複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.140 )
日時: 2019/05/06 17:21
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


「……今度は、私の姿で揺さぶろうとしている訳ですね」

 全容は読めずとも、疑いようは無い。私は今、何者かの見せる幻想に囚われている。本来あるべき現実とかけ離れた虚構の世界に。そもそも私自身フィクションの存在なのだから、虚構であるというのは前提のように思えるけれど。それ以上に、嘘に嘘を塗り重ねた今のこの空間は寄る辺の無い不安定な偽物だ。
 そしてこの空間が生まれた理由は簡単だ。私を閉じ込めるための檻だ。檻というには何もかもが与えられているため、むしろ鳥籠の方が相応しいだろうか。美しいインコを閉じ込めて、逃げないようにするための快適な空間。鉄格子の無骨さにさえ、目を瞑ってしまえばだが。
 彼は楔だった。私が城から立ち去って、本来居るべき場所へ戻らないようにするための。意志ある動物は、重圧を跳ね返すように抵抗しだす。そのため、反骨の意志を示す事さえできない幸せな思いで縛ろうとした。何と言う、狡い選択肢だろう。一つボタンを掛け違えたせいで、私の意識は何とか逃れられた。しかし、術者の作った世界が完璧であったならば、私は今でもまだ、あの王子様の隣でほほ笑みかけていた事だろう。

「思い出したんでしょう? どんなに惨めで辛かったか。一人ぼっちで深海に沈む恐怖も。なら、どうして自分から戻ろうだなんて思えるの?」

 ずきりと、心が痛んだ。胸とかじゃなくて、意識の首根っこを掴まれたように、脳幹の奥がひやりとする。胆力で振り切ったはずの切なさが、恐れが蘇る。確かに彼女の言葉は否定できない。おそらく先ほどまでの王子様と目の前に立つ私の姿をした彼女とは作りが違う。王子様は私を満たすために作られた者、誰かが作った印象にイメージを添えたものだ。
 けれども、彼女は違う。あれは私の身の内から生じたものだ。私が押し込めてきた負の感情を可視化した存在だ。彼女が毒をこめて吐き出す苦言は全て、『私自身の本心』でしかない。だからこそこんなに、私にだけ突き刺さる。どうして、その答えを私はとっくに出したつもりだったのに、見失う。
 怖い。
 辛い。
 悲しい。
 苦しい。
 もう嫌だ。
 逃げ出したい。
 そんな事ばかり、頭の中で叫び続けた。この感情を誰かに見られたくなくて、喉からは飛びだそうとしなかった。私はずっと逃げ続けていた。自分の感情を直接ぶつけることを。好きだという恋慕も、止まらない涙の理由も。

「貴女はどうせ、辛い想いに耐えかねて自殺を選んだんでしょう。馬鹿馬鹿しい」

 深い湖のそこから現れた彼女は、泡となって消えることができなかった私自身だ。自分で自分を苦しめる、悪い感情を泡のごとく弾けさせられなかった私だ。水底で長い時間、一人でその身体の中に押さえ込んで、肉体(からだ)も精神(こころ)も病んでしまった、もう一人の私、そうなったかもしれない可能性の鏡像。
 その言葉はやはり、私の本心だ。私は悲しみが怨嗟に昇華するのが酷く怖かった。愛情が嫉妬で憎悪に変わるのが嫌だった。好いた相手を、貶めたくなんてなかった。だってそんなの、自分から私の事を、人でなしの化け物だと認めているみたいじゃないか。

「どうせなら思いの丈をぶつけましょう。脚だってもらったんだから。夜這いでもいい、関係さえ持てば、愛妾くらいにはなれる。正妻のおまけくらいのものだけれど、傍にはいられるわ」

 拗らせてしまった恋心というのは、これ程恐ろしいものなのだろう。私は、かつて自死を選択した私のことを褒めてやりたかった。私は、こうなるのが恐ろしくて恐ろしくて、深海に没すると決めたのだ。だから、人々の間に伝えられている私の逸話を誇りに思う。私は泡となることで、誰を傷つけることも無くひっそりと、居なくなることができた。

