複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.138 )
日時: 2019/04/17 23:31
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


 彼と別れ、自室に戻り、独りを感じると同時に、また想う。おかしい。たった四文字だけの些細な一言。しかし、その端的な言葉が、じわりじわりとにじり寄って来る。ただにじり寄るだけではなくて、羽虫のように大勢群れを成して、羽音を立てるでなくその足で這いあがってくるように。
 ぞわりぞわりと、鳥肌が次第に体表を埋める。違う、違う、違う。ここは本当に私が居るべき場所なのだろうか。ここに居るだけで、落ち着かないこの体が、心臓が、私は此処に相応しくないと告げている。帰るべき人は別にいると叫んでいる。
 私の立つ場所が、ここにないと直感している。それなのに、私は自分のことさえ思い出せない。ただ一つ確かなのは、私が幸せなことだけだ。彼の顔を見ると何も考えられなくなるだけだ。それは、まるで魔法のようだ。彼の仕草を、笑みを、ただ傍らで見守りたい、それ以外に何も考えられなくなる。しかしその求心力はむしろ、罠に近いと、こうして一人部屋に閉じこもっていると実感する。
 あれは理性を溶かす薬だ。精神の抑止を無力化して、目の前の甘露をただ享受するよう人を堕落させる。そう、頭では理解している。まるで誰かがそのような思考を頭の中に植え付けたような、足元から少しずつ昇って来る恐怖を自覚している。そのはずなのに、あの銀髪を目にすれば、もう何も考えられなくなる。
 そして何より否定できないのは、この恋心はおそらく本物だということだ。彼が誰なのか分からない上、関係性もおそらく王子と姫という立場であると自覚している。ゆくゆくはお妃となるかもしれない立場であると。だが、出会った経緯がはっきりとしない。本当に私があの人の恋人で正しいのか、自分で証明できない。それなのに、これだけは確信できる。あの人は私にとって、否定しようなく最愛の想い人だった。
 流石に、彼と目を合わせて他に何も考えられなくなるのは、何か悪い魔女の介入のようなものを疑う程ではあるが、あの人と向き合った際の緊張は、紛れもなく本物だ。その隣に立っているだけで誇らしく、愛おしさを感じるのも、誰かに与えられた偽りでもなく本心からのものだ。
 それなのに、どうして私の本能は、おかしいと呟くのか。違和感に苛まされるのか。今日、記憶が朧げになりつつ起きてから一日と経っていない。それなのに、私が奇妙に感じるものはいくつあっただろう。
 この部屋の中で感じたことだけで、数え切れない。城の外に踏み出してからも、幾度となく湧いた居心地の悪さ。そう、この世界はどことなく居心地が悪い。何故だか、湖畔だけが心の拠り所のように感じた。威嚇する猫のように、全身の毛穴が緊張している。
 何より、私が最も奇妙だと感じたのは湖畔に暮らす女性のことだった。彼女のことは、どこかで目にしたことがあるはずだ。それは間違いない。私は彼女を知っている。知っていなければならない。それなのに、その素性がとんと分からない。私自身のことさえ分かっていない自分に、他人のことを知っておけというのも無理な話かもしれないけれど、それでも彼女のことを説明できない自分が、偽物に思えてならない。
 どこで見たのだろうか。そしてどうして私は彼女を見て、『あんなに笑顔が似合う女性だったのに』だなどと、考えたのか。つまり私は、彼女が笑った姿を目にしたということになる。ずっと、こんなお城に暮らしているというのにだ。先ほど、王子様と別れてから女中の人と世間話をしてみたところ、私は隣国の、国力の乏しい平穏な土地の第三王女だったらしい。ふとした機会に彼と出会い、言葉を交わし、想い合うようになったのだとか。
 その話さえ、誰かが用意した筋書きのように思えた。いや、王族同士が催しで出会う事に違和感はない。それが自分の身に起こった出来事であるということが、到底受け入れられなかった。その背景が、私の身にしっくりと当てはまらなかった。
 訳が分からない。何も覚えていないせいだ。何も分からないのに、何が分からないかを探ろうとしているせいで、迷路の無い檻どころか、明かりの無い闇の中に閉じ込められている。正解不正解どころか、選択肢さえ与えられない。辿るべき道も無いまま、手探りのための壁も無いのに、真実へ至る糸を探し当てねばならない。
 不可能だ。だからこそ、とっかかりに選んだのが、あの女性だった。
 もう一つ、気がかりなことがある。私は『あの表情』を知っていた。白馬の上、前後に並んで湖のほとりを走る私達を見て、彼女が顔に浮かべたのは、祝福でも嫉妬でもなく、深い悲しみだった。沈んでしまえば、もう浮かび上がれずに、泡となって消えていくしかない感情。
 私の仮定が正しかった場合、かつて見た彼女は笑っていたはず。とすると、私にとって見たことある表情は笑顔しかないはずだ。希望に満ちた表情であるはずだ。それなのに、あの絶望しか滲んでいない悲哀の相に、既視感を感じた。どこかで見たことが必ずある。
 そしてそれは、彼女ではない赤の他人がとっていた姿ではなかったか。
 まただ。寝起きざまに、自分の状況が妙だと勘付いた時と同じく、頭が割れるような頭痛が走った。まるで、私が真相に気が付くのを妨げるような時期を狙いすまして訪れてくる。常人(つねひと)であれば、思考を放棄するかもしれない。考えても分からない。考え過ぎである。思い出してはいけない何かがある。そう、逃げ道を作って。
 だけれども、この違和感を不自然で塗りつぶしてなかったことのようにしようとする痛みには、何者かの作為を禁じ得ない。意図的に記憶に封が為されているようだ。なぜ、どうして自分にはそう気づけたのか。真相に気づかせないための小細工のせいで逆に察せた事実が矛盾しているように思えた。
 記憶を封じ込めた制御装置は、私には効果の無いものだとしたら。適用外の人間に同じ処置を施しているせいだとしたら。とすれば私は、一般的な人間とは言えない何者かである可能性が示唆される。

