複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス【Last File・完】 ( No.174 )
日時: 2020/05/27 15:14
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)

【守】




 その日は目覚まし時計よりも早く起きた。九月の日の出はまだ早くて、太陽はもう東の空に見えていた。家の中はとても静かだった。親父も兄貴も寝ているし、母さんは病院で月子さんに連れ添っている。
 月子さん、つまり俺から見れば義姉は、俺たちが戦っていたあの夜に、また別の戦いに孤独に挑んでいた。第一子の出産を、夫に寄り添ってもらえないどころか、兄貴自身が死ぬかもしれない不安の中で立ち向かっていた。でも、安産だったらしく、兄貴が無事に生還した時も余裕そうにしていたらしく、やはり義姉は豪放磊落な人だと再認識した。

「あー、あー」

 軽く声を発してみたが、もう喉に違和感はなかった。あの、戦争かと思うような一夜からまだ一週間と過ぎていないが、着々と俺の身体も快方へ向かっていた。打ち身や擦り傷はまだまだ残っているが、それも直に取れることだろう。来週には高校にも復帰できることだろう。学校の皆には、交通事故で大怪我を追ったせいで休んでいると説明されているらしい。
 守護神を失った親父は当然として、兄貴はあの戦いの後長めの休暇を貰うことができたらしい。俺の知らないところで、かぐや姫の従者を倒す立役者となっていたのだとか。その功績と、第一子の誕生が重なった結果、少しの間特別に休暇を貰えたようだった。
 しかも、フェアリーテイルの事件が収束したのだ。一時減っていた人間が原因の犯罪は、徐々にまた増えつつあるが、それでもここ最近と比べたら今が最も平和な時間だろう。
 全ての騒動はこれにて一件落着。何とか自分の脚で地面に立っても、全身が悲鳴を上げることが無くなったのを確認しつつ俺は伸びをした。ぎしぎしと軋むような感覚も消えて、今残っているのは筋肉痛に近いものだった。
 事件解決の一番の功労者が報道されることはない。何せ知君の素性を開示する訳にはいかない上、知君も目立ちたがらない性格だ。琴割さんが能力抜きで権力でもみ消し、代わりにそれら全てを捜査官たちの功績にした。そのせいで、かかる重圧がまた増えてしまったと音也さんは嘆いているような、喜んでいるような顔をしていた。
 だから、普通に生きて、普通に暮らしている人たちは知る筈もない。あの夜、誰が命を賭けたのか。誰が沢山の人々を救ってみせたのか。今は急いで復興中である瓦礫の山に囲まれた中、歓喜の涙を流したのは誰だったのか。
 けれども俺は覚えている。ソフィアという女性の、身を焦がす怒りを。親友の決死の覚悟を。俺をずっと支えてくれた彼女の気高さを。そして何より、あの夜の俺自身の決断を。
 雲一つない快晴の朝だった。憂うことなど何一つないような、気持ちよくて、カラッとした空気の早朝。ランニングをしているおじいさんの姿が見えた。そんなことができるのも、知君がこの平和を取り戻したおかげだった。
 いや、あいつだけじゃない。この平和を取り戻した影の功労者は、もう一人存在している。

「おはようございます、起きていたのですね」

 寝ている俺を起こしに来てくれたのだろう、彼女の姿が現れた。波打つような翡翠色のロングヘア—に、穢れを知らない黄金の瞳。俺の守護神でもあった、今は誰のパートナーでもない、お伽噺の悲劇のヒロイン。
 彼女の献身こそが、俺たちの安寧な日々に不可欠なピースだった。俺と共に、手を取って歩いてきた、特別な存在。でも今日は、ちゃんとその背中を押してやらねばならない。
 シンデレラや赤ずきんは一足先にフェアリーガーデンへと帰っていった。こちらに残っている守護神は、もう桃太郎とセイラくらいのものだ。その二人も、間もなく帰還することだろう。

「お身体は、もう大丈夫ですか?」
「ばっちりだ」

 本当は、少しだけ違和感が残っているけれど、もう健康と言って差し支えなかった。十月に入るころにはバスケだってまたできると思う。
 澄み渡った青い空を、窓枠越しにじっと見つめる。セイラもつられて、その蒼穹を見つめていた。まるで深い海を思わせる青空は、どこまでも深く続いていた。そして、手の届かない宙の彼方こそが、彼女の帰る場所だ。

