複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.136 )
- 日時: 2019/04/04 14:00
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
霧の中に私が溶けていく。気を確かに持たなければと強がる自分の頑なな意志さえも、波に拐われてしまう。
あの人の顔はどうだったろうか。そもそも、あの人とは誰だったろうか。手の温もりが薄らいでいくにつれて、その記憶も朧気になる。必死に思い出そうとすればするほど、靄の向こうへと消えていく
私を救い出してくれたあの人は、私の夢を叶えてくれたあの人は、一体、どんな人だったっけ。そもそも、私は一体誰だったっけ。
どうしてこんなにもふわふわしているのだろう。ここは何処だろう、今はいつなんだろう。暖かいと思えば暖かいような、涼しいと言えば涼しさを感じるような、不思議な感覚。ふわふわと浮かび上がっているようで、ゆっくりと下降しているような。そして、意識が朦朧としていく中で、明確に目覚めが近づいている自覚。
ああ、そうか。重力を感じている中で、柔らかな塊に身を委ねているこの感覚。上等なベッドに寝ているという事実を思い出した。春の温かな木漏れ日が、涼しい風と共に窓から入り込んでくる。
ああ、今日もいい天気だ。私はまだ、自分が何者か思い出せていないことなど忘れて、気分良く目覚めると同時に、立ち上がった。太陽はまだ、それほど高くない。むしろ東の稜線に近い所にいるだろうか。
立ち上がり、部屋着から外向きの洋服へ袖を通す間、強い違和感がいくつか過った。服とはどう脱ぐのだっけ、着るのだっけ。まるでこれまで、衣服の脱ぎ着など知らなかった幼子のように、どう着替えるのか頭では理解しているのに、素人みたいに体が上手く動かない。
さらさらと肌に吸い付くような上質な布は肌に心地いい、はずなのに。なぜだか全身に纏わりつく布地の質感が新鮮だった。毎日ちゃんと着替えている筈なのに。私は、ほんのちょっぴり自分のことを思い出した。
もう一つ、より一層強い違和感を覚えたのは足腰だろうか。しかしこれは、本当に漠然とした足元のおぼつかなさに依るものだった。なぜだか、それこそ赤子のような気分で、二本足で立つことが不自然で不慣れなもののように感じた。足に怪我や病でも患っているのだろうか。着替えを終え、ベッドに腰かけ、スカートの裾から覗いたふくらはぎをさすってみた。身に纏う衣服と同じような肌触り。むくんでいるようにも思えず、捻挫して足首を腫らしているようなこともない。病的に細くもなく、健康的な肢体であるように思えた。手前味噌だけれども。
きっと、気のせいだ。長い事眠っていたせいなのだろう。そしてようやく、自分という存在の不安定さを思い出した。そう言えば、ここは何処で、私は何をしていたのだろうか。起きたら着替えるものだという常識に従って、ただ何となく衣類を変えてはみたものの、これで本当に正しかったのだろうか。
そして、此処にいる私は一体どういった身分なのだろう。ベッドも、衣も、部屋の早朝も鏡台も、何もかもが高級な調度品であるような一室。よほど裕福な家柄か、王族やそれに連なる貴族にしか住み得ぬような空間。お姫様、そっと呟いたその響きが何となく耳に引っかかる。姫、姫、姫。何となくその言葉に聞き覚えがある。
何かの御姫様、だった。そう直感したはいいが、ずきりと胸が疼いた。どうにもそれは、私には相応しくないみたいで。暗雲が、立ち込め始める。こんなにも穏やかな景色に包み込まれているのに、私の胸の内は次第に暗い気持ちが間欠泉のごとく湧き出てきた。
頭が割れてしまいそうなほどの鈍痛。誰かが蓋をした記憶が、無理やり飛び出そうとしているような激しい痛みに、顔を顰めずにいられなかった。頭蓋骨の中央で、棘つきの鉄球が跳ね回っているみたいだ。今にも、中から破裂してしまいそうだと苦悶の声を漏らすほどに。
やっぱり、何かおかしいんだ。隠蔽されたヴェールを剥ぎ、何らかの真相に辿り着かねばならない。他ならぬ、私のためにも。鏡台の中の私に向き合う。そこに居るのは紛れもなく、私が私であると認知している者に他ならなかった。翡翠色のウェーブがかった長い髪に、黄金を思い起こすような瞳。あまり日向に出ないせいか肌は白く、食も細めなために線の細い体をしている。
ただ、何かが違うと叫んでいる。耳元がやけに寂しい。ピアスの穴は開いていないが、何か装飾品が欠けているような気がする。
さらなる違和感の露呈に、私は困惑を浮かべ、一層強い頭痛に苛まされた。これは、一体なんだと言うのだろうか。想像を絶する痛みから、逃げてしまいたかった。何かが違う、けれども何が違うか分からないことが怖くて、知りたいと願うのに、こんなに辛いならば逃げたくなってしまう。
