複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.143 )
日時: 2019/08/19 17:24
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: eW1jwX0m)

 暴走したお伽噺の住人、人はそれをフェアリーテイルと呼んだ。元来は妖精の庭園とも呼ばれる、美しい花園で優雅な時を過ごすだけの守護神達。シンデレラに赤ずきん、白雪姫に人魚姫。桃太郎と鬼の頭領さえ、物語の外、幕間の世界でもあるその楽園では、作中でのいざこざも忘れて長閑に過ごしていた。
 彼らは根本的に、人が夢を見て生まれた幻想の住人という点で等しく同列ではある。だが、彼らの中には幾人か、それでもなおとびぬけて特別だと言える存在が存在していた。七つの海をまたにかけた覇王、その世界における最高位の男性守護神、シンドバッド。一夜限りの魔法で人生を変えた、最上の女性守護神であるシンデレラ。
 他にも、特別強力、あるいは高位な守護神はまだ存在する。不思議の国のアリス、赤ずきんなどがその例だ。ここまで挙げた者たちはその知名度、及び見知った読者が抱く憧れの度合いがとても大きく、より多くの人の、より正の感情を浴びただけ偉大な守護神となる。それゆえ、誰しも何処かで聞いたような名の傾城の乙女に勇士たちが名を連ねるという訳だ。
 ただそんな理屈を差し置き、さらには他の追随を許さぬ、突出した女傑が二人存在していた。そしてその内の一人こそが、かぐや姫であったというのに。
 今、そのかぐや姫はたった一組の悲恋の姫君と報われない少年とに、圧倒されていた。
 こんな事どうして起こり得ようか。未だELEVENに非ず、それゆえ超耐性こそ獲得していないが、それでも人魚姫などには劣りようがないと自負していた筈なのに、彼女はいつしか追い詰められていた。それも当然だ。彼女はこの瞬間に至るまで、己の勝利を疑っていなかった。
 どれだけの犠牲を払おうとも、奏白という一部の捜査官さえ封じてしまえばよい。さすればろくな兵を有さない捜査官などという有象無象は己自身の月光を介した精神干渉のみで全て掌握できる。そう判断して全ての宝物、および他の雑兵を凌駕した五つの特別な兵士までも犠牲にしたというのに。
 それらの兵士は、彼女が期待していた程の成果を誰一人として挙げなかった。妹も兄も、奏白と名乗る者はまだ健在であり、致命傷も負っていない。圧倒的質量の暴力で蹂躙するはずだった、仏の御鉢の能力でさえ、人数の差で押し切られてしまった。王子光葉さえ始末で切ればそれでいいと思っていた火鼠の衣まとう歓喜の従者は裏切り者の桃太郎に両断され、影武者の足止めは成功したものの、自分がこの体たらくでは大した意味を為していない。
 人魚姫たちが守護神アクセスを行うと同時に、戦場に癒しの聖歌が響き渡った。かぐや姫の能力による催眠、精神汚染を僅か数秒で癒してみせた。
 仕方の無いことだ。血霞にも似たドルフコーストの赤い毒ガスは、身体と精神双方を蝕み、癒着するようにまとわりつく。それゆえ、浄化するにも時間がかかり、セイラの能力でさえ困難だ。しかし、かぐや姫の洗脳は違う。あまりに強力、単調な分、対照的に夢から覚めるのも容易だ。それゆえ何らかの回復手段を持たれれば、途端に効果の一切が無効化される。