「さっさと着替えて、いつでも出かけられるようにしないとな」
「ええ、折角琴割さんがサービスしてくれたんですものね」

 琴割さんが用意してくれるらしい車は、八時すぎくらいに来てくれるらしい。あんな性格をしていてあの人は、あの日、あの時、俺たちが下した決断を評価していた、というよりもむしろ感謝していたらしい。しかも俺という個人は捜査官でもない一介の高校生だというのに随分と危険な目に遭わせてしまったという側面もあるのだとか。フェアリーテイル対策課に入ったのは俺の意志だった。俺がヒーローになりたいと願ったからだった。それが認められて喜んだのは俺の方だった。駄目だと拒まれると思っていた。だが、特異性や唯一無二の浄化能力の有意性から、力を貸すことを許してくれた。だから、俺への報酬はそれで充分なつもりだったけれど、それでは気が済まないらしい。
 あの人が思いついた贈り物というのは、時間だった。特別な存在と共に過ごす、最後の時間。







 そう、今日という日は、俺とセイラが別れを告げる、刻限となる一日だった。

Re: 守護神アクセス【Last File・完】 ( No.175 )
日時: 2021/01/05 12:57
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: 9ccxKzNf)

 最後の時間をどう過ごしたものだろうか。俺にとってそれは何でも良かった。自暴自棄だとか、何も考えていないだとか、そういったネガティブな理由ではない。一緒にいられるのならば、それで俺にとっては充分だった。だからむしろ、俺はセイラが過ごしたいようにしたいと答えた。
 だから、最後の過ごし方はセイラが決めた。少しの間、考え込んでいたみたいだけれど、決まるのはとてもあっさりとしたものだ。不意にストンと得心がいったような顔つきで、思いついてしまったからにはもうそれ以外考えられないというように、黄金色の目を細めて彼女は言った。

「普通の、“人間の”女の子のような時間が過ごしたい」

 人ならざる守護神の、たった一つの要望がそれだった。自分が、フェアリーガーデンの守護神だったから出会えた、けれども、守護神だったからこそ決別の義務が生じた。同じ人間だったならもっとずっと共に過ごせる時間が多かっただろう。でも、出会った瞬間からそうなる未来はあり得なかった。
 だから二人で過ごす楽しい時間だけは、人魚姫であることを、異世界に住む守護神であることを忘れたかったのだろう。人の夢から生まれた、感情を持った幻想。夢想から生じて、また誰かに夢を与える実体のないお伽噺。だが、共に死線をくぐり、互いに夢を叶えて、叶えられて、そんな風に過ごした大切な伴侶には、戦の相棒ではなくて意味もなく手を繋ぐような少女として過ごしたい。
 要約すると、そんなところだったらしい。高校生の男女で遊びに行くとすると、どんなところがいいだろうか。行きたい場所も尋ねてみたら、意外な返事が来たものだった。
 驚きはしたものの、納得はできた。フェアリーガーデンにそんなものはないから、あるいは、機械によってこの世にないものを擬似的に作り上げるそのあり様に、人間の営みを感じられるから。だからセイラは、遊園地で遊んでみたいと頼んだ。
 人目につくのは恥ずかしいから人払いだけはお願いしたいという、叶えるには少し面倒な要望も添えた。とはいえ、相手は琴割さんだ、権力しかり能力しかり、どうとでも工面できるような可愛い願いだと、即座に応えてくれた。
 どうせなら職員もいない方がいいだろうとのことで、琴割さんが用意してくれたのは浅草にある歴史ある遊園地だった。100年以上前から親しまれているレジャー施設で、日本の歴史と共に紹介されることも度々の行楽施設。2065年に改装されるのと同時に、完全無人化に成功した。常駐する職員が不要になったため、人件費も大幅にかからず入場料も安価になったとかで、現代の中高生にとっては手ごろな遊び場だ。
 表向きには、施設内の機器の定期メンテナンスの必要が突然出た、という体にしたらしい。そもそもが従業員のいない場所なので、一般客をたった一日だけ人払いできればよい。無理に能力を使わず、裏から口利きをするだけで済んだと、食えない顔で笑う姿が見えるようだ。
 琴割さんの私的な使用人が運転する車に揺られ、窓の外を眺めてみた。多かれ少なかれ、復興中であれまだ手が行き届いていない場所であれ、この東京は半年も満たない期間ですっかり荒れてしまった。
 大きな駅が破壊されたり、ビル群が壊滅的な被害を受けたり。台風や地震のような大災害でも滅多に見ないような甚大な被害がここに。そんな世界に身を投じていたと言うのに、平和になってしまった今、長閑な空気と壊された街の間には齟齬とも言うべき谷間があった。
 だが、それが気持ち悪いかと問われるとそうは思わない。この温かな空気こそが、自分達の手で取り戻したものだ。知君と、セイラと、自分で言うのも何だけど二人の背中を押した俺と、あの日まで戦い続けた沢山の捜査官。辛く苦しい災いや大きな困難を乗り越えて、また一つ進んでいく。それが垣間見える短い期間こそが今ならば、自分の感じたギャップとはむしろ誇らしいものだ。
 車の中に声はなかった。運転手が俺たちに話しかける義理は無いし、逆の必要性も無い。俺とセイラが両者口を開かないのは、別離を想って何も言えないでいる訳じゃないし、第三者の存在も理由にならなかった。自分達がこの一時の礎の一端を担った、その事がまだ上手く消化しきれていなかったせいだと思う。
 俺たちは、二人そろって自分の無力さを嘆き続けてきた側だから。だから、大きなことを為し遂げた自分を受け入れるのに時間がかかった。


