複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.171 )
日時: 2020/05/26 22:33
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


 琴割 月光はELEVENの中でも他ならぬラックハッカーを最も警戒していた。他のELEVENの契約者たちは、宝くじに当たった小心者のような反応を示す中、彼だけがその力を自分のために使うことを躊躇わなかったからだ。例えば他のELEVEN、キングアーサーの契約者は、学者になるためにこの能力は必要ないと、phoneを所有してすらいない。
 しかしラックハッカーは、能力を用いないままでも世界を牛耳るに足るカリスマ性を持っていた。一時、大統領選挙を有利に進めるためにシェヘラザードを使ったこともあるようだが、そもそも彼は守護神抜きにしても何度も議員として母国の政治に参加していた。
 それだけ影響力のある、頭も切れる男がどんな願いでも叶えられるようなシェヘラザードの能力を使おうものなら、どのような影響が出るか、考えずとも分かるだろう。一国のみならず、世界中が彼の独裁政権下におかれることとなるだろう。
 だからこそ琴割はラックハッカーに最大の警戒心を向けていた。彼の側近の中に、自分の息のかかった人間を潜り込ませ、彼にphoneが決して渡らないようにと見張らせていた。それどころか、彼と親密な人間、ボディーガードとなり得る人間全員に対してジャンヌダルクの能力を使ってでも『ラックハッカーへphoneを提供することを拒む』までの徹底ぶりだった。
 だから本来、彼の手に渡る筈など無かった。守護神アクセスを行うための端末など。全ての合衆国民がジャンヌダルクの対象予備軍だったと言っても過言ではない。絶対に“彼女”の能力だけは使わせない。そのために最新の注意を、過敏すぎる程に払っていた、はずだった。
 しかし誰が予想できただろうか。世界的なスターである星羅 ソフィアこそが、己の意志で彼にphoneを渡すなど。分かる筈が無いだろう。しかもソフィア達は、時間をかけて信用を獲得した。若き歌姫の復活公演、そのことしか考えていないと誰もが信じた。彼女が大統領と会食をしたとしても、それは接待のようなものに過ぎないと。
 切り出したのは彼女の方からだった。ニューヨークで一番人気のレストランで血のような葡萄酒を舐めながら、護衛を含むあらゆる人間の退席を望んだ。こんな間近で見られていると緊張してしまうと。
 ソフィアとその父親が大統領に危害を加えるとは到底思えない。それだけの信用を得ていた二人は、何とか護衛に頼み込んでラックハッカーと三人きりの空間を作り出した。時折給仕の者がワインや料理の提供に訪れるのみである。
 メインディッシュが机に乗り、ソムリエが注文通りのワインを運び届けた直後のことだ。しばらく何者の邪魔も入らないというタイミングで紙袋に入った贈り物を、レストランの防犯目的で設置された監視カメラに見せつけるように彼女はラックハッカーに渡した。
 その紙袋はフェイクだった。その袋に隠し、カメラに捉えられないように彼女はラックハッカーに簡素な端末を手渡した。その真の贈り物を目にしたラックハッカーは目を丸くした。
 その端末には一枚の付箋が貼り付けられていた。そこの上には短く指示が書かれており、一秒にも満たない僅かな時間だけ、ラックハッカーはそこへ視線を走らせた。ソフィアからの指示を理解した彼もまた、機械仕掛けの目に映らぬようにそれを上着の隙間に隠した。




「もしもし、私だ」

 ラックハッカーが電話をしたのは翌日の夜のことだった。ソフィアから彼へ付箋を通じて伝えたのはとても単純なことだった。守護神を使って一人の状況を作り、そのままそのphoneをプライベートな通信機として電話をかけろというもの。その端末の電話帳にはソフィアとその父、二人分のアドレスだけが入っていた。

「お忙しい中、時間を割いていただきありがとうございます、ミスターラックハッカー」
「構わんよ。理由は分からないがこんなに素晴らしい贈り物をしてくれたのだから。むしろ日を跨いでしまったことを私から謝ろう」

