過程さえもこだわるらしい。本来心根の真っ直ぐな者たちが、我を失って身近な者に刃を向ける。その際に狂気を突き付けられた被害者の顔を見て、愉悦を感じるのが彼女だった。

「てかビビる理由も今更ない……よな?」
「あん? 偉く慎重じゃねーか。あたしと戦う時は痴話喧嘩した後突っ込んできたくせに」
「もう、あの時と同じじゃないってだけだ」

 二の足を踏んでいると考えられなくもないが、猪突猛進しなくなった事実は素直によい兆候だった。相手がまだ奥の手を隠していた時、足元を掬われる確率が下がる。
 今のところ気配はどこにもありはしないが、灰被りに背後から刺される様な可能性もある。勝てると思ったその時に、向こう見ずで突っ込まずに一拍考える猶予を得たのは成長に他ならない。

「でも今回は善は急げ、だと思う。だよなセイラ?」

 月を見ないように気をつけながら、相棒の守護神に問いかける。その通りだとセイラは前向きな言葉を肯定した。こうしている間にも、心身を麻痺させる群青の月光が降り注いでいる。守護神アクセスをしている間はまだ余裕があるとはいえ、次第に体が動かなくなっていく可能性が否定できない。あるいは、唐突にアクセスが中断された時が危険だ。
 生身の人間が例の月光を身に受けてしまえば、たちどころに膝から崩れ落ちてしまう。現に長い間前線を維持していた一部の捜査官は、もう既に身動きの取れない状態に陥っていた。phoneを再び手に取り、ボタンを押すだけの力さえ湧いてこないほどに。

「……降伏するつもりはない、ってことでいいか、かぐや姫」

 当然だと肯ずるため、兎の面が縦に揺れた。なら仕方ないと、王子も顔つきを変える。

「体張るのはあたしの役目のつもりだけど」
「いや、むしろ後ろ頼む。かぐや姫自体は言う程強くないんだろ?」
「そかそか。確かにそうだわ。ちゃんと考えてんだな」
「頭回すぐらいは流石に勝たせろ」

 軽口は終わりだと行動で伝える。崩れた石畳の礫たちに足をとられて捻らないよう、慎重に歩を進める。駆け足になった彼の背後にぴったりつくように少女も後を追った。
 しかし、無防備を良しとするほど愚かな将ではない。途端に、空気そのものが罅割れるような小気味よい破砕音が響いた。ぞわりと、クーニャンの首筋に鳥肌が立つ。振り返ればすぐ傍に、氷の矢が飛んできていた。
 だが、まだ甘い。即座に抜刀し、峰を返して斬るのではなく打ち砕いた。その矢を射たであろう女性捜査官を凝視する。先ほどまで操られていないと判断していたライダースーツを纏った女性だった。

「不意打ちのために隠れてたか? ならもっとギリギリまで気配は消せよ」
「違う」

 異変を感じた王子は足を止める。その背にクーニャンの背が重なり、それと同時に彼女も足を止めた。背中合わせのまま、耳打ちをするような小声で、彼女の思い付きを正した。

「だとしたら、さっき俺たちが歌で解放した時に一緒に正気に戻ってる。あれはきっと、その後に能力受けてる」
「……だとしたら変だぜ、今までちゃんと月見ねーようにしてたんだろ」
「それにあの人……多分結構な実力者だ。今更下手打つとは俺には思えない」
「じゃ、何だろうな」
「まだ何か隠し持ってるんじゃないか。想定外の一矢を当てるための何かを」
「真凜のお姉さまみたいにか」

 手段は分からないがその通りだと、王子は頷く。迂闊に近づけば、今度は自分が同じ目に遭うのではないかと警戒せざるを得ない。あともう少しだというのに、すんでのところで立ち往生してしまう。一応はクーニャンがまだ陥落していない以上、誰が操られても対処は間に合う。
 けれども、脚の止まった王子の背を、彼女は肘で小突いた。今は立ち止まる場面では無いと、身振りで伝える。

「あいつらに時間与える方が駄目だ。攻めの手立てがある敵に時間与えるのは郵便貯金ってやつだろ?」
「それは郵貯だろ。悠長って言いたいのは分かるけど、ボケてる場面じゃねえぞ」
「わり、素で知らんかった」
「そういやお前日本語まだ不得意なのか。全然そんな気しないけど」
「いいから、何度も言わせんな。はよ行け」