 そしてかぐや姫を劣勢に貶めたのはそれだけではなかった。何よりも大きな要因として、これ以上の精神干渉が許されない環境に変えられたというものが大きい。先刻まで雲一つない空に、あんなにも鮮明に満月が昇っていたと言うのに。今や、分厚い鈍色の雲が空に蓋をしていた。濃紺の帳が、灰の海に沈んでいる。
 人魚姫は水を操る。漠然とした説明であるが、応用すると彼女は雨雲さえも操れた。雲自体さえ水でできている、地上へ落ちる雨露を孕んでいる。さらには涙というものは時折雨に例えられる。号哭は土砂降り、嗚咽は時雨。にわか雨も時としてある。であれば、涙と共に溶けて消えた彼女が、自分の未来と同じ暗雲を立ち込めさせても違和感は無いだろう。
 月の光さえもう、とっくに見えなくなっていた。予め傀儡として支配していた者たちも、人魚姫に近いところに立つ者から順に解放されている。彼女が持ち駒として使える兵隊など、もう一人も残っていない。
 そんな馬鹿なと何度も喚けど、一度投げられた賽を、投げる前の状態に戻すことはできない。丁か半か、その答えを誤ったのだ。彼女に残されているとしたら、敗北を受け入れ破産する未来だけだ。これまで高めてきた栄華、人の世を混乱に陥れたフェアリーテイル、その幕を下ろす時だ。
 捨て駒のように切り捨て続けた。故にもう、彼女に寄り添う誰かは存在しなかった。主従関係を基にした淡白な関係も、恋慕の鎖に絡めとられた一方的な感情も、彼女の幸せを真に願う、育ての親たちから受け、過日の己が返していた無償の愛も。
 味方であったフェアリーテイルさえ含め、彼女は全て失った。壊れかけの、罅が入った自尊心くらいしかもう残ってはいなかった。私ともあろうものが。ガーデンの中ではそれほど位階の高くない人魚姫程度に屈するだなんて。
 あっていいはずがない。唾棄すべき屈辱と怒りだけが湧きあがる。これまではそれで良かった。自分こそが天に立つべき者だったのだから。だが今はどうだ。宙より引きずり降ろされ、むしろ天へ唾を吐く身だ。
 文字通り彼女は空を見上げて、口惜しさに嘆いた。先ほどまで雲一つない空が広がっていたというのに、今となっては雨雲が押し寄せていた。次から次へと降りしきる雨に、十二単は濡れそぼるのみ。秒を追うごとに重みを増していき、寒気が纏わりついてくる。
 雨雲は間違いなく、人魚姫の能力によるものだった。おそらくは幻覚の世界に捕らえる前から、能力を使っていたのだろう。水を操る彼女にとって、天に救う液滴の集合体である雲を生み出し、持ってくることさえ可能だった。当然、最大限己の能力を発揮できるコンディション、すなわち守護神アクセスの条件下に限られはするのだが。そのため、王子と人魚姫とが守護神アクセスをした際、即座に月に蓋をすることができた。
 かぐや姫は直接戦うための術を持たない。配下を全て無力化され、頼みの綱である月の光さえ封じられてしまえば、抗う事などできそうにない。人魚姫の武器足り得る水は、とめどなく降りしきるばかりだ。
 従者が討ち倒されたことで、彼女が彼らに譲渡していた喜怒哀楽の感情も回帰していた。それゆえに、ままならない現状への怒りが沸き立つ。今も昔も願いが叶わない現実が悲しくて仕方ない。それなのに、楽しさも喜びも、一片として湧きあがらない。
 雨の雫が重いのは、何もその質量のせいだけではない。その水分さえもセイラの手足に他ならない。雨粒の一滴一滴が、意志を持ってかぐや姫の四肢を押さえつける。