 彼が通話をした相手は父の方だった。世界の歌姫と言われるだけのカリスマ、胆力を以てしてもまだソフィアは青さの残る生娘だ。対等な交渉相手として見るなら彼女のスケジュールからプロデュースまで一人で担っているこの男の方だ。

「それで、どうしてこんなものを……」
「それにつきましては、私よりもソフィアの口から聞いていただきたく思います」

 わざわざソフィアよりも父を選んだのだが、先方としては都合が悪かったらしい。別段どちらから話を聞くこととなっても変わりはあるまいと、ソフィア達の機嫌を考えてラックハッカーは承諾した。通話口から漏れる吐息が、男から女へと変わる。しかしそこに華やかさは無かった。
 先ほどまでは感情を押し殺すような静かなものだった。しかしソフィアの息遣いは違う。身の内に燻る激情を堪えかねているようで、その語気の荒さから怒りが漏れ出ているようだった。
 その怒りの矛先は一体誰なのか。不可解な状況に至った自覚のあるラックハッカーは首を傾げた。自分が数年前から、自由に使える端末があればよいと願ってはいたものの入手できなかったphone、それを贈った二人だからと、指示に従ったのは軽率だったかと。しかしソフィアの言葉を耳にした途端、彼は何故彼女らが自分に協力を仰いだのか納得することとなった。
 勿論ラックハッカーはこの時、彼らが復讐を誓った理由など知りはしない。だがそれでも、復讐の対象が彼だと言うなら、協力者は己こそが相応しい自負はあった。

「琴割 月光を地に堕とす。そのために協力して」

 通話口の向こうで、彼女の言葉を咎める父親らしき声がした。だが、そんなものはただす必要が無いとラックハッカーは笑った。ラックハッカーはひどく選民思想が強い人間だ。自分を最も上に置いていることは当然だが、自分以外にも優れた人間を認めるだけの度量はある。
 若くして世界一の歌姫だと称されるソフィアは、充分に選ばれた人民であるはずだ。それならば、対等な言葉づかいも許せるというものだ。その父も、遠慮をする必要はない。そもそもラックハッカーに武器であるphoneを届けたのは他ならぬ彼らだ。彼らの頼み事ならば可能な限り聞いてやろうと言う寛容さを彼は示した。何せ恩義はもう一つあるからだ。
 目の上のたんこぶである琴割の権威を引きずり降ろそうと言ってくれるのだから。



「琴割 月光を殺すことはできない。でも、彼という人間、彼が構築した規範を失墜させる手立ては存在しているわ」

 ソフィア達との密会は容易にできた。ホワイトハウスでの公演の打ち合わせと、その接待という名目でいくらでも会うことはできる。世間や琴割から疑念を持たれることもなく、だ。しかもシェヘラザードの能力を自由に行使できるようになったため、護衛の目も容易にかいくぐることができるようになった。
 そしてソフィア達がラックハッカーと合流する前に琴割を貶めるべく練った計画というのは、琴割という男を正しく理解した完璧に近いものだと判断した。どうしてそれほど琴割を知っているのかは聞き出せなかったが、ただならぬ因縁があるとは簡単に分かった。
 ラックハッカーが能力を使っても二人は口を割らない。つまりソフィア達と琴割との因縁は口外しないように口封じをされているのだ。そこに潜む事情は大きなものなのだろう。事実今でも、知君の真実をラックハッカーは知らないままだった。
 琴割を嵌めるための作戦は大きく分けて三段階に分かれていた。
 一つ、ELEVENでもなければ鎮圧不可能な未曽有の大事件を日本で引き起こす。二つ、琴割に無理を通してジャンヌダルクの能力を用いらせる。三つ、琴割が能力を行使した事実を告発する。

