複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.142 )
日時: 2019/06/14 17:41
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: eW1jwX0m)

 古来より人は口にする、愛だの恋だのと。下らない。自分が気分よく時を過ごせるだけの相手を気に入るために、情欲のプログラムが設定されているだけだというのに。それを恰も美しいものとして扱い、大切にする人間があさましくてならなかった。少なくとも、そういった感傷的になりかねない感情を棄てた後は、ずっとそう信じていた。
 人は時として、実の伴っていない愛を口にする。下心に塗れた恋慕を隠すため、虚勢の真心を見せつける。そして時として、実を伴っていた筈の愛からは、いつしかその本質が失われてしまう。愛というのは宝石と変わらない。煌き、瞬いて、関心を惹きつけるものの、時と共に風化してやがて朽ちてしまう。
 そんな人間たちを何度も見てきた。月の上から。自分の行いが正しかったのだと、終わりのない答え合わせをするように。今日もまた、どこかで誰かの身体が朽ちた。傍にいるつがいの片割れは咽び泣いている。いい気味だ。もう二度と閉じた瞼を持ち上げられないその男から、永遠に愛は失われたのだ。やがて遺された彼女の中に残る想いも、灰となって空を舞うことだろう。
 死は絶対にして不可避の結末だ。自分達守護神にはもうそんな概念はないが、人間にとってそれは絶対だと、生みの親であるシェヘラザードは口にした。彼女もいまや、死の概念を超越した守護神、その中でも王の称号を手に入れた者ではあるが、かつては死を避けられぬ人間だった。
 私は彼女に作られ、次世代の女王となるべく日本という地で育て上げられた。恥ずべきことではあるが、その際に恋というものを知った。あまねく貴族が私の下へとやってきたが、須らく追い返してやった、つもりだった。
 けれどもいつしか帝には耽溺してしまっていた。いや、それそのものは後悔するところではない。一つのものに執心してしまうのは刹那的な衝動に由来するものだ。避けようと思って避けられるものではない。
 私はその頃、自分の正体を知らなかった。ただの人間だと思っていた。そのせいか私は、私を愛する帝のことを好いてしまった。好いてしまったその事実を、誇るべきこととして頬を染めていた。それこそが私の汚点だ。下らない感情に囚われることは、避けるべきことではあっても罪ではない。ただ、その囚われの心を慈しんだことこそが、大罪に値する。
 私が本来存在するべき場所、月より現れた兵士たちが持参した薬を一舐めしただけで、恋心など一息に消えてしまった。跡形もなく、その他一切の感情をも犠牲にし、自我の薄い天上の民と同化した。
 一度捨ててしまったものは取り返しがつかない。かつて愛した人と離れ離れになることさえ、最早辛いとも感じられなかった。だからこそ、私は確信を求める。何百年の月日を浪費した今でも、証拠を欲する。あの時私が捨てたものは無価値なものであったのだと。誰もがいつしか忘れてしまうものであるのだと。
 そんな問いかけに、正しい答えなどありようもないという、幼子でさえ簡単に分かるような事実から、目を背けながら。
 そうして私は、『童』として兎の面を被ることにしたのだ。もう、自分が泣いているのか笑っているのか、それとも顔の筋肉が動作を忘れてしまったのか、そんなことさえも、知りようがないのだ。




