複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.160 )
- 日時: 2020/04/22 14:47
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
彼女は本来、とても美しい人だったはずだ。テレビの向こうにいた歌姫は、その歌声だけではなく容姿さえも絶世の美女だと各国のメディアが取り上げていた。当然日本も例外ではない。ドイツ人男性と、日本人女性の間に生まれた奇跡の子。神から授けられた多様なギフトを最大限に利用して、人々に幸福を与える。
そんな、恵まれた人だった。大地の女神のように、その幸せを誰かに与えることができる人でもあった。ネロルキウスの能力を通じて、彼女の母から遺伝子を継いでいると知った時には、誇らしく感じた程だった。きっと会うことはないのだろう。自分が弟だなどと、言い出せはしないだろう。
それでも、偉大な人物と血で繋がっていられるというのは、過酷な日々を生き抜く上で心の拠り所として相応しかった。自分が信じていた、琴割から授けられた正義を遺憾なく発揮するために、彼女に恥じないような人間であろうという意識は知君の中でとても大切なものだった。
奏白と会い、ネロルキウスの力の使い方を知った今年の春。あの日から知君もテレビを見るようになったが、その頃にはソフィアは活動休止状態だった。最愛の母の喪に服していると知り、遺伝上の自分の母親が死んだと彼も理解した。一度だけでいい、実の息子と認めてくれなくてもいい。一目だけでも、いつか星羅 朱鷺子という女性を見てみたいと思っていた知君も胸を痛めた程だ。
きっと、実の娘であるソフィアにとっては、知君が受けたものとは比べ物にならないほど大きなショックだった。悲しくて、苦しくて、何のやる気もでなくなってしまった。でもいつか、立ち直って、また人々に気高く、凛々しく、そして美しい姿を見せてくれるって。
「……数か月のことでしかありませんが、待っていたんですよ。……お姉さん」
「そうなの? ごめんなさいねタイラ。でも私が、タイラを弟と認めるかは君の期待とは別のものよね」
「ええ、分かっています。急に現れた僕なんかを、弟だと、家族だと認めてくれとは言いません」
「殊勝な心掛けね。ならそこを通してくれない? 私は会わなきゃいけない人がいる。それを邪魔するのなら」
君だって殺すしかなくなる。力強く彼女は宣言した。彼我の実力差が理解できていないという訳でもない。何せネロルキウスとシンデレラはお互いにお互いの能力が通用しない。身体強化に関しても、お互いに遜色がないレベルだ。すなわち、足止めはできても、闘争の様子を呈しても、彼らが真に殺し合うことは不可能だった。
この兄弟げんかはただ時間を浪費するだけに終わる。それをお互いに理解している。だからこそソフィアは知君を素通りしたいと願っており、知君はその過程で心変わりさせようと試みている。
「後少しで、私は死んでしまう。その前にあの傲慢な老害に、間違いを突き付けなきゃ。だからお願い、退いて」
「絶対に嫌です。僕がここに来たのは琴割さんの命令でも何でもない。僕自身の我儘だ」
相変らず烈火のような語気を放つソフィアであるが、知君もそれに一歩として退こうとしない。当然だ、乗り越えてきた視線の数が違う。向き合ってきた壁の厚みも高さも違う。才能に甘んじて、甘やかされて、その力を無造作に振るうことを許されたソフィアと彼との決定的な違い。
才能を持つべくして産み落とされた知君だったが、決してその人生は恵まれたものではなかった。自我を失いかけ、死にかけ、何度も傷ついて、ようやく今がある。これまでずっと、呑み込んできた欲求、願望、駄々、我儘。迷惑をかけないようにと、過剰なまでに自分のやりたいことを押し殺してきた彼の初めての願い事。
「貴女は死なせない。貴女が直接的に殺した人はいないとしても、我儘に巻き込まれて死んだ人は沢山いる。この世界から死んで逃げ出して、楽になんてさせない」
「知らないわ。契約前のシンデレラが何人殺していようと、そこに私の責任はない。そもそも会えていなかったのだから止めようもなかった。自分と契約していない赤ずきんみたいな守護神に関しては尚更よね」
