複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.139 )
日時: 2019/05/03 09:59
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


 結局、私が再びその湖畔を訪れたのは、夕方になってのことだった。彼に公務が立て込んだために、昼の間の自由が利かなくなったせいだ。
 漣が何度も押し寄せ、その度に心が洗われたように落ち着きを取り戻す。雑然とした脳裏が、甘露と辛苦の狭間に困惑する心が浄化されていく。湖は対岸がまるで見えない程広大だ。だからだろうか、海のように波が立つのは。
 ああ、やはりそうだ。この場所こそが、私の故郷だ。私の住む場所だ。ここで生まれて、死ぬ運命なんだ。ゆっくりと、力強い拍動がそれを肯定していた。ゆっくりと沈む芝生がどこか懐かしい。
 それでも、やはり呪いと言うべき鎖が私を縛っている。まだ、私が誰なのか分からない。何者で、何処で暮らしていたのか。何に苦悩していたか、いつ何時幸福を覚えたか、そういったことはまだ、バリケードに覆われたままだ。
 私らしい、私だけの、私であるはずの自分も、きっと檻の中でもがいていることだろう。私がこじ開けることのできていない箱の中で。その中を覗くこともできないまま、誰でもないはぐれ者の私は、必死に鍵を探している。譲れない真実を辿るために、そして作り上げられた今の私と決別するために。

「またここで、話がしたいと言っていたけれど」

 感慨にふけり、湖を走る波の音にだけ意識を向けていた私に、かれが呼びかけた。いつもと同じ、爽やかな声。甘ったるいつやのある声でもないというのに、催眠を受けたかのようにまた、頭の奥の方が蕩けていく。やはり、間違いが無い。これは恋ではなくただの呪縛だ。あの人の声など、真に耳に入っていない。その姿はこの瞳では、真の意味で捉えられていない。

「どういった話なのかな?」

 向き合えば、その顔は僅かに憂いを帯びていた。だというのに彼は、私の言葉を待つだけの覚悟など、とうに済ませていた。薄々察しているのかもしれない。これから必要なのは、彼にとっての本当の幸いというのは、私との別れであると。そう、私が言い出すことを。
 だけど、あまりに愚かな私は揺らいでしまう。そんな悲しそうな顔をしないでくださいと、今にも駆け寄って支えたくなってしまう。けれども、ふと得てしまった直感が叫んでいる。それは私の役目では無いと。この居場所に居ることを許されているのは、私では無いと。



 一体、誰なんだろうか。こんな試練を私に与えたのは。あるいは拷問なのだろうか。私がただこの夢を見るだけに甘んじていられないと、知っていて幸せを見せつけてきた誰かの。
 胸が張り裂けてしまいそうで、今にも逃げ出したい。だって、こんなの、あまりに残酷ではないか。私の愛した人がいる。その人から愛され、誰より近い位置に立たせてもらった。それなのに、もっといい人が居るからと、諦めることを余儀なくされた。
 この痛みは、懐かしい。大昔に私は経験しているみたいだった。欲しいものが目の前にある。それなのに、手を伸ばすこともできずに諦めた。その声が聞こえてしまわないようにと、声を殺すように嗚咽を細切れに吐き出していた。
 こんなに生きていることが、意思があることが辛いなら、ただ水の泡のようになってはじけて消えてしまえたら。悲しみと、寂しさと、悔しさと、やりきれなさと、切なさと、諦観。やけっぱちの自暴自棄が、負の感情全てを掻きまわした。そして最後に、私は死を選ぶのだ。
 この記憶は一体、どういった『私』としての思い出なのだろう。湧き上がってくる、私のものであるはずの記憶は、辛くて苦しいことだらけだ。

“どうして私だけ……こんな……”

 それは昨夜聞いた幻覚と同じだと思いたかった。けれども、そうではなかった。それは他ならぬ、真に私の内側から漏れ出たやっかみだった。きらきらと輝いている宮廷の全てが、好きなように愛した人を愛せる王子様が、そしてこの人から本来愛される誰かが羨ましくて仕方なかった。

“私には何も無いのに”

 違う、そんな事思っていない。こんなの幻に決まっている。

“同じ足が生えているだけのくせに”

 思っていない。そんな事、思っているはずない。だって、それでは私が……。

“こんなに辛いなら、生まれてきたくなんてなかった”

