複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.137 )
日時: 2019/04/11 00:05
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


 その白馬は、嫉妬するぐらいに美しい毛並みをしていた。雄々しく力強い体を持っているというのに、その雪のような肌はどんな美女の肌よりも綺麗だった。俗世から隔離された教会で、敬虔な神父たちに育てられた、純潔な聖女を思い起こすほどに。大地を力強く駆けることもできる牡馬だというのに、誰よりも美人だなんて、なんて贅沢な生まれなのだろう。
 彼がまだ年端もいかない頃に、この城の厩(うまや)で生まれたとの事だ。生まれたばかりの赤ん坊だった頃から、彼がこの仔の世話をしてきたのだ。だからだろうか、彼は自分の兄弟に向けるような眼差しを、その仔に注いでいる。恋慕などを超えた、長い歳月を共にしたが故に生まれる愛情。それを向けられている白馬が恨めしく、ちょっとばかりお腹の底で悪い虫のようなものが疼いた。
 このままじゃ乗りにくいだろうと、昇降台とすることを目的に作られたであろう段差の方へとエスコートされた。乗りやすい高さから、丁寧な彼の介護のおかげで、危なげなくその背に跨ることができた。彼はと言えば、事も無くひょいと飛び移るように私の前へと座った。
 ひょいと軽く飛び乗った際に、泉のせせらぎのように瞬く銀髪が踊った。しっかり捕まっていてねとの注意が、耳に入ってすぐにすり抜けてしまうぐらいに、軽く放心していた。どこまで、私はこの人に夢中なのだろう。
 また、身体の芯から熱くなった気がしたけれど、昇りつつある太陽の日差しが強くなったせいにした。

「大丈夫? そのままだと振り落とされるよ」

 別段急かすような言い方でもなく、苛立っている様子もなかった。ただ、気遣いという言葉を意図するまでもなく、当然の事柄として息つく様に自然と配慮してくれる。そう、それだけ。生まれた時から特別な人だというのに、自分以外の誰かに心から優しくできる人。それが彼だ。
 慌てて彼の腰に手を回す。別段暴れたりはしないだろうけれど、こんな大きな馬が大地を蹴るのだ。普通に走られただけで振り落とされてしまうに違いない。地面を転がる姿を想像すると、ゾッとしない気分になったため、できる限り強く抱き留める。ぴたりと身体を重ねるようにしたが、今は怖さが恥ずかしさに勝っているから仕方ない。

「そこまでがちがちにならなくても大丈夫だよ、ゆっくり走るから」

 彼もまた、あまり照れくささなどは感じていないようだ。そう言えば、さっき顔を合わせたところからずっと、彼は爽やかな笑みを絶やさず、飄々としている。もう少し、見惚れたり頬を赤らめてくれてもいいものを。私一人当惑を浮かべているのが不平等に思えて、狡いと胸中に呟いた。

「今日もよろしく頼むよ、ユニ」

 そう言ってユニの、つまりは弟のような白馬の頭を優しく撫でていた。咄嗟に、また言葉がこぼれる。
 狡い。
 今度は口からも飛び出しそうになった。
 それほど激しくは走らせないと言っていたのは本当のようで、確かに彼の腰に回した両手を軽く握っていれば落ちる気配などなかった。それでもやはり、上下や前後に揺れを感じるため、彼に掴まっていなければ、すぐさま草花が生い茂る地面に口づけをしてしまうことだろう。
 お城は、小高い丘の上に建っていた。てっぺんの屋根が尖っている、槍のような形。灰色のレンガで構成されており、その頂上だけが真っ赤な素材でできていた。城門を潜ると、緩やかな下り坂が顔を見せる。整備されたその街道以外は、全てが深緑の絨毯で包まれていた。
 無造作に馬を走らせては、その自然のカーペットを蹄で巻き上げて荒らしてしまうと配慮してか、大昔の王様がこの街道を整備したらしい。
 そして大地は、東西南北それぞれに違った表情を見せていた。北に目をやれば、頭に雪の帽子を被った鉱山が聳えている。東から南にかけて広く森林が広がっているようだが、方位によって生えている植物がそれぞれ違うらしく、その葉の色の変化が、虹のような美しいグラデーションを織り成していた。西に目を向ければ、どこまでも続くような広大な青だけが横たわっている。
 綺麗な湖だった。とても、とても広い。海と見紛えるほどに大きい。この湖はずっと西の方で実際に海と繋がっているらしく、水質が少し塩分を帯びているのだとか。そのためこちらの方では塩に強い植物しか育たないのだとか。真水、つまりは雨水がろ過された地下水のようなものが必要ならば、むしろ東の森へ向かって泉を探すべきだと彼は言う。汽水湖と言うんだ。英才教育を受けてきた彼が、知って当然という顔でそう教えてくれた。
 広い海には人魚が住むというのだから、もしかしたらここに迷い込む子もいるのかもしれないね。半分振り返って、横顔の貴方がそう嘯いた。所詮そんなもの伝承の中だけの存在だ。けれども、この空気を和ませて、会話を弾ませるためにそんな事を言ってくれたのだろう。