「この全ての過程においてミスター、貴方の存在が要よ」

 それは概要を聞かされた時に既に理解していた。特に二つ目、三つ目の段階においては間違いない。大統領であるという事実、ELEVENであるという事実。二つの立場を併せ持つラックハッカーだからこそ可能なことだった。
 まず無理に琴割が能力を使わざるを得ない状況を作るという点。これは非常に明快だ。琴割はELEVENであり、表向きに彼が能力を使うためには各国の許可を必要とする。つまり彼が未曽有のテロを鎮圧するためには、それを各国首脳が是としなくてはならない。そして世界一の大国の一つ、そのトップこそがラックハッカーだった。ラックハッカーの影響力は当然大きい。彼が「ELEVENの能力を使うまでもない」と主張しつづければ、追随する国も多い。結果的に琴割はジャンヌダルクを制限されたまま国内のテロに向き合う必要がある。
 だが当然、琴割の力を使わない限り鎮圧できないものを用意する。となれば平和を優先する琴割の取れる手立てなど決まっている。捜査官達が通用しないと分かると、自分が能力を行使するはずだ。

「何せ琴割は端末を介さず自由に能力を使える。自分が能力を使ったとしても、その事実の発覚をいくらでも拒絶できる。だからどう転んでも三つ目の段階、琴割の告発は不可能な筈だ」

 しかしそれを逆転させるのが、ラックハッカーがELEVENであることだ。彼が琴割を告発する立場に回ればいい。そうすればジャンヌダルクの拒絶の能力はシェヘラザードの超耐性によって阻まれる。

「だからミスターの協力は不可欠。あの男も、ELEVENの歩みを遮ることはできないわ」
「ふむ。それはともかく、どういった暴動を起こすのが問題ではないか」

 そもそも日本の捜査官は層が厚いことで有名だ。英国の有名な伝説に登場する大魔法使いの守護神や、アマデウスと呼ばれる戦闘向きの守護神など、養成校や若手だけでも充分な戦力が整っている上、彼らの先達も優秀な者が揃っている。
 波の軍隊では日本を切り崩すことは叶わない。しかも一つの国家に喧嘩を売るようなものだ。容易に兵士が用意できるとは到底思えない。あからさまな軍隊を作ろうものならばバッシングは避けられないこととなる。何をどうすればそれだけの壊滅的な被害をもたらすことができるのかと、ソフィアに尋ねた。
 正直なところ不可能だろうと鼻で笑うつもりだった。後詰の部分は適切な手法だとは思うが、そもそもそれだけ影響のあるテロを引き起こすことは不可能だと。しかし、その鼻を明かされることとなるのはむしろラックハッカーの方だった。
 ソフィアは思ってもみなかったものを利用して侵略行為をすることを提案したのだ。それは彼女の守護神がシンデレラだということも一考する必要があるが、それを言い始めればラックハッカーの守護神はフェアリーガーデンを統べる王である。
 ならば、自分とてその解答に行きつく必要があったのだ。しかし至らなかった。その答えを用意できたソフィアの発想力に脱帽する。

「フェアリーガーデンの守護神達を使うわ。彼らならば、並大抵の守護神以上の力がある。その上契約者を用意する必要もない」

 かぐや姫の特性を、ラックハッカーは完璧に把握している。何せかぐや姫という概念を異世界で生み出したのは他ならぬシェヘラザードなのだから。
「しかし、予想外の事態に陥った時、第二の策は用意しているのか」