「シンデレラも、白雪姫も、茨姫も、皆王子様に見つけてもらった。愛してもらえた。それなのに、どうして人魚姫だけこんな目に遭うの?」
「……うん、辛いですよね」
「分かった風に言わないで。また取り澄まして、いつもみたいに繕った言葉で波風立てないように同意して……自分にも迎合するしかできないの? 私ながら、臆病者すぎて情けないわ」
「ごめん。でも、分かった風じゃない。ちゃんと、私もその苦しみは痛感した過去がある。それに、迎合するつもりはないわ」

 湖に一歩を踏み出す。それは、私の脛の中ほどまでの浅瀬だった。じゃぶじゃぶと水を巻き上げて、両足で水を裂くように歩く。一歩一歩と進んでいくと、急に段差ができたように深くなった。このままでは濡れてしまう。そう思った時、衣装が急に消えてしまった。水に触れた砂糖のように。
 気づいた時、私が纏っていたものと言えば、馴染みのある貝殻の胸当てと、鱗の形をした耳飾り程度のものだった。ああ、そうだ。やっぱり私は愛らしい人間などではなくて、人の世に交わることのない、亜人だったのだ。自覚すると同時に、両足は一本の大きな尾びれとなる。腰から下は、鱗に覆われた魚の姿になる。
 醜いだろうか。美しいと言ってくれる人もいるだろうか。そんなの、どうでも良かった。紛れもなく、これが私なのだから。
 私の首元に彼女は掴みかかる。それはそうだ。私の弱い心は、いつだって後悔だらけだ。恨み言だらけだ。何で人間に生まれなかったのか、って。どうしてもっと早く魔女と交渉して王子のもとへ向かわなかったのか、って。
 そして今も、私に激しい怒りを向けている。どうして彼からの誘いを断ったのかと。わざわざ恋敵の下へ見送るようなまでしたのかと。
 次第に指先にこめる力が強くなっていく。少しだけ、息苦しい。けれども目の前の彼女も私自身だ。同じように、苦しそうな顔をしている。

「私(あなた)っていうのはいつも損ばかり。その裏で、こんなにわたしが泣いているのに」

 今ならまだやり直せるよと、彼女は言う。ここは夢の中だから、巻き戻しのできない現実とは違うから。何でも、夢を見ている自分の思い通りにできる。願った通りにやり直せる。都合の悪いものは全て無かったことにできる。都合のいいように全てを創造できる。
 後悔なんてしなくていいように、後からいくらでもやり直せる。そう、彼女は言うのだ。

「湖がこんな色になったのも、空が裂けたのも、血だまりみたいな赤がその亀裂から覗いているのも。さっき王子様を振ったことも、誰かの幸せを踏み躙ったことに気が付いてしまったことも、全部全部なかったことにできる。やり直そう、だってそうじゃない。だって私こんなに慎ましく生きてたんだよ。ずっと、ずっと見てただけ。人間になりたいって思っただけ。ただ人間になるんじゃなくて、取り柄の歌声も人にあげた。なのに……何で何一つ報われないの? 親友たちは皆幸せな人生だった。死ぬまで幸せに暮らしたって言われてる。お姫様じゃない赤ずきんも……優しい猟師が助けてくれた。でも何で、何でわたしだけ、こんな救いも無いまま……」

 そうだ、実のところ胸の内で、ずっとそんな事ばかり考えていた。皆とお茶会をしている時も、ずっと。カレットも、ノイトも、アシュリーも、誰のことも大好きだというのに、一人疎外感を感じていた。人間が皆の物語を読み終えると、良かったねと言ってくれる。
 でも私はずっと、可哀想だと憐れまれ続けた。私は、私にとって最も幸福な選択をしたつもりなのに、誰にも受け入れられなかった。どうして死んじゃったのって、小さな女の子が涙した。
 そんなの、私の方が聞きたいぐらいだというのに。

