複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.170 )
- 日時: 2020/05/07 21:52
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
「ソフィアはお歌が上手ね」
小学校の音楽会で、低学年のクラスは合唱をすることに決まっていた。全員が全員、楽器を器用に扱うことは難しく、笛や木琴のような道具を用いる演奏はもっぱら高学年の役目だった。
合奏、合唱の合同発表会。その帰り道にお母さんは、とても嬉しそうにそう言ってくれた。いつも仕事で忙しいのに、その日だけは無理して休暇をとって、私の姿を見に来てくれた。手袋越しでも、私の手を握ってくれるお母さんの掌は、とても暖かかった。
世界は音に満ちていた。それは雑草を踏みしめる音だったり、フォークと皿がこすれ合う音だったり。生活音のない空間は存在しないし、風がそよぐことは誰にも止められない。耳が遠くなっても、大きな銅鑼の振動は直接この体に訴えかけてくる。
世界は音楽に満ちていると、私は幼い頃から直感的に知っていた。相対音感と呼ばれる才能を持っていたおかげで、歌うことは比較的得意な子供だった。テレビでも、ラジオでも、沢山の音楽をかじった。交響曲さえも、その旋律を声で再現した。
一人ぼっちで留守番をすることになっても、両親が集めていたクラシックや最近の流行曲を聞いていれば寂しくなかった。メモリに刻まれたその曲を通じて、知らない誰かと繋がった気になれた、向き合えた気になれた。そうして、独りの時間を音楽で埋めてきた私は、知らず知らずのうちに音楽を愛するようになっていた。
決して私は、音楽の神様に愛されていた訳ではない。ただ、私が歌を愛していた。だからこそ、若くして歌姫と呼ばれるようになった。歌姫という壮大な二つ名を与えられるより二年ほど前、ハイスクールに上がりたてだった私の成功を、お母さんは泣いて喜んでくれた。
あらゆるメディアの広告において、私の姿は無くても私の声が響いていた。当時はギリシャに住んでいたが、国内で私は瞬く間に時の人となった。色々あって、会社を退職したお父さんが私のマネージャーになってくれて、私の活動は国外に向けても活発化していった。
その頃からだったろうか。敏腕経営者として、一ベンチャー企業を牽引してきたお母さんが仕事を休みがちになってきたのは。時折、収録や公演の合間に実家へ立ち寄った際に、お母さんと顔を合わせる機会が増えた。段々スケジュールが密になって、私の帰省自体は激減したにも関わらず、だ。
本当は、その頃からずっと、辛いはずだったろうに、私の前でお母さんはいつも笑っていた。小学生の私の歌が上手だったって、喜んでくれたあの日と同じ笑顔だった。
歌姫という大げさな名前がつけられたのは、ヨーロッパ全域において最も人気のあるアーティストだと認められた年だった。判断基準は曲の売り上げやプロモーションビデオの再生回数から算出されたスコアだった。どちらの面から見ても圧倒的だったらしく、私は東洋人と西洋人のハーフとして、ユーラシア全土でも愛されるようになる。
家に帰る頻度はまた激減し、お母さんとも中々話せなくなった。けれども、脳裏にお母さんの姿を思い浮かべて、自分を鼓舞し続けた。お母さんのあの笑顔だけが、私の心の支えだったから。
人前に立って恥ずかしくない自分であろうと、自分磨きも忘れなかった。お母さんがとても綺麗な人だったから、私も美しく成長できたのだと思う。そこに目を付けた多くのスポンサーは、私を女優たちの代わりに広告塔としても利用し始めた。
アメリカに進出して、大統領のラックハッカーに直々に認められ。星羅 ソフィアの名声は、とうとう全世界に轟いた。お母さんの故郷の日本でも何度も公演があった。二年にも満たない短い時間だった、私にとっての幸せな時間が続いたのは。
実家のある母国よりも、国外で活動する時間の方が長くなった時の事だった。父に病院から電話が届いた。私は何も知らされていなかったが、父は何となく察していたようだった。お母さんが倒れた。電話を切ったお父さんは、端的に、それだけ告げた。
真っ白な病室、ベッドの上で横になっているお母さんは、見たことが無い程小さく見えた。弱り切った人間というのは、まるで風船のように萎んで見えるのだと初めて知った。声が出なかった。少なくなったとはいえ、帰った時にはいつも会っていた筈なのに、私はお母さんの不調に気が付いていなかった。
いや、教えてくれなかったのだ。いつも通りに振る舞うお母さんと、お父さんは、いつ倒れてもおかしくない病状をひた隠しにしていたのだ。私を心配させまいと。ただ、それは間違いだった。だってそれは、治ると分かっている時にだけ有効な手立てなのだから。