“もう、考えない方がいいのでなくて?”

 誰か、女の人が囁いた。その声は初め、自分の言葉のように思えた。そうとしか思えぬ空耳が聞こえてきた。しかし、それは決して現実ではないのだろう。私の心は今も、「間違っている」と叫んでいる。虚飾の世界を引き裂こうと、甘い罠に引きずり込まれそうな弱い私に楔を打っている。
 私の邪魔をするのは、誰?
 当然、誰も応えない。これだけ都合の悪い干渉を重ねているくせに、呼びかけても応答が無い様子には、やはり何者かの意図が隠されている。
 コツコツと、木を叩く軽い音。気づけば頭痛は止んでいた。その事実に胸騒ぎがした。飲まれないようにしなければ、そう想ったはずなのに。
 抵抗も、自覚も何もかも虚しくその覚悟を棒に振る。扉の向こうで声がした。と同時に警戒がさらさらと溶けていく。紅茶の中の角砂糖のように溶けていく。そして、甘い夢が脳裏に充満していく。

「起きているかい?」
「はい」

 やはり彼だ。先ほどまでの私が今の私を知れば、溜息をつくのだろうか。また私は、罠など考えられなくなってしまった。そんなこと全部どうでもよくなる。彼の隣にいられればいい。共に過ごせればいい。愛してもらえればいい。
 幸せならば、何でもいい。そうとしか思えない。
 堅い鉄格子などよりもずっと、蜜の絡みつく柔らかな拘束の方が余程怖い。逃げられない監獄より、逃げたくなくなる鳥籠の方が、ずっと捕らえるのに適している。

「帰り際、少しだけ顔が青かったけれど、疲れすぎてはいないか」
「いえ……いえ! そんなことありません」
「そうか。ならいいんだけど……。セイラは辛くてもそれを隠そうとするからな」

 そんな事、無いとは言い切れなかった。今感じているこの不安を彼に伝えることはきっとできないだろう。誰かを不安にさせることが、ひどく不得手なのだろうか。いや、きっとそんなことは無い。私はきっと、我儘を言い出せばきりがない。それを知っているから、自分を律している。それだけだ。
 だから今、この人に頼ろうとしないのは、彼と出会うとこの違和感を忘れる呪いにかかっているせいだ。否定的になってしまう兆しを、忘れてしまう約定のせいだ。何か私を在るべき姿に戻そうとする手掛かりが無ければ、幸せな風景しか目に入らなくなる。
 甘い夢を本物であると信じること以外、できなくなる。誰かが本来演じるはずだった役に身を落としている自覚を忘れてしまう。この人物像に相応しいのは自分では無いと知っているのに。成り代わってしまってもいいじゃないかと考えてしまう。
 でもどうして、私は自分が我儘だと知っているのに、その現実に抗おうとできるのだろうか。ただ溺れていればいいだけなのに、沈まないようにと抗おうと考えているのだろうか。浮かび上がったところで、魚と同じで、悲しみの波を超えたその先、希望に満ちた空の中では呼吸ができない、生きていけないのに。
 いけないことなのに。冷静な自分が囁いている。ここで身を退くべきだ。誰も幸せにならないじゃないか。幸せを逃す誰かの顔なんて、思い浮かばないのに力なくそう叫んでいる。だからこそ、感情的な私はそんなもう一人の自分に訴える。だったら、自分が不幸になっても構わないのかと。
 愛した人間との暮らしを棄てて、何を求めるのかと。ここを去れば、救いなんてあるはずがないのに。