「ふざけるでない、斯様なことがあって良い筈がない。弁えぬかセイラとその契約者よ。その方らが童に歯向かうなど……」
「いつまでもセイラのことを見くびんなよ」

 セイラの能力による拘束に抗う最中、いつの間にかかぐや姫は王子の姿を見失っていた。呼びかけられ、声のした方へ振り返っても、その姿は無い。どこへ消えたのか。慌てふためき、王子の姿を探そうと四方を見渡したものの、前後左右、果てには上方にもその影は見当たらない。
 気配と不遜な言葉のみを残して消えた。そのようなこと、あるはずがない。身を潜めているのか、透明化しているのか。焦燥に囚われた頭では理解が追いつかない。セイラの能力も思い出せない。そこに思考が行きつけば、状況を看破できたというものを。
 セイラはあくまで、おしとやかな人魚姫をモチーフとしており、原点においても体を動かすようなシーンはそう無い。せいぜい泳ぐことが得意な程度だろう。桃太郎のように目で追うことも追いつかない俊敏さを示すことが無い以上、隠れていると判断するべきだ。水を壁としてその裏にでも隠れているとでも言うのか。いや、そんな事あり得ない。大粒の雨が降り注いではいるものの、視界を遮るほどのものではない。多少視界は陰れども、その後方に位置する憔悴しきった他の捜査官達の姿は目にできる。
 ならば一体どこに。無い筋力を振り絞り、今にも縄のように体を押さえつけ、締め付けようとする雨粒の一滴一滴に抵抗する。体勢を崩し、一歩を踏み出す。足元で水が大げさに音を立てて飛び散った。無風ではあるが嵐のように降り注ぐ土砂降りに、アスファルトの大地は全面水に覆われていた。月明かりだけが照らす水溜まり、波紋の浮かぶ水面に映った、自分自身の顔と目が合った。
 鏡のようだ。そう考えてようやく思い出した。人魚姫の能力を。水を操る、歌声により支援と回復を行う、それに留まらない第三の能力。遊泳能力が高いという事実から、どうしてすぐにその答えに到達できなかったのか。己の不甲斐なさに、腸が煮えくり返る想いであった。
 そしてそれに気が付くには、ちょっとばかり遅すぎたらしい。
 水面が唸りを上げる。機は熟したのだと、少し逸った凱歌を響き渡らすように、さざ波がこだまする。地面に広がった全ての水が、一つの大きな荒波へと集約していく。日本らしく例えるとするなら、海坊主のようだとでも言うべきだろうか。単純な戦闘能力など持ち合わせていないかぐや姫にとって、最早回避も撃退も不可能な水の城。
 まだ自分が乙姫であったならば、まだ抵抗できただろうか。そんな事自分にも分からない。
 水面は鏡のようになっていた。水鏡という言葉が古来から存在するほどだ、魚が自由に泳ぐ清水というのは、時として真理を映す鏡であるように振る舞う。そして逆に、鏡の世界に入り込む能力こそが、人魚姫の持つ第三の能力。当時全力で戦うこともできなかったとはいえ、桃太郎さえも翻弄した人魚姫の退避能力。
 ガラス、水面、鏡、それらを入り口として不干渉の世界に入り込む。まるでそこが、セイラにとっての故郷である湖であると見立て、雅に泳いでいられる。その能力を初めて聞いた時から王子は、上手く使えば敵の隙を突く、あるいは作り出せそうなものだと考えたものだ。実践したのは、今が初めてだったけれども。
 かぐや姫のすぐ傍に、敢えて残したマンホール程の水溜まり。そこを出口として王子は元の次元へと飛び出した。作り出した水の塊と自分の身体とでかぐや姫を挟撃するように、退路を塞いで手を伸ばす。
 膂力でなら押し負けるはずもない。着物の袖に掴みかかり、一息に水中へと押し込んだ。守護神に死の概念は無い。呼吸ができず苦しむことはあれど、溺死を恐れることなく水の牢獄の中に縛り付けられる。
 重すぎる水圧は、容易く押し込められた彼女の身体の自由を奪った。口から、体内に蓄えていた空気の塊が漏れ出る。苦悶も、嗚咽も、負け惜しみさえも、激流に呑まれるかの如く誰にも拾われずに押し流されていく。
 強い怒りだろうか、屈辱だろうか。ドルフコーストの能力により理性を失った状態では、悲しく沈むような思いよりもむしろ、激情ばかりが爆破する。認めるものか認めるものか認めるものか。這ってでも、手足が捥げようとも、肉体を失い怨霊となろうとも、憎きこの世界にどうにかして復讐を。そればかり考えている。
 その瞬間だった。彼女の身体に、息苦しさをかき消す程の激痛が走ったのは。この痛みはどこからやって来る。悲鳴さえ水圧に押しつぶされるせいで、その叫び声は聞こえない。しかし体がバラバラになる程の痛みが、次から次へと押し寄せる。頭が割れそうだ。それなのに。
 どうしてこんなにも、晴れ晴れとしているのだろうか。