 俺たち以外の来場者がいない遊園地というのは、何だか気味悪さにも似たむず痒さがあった。レジャーランドの機会が駆動する煌びやかなBGMだけが施設内にこだましているというのに、行き交う人の声は、喧騒は、何一つしない。踏み入り、歩む足音が二人分しか存在しない。騒がしいのに、とても静かだった。
 とはいえ、あくまでもこれは一般人の俺が持つイメージとの乖離に過ぎない違和感だ。セイラはというと、まるでそんな印象は受けていないようだった。人間の想像力が作り上げた、楽しいを形にしたような空間。その艶姿に目を奪われていた。人工的な七色の光が目を刺激し、前へ進むことを駆り立てるような音楽が聴覚的に急かしてくる。
 琴割さんが用意した運転手が、帰りはどうするかと俺に尋ねた。俺だけに尋ねた。当たり前のことだけれど、それで不意に現実に引き戻された気がした。胸に空いた穴を思い出したような冷ややかな感覚が不意に訪れ、刹那前後不覚に陥った。にも関わらず、答えは口を突いて飛び出していた。

「帰りは、電車を使うから結構です」

 表情筋が勝手に笑っていた。久々に自覚した、いつもの癖。俺自身の感情を差し置いて、周囲を安堵させるために張り付けた、笑顔のテクスチャだ。
 運転手にとっては、一人で大丈夫だというニュアンスに聞こえただろう。かっこつけているだけにも程がある。正しくは、一人にさせてくれだろうに。
 俺のことを知っている人間に、独りになってからの様子など見られたくなかった。
 ドライバーも会釈の後に去ってしまい、とうとう二人きりになった。早く入りなよとでも言うように、遊園地の入り口は大きく口を開いている。けれども、脚が鉛の棒みたいになっていて、動こうとしてくれなかった。
 多分、恐れたのだろう。立ち入ってしまえば、もう後戻りできないと自分で肯定してしまうような気がして。永遠に生き別れる事実から、目を背けられない気がして。不治の病に陥った患者が、死の瀬戸際で再び恐怖に苛まれるように、別離のやるせなさを思い出してしまった。
 氷漬けになってしまったように、指先まで凍てついた。そう、自覚までしたはずだったのに、俺という人間はどれだけ単純なのだろうか。誰かに手を取られたことを察知し、その人肌の温度に気が付く。凝り固まった体はたちまちほぐれていって、次の瞬間には先ほどの寂しさなんて嘘だったみたいに引っ込んでいた。

「行きましょう、王子くん」

 時間が勿体ないですよ。そう言って笑う、向日葵みたいなセイラの姿はまるで女神様みたいだった。ドラクロワだっただろうか、どこかの画家が夢想した景色の中に自分が迷い込んだ気分だった。