「そんな馬鹿な……どうして、どうしてセイラは……」

 信じられなかった。目の前の光景が。幻惑の世界に囚われたはずの人魚姫が、彼女にとっての夢であり、理想でもあった。王子様との暮らしを諦めてまで、違和感の正体を突き止めようとしたのが。
 彼女は何百年とその立場に甘んじてきた。何百年と諦観を抱えていた。作者によって胸の内に刻まれた恋心を、ヒロインだからという理由だけで、手放すことを許されなかった。身を焦がす程の恋慕の情も、身が朽ちる程の寂寥も。何度生き、愛し、溶けるように死に、それでも一国の王子様への憧れだけは、捨てられはしなかったはずだ。
 それが人魚姫の性というものだ。かぐや姫が最終的に、他人の痛みを理解できないように、人魚姫というのは想い人のために何もかもを投げ出すようなものだ。求められれば応じ、それが邪魔だと判断すれば自分でさえ切り捨てる。
 だからこそ、現実では決してあり得ない分岐、憧れていた王子から受け入れられる進路を提示すれば、断ることなどできないはずだったのに。
 見通しが甘かった。セイラが望むのは上っ面だけの幸福では無かった。真の幸せ、王子が真に迎えたはずのハッピーエンド。自分を犠牲にしようとも、愛した男が幸せになれればそれでよい。王子光葉と出会う前から、間違いなくそういう娘だった。
 こうなっては、もはや彼女をあの幻想の世界に繋ぎ止めるのは困難、いやもはや不可能としか言いようが無かった。あの世界にセイラを縛っていた鎖は、あくまでもかつての未練だけだ。それさえ払拭してしまえば、もはや執着など湧きようも無い。
 幸い、記憶にかけた封の全てが解けた訳では無い。とすればまだ、意識を戻すより早く打てる手は残されているはずだ。かぐや姫は鏡に映し出した心象風景のセイラではなく、現実世界で寝息を立てているセイラを眺めた。呼吸で上下する胸元以外ぴくりとも動こうとせず、まだ風向きは変わり切っていないと安堵した。
 ならば懐柔を諦めるのみ。今度はセイラの心を砕くことにした。戦意さえへし折ってしまえば、現実への嫌悪さえ抱かせてしまえば、本来の目的と別の手段から彼女を幽閉したままでいられる。この期に及んでこの女というのは、王子光葉が絶望する顔を望んでいた。
 だが。

「なあ、かぐや姫……」

 想定外は、もう一人いた。
 煮え滾っているような低い声に、守護神の身でありながら戦慄する。ドルフコーストの洗脳を受け、破壊衝動で突き動かされていながら、さも蹂躙される側の身としての恐怖を刻まれる。
 あり得ない。彼女を支えていたのは、月の民としての誇りだけだった。それさえなければ、先にその戦意を折られていたのは彼女の方だったろう。
 どうしてこんなに恐れなくてはならない。この私が、地上の民をもあらゆる点において凌駕したこの自分が。守護神アクセスも行えず、それどころか青い月光のせいで身動きさえ封じられた。矮小な人間に、どうして。

「お前、性懲りもなく俺の前でセイラをいたぶって……。あいつが帰ってきた時どうなるか分かってるんだろうな」

 その声に、また慄く。彼はかぐや姫への敵意や殺意など、二の次にしか思っていなかった。だからこそ理解できなかった。彼はあくまで、自分の大切な者を貶められた強い怒りによって、その激情を燃やしている。徹底的な、相手の絶望した顔を見ようと破壊するフェアリーテイルとは対照的。
 大事な存在が翳る、その顔を見たくないと言う強い意志からくる感情だ。
 こんな感情がこれほど恐ろしいだなんて、知らなかった。でもそんな事仕方ないではないか。誰もそれだけの強い想いを、自分には向けてくれなかったのだから。五人の貴族に無理難題を押し付けたものだが、その要求の難度に誰もが、気づけば心を折って諦めてしまっていたぐらいだ。
 だから童は、こんなもの知る由もない。

 それは真か?

 誰かが、かぐや姫の胸の内から、問いかけた。
 過去の記憶がフラッシュバックする。かぐや姫に逢えなければこんな世界に意味など無いと、不死の薬を燃やした帝を。血の涙を流して別れを惜しみ、自分との想い出を書にしたためた後に緩やかに没した竹取の翁たちを。
 あの三人から自分は、同じような想いを託されていたのではないだろうかと、気づくにしては、千年も遅すぎた。

「違う、そんな訳あるはずがない……。そんな、自分からわざわざ、切り捨てていただなんて、そんな訳……」
「何急に一人で慌ててやがる」

 困惑し、動揺する彼女に対して、睨みつける王子は一切揺れていない。眼光さえも揺らがず、ただ討つべき仇の姿を見据えている。面を被っていると言うのに、素顔ごと見透かされ、射抜かれたかのような戦慄が走る。
 セイラを帰還させては駄目だ。そうとしか考えられなくなった。セイラがこちらの世界に強い執着を抱いているとしたら、元々恋焦がれていた王子を忘れることができたというなら、全てはこの男が元凶だ。ならばこの男を利用して、今度こそセイラを完膚なきまでに沈めてしまえばいい。
 この男の言葉で心的外傷を抉ってしまおう。新たな愛した男からも拒絶させてしまおう。そう思って、この男の映し身を精神世界に投影し、彼女の胸を抉る言葉の槍を放つ。もう二度と、誰の事も信じられなくなってしまえばいい、そう、想っていた。