そもそもソフィア自身が復讐のやり玉に挙げていたのは、琴割ただ一人。付け加えるとすれば彼が理想として掲げた社会だろうか。ただ、その幼稚な復讐に巻き込まれて死んだ人は大勢いる。居場所を失った人も、家を失った人も。
その発端が彼女たちにあるのならば、あるいは協力者のラックハッカーにあったというなら、その責任を取るべきとは自明の理だ。
「無理な話ね。もうラックハッカーにシェヘラザードはついてないんでしょ? いい気味だけど、私がしてきたことの隠蔽ももうできない。世論が私の死刑を求めるわ」
「琴割さんの能力でもみ消せばいい」
「無茶を言うわね。琴割がそれを認めるとでも? それにそんなことに能力を使わせることが間違いじゃない。ELEVENなんだから、好き勝手に能力を利用するなんて……」
「何だ、ちゃんと分かってたんだね」
自分が今、何を口にしようとしたかを彼女は理解した。あれ程荒々しく、そして猛々しく煮え滾っていた頭だったが、知君と向き合った途端に少しずつ冷めていくのを自覚する。思考が明瞭になり、自分の弁が破綻していることを察知した。
そうだ、琴割の能力の濫用を指摘するというのならば、自分の復讐が的外れだと認めるようなものだ。
「僕たちのお母さんを助けるためだけにナイチンゲールの能力を使う。それも、許されないことだよね」
「へえ……そんな理屈だけは達者に育ったのね」
「違うよ、これは別に達者な言葉でも何でもない。冷静になったら誰もが割り切れることなんだよ」
「冷静……? 冷静って何よ、冷淡とか冷徹の間違いじゃない! やっぱりあなたはお母さんの子供なんかじゃない、私の弟でも何でもない! 本当の親の愛なんて受けたことがないからそんな風に切り捨てられるのよ。私はお母さんが大好きだった、だから諦められないんじゃない!」
「じゃあ、親の愛って何なの」
「決まってる、子供が幸せに生きることよ」
「今から死のうと考えてる姉さんに、相応しくないよね」
「ああいえばこういう。本当に琴割そっくりね、そんなに怒らせたいの!」
「それにこんなことして、本当に幸せ? 自分がやったことに責任も持てないのに? さっき姉さんはシンデレラや赤ずきんが出した被害に責任は持てないって言っていたし、自分自身はまだ人殺しをしていないって言い訳しているみたいだった。分かってるんでしょ、自分が癇癪起こしてるだけなんだって。本当に他人のことを踏み躙って、復讐を達成したところで自己満足できるタイプじゃないよ、姉さんは」
生まれながらに悪意に染まった人間というのは確かに存在している。真凜が単独で検挙した、アレキサンダーの契約者の人間などがいい例だ。人間性さえ変質させるような復讐心というものが存在しているのも理解できる。
しかし、これまでのフェアリーテイル事件を振り返ってみても、ソフィアにはその覚悟が決まっているとは思えなかった。シンデレラはソフィアと契約してから現れなくなった。これはソフィアの鍛錬という目的もあっただろうが、シンデレラを管理下に置くことでその間の被害が無くなったのも事実だ。
「シェヘラザードの能力を、ラックハッカーが無尽蔵に使っていれば、もっと世界は乱れていた。でもそれを良しとしなかったのは、ラックハッカーの協力者である貴女が、『琴割さん以外への被害』を拒んだからだよね。数少ない協力者の姉さんに、ラックハッカーはそれなりに敬意を払っていた」
殴られたから殴り返す。そんな幼稚な理屈のためだけに彼女は動いていたのだ。自分の大切な者を奪われたから、琴割の大切な理想(ゆめ)を打ち砕こうとした。
「確かに琴割さんは独善的な人かもしれない。でもあの人は、ちゃんと大切な家族を失う想いは知ってた。琴割さんが今の社会を目指したのは、最愛の娘と奥さんを喪ってからなんだから」
琴割はその深い落胆と悲哀とを乗り越え、立ち上がり、世界を変えた。それを叶えるだけの力を、ジャンヌダルクを有していたからだ。
それは琴割に限った話だろうか。そうではないと知君にも分かる。彼女は母を喪ったとはいえ、同じ悲しみを共有できる父親がまだ残されている。彼女がステージに帰ってくるのを何年でも待とうとするファンもいる。