 いくら入念に計画を練っても、頓挫する時はある。そのため、第二第三の筋道を用意するのは社会のセオリーだ。

「当然よ。その時は……」

 琴割が完璧主義な人間であり、規則に準じることを美徳とするのは十二分に彼女は知っていた。彼が能力を濫用することなど暗黙の了解としてしまえばいいものを、わざわざ隠蔽しようとする。これは、誰もルールを破る者がいないと見せつけたいようであると感じた。
 前例を作る訳にいかない。それを自分にも強いているということなのだろう。
 琴割は今よりもずっと昔、ラックハッカーが丁度生まれた頃に警視総監となった。警視総監となった際に彼の経歴というものがまとめられた訳だが、その際赤裸々に語られた事実がある。
 彼が平和を作るのは、失った娘が好きだったアニメ作品の平和を実現させるためだと。争いが無く、魔法の力を人助けのために使うような優しい世界。だから自分が作った今の守護神能力社会において、苦しめられる人がいることこそ彼の完璧主義に泥を塗るための一番の行為。
 さらには、ラックハッカーに伝えることはできないものの、琴割陣営にはソフィアの弟がいる。ソフィアを喪ったとあれば、彼からの信頼も地に落ちる。彼もまた、ジャンヌダルクに抗うことのできる一握りの存在。

「あの男の純潔の世界を、私の死という染みで穿つ。そんな世界、虚飾の幸せで塗りたくっただけ、真に優しい世界なんてこれっぽっちも実現できてないと教えるの。私はもう、この世に未練なんてない。私の命であの男の周囲の人間が、不信感を持つと言うのならそれだけで充分よ」

 この瞬間こそが、彼女が命を投げ打ってでも復讐を為し遂げると明言したワンシーンだ。それは自分を洗脳する殺し文句だった。この世界にはもう価値など無いと。ここに生きる目的が自分には無いと、他ならぬ自身こそを洗脳する言葉。死ぬための決意を決める言葉。
 愛した母が居る場所へと向かうための決断。生を、未来を投げ捨てる躊躇を棄てるための言葉。これから、また会えると希望に縋るための。





 それなのに、どうして泣いているのだろうか。未だに母の顔は晴れなかった。それにしても、今になってどうして自分はかつての日々を夢見ているのだろうか。私は暗がりの中に映し出された過去の映像を俯瞰し、首を傾げた。
 自分は何をしていたところなのだっけ。それさえも最早おぼろげな記憶だ。そうか、これは走馬灯だ。ようやく私も、お母さんと同じところに行くだけの資格がもらえたのだ。
 果たして復讐は成功したのだっけ、それさえももう分からない。ここが自分の意識の内、瞼の裏側のことだと理解すると同時に、目の前にお母さんが現れた。
 相変らず、声は聞こえてこない。しかしすすり泣いていることだけは様子から分かった。悲しんでいるのだろうか。いや、そんな事ある筈がない。いつだってお母さんは私を愛してくれていた。
 だからきっと、これは感激の涙だ。私とまた、そして今度はずっと、一緒に居られることを喜んでくれているんだ。
 そう、言い聞かせたかったのに。お母さんの顔がくしゃくしゃになっているのが見えた。その表情は決して、喜びの破顔では無かった。

「どうして……?」

 その悲痛な表情が、記憶の上層部、近い過去において認知した人物の表情と重なった。お母さんの面影を持った、新しい出会い。私と血を半分共有する、試験管で生まれた弟。彼もまた、泣いていた。
 何で皆して涙するのだろう。私に後悔なんて無いというのに。
 ああ、本当に何も分からない。十二時の鐘はもうすぐ鳴る筈なのに、なぜだか時の流れは酷く緩やかになっていた。

Re: 守護神アクセス ( No.172 )
日時: 2020/05/26 23:58
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)