 それからの時間はあっという間だった。まるで録画した映像を早送りで流しているかのように、あっという間に時間が流れていった。それなのに、この時間が自分の中でずっと息づいていくことだろうと予想できた。今でさえそうだ、数時間前のことをまるでついさっきの出来事のように反芻できる。
 馬車の姿をした乗り物がくるくると回り続ける乗り物、ゆっくりと高いところに上がって、急勾配を駆け降りるスリルを楽しむアトラクション。死地を潜り抜ける中では、一度も見られなかった色々なセイラの表情が見られた。アシュリー、つまりはシンデレラになったみたいだと目を輝かせる彼女の表情に、これから駆け抜けるジェットコースターの行路に顔を強張らせている様子。その全部が新鮮だった。同じ緊張という言葉で表せても、戦いの中の緊張とはまるで違う表情が見られることは、何だかとても誇らしく感じた。
 正午近くになって、少し疲労が溜まってきた頃に、空腹を満たすためにも場内のレストランに入った。こういう場所に相応しく、子供が喜びそうな献立がメニュー表に並んでいた。ホットケーキを切り分けたり、ソフトクリームを嘗めたり。大人びた風貌からは想像もできない、おどけない少女のように過ごしていた。
 思えばずっと、後ろめたい想いが胸に巣食っていたのだろう。セイラ自身は誰一人被害者を出してはいない。それでも、彼女の親友であるシンデレラ、赤ずきん、白雪姫は事件が終着する頃までずっと犠牲者を出し続けていた。自分と同郷の守護神、それも馴染みの者が起こした惨劇を、他人事だと思えるような性格ではない。
 まだ胸の中にしこりはあるのかもしれない。けれども、呪いのような重石からは解放されたようだった。自分が守護神であるとか、そういったしがらみからも解放された今だけは、セイラが同じ世界に住む人みたいに思えた。

「そう言えば、脚を生やす薬を飲んだら喋れなくなるんじゃなかったっけ?」

 今日のセイラは、普段の人魚姫の姿とは異なり、原作中における魔女の薬を飲んで人間の両足を手に入れた姿となっていた。以前に一度、この姿になっていたセイラだが、その時は原作準拠の縛りとも呼べる制約があったはずだ。
 しかし、今日はそれがない。何事もなく一人の少女として隣に並び、歩き、声を交わしている。

「琴割さんのおかげです」

 魔女の薬のデメリットを一日だけでも拒絶して欲しい。そんな願いを琴割 月光は快諾したのだとか。結局自分は能力使い放題なんだなと呆れるものの、子供をあやすような平和な使い方でしかないため咎めにくい。そもそも琴割さんの定めた禁足事項はELEVENの能力行使ではなく、ELEVENがphoneを使うことだ。それを使わずに守護神アクセスできるならば規則に反しない。たった一人だけに許された抜け道だ。
 どうせなら、もっと別のことだって拒んで欲しかった。けれどもそれは、叶わない夢だ。たとえELEVENでも死者は蘇らせられないように。再び俺とセイラを契約者にもどすことができないように。世界のルールだけは干渉できない。
 だから、明日が来てしまうことだって、誰にも邪魔はできなかった。


 気が付けば、閉園の音楽が鳴り始めていた。はっとして、窓ガラスから西の空を見ると、地平線付近にオレンジ色の太陽が居た。
 本当に、あっという間だった。幼い頃は一時間だって永遠に思えたのに、今じゃ一日なんて瞬きする間に去ってしまうような錯覚がある。
 今日が終わる。でも、今日だけは、終わりを告げるのは『今日』だけじゃなかった。これまでが終わる、戦いの歴史と、手を取り合ってきた日々とも、別れを告げて。また、明日からの孤独を迎え入れなければならない。
 けれども今は、寂しいだとか、独りぼっちだとかは思わなかった。セイラと過ごしたこの数か月を、今日という大切な日を、しっかりと胸の内に刻み込んだ。やりきったという充足感がある。車中で感じたような、自分の力で為し遂げた達成感もある。
 道中で得た色々なものは、多分、ずっと俺についてきてくれるのだろう。もう二度と、自分で自分を卑下させはしないだろう。
 今日はできるだけ、手を握って歩くようにしていた。はしゃいだセイラがぱたぱたと駆けだしていく時なんかはそうでもなかったけど、なるべく隣に立つようにしていた。憧れてばっかりで背中を追い続けるのでもなくて、一人で空回って背を向けて盲目になることもせずに。
 けれどももう、それも叶わないようだった。約束の刻限はやって来て、セイラのフェアリーガーデンへの強制送還が始まった。足の爪先から、そして手の指先から、星屑みたいにきらきらと舞うように、セイラの身体は溶けていく。天に昇っていく。まるでその先に元居た世界があるかのように。
 緩やかに溶け始めたところから、段々とセイラの身体は実体を失って透明になっていった。腕も脚も、肘や膝から先はすっかり無くなって、二の腕や腿の辺りからセイラの背後の景色が透けていた。
 握手さえももうできないことに、少しだけセイラは申し訳なさそうに苦笑いしていた。
 これで、本当に最後。それが分かっているから、どうしても一つだけ確かめたいことがあった。自信が無かった訳ではない。それでも、否定されたらどうしようと恐れる心が、飛びだした俺の声を震わせていた。