医療技術も高度に発達した筈の今の社会であっても、その病気は不治の病に部類されるものだった。だから、私は、手遅れになって初めて知ったのだ。それを知っていたなら、仕事なんて頑張らなかったのに。歌なんて届けなかったのに。できるだけ、傍にいたのに。
二人が隠していたせいで私は、共に過ごす時間を失ってしまった。
「ねえ、守護神の力でもどうにもならないの?」
「難しいだろう。ナイチンゲールの能力を用いれば可能ではある。だが、ナイチンゲールは……」
「ELEVENだからなんだって言うの? 私達のコネクションならきっと交渉もできるわ」
難しい顔で思いつめていた父を何とか説き伏せて、どんな手を使ってでもお母さんを助けようと決めた。ELEVENの能力を個人の願望のためだけに用いるのはルール違反。しかしナイチンゲールでなければもう助ける手立てはない。その狭間で、お父さんは揺れていた。
だが、このままじゃ諦めがつかないと主張した私の気迫に、とうとう根負けした。これまでひた隠しにした負い目というのもあったのだろう。私はそこに付け込んだ。
元々、お父さんだってお母さんを溺愛していたのだ。一度決心してからは、彼女を助けるのだと父も乗り気になった。
「幸い、琴割には貸しがある」
だから頼みごとの一つや二つであれば聞いてもらえるかもしれない。そう期待して、琴割へとアポイントを取ることにした。十年以上も前、とある交渉のために彼とプライベートで連絡を取り合うためのアドレスを手に入れていると、淡々と父は口にした。
その交渉の具体的な内容は、その時は教えられなかった。機密事項であり、ジャンヌダルクの能力で口外することを禁じられていたせいだった。今にしても思う。自分はそうやって能力を使っているのに、私達が頼み込んでナイチンゲールを使おうとするのは許さないと言うのは、矛盾であり、ダブルスタンダードでしかないと。
大丈夫、お母さんのためだもの。多くの人は快く協力してくれるはずだ。瞼の裏の母の笑顔に後押しされて、琴割との話し合いに臨んだ。
だが、交渉の場での琴割の態度はというと、にべもないものだった。
「ならん」
私達の必死の頼みを全て聞いた上で、彼が応じたのはそのたった三文字だった。一瞬、何を言われたのか理解できなかった。たった三文字、それだけを残して彼はその場を去ろうとしたのだ。
彼が扉に手をかけた時、ようやく我に帰った。待ちなさいと金切り声を上げ、男をその場に留まらせる。無表情に佇む、体温を感じさせない白髪の男は、まるで蛇のようだと思った。
「規約違反だとは分かっているわ。でも、医療じゃどうしても無理なのよ!」
「あのな、そんなんお前の母親だけちゃうわ。世の中似た境遇の奴らがごまんとおる。そいつら全員をナイチンゲールで直すのは無理や。術者の負担も半端ない」
ナイチンゲールが持っている能力は大きく二段階に分かれる。契約者の肉体に、どのような傷病が現れようとも、瞬時に回復して健全な、五体満足な肉体へ復帰させる超再生回復能力。および、他人の傷病の概念を切除し、自分へと移植する能力。つまり、病気やけがの苦痛全てを、術者に肩代わりさせる能力だった。
「何千、何万とナイチンゲールの契約者に死ぬより辛い苦痛を与えるような所業を強いる。その覚悟がお前にあんのか。お前が同じ立場やったら、赤の他人何百人のために発狂しそうな痛みを堪えられんのか?」
加えて、ナイチンゲールの使用が許可されれば、キングアーサーやシェヘラザードといった、世界を壊しかねない能力を利用するハードルも下がってしまう。それは許されない。だから、たとえ星羅 ソフィアが要人であったとしても、その願いには答えられない。
琴割というのは完璧主義であり、血の通った人間というよりむしろ、ルールに縛られた中で稼働するシステムのような存在だった。
「朱鷺子は……かつてお前に協力した筈だ。その借りを返そうとは思わないのか」
「貸しと借りのバランスが釣り合ってへん。延命治療の費用やったり、優先的に治験薬を投与する権利を譲る形では貢献したる。だが、これだけは許されへん。ナイチンゲールは使ってはならん力や」
議論は平行線だった。どうしても説得したい私達と、頑として首を縦に振らない琴割。その過程で、お母さんがどのようにあの男に貢献したのかを聞いたが、余計に腹が立った。
自分はELEVENの力を使うために、お母さんの遺伝子を、私の弟を利用しているというのに、なぜ他人にそれを許さないのか。お母さんが愚弄された気がして。奴がずるをしている気がして。私の弟が不憫でならなくて、怒りとも哀しみとも分からない涙が溢れて止まらなかった。