『待っていたんですよ、お姉さん』
『僕がここに来たのは琴割さんの命令でも何でもない。僕自身の我儘だ』
『貴女は死なせない』

 それこそが、“彼”が私に突き付けた最初の言葉たちだった。彼はあくまで私の行く手を阻むために現れた。琴割の犬として、だ。そのような存在を受け入れてやる訳にはいかなかった。
 突き放そうとした。私は傾城で、あの子は王だったから。かどわかすその手を振り払って、翻弄してやった。それなのにいつまでも喰らいついてきた。全能に近いあの子の唯一の弱点。それに怯むことなく、小さな体を酷使して彼は、何度殴られても、蹴られても、辛い試練を乗り越えてでも立ち向かってきた。
 友達の夢を踏み躙ったあの時、あの子は怒りに満ちていた。他人の痛みの分かる、他人の夢の大切さを理解できる、聡明で優しい子だった。気弱に思えるような、華奢な女の子にも思える彼には、笑顔が一番似合うと言うのに、私が穢した。かつて私達を不幸のどん底に陥れた、琴割 月光のように。
 初めて写真で彼を目にした時、私も父も言葉を失った。そこには間違いなくお母さんの面影があった。他人のために泣いて、誰かを鼓舞するために笑えるだけの、芯の通った心の強さがうかがえる少年だった。
 この子の笑顔は、お母さんとそっくりだった。私がどれだけ公演中に真似しようとしてもできない、誰よりも眩しい太陽のような笑顔を、彼は携えていた。私を死なせないためだけに彼は立ち上がっていた。こんな咎人を、あの子のような優しい子供が救う理由なんてある筈もないのに、それでも助けたいなどと考えている。
 社会貢献のためのベンチャー企業を率いていた母と、そういうところも似ていた。自分よりも他人の幸せを想って、誰よりも努力できる、絵本の主人公のような強さ。私はあくまで、いつまでもお母さんのためでしかなかった。たった一人を喜ばせるためだけに歌い続けていた。
 だから、これ以上私の前で辛そうにするのは止めて欲しい。私が曇らせている現実をつきつけるのをやめてほしい。そしてその上で、心が張り裂けそうな痛みを乗り越えてまで、私を救おうとするのを、止めて欲しい。私は救われるに値しない人間なのだから。
 ずきりと、もう痛む筈など無い頭に鋭い痛みが走った。何か、見ないようにと蓋をした感情が疼いている。脳裏で少しずつ根差しつつある、この違和感の正体は何だ。私は致命的な何かを見落としていると、潜在意識の私が呼びかけている。
 だが、今にも燃えて朽ちてしまいそうな私の頭では何も考えられない。せいぜいできる事と言えば、幸せな思い出に浸りながら死を待つことぐらいだ。ドルフコーストの精神を蝕む毒ガスは、刻一刻と私を死へと誘いつつある。もう何も考えることなどできないのだ。だからせめて最期くらいは、幸せな幻想くらいに縋らせてはくれないだろうか。
 それなのに、まだ私の胸の内に住み着いたお母さんは笑おうとしてくれない。ずっと泣いている。

「ねえ、どうして? 何で笑ってくれないの? 喜んでくれないの? 私、頑張ったんだよ。お母さんのために、お母さんと会うために。それなのに、何でずっと泣いたままなの?」

 かたき討ちのために頑張ったのに。理不尽と不条理を、他の誰かが受けないように最善を尽くしたのに。あの琴割をやりこめてやったのに、どうして誰も褒めてくれないのだろうか。何故いつまでも私の道を阻むのだろうか。
 そうやって袋小路の行き止まりで立ち尽くしている私に光明を投げかけたのは、彼の言葉だった。空間的にも遠くて、家族として過ごした想い出さえ与えられなかった少年。母の忘れ形見と呼んでも過言ではない少年。タイラの言葉が、私の脳裏にリフレインする。私と向き合ったあの子は、こうも言っていたじゃないか。