「会えたらそれは、さぞかし素敵なことでしょうね」
「どうかな。そうでもないと僕は思うよ」

 縁起が良さそうなのに、どうしてだろうか。怪訝に思っていると、彼が妙な雰囲気になったことを感じ取ったのか、幼い少年が言い訳するように弁明した。

「他の女性と出会いたいだなんて、滅多な事を口にしたくなかっただけだよ」

 なるほど、私のためだったのか。得心がいった私はどことなく恥ずかしくなって顔を俯かせた、つもりだった。そう、それは、きっと口説き文句に聞こえるような言葉であるはずだから、喜びと恥じらいとで目も合わせられなくなるはずだろうに。
 なぜだか、ざらざらとした粗いやすりで胸の内をかき回される気配がした。言い伝えの上では絶世の美女だと語られている人魚より、自分を優先してもらえたはずなのに。なぜだか、締め付けられるような疎外感があった。身体は熱くもなくて、むしろ寒々しく思えた程だった。
 私以外の誰かに、目を奪われてほしいと願ったとでもいうのか。そんな訳が無い。私を見て欲しいという願いは、遠い昔から想い続けていることだ。何年、何十年、何百年と時を超えて、変わることがない悲願であったはずだ。
 いや、それは可笑しい。何百年も、何十年もあり得ない。そしたら私は、白雪姫の魔女のような、しわくちゃのお婆さんにでもなっていないといけない。それなのに、どうして悠久の時を渡って今に至ったような達成感を得ているのだろうか。
 記憶はまだ、全てを取り戻せそうにない。しかし頭にでもなく、身体にでもなく、魂にその記憶は刻まれていた。私は、何百年という月日を、貴方を見つめるだけで過ごし続けたという事実を。
 一体、どうしてそんな事。訳が分からなかった。彼が何百年も生き続けているなんて、そんな事あり得ない。だって彼は紛れもなく人間なのだ。まだあどけなさの残る彼は、当然齢二十にも至らない青年だろう。百年も眺めていただなんて、そんな訳無い。不老不死じゃあるまいし。
 湖畔を駆け抜ける最中、私はその、彼の瞳と同じ色をした水面を眺めた。深い、深い海を思い起こすようで、それなのに底に手が届きそうな程透き通っている。その心根に画すべきものなど無いのだと、清廉潔白を主張するように。
 私は、同じように潔白でいられるだろうか。そう言えば、記憶が朧気だと打ち明けられないままここに来てしまった。けれども、そんなもの歯牙にかけるようなことでもないように思えた。要約してしまえば、そんなもの簡単で、好きな人と、寄り添えている。それに尽きる。これ以上適切な表現が無いのだから、甘んじて受け入れるべきだ。
 彼は一国の王子様で、私は彼に見初められた。それはきっと、間違いじゃないのだろう。その出自も、何もかもをきっと彼は受け入れた後だ。私自身がわざわざ思い出す必要も無い。名前はセイラ、それはもう聞いた。だから、それさえ知っていれば構わない。
 湖畔を歩き、遠くの森を眺め、山脈に想いを馳せる。それだけで、幸福の歯車は回り続ける。滞ることも齟齬が生じることも、錆び付くことも無い。そしてその幸福は、私一人だけのものではないのだろう。
 湖を見つめ続ける。ふと、鏡のような水面に映った、自分自身と目が合った。それは鏡面の私と真正面からぶつかりあったというより、水の向こう側に潜んでいる私が、こちらを恨めしそうに観察しているように思えた。