 少しずつ、真紅に染められた脳裏が澄み渡っていく。喜びも、怒りも、悲しみも、何もかも溶けて事実だけが見えてくる。従者が討たれたことにより彼女の中に回帰した感情ではあるが、その所在がおぼつかなくなる。まるでかつて、月からやってきた月上の民の霊薬を一舐めした時のように。ただ、己が使命と現実だけが浮き彫りになる。
 指先一つとて、ちいとも動かない。身体の自由は完全に奪われていた。自分の声は輪郭を持たないというのに、人魚姫の歌声は明瞭に飛び込んでくる。成程、これがさんざんフェアリーテイルを解除してきたセイラの癒しの凱歌という訳だ。
 身体は確かに耐えがたい苦痛の中にある。死ぬことも無く溺れ続け、浄化に際して激しい痛みに苛まされている。しかし、精神はもはや苦しいと感じることはなかった。視線を泳がせ、王子 光葉……セイラの契約者を目にした。
 迷いの無い瞳だ。あの瞳は見覚えがあった。軍隊を派遣してでもかぐや姫の期間を阻もうとした帝と同じ瞳。いつか迎えに来て欲しいとの思いをこめて託した不死の薬を、泣きながら燃やした彼と、同じ。
 バッドエンドの物語も、バッドエンドのまま終わりはしないのか。
 復讐、復讐とそればかり口にしていた。初めて知った愛を忘れさせられ、退屈なまま千年も生き永らえた理不尽を、きっと無感情の奥底で呪っていたのだろう。かつて愛した人はとっくに死んだと言うのに、未練がましく一月に一度、満月の夜に日本を眺めつづけていた。
 何度も戦乱を繰り返した。ようやく落ち着いたと思ったら、平和は二百年で終わりを告げた。その後はまた、海を越えて争いを繰り返し、再び束の間の休息が訪れた。平成から始まる穏やかな日々が、いつまで続くのか分からない。歴史は何度も繰り返していた。今でさえそうだ、一人の人間の企てにより、日本は守護神と人間との戦場と化した。一体、幾人が死んだと言うのだろうか。
 これも全て、自分の弱さのせいだったろうか。違いない。次期ELEVENだとシェヘラザードから何度も口を酸っぱく告げられていたというのに、一守護神の干渉を受けてしまった。そうだ、自分が真に受け入れられていなかった理不尽は、自分が生まれた理由であり、その使命だった。そのせいで、人間らしく育てられたというのに、人間らしく死ぬこともできなかったまま、人間ならざる存在であることを余儀なくされた。
 確かに権力者の立場にいたのかもしれない。平民ではなかっただろう。しかし、それでも、自分は、『人間らしい感情を持って、人間らしく死にたかった』などと、願ってしまったのだろう。
 他人のシナリオに乗せられただけとは分かっている。それでも、道を踏み外した自分の不甲斐なさが恥ずかしい。
 争いなど下らないと吐き捨てていた自分こそが、次元を超えた戦争という未曽有の事件を引き起こしてしまった。きっと償っても償いきれることではなく、喪ったものは返ってこない。失った者も、帰ってはこない。
 それでも持ち前の図太さと、貪欲さとで、人は乗り越えるのだろうなと思う。幾度かも分からない戦争を経験し、破壊を受けた後に復興した歴史を見て、断言する。
 この少年のような者こそが、困難を乗り越えるための推進力に違いない。童の完敗だと、凡人だった少年に彼女は、祝杯を贈った。
 全身の痛みは、欠片も残さず綺麗に消えていた。心には静けさが、身体には倦怠感だけがある。不要になった水の牢獄は弾け、ようやくかぐや姫の肺は新鮮な空気を吸い込んだ。死に面していたからこそ、取り込んだ空気はやけに美味かった。膝をつき、崩れ落ちる。もはや月光を遮断する雨雲も用済みとなり、その隙間からは月光が覗いていた。
 満月の月を見て、初めて思った。月明かりがこんなに綺麗だなんて。
 原初のフェアリーテイル、すなわち理性を失った守護神達のマスターピースである、かぐや姫はたった一人の少年に賛辞を贈った。

「例を言うぞ。よく、よくここで止めてくれた」
「当たり前だろ。で、どうだ? 見直したか」
「ああ」
「言っとくけど俺のことじゃねえぞ」
「分かっておる」

 二人まとめてに決まっている。
 きっと王子 光葉一人では未熟者だ。半人前に過ぎない。いやきっと、この戦場における人間たちは揃いも揃って半人前だ。守護神達と心を通じ合わせてようやく一人前。そしてその中でも特に未熟なのがこの少年だったことだろう。
 それでも自分は、その未熟者にこそ敗れたのだ。それは間違いない。それどころか、むしろ強く肯定したいと、そう思えた。セイラの潜在能力を十二分以上に退き出したのは、この少年がいたからに違いないのだから。




 でも、だからこそ歯痒かった。

「王子といったな。誰が否定しようとも胸を張れ。これから先の不幸も乗り越えろ」

 自分が、ELEVENでないその事実が、歯痒かった。
 さすれば、他人の能力の影響を受けることもなかったというのに。口封じをされていなかったはずだというのに。
 空は晴れ渡っていく。だが、しかし。間違いなく暗雲は立ち込め始めたところだった。