「ね、セイラ、目を閉じて? もう一度眠ってしまいましょう? 私達にとってのハッピーエンドが其処にあるから。ここで私と会ったことも全部忘れて、昨日の朝に帰りましょう?」

 貴女が正直になれないというなら、私が変わってあげる。そう言わんばかりの勢いだった。けれども、できればそれは避けたいと彼女は言う。あくまでも自分は、セイラという乙女の、駄目な部分の寄せ集めに過ぎないから。自分がいることで、心優しいままでいられる私の側が表に生きるべきだと。
 うん、やはり目の前にいるのは私自身だ。そこで自分が成り代わってやると言い切れないところが特に。

「ハッピーエンド……か」

 浅く溜め息を吐いた。散々言われた言葉だ。やれハッピーエンドじゃない、やれバッドエンドだ。そんな事ばっかりで、疲れてばっかりだった。
 うん、そう。あの赤い月を見た時も、初めは幸せそうな恋人たちを、私を憐れんだ人も、全部溺れさせてしまおうかなどと、考えた。
 でも、無理だった。私の本当の願いは、幸せな誰かをぐちゃぐちゃに踏み躙りたい訳じゃなかった。私も一緒に、幸せになりたかっただけじゃないか。

“ハッピーエンドじゃないんだ、可哀想”

“バッドエンド? 人魚姫みたいな作品だよね”

 そんな事ばっかり言う人たちの中に、一人だけ。

“俺がお前を、ハッピーエンドにしたいんだ”

 そんな事を言う人がいた。アンデルセンでもないというのに。
 そうだ、私は今、こんなところで立ち尽くしている暇なんて無いんだ。
 けれども、一つくらいは寄り道をしてもいいかな。
 もう息もできないほど、私の喉に絡みついた指の力は強くなっていた。でもこの程度の息苦しさなんて苦でもない。だって、嗚咽を堪えていたあの時の方がずっと息を吸っている気がしなかったじゃないか。
 この子はずっと、悲しみから逃げている。悔しさから逃げている。切ない、独りぼっちで抱えるだけの感情を苦しくて仕方ないから、怒りで誤魔化している。誰かに矛先を向けることで、自分の脆さから目を背けている。私だって同じだ。誰かのためを掲げることで、誰も私の幸いを想ってくれない事から、目を背けた。
 道端で侍に啖呵を切った、どこかの誰かさんみたいに。
 この子は……いいや違う、私はそれにずっと耐え続けてきた。だからこれぐらいの寄り道は、自画自賛だけは許されないかな。そっと、彼女の頭に手を伸ばす。苔むし、色の褪せた髪が塩水で貼りついていた。全く、海水なんだか自分の涙なんだか。

「今まで、よく頑張ったよね」

 そうだ、これだって努力だ。自尊心だけが無駄に強い。あるいは弱い心を持っている。それを免罪符に不平不満を簡単に人にぶつける人がいる。白雪姫に出てくるお妃様がそのような例だろうか。なら、自分の弱音を吐き出さない人は心が強いというのだろうか。
 少なくとも、私は違った。私はただ、誰かに自分の弱みを曝け出すだけの度胸が無かった。弱さを認めるだけの覚悟が無かった。何を言われても涙を流さない人、笑みを絶やさない人。彼らもまた、心の弱い人間の一員だ。

「でも大丈夫、ちゃんと私達を見つけてくれる人は居るから」
「うん、そう……だったね」

 気づけば、息ができるようになっていた。目の前の彼女は涙を流している。今にも大声を上げそうなほど、大粒の涙が、滝のように。

「だから道を開けて下さい、行かなきゃいけないところがあるんです」

 崩れていく。弱かった本音の心が。自ら生まれた私の鏡像は、それこそ水鏡の媒介となった単なる湖水へと戻り、湖に混じり入ってしまった。宙に走った割れ目はさらに広がっていく。たった一つの大きな亀裂、そこから細い罅が蜘蛛の巣のように天蓋一面にその足を伸ばした。