そしてそれで足りないというのなら。
「僕がいるよ。姉さんの間違いは僕が正す」
「それは、憎いと思えないタイラだから間違いだって決めつけてるんじゃないの。私は、お高くとまったあの男に、何としてでも一矢報いてやらないと気が済まないの」
「姉さんの間違いは、行いそのものじゃないよ。覚悟も決まっていないのに、心の声を無視して、無理な復讐に執心していることだ。憎い人に一泡吹かせたいって気持ち別に間違いじゃない。でも、琴割さんへの復讐のために、巻き添えにした人が多すぎた。無関係の人に不幸を押し売りしたこと、自分の責任だって認められないんでしょ?」
「何よ、分かった顔して」
「だって僕も、そういう人間だから」
この戦場に降り立った時、王子を殺さなかったのは確かに戦略的な意図もある。王子を殺してしまうと、人魚姫の契約が切れる。そうなると守護神ジャックが可能となり、人魚姫の歌の能力を使われる可能性がある。喉を潰した状態で王子を活かしておけば、その能力でソフィアとシンデレラが取り込んだ毒ガスを浄化することはできない。
ただそれ以上に、彼女にはできなかったのだろう。守護神と人間という知生体として概念の壁は立ちはだかる。一般的な男女の関係ではなく、契約を通じた信頼関係や相棒としての想いも入り混じっている。それでも王子と人魚姫は互いにとってお互いこそが最も大切な存在、心の拠り所となっている。母を愛する自分の姿と重なった、だから彼らを引き裂くことなどできなかった。
「姉さんはきっと、日本で、東京で、赤ずきんみたいなフェアリーテイルが沢山人を殺していても遠い異国の出来事だと目をつぶっていられた。でも、自分が戦場に立つとそんな覚悟を決めることができなかった。だから、王子くんを殺すことができないのを戦略的な理由だと言い訳したんだ」
「だからそれは、人魚姫の能力を使わせないためで……」
「守護神ジャックが成立するのは『守護神と未契約の人間』だけだよ。この場は戦場で、捜査官しかいない。捜査官は当然自分の守護神がいるし、この場に守護神ジャックの要件を満たしている人はいない。それなのに王子くんの喉を枯らすだけに留めた。それは何も失態でも、恥じる事でもなくて、姉さんが非情になりきれない、優しい人だって……」
「もう御託は沢山!」
どうして知君と向き合うと、自分の心が整理されていったのか理解した。悔しいが、認めたくないが、そこには確かに母の、朱鷺子の面影があった。ついつい、母親に諭されているつもりになってしまった。だからこそ、彼の声に耳を傾けてしまった。
どれだけ複雑に思い悩もうと、隠し事をしようとも、朱鷺子にはその悩みや不安を容易く理解されていた。滅多に怒ろうとせず、いつもソフィアの歌手としての成功を喜んでくれる、仏のような人だった。
その面影を、知君の中に見つけてしまったせいだ。
「退いてタイラ、もう時間が無いの」
「時間ならこれから見つければいい。そのために僕が、助けに来たんだ」
「そんなこと私は頼んでいないわ!」
もう余計な能力は必要ない。炎も嵐も、氷雪も雷鳴も知君には通じない。信じられるのは肉体強化と徒手空拳に限る。だからこそ己の身体に限界を超えたパフォーマンスを促す、黒のドレスに着替えた。まるでパッチワークのようにごてごてと多彩な布を縫い合わせたような歪な衣装が、瞬く間に硯に溜まった池のような黒に染め上げられる。フリルの裾が銀色になっているのは、どことなく刃物の鈍い輝きを想い起させた。
「最初に言ったはずだよ」
これは僕の我儘だ。
目的が真っすぐ一つに定まっているのは何もソフィアに限った話ではない。限られた時間で彼女に生きたいと思わせなければならない。死ぬ以外の方法で過ちを償わせようと考え直してもらわねばならない。
時計の短針はもうすぐ十二に重なろうとしていた。短針は、たった今八のあたりを通過した頃合い。
琴割の下へ向かおうとするソフィアが駆けだす。だが、知君は行く手を阻むように立ちふさがる。
守護神アクセスを解除した奏白にはもう、蹴りを繰り出すガラスの靴が、ただの星の煌めきにしか見えない。もはやその場に居合わせた者には、二人の行く末を見守ることしかできなかった。