『僕がいるよ。姉さんの間違いは僕が正す』

 うん、そうだ。私は最初から分かっていた。自分のしていることが間違いだったなんて。お母さんは優しい人だ。他者が傷つけられる姿を見て、平時の精神を保てる人じゃない。フェアリーテイルによる大量殺戮、それを先導したのが私だと知ったら、悲しむのは当然だ。その行動理念が、自分のためのかたき討ちだと知っているなら、死んでも死にきれないだろう。
 でもね、お母さん。私にはもう分からない。じゃあ、どうすれば私は貴女の笑顔をもう一度見ることができましたか。復讐の心を忘れることなんてできなかった。貴女が支えてくれたから、私も強くいられたというのに。貴女を喪って、支えを失ってしまった私は、どう立てばよかったのでしょうか。
 せめて、私の中に住むお母さんが幸せそうにしていたら、きっとそれだけで私は生きる活力が湧いた事でしょう。でもお母さんは泣いている。じゃあもう、私に生きる意味は見いだせなかった。
 だから、これでお終い。不意に頭痛も耳鳴りもやんでいく。感覚が研ぎ澄まされていく。身体も軽くなっていく。それと同時に、身体からは力が抜けていた。何となくわかった、もうあと百秒と満たない内に私は死ぬということが。
 ああ、良かった。こんな性格の悪いお姫様が、ようやくこの世から居なくなるのだ。それに、私もこの憎しみからようやく解放される。ついでに、お母さんが笑ってくれないもどかしさからも、魂が解放される。
 永遠に、幸せな思い出の中に浸っていられるんだ。二度と悪夢を見ることも無ければ、辛い現実に目覚めることもない。
 痛いだけだった体が楽になっていったのは、命の灯火が消える前に、一際強く、最後のきらめきを放とうとしてのことだろう。次第に視界が開けていく。今自分の身体がどう動いているのか、どこにいるのかも分からない。それを確認するため、そして今生の最後の景色を焼きつけるため、私は目の前に意識を集中した。
 其処は、鏡の中の世界だった。聞いたことがある、人魚姫には水面などの鏡面を媒介として鏡の世界に潜り込む能力があるのだと。そして私は、その世界へ引きずり込まれたのだ。成程ここなら誰にも被害は出ない。流石はタイラと呼べばいいのだろうか、人魚姫の能力を完璧に使いこなしている。
 そしてそんなタイラはというと、大粒の涙を溢していた。ああ、きっと、この涙は私のせいだ。彼を翳らせた、傷つけた、追い詰めた。それは間違いなく私のせいだ。だが、その涙からは逃げる訳に行かない。どのみち残り僅かの命だ。それなら、己の罪とはきちんと向き合おう。
 だが、滝のように涙を流すタイラが、次の瞬間に見せた表情に私の心臓は凍り付いた。




 笑っていた。満面の笑みを作って、泣きながらも私のためだけを想って。そしてその表情は、面影があるなんてものではない。お母さんとまるきり同じだった。『私のためを想って』作ったその笑顔に、常に『私の幸せを願っていた』お母さんが居た。
 どうして、其処に居るのだろうか。私がいくら探しても見つからなかったというのに、どうしてタイラの中にお母さんがいるのだろうか。血を引いているだなんてそんな簡単な話では無かった。温度感が、柔らかさが、明るさが、まるきり同じものなのだ。
 途端に、私の胸の奥で、沢山の者が弾けた。それは情報と呼ばれるもので、それは思い出と呼ばれるもので、私が宝物と呼んでいたものだった。





「うん。だからね、私一人がソフィアを独占していたくなかった。貴女の歌は、世界中に届けるべきものよ。だから、……この先もずっと、頑張ってね」

「私は、ソフィアの歌が好きだからね。世界中で沢山の人を喜ばせている姿を、テレビで何度も見て、私は幸せだったわ。貴女だって、心底楽しそうに歌っていたもの」

 お母さんの言葉が溢れ出てくる。私だけに向けた贈り物が、言葉が堰をきって洪水のように押し寄せる。
 ようやく分かった。いつ、お母さんが、どうして笑っていたのか。ずっと気づいていなかった、気づかないように思い出さないようにしていた。

 小学校の合唱会の帰りに、
「ソフィアはお歌が上手ね」
 とほほ笑んでくれたあの日からずっと、お母さんが笑いかけてくれた理由なんて一つしかなかった。


「ねえ、姉さん……」

 目の前でタイラが口を開いた。私にはただ、耳を傾けることしかできない。

「姉さんは、お母さんがいなくて悲しかったんだよね。僕も……会ったばかりだけど姉さんが死んだら悲しいよ。だから、この先姉さんがどんなレッテルを張られることになっても、十字架を背負うことになっても大切な家族になるって約束するから」