「今夜は共に過ごそうかと思っていたけれど、やめておくよ。やはり、休むべきだと思う。今朝から少しおかしかったしね」
「すみません……迷惑かけて」
「迷惑なんて言わないでくれ」

 そうやって、当然のように求めた言葉を差し伸べてくれる。期待した通りの言葉を、この人はくれる。そんな人だから、きっと私は愛することができたのだろう。
 けれど、想う。私は、自分が期待もしなくなってしまった希望を差し伸べてくれる手が目の前に現れたら、どんな態度を取るんだろう。今と真逆の境遇、絶望の淵で嗚咽を漏らす私に、諦めてしまった光を見せてくれる人と、出会う人ができたらと。
 今扉を隔ててすぐ近くにいる彼は、きっと理想の、憧れの人間だ。誰からも愛され、慕われる人だ。でも、万人から愛されなくても、例えその声が世迷いごとでも、誰かに新しい希望を見せられる人が現れたとしたら。
 この王子様は、幸せな道程でしか出会うことができないけれど、真っ暗闇の悲劇の中にも手を伸ばしてくれる、そんな人がいたとしたら。
 当然、誰にでも優しい王子様と結ばれる方が幸せなのだろうと想う。何不自由なく舗装された道を歩めるだろう。だって彼は、妃を幸せにする方法を生まれながらに知っている、あるいは知らずとも実践できるのだから。
 けれど、泥臭く誰かを悦ばせる方法を模索しながら、苦労もするけれど、最後にはずっとずっと幸せにしてくれる人がいたとしたら。それはきっと、もっと素敵なことのように思える。晴れしかない人生よりも、雨が降ったり曇ったりする日々の方がずっと、晴れそのものを楽しむ事が出来る。
 薄々、勘付き始めた。きっと、そのせいだ。まだ彼が離れて以降ともしていないのに、冷静さを取り戻すことができたのは。



 ああ、辛いなあ。
 苦しい。
 寂しい。
 息が詰まってしまいそうで。
 声も枯れてしまいそうだ。
 薬効も切れて、ここに立つ足さえおぼつかなくなってくる。
 大切な宝物を、自分から投げ捨てる行為というのは、きっとどんな拷問より辛い事だろう。
 でも、私を閉じ込める檻の全貌はまだ見えていないから。
 だから、私は私を取り戻すために、一歩を踏み出さなくてはならない。
 本当の居場所に帰るため。
 私が今収まっている場所に本来居る人を帰してあげるため。

 私が誰かに優しくしようと思えるのは、泣いている人を見たくないからだ。
 笑っている誰かを見たいからだ。
 それで自分が死んでしまいたくなっても。
 私は、誰かの不幸なんて見たくはない。
 私みたいにならないで欲しいって、伝えるんだ。
 世界中の誰かに、誰しもに。
 いつか私だって、報われるって、信じて。
 だから。

「明日もう一度、あの湖に連れて行ってください」
「……駄目だ。君の身体に障る」
「問題ありません。今夜のうちに治します。それでも拒むならばこの足で向かいます。這ってでも向かいます。貴方が来るまで、いつまででも待ちます。貴方に、伝えることがあります」
「随分な決心だね。止めるのは簡単だけど、それなら仕方ない。行こうか。でも、別れ話はごめんだよ」
「……安心してください。貴方を幸せにするための、大事な話です」

 言葉を濁した。何だ、私も充分狡いじゃないか。
 でも、構わない。私が彼を救ってみせる。この身を犠牲にしたとしても、あるべき姿に戻して見せる。
 声が震えそうになる。方は、もうとっくに震えていた。溢れ出る熱い想いを滴らせながら、扉越しの想像だけは普段通りに保ってみせる。何のために与えられた声だというのか。誰かを励ますための声だろう。
 だからだろうか。私の心は、彼に届いた。

「嘘はついていないみたいだね。なら、楽しみにしているよ」

 ただ、身体だけは大事にするように。最後にそれだけを言い残し、足音が遠ざかっていく。

“ああ、馬鹿みたい。ハッピーエンドを自ら手放して”
“まだ取り返しは効くけれどね”

 また、誰かが私の声で囁いた。もしかしたら、自分の喉から漏れた声だったのかもしれない。ぐさりぐさりと、心無い杭が、胸を穿つ。零れた嗚咽が、喉に栓をして、息も出来ない。
 声を、外に漏らすな。泣いていると気づかれるな。枕に顔を押し付けた。私を捕らえた誰かに、こんな姿を見せてたまるものか。月にさえ、そんな姿を見られたくなくて、俯くより早くにカーテンは閉めていた。
 当然、知らなかった。それが正解だったなんて。
 そして眠れないまま、【幸せな私】が自殺する朝を迎えた。