Re: 守護神アクセス ( No.141 )
日時: 2019/05/06 17:21
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)

 折角鰭が生えたのだから、そのまま泳いでそちらの亀裂へと向かい始める。何となくあそこが、出口のように思えた。泳ぐ魚と同じく、魚体となった半身を左右に揺らし、前進する。そんな折だ、岸の方に、新しい刺客が現れたのは。
 人影を見た際に初めに浮かんだのは、往生際の悪い術者に対する苛立ちだった。あの手この手で私のことを揺さぶろうとしているようだが、初めの甘露でかどわかすものと比べてしまえば、囚われるはずもない。
 初めは憧れの人、二度目は私自身。なら、今度は誰だというのか。私を動揺させる手段として考えられるのは、もう一人しか考えられなかった。その顔を久しぶりに目にして、私は嫌悪感から目を細めた。何も、姿を現したその人が憎い訳ではない。
 その人さえ利用しようとする、月の上の御姫様が、憎たらしくて仕方が無かった。
 それは、少年の姿をしていた。もはや精巧な幻覚を見せるだけの余裕が術者に亡くなっているようで、その偽りの契約者はマネキンのようにシルエットを模しているだけで、彩を欠いていた。本来“彼”が有しているはずの青さも、未熟さも、嫉妬も焦燥も何も再現していない。暖かさも、優しさも、思いやりも。清濁含めた感情を欠落させた泥人形だ。
 それでも、何を意図してその人形が出現したのかは分かる。かつての想い人が駄目だというのなら、今の私にとっての大切な人を持ち出そうという魂胆なのだろう。でも残念、私は知っている。その人とは、ここを出られれば会えるということを。
 それでも、目が離せなかった。何故って、かぐや姫が王子くんを使って何をさせようとしているのかと思えば、目を離す訳にもいかなかったせいだ。これまでずっと、私のことを面白半分に冷やかしておいて、さらには彼までも自分の意のままの絡繰りとして使おうだなんて、度し難いというほかない。
 じっと見つめていることを気づいたのだろう。その王子君の姿をした土くれは、誰の物とも分からない濁声で、大声で私に呼びかけた。

「何してる、早く戻って来いよ! お前は俺の守護神だろうが!」

 一体何を言い出すというのだろうか。全然、分かっていない。確かに王子くんはあまり人の話を聞かないし、自分勝手に行動することも少なくは無い。けれども、そんな事を私に言うような人間ではない。

「お前は所詮俺がヒーローになるための道具なんだよ、お前の幸せなんて知った事か。早く俺を気分よくさせろ!」

 ああ、なるほど。今度は王子くんの株を下げることで私が向こうに戻るのを阻害しようという訳らしい。あんな直ぐにバレる贋作で、どうやって私のことを貶めようというのだろうか。やはり、かぐや姫を許してはいけない。この私の憤りも、彼を侮辱した罰を、ぶつけて、与えてやらねば気が済まない。

「さっきまで他の男になびいてただろ。知ってるぞ、昔の男って。結局ただの売女だったんだな、静粛なヒロインのふりしておい……」
「いい加減にしなさい」

 見て見ぬふりはそろそろ限界だった。別に私がどのような誹りを受けても構わない。けれども、その姿で悪態を口にするのだけは許さない。卑しい言葉ばかり紡ぐことを是としてはならない。
 本当は凡庸な人間なのに、背伸びをしようと努力する姿勢が、私はとても美しいと思う。本当は嫉妬と羨望で狂ってしまいそうなのに、優しい人であろうと努めるところが、誰より尊いと思う。だからこそ、そんな人に、顔を背けたくなるような汚い暴言ばかり口にさせてなるものか。
「初めて会った時、彼が何と言ってくれたか知っていますか」
 私はちゃんと覚えている。忘れてなるものか、もう二度と。他人の能力にかかったせいとはいえ、私は自分の持っていた大切な記憶全てを失っていた。こんな経験はもう、まっぴらごめんだ。記憶を無くせば、自分の信念さえ拠り所を失ってしまう。自分自身に確固たる自信を持てなくなる。
 そんな私は、私ではない。今まで受けた苦しみも、それを耐え抜いた辛さも、その先にあった希望も、全部私の大切な宝物だ。