結局、許されはしなかった。私達はわざわざあの男に会って、お母さんと会う時間を減らしてまで懇願したのに、何一つ聞き入れてもらえなかった。社会として、厳正な規則としてその選択が何より正しいとは理屈の上でなら理解できた。でも、助けられる手段があるのに、その可能性に賭けることが許されないことがどうしても歯がゆかった。
「ごめんね。……ごめんね、お母さん」
「いいのよ、ソフィア」
「こんな事なら、歌の才能なんて要らなかった。何で、何で教えてくれなかったの?」
そう問いただすと、お母さんはひどく困り果てた笑みを浮かべた。自分が愛されていることを面映ゆく喜びながらも、私の言葉に酷く傷ついているようだった。
「私は、ソフィアの歌が好きだからね。世界中で沢山の人を喜ばせている姿を、テレビで何度も見て、私は幸せだったわ。貴女だって、心底楽しそうに歌っていたもの」
病気で弱った自分にただ寄り添ってくれるよりも、自分が手にした翼で、どこまでも飛び立つ姿を見ていたかった。だから隠し通したし、最も信頼できる人間にソフィアのマネージャー業を託した。
「私はね、沢山の人を救える人間になりたくて、父の会社を継いだの。ソフィアは知らないだろうけどね、私の会社はそういう仕事をしているの」
「知ってるよ。有害な廃棄物を処理したり、環境問題の改善のための事業を請け負ってる会社、でしょ?」
「うん。だからね、私一人がソフィアを独占していたくなかった。貴女の歌は、世界中に届けるべきものよ。だから、……この先もずっと、頑張ってね」
決してお母さんは、「私がいなくなってからも」とは言わなかった。そんな事を言えば、より一層私が傷つくと知っていたからだ。
もしかしたら治るかもしれない。そう信じて私は頑張り続けた。公演のスケジュールは決まっていたし、歌姫としての姿を、お母さんにも望まれてしまった。だからステージから、逃げる訳にいかなかった。
病院のベッドの上でも構わない。お母さんが笑っていてくれるなら、何でもよかった。
それなのに。
会うたびに腕が細くなっていた。日に日に血色が悪くなっていた。帰国する度に、その身体は小さくなっていた。
日本での海外公演を終えた夜だった。私が母の訃報を知ったのは。
お母さんの願いを叶え続けた私に待っていた仕打ちは、大好きだった母の死に目にも立ち会えないというものだった。
「何これ。ほんとに、私ってば馬鹿みたいじゃない」
急いで便を取って帰国すれば、何とか火葬前の母親と対面することができた。使い古された表現だけれども、ただ眠っているだけに思える安らかな表情をしていた。最後まで笑っていた。苦しい病気と闘っていた筈なのに。
お母さんが眠っていたベッドの隣には、私のコンサートを記録した映像記録媒体が山のように積み重なっていた。
お葬式が終わって、その表情も二度と目にすることができなくなった時、私の胸にぽっかりと穴が空いた。先に泣いていたせいで、心の中の悲しい感情は尽きてしまっていた。涙も哀しみも全て枯れて、洞のように空いた私の胸の内に巣食ったのは、灯ったのは、復讐の業火だった。
「絶対に許さない。あの男はただの独裁者よ。私が止めなきゃ。私みたいに、あの男に泣かされる人間を、これ以上産むわけにはいかない」
私は、使える物は何でも利用すると決めた。たとえ、その途中で自分が利用される側に回ったとしても構わないと。
アメリカの大統領だって、ELEVENだって協力者にしてみせる。自分の命を投げ打ってでも、琴割の創った制度に泥を塗って見せる。腕が千切れようと、脚を失おうと、永遠に歌など歌えなくなっても構わない。
首だけになっても、その喉仏を食い破って殺してやる。たとえ死ななくても、いつまでも呪ってやる。強い怨嗟の感情だけが私を衝き動かした。
慎重に計画を練った。これまでの実績と、各国首相とのコネクションも最大限利用した。自分が母の喪に服している間の活動休止期間さえ利用して、復活公演と銘打ってあらゆる国を守ることを決めた。米国を訪れて、ホワイトハウスでパフォーマンスをすることで、内密にラックハッカーと面会する機会を得た。
何も不足などなかった。復讐のための準備は整った。ネロルキウスと人魚姫の存在こそイレギュラーだったものの、軌道を修正するために計画の最後の部分に手を加えた。
全部、全部お母さんのためだった。私にできる努力は全部した。その無念を晴らすためだけに一年生きた。だからきっと、お母さんも喜んでくれるに違いない。その筈なのに。
復讐を決意したあの日から、ずっと。
瞼の裏のお母さんは、二度と私に笑いかけてくれなくなった。