 またしても、鋭い痛みが、脳裏に。それと同時に強い不快感が背筋を駆け抜けた。警戒する犬のごとく、私は体を小さく揺らした。寒いと勘違いしたのか、彼は身体のことを気にかけてくれた。痛みを何とか押し殺し、作り笑顔で何でもないわと告げる。しかし、途端に心配一辺倒の顔色に変わってしまった彼はというと、何かあった時にすぐに戻れるようにと城下町の方へ戻ろうという。
 自分のせいで予定を変えさせてしまい、申し訳なさで胸がいっぱいになったけれども、何事も無く彼はまた、気遣いを投げかける。セイラが元気ならそれでいい。そう、まただ。この人は、そうあるべきだと心酔しているように、誰かに優しくできる。罪悪感をいつしか私の方から感じてしまう程だけれども、きっとそれさえ彼は望まないのだろう。
 こんな人と、一緒にいられるだなんて、私は果報者だ。強く強く、そう思う。けれど、どうしてだろうか。とてもその配慮がむず痒い。私という欠片がしっくりと収まる器が、ここではないと本能が呼びかけている。またしても、強い違和感。頭を砕くような痛みは、また勢いを増していた。それを誤魔化すためにより一層強く、引き締まったその背を強く寄せた。
 その時だった、湖の傍に立つ、一見の小さな小屋が目に入ったのは。それは、丸太でできた、質素ながらも整った家屋だった。中には、お年寄りの男性が一人と、うら若い女性がいるようだった。行ってきますと伝えた彼女が飛び出してくる。買い物かごを持っているようで、彼女もこれから城下町へと向かうようだ。
 私達は馬で来ているけれども、決して徒歩で行けない距離ではない。きっとこの景色が好きなんだろうなと、城下と比べあまりに立地が悪い此処に住む彼らの胸中を想像してみた。もしくは、ここで何らかの仕事を生業としているのかもしれない。
 家の扉に向かってあんなにも明るい笑顔をしていたというのに、振り返って正面を向いた彼女の表情は途端に崩れた。私達、いや、彼の顔を見て同時に、表情を曇らせた。驚きが一瞬だけ強く覗いたものの、それ以上に哀しみをたたえていた。表情は硬直し、音も無く籠から手を離してしまう。
 それなのに、愛馬のユニへ指示を出している彼はというと、その女性のことなど目に入っていない。知人、なのだろうか。いや、きっと違うだろう。彼と彼女が知人だとすれば、過去に何らかの確執があるような態度を示している。とすれば、おそらく、もしかしたらなのだけれど、彼女はこの人を離れたところから慕っていたのだろう。恋をしていたのだろう。けれども、叶わなかった。
 頭痛はまたしても、融けるように消えていた。その代わり、何故だか私の胸の内には、風穴が開いたようなそら寒さだけがあった。何も無い虚空のように思われる胸の内、心臓だけがずきりと痛んだ。手の温もりが、砂時計の砂のように零れ落ちていく。次第に、ゆっくりと、何かを失ってしまったせいで。
 申し訳なさを感じている訳では無かった。ここでそんな事を想いもしようものなら、あらゆる人に失礼というものだ。
 けれど、どうしてだろうか。悲しむその顔から、目が離せない。彼女のことが、他人ごとに思えなくて胸が苦しい。
 彼女と会ったことなど決してないはずなのに。なぜだか、私はこんな事を感じていた。

 あんなに、笑顔が素敵な女性なのに、どうしてあんなに辛そうなんだろう。

 彼女の素性を知ろうにも、誰に尋ねたものか、当然私にも、分からなかった。