 惨めな敗残兵であることを受け入れるのと同じことだ。

 もう、彼の顔なんて直視できなかった。胸の奥、心臓の辺りが鋭い爪で抉られたように痛んだ。あまりの痛みに耐えきれなくて、顔の筋肉が緊張で強張る。唇を噛み締めているのが自覚できた。血の味が、薄く口の中に滲んだ。
 早いところ、告げなければならない。それなのに自分で噛み締めているせいで、この口を糊付けしてしまっている。糊なんて生易しいものではない。かすがいを打ち付けたように、びくともしない。この口を開けば、これまで耐えてきた分をまとめて、大声を上げて泣き出してしまいそうだったから。
 でも、早くしないと。きっと不審に思われてしまう。自分から呼びだしたというのに、話しもせぬまま、事情も明かさぬまま、独り言葉を失っているのだから。これでは愛想を尽かされてしまう。それで構わないはずなのに、この期に及んで私は、嫌われるのが、見向きもされなくなるのが怖かった。自分から、その位置を手放そうとしているというのに。
 それなのに、彼は。また私の予想を裏切って来る。期待なんてしてはいけないのに、私の期待を超えてくる。そうだ、そう言う人だ。だから誰もが、この人を好きになる。
 彼が黙り続ける私にかけた言葉は、これまで通り誰よりも優しく、広い心を見せていた。

「やはりもう帰ろう、セイラ。何か辛い夢でも見たんだろう? だから不安になった。安心してくれて構わない。今夜くらいは寝静まるまで、共に話をしていよう」

 どこかから借りてきたみたいな言葉に思えた。それなのに、彼が言うとそこに一切の下心も、虚勢を張るような意図も感じられない。自然体でそのように振る舞うことをこれまでに義務付けられてきたのだろう。
 肩に触れる手があった。その温もりが、ドレスの薄い布を通して伝わって来た。しなやかで、器用で、欲しいものには何でも手が届くような、端正な手だ。ああ、だからか、違和感を感じていたのは。これは確かに、私と相反するものだ。
 ずっと感じていた違和感をまとめるにきっと、私は望んだ恋を、想いを、成就できなかったのだろう。だからこんなに、幸せだと呟いて、溺れるようにじっとしていられる。何が正しくて間違っていて、本来あるべき姿なのかも忘れていられる。
 顔を上げれば、あの人の顔があった。急に手は背に回り、軽く引き寄せられる。覚醒し、記憶を失ってから彼は、ずっと近くにいてくれた。そして今、より一層に近づこうとしている。
 また、私の理性は溶けていく。決意さえも、無かった事に。今ここにいる私が幸せなら、ここが牢獄でも構わないじゃないか。拒もうとすること自体が間違っていた。どうせろくな現実では無かったのだろう。それなら、私が本来あるべき姿に戻る必要なんて、きっと無い。
 空いている方の手が私の髪を払いのけた。先ほど滲んでいた涙を拭う。近づくその唇は、最後にまた甘言を囁いた。蜂蜜と共に私の意識を閉じ込めた瓶に蓋をし、作品を完成させるように。

「僕が君を幸せにしたいんだ」

 とても、とても耳に馴染みのよい言葉だ。きっとそれは私にとって、止めに他ならない。葛藤していたはずの天秤が振り切れた。どちらに傾くか決めあぐねていたというのに、その言葉を聞いた途端に振り切れた。
 そうだ、私は、私自身の幸せを選び取ろう。悔いは残るかもしれない。自分の想いや信条に反するかもしれない。けれど、これだけ真摯に愛してくれるのだ。だとしたら私も、応えなくてはならない。
 だから、私は。
 まず目を閉じた。そうでもしないときっと、この頭はどうしようもないくらいに暴れてしまうだろう。そして、そのまま、私は。









 その両肩を両手で押し留めた。

 細やかな抵抗に違和感を感じたのか、抱き寄せようとする力が止んだ。悲しむでもなく、怒るでもなく、ただただ王子様は首を傾げていた。どうしてそんな風に抵抗されたのか、分からないと。つっかえ棒のように彼の身体を押して距離を取ろうとする私の両腕に、その視線は注がれていた。