逃げてしまえばいい。弱い自分が囁いた。そんな辛いのに、立ち向かう必要があるのかと、安寧の方へ向かうように甘言で手招きしている。けれども、逃げ腰の私に対し、首を横に振った。駄目だ、どれだけ辛くて苦しくても、自分が楽をするためだけに逃げてはいけない。それが私の信条であるはずだから。
ずっと浸かっていたいと願ってしまう、蜂蜜のお風呂のような甘くて絡みつくような夢でもない限り、足踏みなんてしていられない。生きとし生けるものは皆、苦難を乗り越えて強くなるものだから。苦難を乗り越えた先にようやく、安住の幸せを手に入れるのだから。
きっとここは、私にとっての安住の地なのだろう。けれども、其処に至るまでの道のりをまるで覚えていない。私が歩んできた道のりを示した地図が、記憶が、記憶からぽっかりと抜け落ちている。
もしかしたらそれを思い出そうとする過程は、それほど難しくないのかもしれない。この部屋の扉を開けて、廊下を進み、出会った女中に話を聞くだけで解決するかもしれない。記憶が朧げな今が夢で、目を覚ますだけということもあり得るだろうか。
ただ一つ言えることがあるとしたら、頭の中で反響し続ける痛みを言い訳に、この狭い世界から飛び出そうともせずにじっとはしていられない。それだけだ。慣れない二足歩行で、ふらつきながら、ゆっくりと出入口の扉に向かう。
この外には、一体どんな世界が広がっているのだろうか。ドアノブに、いざ手をかけようとしたその時だった。
まだ扉に触れてもいないのに、木製のドアが一人でに開いた。
「ああ、もう起きていたんだね」
えっ、と驚く暇もないまま、私と目を合わせるや否や、現れた彼は相好を崩し、おはようとだけ投げかけてきた。つられて私も、オウムみたいにその言葉を返した。呆気にとられたその顔が随分と可笑しかったようで、そんなに驚いてどうしたのかと笑みを漏らしながら訪ねてきた。
私の瞳と対を成すような、白銀の髪に、海のように深い群青の瞳。整った中性的な顔立ちだというのに、真顔になった時の凛々しい空気と、剣を振るうために引き締まった腕は、とても男らしい。声も少し女性寄りなところがあって、ハスキーなものだけれど、声変わり前の少年を思い起こさせるような、親しみやすさを感じるような声だった。
彼が笑って、真顔になって、首を傾げて。手をちょっと持ち上げたり、手持ち無沙汰に頬を掻いたりしているのを見ているだけなのに。いつしか、頭の痛みなんて消し飛んでしまっていた。
私を困らせていた痛みは、棘つきの鉄球というよりむしろ、氷の刃のようなものだったのだろう。身体を動かす炉心となる心臓が、彼のちょっとした振舞いに反応する度に強く動き出す。血流は早くなり、身体の奥底から次第に沸騰していくように思えた。気が付けば、腹の底から足の先、頭のてっぺんまで、全部茹ってしまうほどに。
ぐつぐつと煮え滾った頭の中で、もうほとんど思考なんてできるはずもない。ああ、だけれども私は失った私の欠片を一つ取り戻した。私は、ずっと前からこの人を知っていた。ずっとずっと遠くで笑っているこの人の横顔を、何百回何千回と目にした記憶がある。
早鐘は、そのまま胸を突き破って飛び出してきそうにも思えた。このあまりに五月蠅い鼓動が、目の前の彼に聞こえてしまいそうなのが、ひどく恥ずかしかった。聞こえないでいてと願うほど、意識するほど、より一層その拍動は強くなる。その鼓動を響かせる。
今、手が触れる距離に立っているその人のせいで、いつしか私はこの世界と自分自身への違和感なんて、忘れ去っていた。
「……大丈夫かい、セイラ? 具合が悪いのなら医師や薬師を呼ぶけれど」
できるだけ落ち着いていようとしているようだけれど、彼は焦燥をその声に滲ませていた。少しばかり顔が強張っているように見えるのは、心配のせいだろう。何も体に異変は無いと、大げさな身振りを添えて伝える。熱があるのではないかと、まだ訝しんでいるようだが、きっと体温は普通であるはずだ。熱を孕んでいるとしたら、私の心だけだ。荒波のように激しい情動が、今も脈打っている。
セイラ。それが私の名前。歌が得意な半人半魚の神話の幻獣、セイレーンのようだなと感じた。
この人の名前は、なんというのだろう。そんな問いが思い浮かんでは、すぐさま泡のように弾けて消えてしまった。名前なんて、どうだっていいじゃないか。
この人は、私がずっと昔から想い焦がれていた、王子様に他ならないのだから。
私の調子が別段悪くないと理解してくれた彼は、湖畔に向かおうと提案した。今朝から彼の愛馬も元気を持て余して仕方が無いらしい。喜んでと頷いた私は、ただ彼に手を引かれるまま絨毯の敷かれた廊下を進んでいく。
繋いだ右手の体温が、自分と同じぐらいに熱を孕んでいた。手を繋ぎ、その体温が伝わってくるという些細なことが、何故だか特別な出来事に感じられた。
ただやはり、どことなく私の身体が覚えている体温と比べると、齟齬がある。一体、何が違うと言うのだろうか。そもそも、どうして手を握っているだけで幸せだなんて感じたのだろうか。
ああ、やっぱり、何も思い出せそうにない。
けれどもまあ、それでいいか。
だってこんなにも、幸せなのだから。