 私がしようとしていたのはきっと、私が負った心の傷、寂しさ、そういったものを全てこの子に押し付ける行為だった。誰よりその辛さを知っていたというのに、同じ悲しみで誰かを傷つけようとしていた。
 現に彼は、精一杯笑おうとしているのに、泣いているではないか。






 そうだ、お母さんが私に笑いかけてくれたのはいつだって。






「僕じゃダメですか? 僕と生きてはくれませんか?」






 未来の私の幸せを、笑って生きられる日々を想ってくれてのことだったじゃないか。






 私に生きて欲しいと願ってくれる、そのための表情にずっとお母さんは隠れていた。だからタイラの笑顔の中に見つかった。それなのに私は何と願っていたのか。
 死にたいと願った。そんなの、お母さんはちっとも望んでいなかったのに。私の歌を誰よりも愛して、沢山の人に届けてほしいと願っていたのに。私は全部不意にして投げ捨てようとしたのだ。
 自分の命と、一緒に。

「あああああぁぁあああぁあぁああっ!」

 気づいてしまった、生への執着が生まれてしまった。だから私はこの瞬間、忘れていた筈の痛みを思い出した。
 死の淵で、生き汚くなってしまった私を咎めるように、全身を引き裂くような痛みが私を襲う。それこそが、私への罰なのだろう。
 私が叫んでいるのが聞こえる。苦しんでもがいているのが分かる。それなのに、身を焦がす苦痛しか今の私には感じられない。
 どんな罰でも受ける。どのような形でも償ってみせる。だから、どうにか私に再び生きる権利をください。
 可愛い弟の“泰良”を独りぼっちにさせないであげて下さい。
 今の私にはもう、そう願う事しかできなかった。



 知君の振り絞った言葉を引き金として、不意にソフィアは発狂したかのごとく叫びだした。まるで死に際の獣のように、狂乱の断末魔を上げている。不意に苦しみだした彼女に面食らうことなく、知君とネロルキウス、そして人魚姫の三人は状況を理解した。
 救うための時間はもう残されていないと。ソフィアは目の前で叫び続ける。神に許しを請うように。懺悔して罪を白日に晒して、うわ言のように誰かに謝り続けている。

「ごめんなさいっ……、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 生きなきゃいけなかったのに……強く立ち直らなきゃいけなかったのに! 私は、私は……」

 私が火を点けたこの事件で、沢山の人が失われた。赤ずきんも桃太郎も、沢山の人を手にかけた。直接ソフィアが手を下した殺人は無かったものの、彼女が引き起こした事態により、犠牲者は数多く生まれた。

「死にたくない、死にたくない! ずるいって分かってる、死んだ方がましな人間だって知ってるよ、でも生きなきゃ。こんな事起こして、逃げるように死んだら、それこそお母さんに合わせる顔がないから……だから、何だってするから、誰か助けて……。我儘言うのは今日で最後にする。死ぬまで生きるから、その分誰かを幸せにするから……誰でもいいから助けて!」

 このままじゃ、天国にいる母も浮かばれない。自分を助けるためでなくて構わない。ソフィアの両親のために生き延びたい。この先の人生は全て世のために捧げても構わない。そんなことを口にしてまでも、彼女は生に縋ろうとしていた。