「いいのかよ、かぐや姫」

 それが最後にして最大の失策だったことに、彼女は指摘されるまで気づかなかった。代わりに気が付いたのは王子だった。なぜなら彼と人魚姫の精神構造は、根本の部分で重なるところがあったせいだ。
 初め、セイラに幸せな夢を見せていた時、かぐや姫は何と言っていただろうか。王子も、セイラも、これまで辛い現実に耐えてきた分、それが報われる甘い蜜の如き幻想には、絡めとられ溺れてしまうことしかできないのだと。
 そう、そして同時に裏返しの言葉も肯定したことに他ならない。

「セイラも俺も、そんな言葉じゃ折れねえよ。何べん聞かされたと思ってる。何回自分自身からも言い聞かせたと思ってる。無理とか、諦めろとか、必要無いとか。今更そんな言葉で立ち止まる訳ないだろ」

 そうだ彼らは、雑草のようなつがいだ。踏めば踏むほどに逞しくなる。超えるべき冬が寒い程、春に咲き誇る姿は華やかになる。名前も無い、高貴でもない、どこにでもいるような花のくせに、ランにも薔薇にも負けない、鮮やかな華を開かせる。

「だからかぐや姫、いい加減にして」

 過干渉にも程があったらしい。夢の中の人魚姫は、本来の記憶を全て取り戻していた。一拍遅れて、同じ言葉が肉体の方からも漏れ出る。乖離させたはずの精神と肉体が、再び一つに戻ろうとしている。
 不味い、ここから逆転のために打てる手は残されていないものだろうか。空回り、真っ白になった頭で思案するも、妙案など一つも出てこない。そうこうする内に、セイラを閉じ込めるために作った精神世界は崩壊していく。もう、その檻の中にセイラの心を捕えておくことなどできそうになかった。
 ゆっくりと、目の前で閉じていた人魚姫の双眸が開いていく。ただそれを眺める事しかできなかった。目を覚ますと同時に、現実世界での状況を彼女は思い出したらしく、寝覚めのまどろみなど全て振り払い、十二分に警戒心を見せた。ただ、かぐや姫が打つ手なく面食らっているのみなのは予想外だったのだろう。これまで自分が翻弄された怒りが、僅かに和らいだようであった。意趣返しは一部といえ、もう達成したためだろうか。
 王子光葉への金縛りはまだ継続していた。クーニャンにしても然りだ。しかしだからと言って優位に立てはしない。セイラの側から歩み寄ればいいだけの話だから。そもそも二人は距離として大して離れたところにいなかった。そのため、すぐさまセイラは誰に邪魔されることもなく王子の手を取った。否、誰にも邪魔なんてさせるものかと、セイラが強く望んでいた。

「信じてたよ、自力で戻れるって」
「はい、お待たせしました」

 あの日と真逆ですねと、セイラは言う。あの日というのがいつを指すか、問いを返すのは野暮というものだった。
 そもそも王子も、あの人呼ばれてすぐさまピンときたものだから、問い返す必要さえない。そうだなと、ただ認めて頷くだけだった。

「桃太郎、クーニャン、後任せてもらっていいか」
「あーはいはい好きにしな。私は楽しとくからよ」
「サンキュ。こいつだけは」
「私達二人で勝ちたいですからね」

 握りしめた掌と同じように、二人の声が重なった。何てことは無い、いつもと同じことだ。特別でも何でもない、二人にとっての当たり前。
 だが、込めた想いの強さは違う。気の昂りはどの瞬間よりも強い事だろう。ようやく全てが終わるのだから。初めに洗脳を受け、フェアリーガーデンの守護神全体にその状態を普遍化させた、言うなればこのフェアリーテイル暴走事件の第二の元凶。
 彼女さえも鎮静化すれば、再び白雪姫や赤ずきんが敵となることもない。シンデレラを取り戻すだけで、無事に平和な、これまで通りの日常を取り戻すことができる。そのための要石、マスターピースこそが、目の前にいるかぐや姫の救出だった。
 知君に負けず劣らず、この二人も彼に感化されたせいか、お人好しとしか呼べなくなっていた。あれだけのことをされてなお、救うという言葉が出てくるのだから。
 『それ』は少年にとって、憧れでしかなかった。手の届かないものだった。でも今は、こんなにも近くにいる。向こうから手を取ってくれる。
 だから今日も、この瞬間も口にするのだ。底知れぬ勇気が湧いてくる、独りでないと知るための魔法の言葉。


「守護神アクセス」