「セイラ」

 俺は本当に、あの日宣言したことを達成できただろうか。周知の人魚姫にハッピーエンドを迎えさせると言ったことを。
 本当に今、セイラは幸せになっているのだろうかと。
 知君みたいに大それた人間でもなくて、自分勝手なところも多くて。沢山の人を護るだなんてそんなことは言えなくても。
 それでも、一つだけどうしても守りたいものがあった。

「俺は、セイラとの約束を守れたかな」

 きょとんとした顔で彼女は首を傾げた。一体今更何を訊かれているのだろうと言う困惑の色が滲んでいる。
 その態度にむしろ尋ねたこっちまでも変なことを尋ねてしまったのだろうかとつい焦ってしまう程だった。だが、そんな俺の態度を見てようやく得心がいったらしい。後から省みるにこの時の俺は、その事を自己肯定するだけじゃなくて、誰かに認めてほしかったみたいで、そんな機微をいち早く察知してくれたのがセイラだった。

「当たり前じゃないですか」

 そう言ってくれることを、本心から思ってくれていることを理解していたというのに、それでも胸を撫で下ろした。
 もう既に、セイラの黄金の瞳の奥に夕焼けの赤が透過していた。この世界に繋ぎ止めようと肩に手を伸ばしても、届かない。抱き留めようと背中に腕を回しても、触れられない。多分、口づけを交わそうと試みても、お互いに体をすり抜けて、それで終わり。
 もう、喉元まで消えていた。だからだろうか、もう彼女がどれだけ語り掛けてきても、声なんて聞こえなかった。俺の耳に届くのは、もう帰る時間だと園内にこだまする音楽だけだ。
 最後に、消えかかった彼女の口元がまた、少しだけ動いた。多分、言葉になっていないことに気づいたのだろう。多くは語らなかった。たったの一言、たったの六文字。最後に遺したのは、とても簡単な言葉だった。
 永遠に会えないのだから、またね、だなんて言う訳なくて。もう別れの覚悟なんてとっくにできていたからさようならでもなかった。感謝なんて今更伝えるものでもないから、ありがとうでもなく。それは、彼女を喪ったこれからの俺の、背中を押す一言だった。

“幸せにね”

 聞こえないはずの声が、俺の頭の中で勝手に再生された。何度聞いたかも分からない声。それを思い浮かべることなんていとも容易いことだった。
 砂金のような粒子が、風に舞い上がってどこかへと去っていく。天へと高く、もっと高く、次元の壁をも超えて、元の世界へと。お伽噺の住人が、夢の中へ帰っていく。
 光の柱のような、逆流する黄金の滝のような、そんな光景が目の前に。手を伸ばしても触れることは叶わない。それはどこか、星空に手を伸ばしてるように思えた。だとするとこの景色は、天の川と言ってもいいだろうか。
 夜が迫った紺色の天蓋の向こうに、とうとうセイラは消えてしまった。その筈なのに、喪失感はさほどでもなかった。明日からもまた、頑張れるような気がした。

「こんな事なら帰りも車で送ってもらえばよかったな」

 それは決して、強がりでも嘘偽りでもなかった。
 よくあるお別れ。一つの人生の節目、物語の終わり。どれだけ大袈裟な一幕が終わってしまったとしても、そこに生きる登場人物にはまだ次の日がある。まるで物語の主人公みたいな日々が終わったとしても、それで俺という人間の全てが終わった訳では無い。
 今は未だ、未来の自分の幸せなんて分からなくても。セイラに胸を張れるような、満たされた人生を送りたい。
 それがきっと、これからの俺が守るべき約束なのだから。


Epilogue-1 fin