「今更、何言ってるのさ姉さん」

 少年の流す涙は、ようやく止まった。助けたいと願った彼女が、ようやく自分の口から生きたいと言ってくれた、死にたくないと言ってくれた。だったら後は、助けるだけだ。

「最初からそのために戦ってたんだ。僕は守護神譲りの我儘な人間だから、助けるよ。その後ちゃんと僕の友達には謝ってもらうよ。だから……」

 一緒に帰ろう。そう呼びかけて、残る言葉は全て人魚姫に委ねた。契約を結んだ知君の身体を媒介にし、人魚姫の歌声が鏡の世界を満たしていく。傷つき、穢れたものを浄化する癒しの聖歌。彼女の精神と根強く繋がった毒ガスを取り除くために人魚姫は想いを乗せる。彼女にとっても譲れない最後の戦いだ。彼女のとってもまた、親友であるシンデレラを取り戻す千載一遇の機会だからだ。
 時間との戦いだった。歌を聞けばものの一瞬で癒せるという訳でもない。浄化が間に合わなければ彼女は命を落とし、シンデレラしか取り戻せないことだろう。
 それだけは許されない。それは王子の覚悟を不意にするものだからだ。彼は、ソフィアを取り戻すために自分の夢を代償に差し出した。その行為を無為にしないためにも、ソフィアを救い出す必要がある。
 鏡の世界の入り口を乗り越え、人魚姫の歌声は街中に響き渡っていた。聴く者全ての心を落ち着かせる、鎮静の歌。本当に彼がソフィアを救えるのかと不安になる一同の心をも沈めていく。深い悲しみも、興奮も、怒りも全て洗い流していく、人魚姫の優しさを示すような透き通る天女のごとき声。
 それを耳にした、独りの少年は柔和な安堵の表情を浮かべていた。誰よりも早く、結末を理解した。見るまでもない、確認するまでもない。そうに違いないというだけの信頼が、少年の胸を満たしていた。
 永遠とも思えるような時間だった。歌声だけが世界を満たしているような一時だった。気づいた時にはその聖なる凱歌は止まっていた。それに気が付いたのは、名前もろくに知られていない一人の捜査官のphoneのおかげだった。彼の名は王子 太陽と言った。彼には今夜死ぬ訳にはいかない理由があった。だから、今夜を乗り越えた実感を得るため、節目となる刻限にアラームを設定していた。自分の生還を確かめるための、凱旋の音を。
 それは、鐘の音だった。リンゴンと鳴る鐘の声が、真夜中十二時を告げていた。同時に、ソフィアと知君が吸い込まれていった水面から、二人の姿が現れる。動こうともしないソフィアの身体を抱きかかえた状態で、知君は座っていた。瓦礫の野原の上に、服が汚れることも自分が傷つくことも厭わずに。
 両者の守護神アクセスは解除されていた。二人とも、今はひ弱な女子供でしかない。目を閉じ、静かにしているソフィアはまるで呼吸を忘れてしまったようだった。シンデレラとの接続が切れた今、彼女が纏う布は襤褸と呼ぶべき姿になっていた。
 誰も声を発することなどできなかった。自分の端末が音を上げているというのに、太陽も指先一つさえ動かせはしなかった。鐘の音が、何度も何度も鳴り響く。
 その中で、初めに口を開いたのは、ボロボロの彼女だった。ひどくか細い声が、静謐の中を漂った。誰の耳にも届かないような囁き声ではあるが、彼女を抱き留める彼にだけははっきりと伝わった。

「鐘の音が……聞こえるわね」

 その囁くような呟きを耳にした少年は、夜空に昇った満天の月よりも顔を明るく輝かせた。

「そうだよ……明日が来たんだ。十二時を超えたんだ。だからもう、悪い夢はお終い」

 彼は腕にこめる力を強くした。ようやく面と向き合って、敵としてではなく、きちんと対話のできたかけがえのない肉親の身体を抱きしめる。
 そんな様子を見て、周囲の者は一様に祝福の喝采を挙げた。夜空に昇った欠けるところのないお月さまは、今この瞬間の、彼の幸せを象徴しているようであった。

「だからもう、魔法の解ける時間ですよ」

 長い間、彼女を苦しめていた呪いも、もうすっかり解けた。
 まだ彼らには受け止めるべき現実が沢山ある。しかしそれでも、今この場においてその祝勝の余韻には、誰も水を差すことができなかった。
 きっとあの月よりも、ずっと遠いところで、彼らの母も笑っていることだろうから。


Last File・Hanged up