 思い切りその背を突き飛ばし、次々と増えていくかぐや姫の傀儡の前に立ち塞がる。身体の自由を奪われている捜査官も多く、敵として立ち塞がる人数はそれほど多くないが、骨が折れそうなことは否定できない。
 かぐや姫を倒さない限り、これが延々と続くと思えば、早いところ王子を送り出すべきだと言えた。勇み足は危険だが、臆病者になることを受け入れてはならないのだから。
 彼女の判断は正しかった。付け加えるとすれば、彼女の直感も大したものだった。しかし、判断の早い遅いに関わらず、護衛のいるいないに関わらず、その後の策を防ぐ手立てはなかった。
 操られている捜査官の能力により、追撃が二人に降り注ぐ。一つとして撃ち漏らしてなるものかと、それら全てを斬り伏せていく。王子には前だけを向かせねばならない。であれば、彼を追うように迫る脅威だけは通さない。報酬は無いとはいえ、そのように支持された以上、それを果たすのは当然の矜持だ。
 逃げようともしないかぐや姫は、もう後数歩で手が届くというところに迫っていた。視野は焦らず、低い所を見たまま保つ。自分が洗脳を受けてしまわないように。
 盤石、そのはずだった。周囲に水が存在しない以上、人魚姫の能力はその歌声による回復や味方を強化する類の能力しかない。今できる最善を彼らは尽くした。策に嵌まることがないようにと、出来得る限りの注意を払った。
 だが、それでも。一歩先んじる敵がいるのは避けられない。
 十二単の袖口を口元の辺りにあてがったかぐや姫は、小さく体を揺らした。王子の角度からは見えなかったものの、セイラはその様子を捉えた。
 すぐに分かった。その動作に意味などはないのだ、と。仮面をつけている以上、そんなことせずとも彼女の表情など誰も知り得ない。けれども、咄嗟にそうしてしまったのだろう。漏れ出そうな笑みを隠すために。
 どこから、何をしてくるのか。分からない彼女は全方位を見回す。彼女は理解していた。赤い月の光は守護神に対し、蒼い月の光は人間に対してのみ効果があると。
 きらきらと、星のようにまたたく何かが蠢いているのをセイラの目は捉えた。それが何であるのかは、先ほど何気なくクーニャンが口にしていた言葉で察することができた。真凜のように、想定外の奇襲をしかけるような手立てがあるのだと。
 かぐや姫の術中に陥る引き金は、月そのものを見ることではない。輝く月の姿を目にすることだ。それは直接である必要は無い。
 鏡に映った月を目にする、それだけで充分だと言える。
 あれはメルリヌスの、エネルギーを反射する板と同じ原理だ。しかしそれは、ただの鏡であればよい。水面に映る月でさえ、かぐや姫の司る武器として用いることができるという話なのだから。
 どういった理屈でそういった能力を獲得したのか。そんなもの彼女には分からない。理由などないとも思えた。今この瞬間において肝要なのは、至る角度からあらゆる者を支配下におけるという事実だけだ。
 王子の視線の行く先など、大体想定通りなのだろう。よく観察すれば、鏡だと思えるような宙に浮く断片がいくつも見える。反射角の都合でまだ王子の目に月が入っていないだけだ。
 次第にその鏡の欠片の数が増えていくことさえ見て取れる。だが、今更王子に指示を出したところで間に合うとは思えなかった。目を閉じろと伝えても、鏡があると伝えても、その意図を理解するより先に、洗脳を受けることだろう。
 洗脳とも限らない。幻覚を見せられ、夢の世界に捕らえられる可能性もある。そうなれば、人間の胆力であれば脱出は困難だ。特に王子は、幸せな甘い幻想から逃げ出そうとするだけの精神は無いだろう。これまでの日々で逆境に慣れ過ぎたせいか、王子は幸福な夢を自ら壊すことができない。
 結局のところ、頭で理解して行動する事などセイラにすらできなかった。それは最善の策を考えるよりも先に、身体が動いていたのだから仕方ない。目の前で大切な恩人が傷つけられようとしているのに、どうして黙って見てられるだろうか。どうして、指を咥えて見ていられるだろうか。
 セイラは自分一人の意志で守護神アクセスを無理に中断した。そうしてしまえば、今度は王子が金縛りにあってしまう可能性を失念していた。しかし、それでも、彼がかぐや姫の手先と成り果ててしまうのをひどく恐れた。
 実際、彼の精神が囚われれば、もはや勝機は全て断たれる。そう思えば、彼女の行動は決して悪手ではなかった。まだ次に繋がるだけ、幾分か妥当な道筋。
 唐突にアクセスは途切れ、王子の傍にセイラは飛びだした。何事かと動揺する王子だったが、不意に体勢が崩れるのを感じた。次第に遠ざかっていく人魚姫の姿が目に入ると、そのまま彼は目を丸くした。
 肩から倒れ込んだ彼は、彼女に突き飛ばされた現実を知る。動揺で揺れる彼の意識を叩き起こすように、セイラの声がこだました。

「鏡に映った月も見ちゃ駄目です、気を付けて!」
「これセイラ、種明かしとは行儀が悪いとは思わんか」

 ハッとした時にはもう遅い。彼女を包囲するように、全方位に鏡の断片が浮遊していた。目を閉じるよりも先に、真紅の月と目が合う。

「お主は自力で瘴気を払える……それは聞いている。ならば童自身の能力で捕えようぞ」

 目を見開いた彼女の黄金の瞳は、フェアリーテイルと成り果てたかのように、月と同じ色に染まった。かと思えば、夜空に昇る月だけは、またしても人間へ作用する青い月へと戻っていく。しかし、人魚姫の双眸に浮かんだ二つの満月だけは、血のように赤いままだった。

「まあ喜ぶがいいさ、セイラ。お主が夢だと気づくまで、王子様との幸せな日々でも見せてやろう」

 そう言い放った彼女は、兎の仮面の下で、嗜虐的な笑みを浮かべていた。