「ごめんなさい、私……」

 何も言わなかった。表情を変えようともしなかった。真顔ではあるのだけれど、それは怒りを押し殺している訳ではないようだ。真剣に、私の言葉を待っているように思える。訳も無くこんなことをするはずがないと信じてくれる。理由ならある、当然だ。
 この人に私は、ずっと恋焦がれていた。それは事実だ。けれども私はその想いを、彼から愛されたいという心情を、裏切らねばならない。彼との幸せを選び取ればよかったと、後悔するかもしれない。
 けれども、できなかった。先ほどの彼の言葉はとどめに他ならなかった。彼が口にした言葉が、私の記憶の多くを手繰り寄せてくれた。まだ全てではない。おそらく、半分程度のものだ。
 私の本当の姿は、人魚姫だ。人間の王子様を好いてしまい、遠くから眺めているだけの日々を送っていた。何日も、何か月も、何年も何年も、ずっと。ある日魔女に頼んで足を生やしてもらった。その隣で歩ける体が欲しくて。けれども、ずっと好きだったこの人にも、当然好きな人は居た。そう、当たり前だ。彼は私を知らなかった。遠くから見ていただけの半人半漁の怪物の姫なんて知らなかった。
 そして彼は、この甘い幻想の中で見せていたような作り笑いじゃなくて、心の奥底から溢れ出るような、幸せな笑みを浮かべていた。寄り添って口づけした隣国の御姫様は、私が見てきた中で一番、笑顔の似合う女性だった。
 女の子だったら多くの者が知っている、悲恋のヒロイン。シンデレラや白雪姫に憧れる幼い子供たちに、初めて失恋を教える役目を担っている。
 だから、ここに立つべき者は私ではない。もっと相応しい人間がいる。彼に幸せにしてもらうだけではなく、彼を幸せにできる人間が。
 そうだ、私は、後悔なんてしたくなかった。かつて自分が、彼に姿を見せないまま海の波に紛れるように絶命することを選んだのも同じ理由ではなかったのか。
 誰かの幸せを蔑ろにしても、私は決して笑えない。幸せになれない。けれども、愛した人が幸せだったならば、それは私の幸せだと言えた。

「貴方の隣に立つべき人間は私じゃありません。だからここで、お開きにしましょう」
「……それは遠回しに、君の隣に立つのもまた、僕じゃないと言っているみたいだね」
「それは……残念ながら分かりません」

 そもそも自分に並び立つ人なんていないはずだと、私は告げた。彼は少し複雑そうな顔をした。言い訳だとか、はぐらかしているだけとか思ったのだろうか。けれども私の瞳に嘘偽りが無かったものだから、それは途端に、憐憫へと変化した。
 そんな目で見られるのは、流石に少しこたえた。何もそんな顔をさせたかった訳では無いし、よりにもよって彼からそんな風に見られたくはなかった。そしてそんな風に、やりきれなさを覚えて欲しくなくて、かつては会おうともしなかったというのに。

「行ってください、湖畔に立った小屋に。そこにいる女性が、本来貴方が幸せにするべき……貴方を幸せにしてくれる人ですよ」

 私の確信を持った言葉に、今一要領を得ていないようであったが、言いたいことは伝わったらしい。そこにいる誰かこそが、彼という王子様に相応しいのだと。このまま共にいても辛いだけだから、自分のことは置いて行って欲しいと伝えた。せめて城下町での暮らしくらいは確保してから別れたいと彼は言うが、それは断った。
 私の生きるべき場所は、この湖に他ならないのだから。昨日彼が、人魚と会いたいと思わないといった時に胸が痛んだのもよくわかる。彼が人間の女性を好いた時に、自分の報われない未来が確定していたと今更ながらに知れたからだ。そして二足歩行に違和感があったのは、本来私には足でなく鰭が生えているせいだ。

「私の正体は人魚ですから」

 そう告げると、彼はそれ以上多くを問わずに去っていった。別れの言葉は必要無いと、彼が口を開くより先に牽制する。これ以上その優しさに触れてしまえば、未練が残ってしまいそうだからだ。
 未練が残っては、これからまた対面する何かと向き合いきれなくなるかもしれない。私の記憶はまだ完全には取り戻せていない。彼の手をとった時の違和感も、私が彼を諦める踏ん切りをつけた言葉への馴染みも、何もかも分からないままだ。
 西日が傾いていた。橙色の太陽が、稜線の向こうへと消えていこうとしている。しかしその太陽と茜色の空が一変し、濃紺と紫のおどろおどろしい空模様に変化した。世界が砕ける、そら寒さを感じるようなピシピシという音がして、濃紺の空に真紅の亀裂が一つ走った。

「ねえ、どうして自分から幸せを棄ててしまったの?」

 空の光を受け、湖面の表情もまた毒々しく変化していた。水柱が一つ昇ったかと思えば、その水の向こう側から声がした。水の柱を斬り裂いて腕が現れた。苔に少し覆われ、藻が絡まっているものの、華奢な腕が覗いている。
 私の上背ほどの水柱から現れたのは、怨嗟と後悔とに囚われ、泡となって消えることもできなかった、もう一人の私の姿だった。