“俺じゃ物足りないかもしれない”

 いえ。いいえ。絶対にそんなことは無い。彼に力不足などあるものか。彼より適したキャストがあったものか。

「多分、王子くん自身も気が付いてないでしょうね。ずっと、ハッピーエンドに拘ってましたもの」

 桃太郎とクーニャンとの戦闘時のことだ。ずっと、肩ひじ張って私のためにと、無茶な努力をしてきたのが祟った。多分今でも王子君は、私のことを救いの女神だと思っているのだろう。私だって、誰にも見つけられなかった可哀想な守護神でしかないというのに。見ないふりをしている訳では無くて、本心から私の事を憐れまれるヒロインではなく輝かしい聖女だと信じている。盲目的で少し危なっかしいけれど、その信頼が私には有難い。

“けど”

 そう、そういうところだ。自分の弱さを自覚している。強者ではないその事実を、平凡な一人の少年に過ぎなかったという当たり前のことを。でもそこで、逆接の言葉で乗り越えられる。自分が優秀でないと自覚していながら、それでももっと優れた人間になりたいと上を向いていられる。
 そしてそれは私利私欲だけじゃなくて、いつも誰か、別の人の幸福さえ同時に考えている。何て我儘な人なのだろう。自分一人が幸せなのではまだ不十分だなんて。なりたいのはヒーローだから、沢山の人が笑っていないと自分も不幸になるだなんて。
 けれども、その偽善に映りかねない傲慢さが私にとって居心地がいい。どうせ私も同じ穴の貉なのだから。自分が幸せでも、誰かが不幸なままでは曇ってしまう。そんな我儘な女なのだ、人魚姫をモチーフにした守護神、セイラというのは。

「ねえ、王子くん。貴方にも質問です。ちゃんと知っていますか。私はあの時……」

 震えていた。我を忘れる程の怒りで、頭ではすっかり忘れていたのだろうけど、彼の身体が桃太郎と向き合った時の恐怖を忘れないでいた。まだ私と契約する前、生まれながらに守護神アクセスできない悲劇の少年であった頃。私の力になろうと思いながらも、その手は世間を賑わす殺人鬼の一人、桃太郎に怯えていた。桃太郎に殺されるかもしれないのに、私に助けてくれと縋りつくのではなくて、助けたいのだと声高に主張していた。
 あの時、私は数百年に及んだ探し物をようやく見つけられた。埋まらない心の穴を埋める、最後の欠片。探し物が、私を探し当ててくれる人、だなんて少し矛盾しているけれど。
 私だけのための王子様を、ようやく私は見つけられたのだ。

“俺を君の王子にしてくれ”

「あの瞬間、もうとっくに報われていたんですよ」

 だから、感謝するのは私の方だ。恩返しするのは私の方だ。ようやく私を見つけてくれた彼に応えるために、行かなくてはならない。あそこに立たねばならない。絵本の中の王子様みたいに器用じゃない。馬の乗り方だって分からないだろう。別段顔立ちが特筆して整ってもいなければ、すぐに人の事を羨んでしまう。
 それでも、泥臭く理想に縋って、夢を追いかける。その背中には神話の英雄にも劣らない意志を背負っている。私の手を取ったあの掌に、私も惹きつけられたのだ。

「だから今度は私の番。王子くんを必ず、誰かを救えるかっこいいヒーローにしてみせます」
「は、ガーデンじゃ落ちこぼれ寄りの守護神だろ、セイラは。どうせなら俺だって赤ずきんとかシンデレラくらい派手な……」
「黙りなさい!」

 目の前の泥人形を一喝する。もう、澄ました態度を作るのも限界だった。
 かぐや姫に遣ってあげる気など、もう無い。少し自分の方が年季の入った悲劇の御姫様だからといって、私のことを追い詰めるのは自重して欲しいものだ。
 次代のELEVEN、私達の王、そんな肩書が何だというのか。そんな肩書を、私のパートナーを貶すための免罪符になどしてたまるものか。

「私は後悔していない。報われない恋心を抱いたことも、それを一人で受け止めたことも。成就しないまま死んだことも何もかも。それさえ全部私の宝物だから。あまつさえそんな記憶でさえ勝手に隠したことが許せないのに、往生際の悪い事をしないで。その人は私を必要としてくれた。救ってくれた、支えてくれた。共に壁を乗り越えて、些細なことも語り合って。共に過ごして、笑って泣いて怒ってくれた」

 誰より大切な人間であり、他の誰かに唾をつけられるなんて許さない。かぐや姫が勝手に彼の顔に泥を塗るのも許せない。
 もう、こんな偽物の世界の出入り口を探そうだなんて止めてしまおう。こんな世界……完膚無きまでに打ち砕いてしまえ。
 彼女が踏み躙ったのは、私の中の大切な、記憶という名の宝物だ。勝手に入って来て、身勝手に奪い取っていった。そして傲慢にも、私の幸せを決めつけた。私であるということは、これまでの積み重ねに他ならない。だからその人たちは全部かけがえのない思い出だ。譲れない理由なんて、それだけで充分だろう。

「だからかぐや姫、いい加減にして。私の心の中の大切な領域に、土足で踏み入るのをただちに止めなさい!」

 吠えろ、普段抑圧している分まで、思いの丈を全て載せて。その声は世界へと響いていく。かぐや姫の能力により作り出された、邪悪な夢を振り払う浄化の歌。歌声による癒しの能力、それが私の能力だ。フェアリーテイルとなった同胞たちも癒す、守護神の中でも最高峰の回復能力。
 私にとっては薬でも、当然この精巧な贋作世界にとっては毒や災害に他ならない。天空を大きく裂いた切り傷が広がっていく。宙を覆う蜘蛛の巣のような罅割れも、空全てに、前面に、隙間を埋めるように拡散していく。今にも決壊してしまいそうで、大地だけではなくこの空間そのものが震えていた。
 彼以外の人に見つけられる世界なんて、本物の御姫様がいない世界なんて。そして何より、王子君があんなことを口にするなんて。

「こんな世界、全部嘘っぱちだらけのまやかしよ。早く私を、王子くんの隣に返しなさい!」

 大きな音が一つした。それは、巨大なガラスが地面に叩きつけられて粉々になるようだった。一つ、何より大きな世界の悲鳴がこだまする。続いて、細かくなったガラスの断片が、跳ね上がり、また地面に打ち付けられ、弱弱しくもさらに甲高い断末魔を生じる。天井が、床が、壁が、次々と音を立てて素粒子と化し、崩れていく。
 壊れていく。おそらくは、大昔の私が望んでいたはずの、幸せな妄想。けれどもその夢は叶わなかった。けれども構わない。叶わぬ夢を見ていたことも、今となってはいい思い出だから。
 崩れゆく世界は暗転と点灯を何度も繰り返していた。それはおそらく、世界の破棄と、かぐや姫による再構築の試みとがせめぎ合っていたのだろう。次第に、暗転の頻度が増していく。光が差し込む時間は短くなっていく。
 爆発が起きる度、より小さな爆弾が周囲に撒き散らされ、その先でまた炸裂していた。次第に小さな鈴の音が幾重にも重なり合って、世界の罅が広がり続けてもはや目の前さえ真っ白に見え始めたその時だった。
 一際長い暗転が、この世全てを包み込んだ。それはさながら、舞台の幕が下りるがごとく。