複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.29 )
- 日時: 2018/04/03 09:16
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: AbL0epsw)
その正体に気が付いたのは、河川敷に着いて人魚姫と合流した後すぐの事だった。会ってすぐに他の女の事を考えるのは流石に失礼だよなと、王子はその胸の内がばれない内に己を叱咤した。幸い、そんな彼の余所見のような思考など彼女は気が付いていないようで、陸に上がることを楽しみにしているようであった。浮かれているのは彼女も同じなのかと気が付くと、何となく王子自身照れくさくて、天にも舞い上がりそうな心持だった。
だが、そんな彼に冷静さを取り戻させていたのは、やはり今朝の報道で見た歌姫のことだった。ギリシャ人の父と日本人の母を持つ彼女の父親は親日家で、住む土地こそ欧米の地であったが、和名のファミリーネームを欲しがった。それゆえ苗字は日本人らしいものになっているものの国籍はギリシャであった。母親がそちらで勤務している頃に結婚、その後出産までした後に渡米。引っ越した先の地元の祭り、そのカラオケ大会で優勝したソフィアにスカウトが目を留めたのが歌姫としての伝説の始まりだったらしい。
そしておそらく、今日の約束を交わしたその日に王子たちが見た女性こそがその本人なのだろうと確信する。ニュースで見た時もそうであったが、あの時サングラスを外して見えたその目元は、セイラに少し似ているように思えた。失踪した時期としても合っている。その上あの時、彼女は周囲を気にしている風であった。
一体何があって彼女がそう踏み切ったのか王子に分かる由も無い。だが、すぐ傍に墓地があることと、彼女の母が日本人でなおかつ亡くなっていること。その事から、本当に彼女は墓参りでもしていたのではないかと思えてならない。
黙り込む王子の顔を、まだ薬を飲んでいない彼女が覗き込んでいた。
「どうしました?」
「あ、いや何でもない。ちょっと眠たくて……」
あの女の事を考えていただなんて言えば、機嫌を損ねることは間違いない。心苦しさを感じつつも王子は嘘を吐く。しかし、その返答にもセイラはムッとしたようである。
「眠たいんですか? 予定は前から決まっていたのに、寝ていなかったのですか?」
八の字をひっくり返したような眉をして、王子に詰め寄る。その顔が触れそうなほどに王子の眼前に近づいて、慌てふためいた王子は一歩下がりながら言い訳する。
「違う違う違う、楽しみだったから、寝付けなかったんだ」
嘘である。この男、そうなることを事前に見越して前日は必要以上に筋トレで体を痛めつけていた。ぐったりした体を九時にはベッドの上に投げ出して、爆睡。五時過ぎに目を覚ましたところ前日の疲れも綺麗に抜けていた。
「そうでしたか、ごめんなさい。私も楽しみでしたよ?」
「ありがとう。いや、それにしても……」
セイラとデートできるだなんて、幸せだ。そのように王子は続けようとした。だが、王子が前日から期待でそわそわしていた様子を想像し、その事に顔を明るくした彼女の笑顔に言葉が詰まった。鈍色の空みたいな表情だったが、今度はお天道様のように輝いている。
その、抑えきれず飛び出した上品なほほ笑みに赤面した王子は意識さえ奪われてしまう。全身の毛細血管が開いて、肌の色が赤みを帯びる。
「それにしても?」
「ああ、いや……すっごい天気よくてよかったなと思ってさ」
「そうですね! 本当に綺麗に澄んでいて、何だか祝ってもらえている気分です」
結局彼は、初め言おうとしていた事など伝えることもできず、無難な方へと逃げてしまった。仕方ない事だと、彼は自分を責めようとするもう一つの意識を説き伏せるように言い訳した。
仕方ないじゃん、今までこんな風に女子と接したこととかねえし。これまで女子と話すことなど、クラスで目立つ、グループの中心にいるような連中だった。そういう奴らは既に彼氏がいたし、そういう目で見ようとしたことも無かった。結局のところ、自分にとって一番大切なのは自分……そしてその夢であったため、女性にうつつを抜かすようなことは無かった。
セイラと出会い、その世界観が一変した。それは彼も認めるところだ。彼女が王子の夢をかなえた。今度は自分が彼女の未来を幸せの色で染めてみたい。恩返しがしたいと思う気持ちと、彼女を大事にしようという気持ちが密接に結びつく。穢れなんて何一つない、美しい彼女の姿を見つめて胸が高鳴るのも彼にとっては蜜のように思えた。
結局のところ彼は、簡単に恋に落ちてしまったという訳だ。自らが契約する守護神、人魚姫に。一目惚れに近いことから、単純な男だと自分が嫌になりそうであったが、それでもやはりその恋情は抑えがたかった。
「じゃあすみません、早いところ薬飲んじゃいますね」
褐色の陶器のような瓶を取り出して、黒い栓を抜いた。紫色の煙がたなびいており、薬と言うよりもむしろ毒ではないかと疑う程であった。
「え、それ大丈夫なのか……?」
「ええ。美味しいですよ。ただ声だけ出なくなっちゃうんですけどね」
地上に出てきて後に、誰かが来る前にと彼女は一息にそれを飲み干した。そう言えば服はどうなるのだろうかと、今更ながら王子は焦る。何も用意していないが、普段彼女が身にまとっているのは胸部を隠す貝殻だけ。
彼女自身が心配しないということは、何とかなるものなのだろうか。純朴な少年らしく、王子は自分の不安を振り払うようにその疑念を打ち消した。白い霧が彼女を包む。小さな試着室を作り出すように、彼女の周りだけをコンパクトに包んで、その姿が見えなくなる。煙の向こうの影が、ほんの少し背丈を縮めて。その後煙を切るように中から女性が現れた。
顔を見れば、セイラだとは一目で理解できた。顔立ちそのものは何一つ変わっていなかったからだ。しかしその出で立ちは数秒前までとはあまりにかけ離れており、別人ではないかと王子はその目を疑う程だった。
結論から言うと、無事に彼女は服を纏っていた。その事実に王子はホッとする。彼女の髪が体にまとわりついたような、緑のワンピースだった。肩の辺りが淡い翡翠色で、下の裾の方が濃い緑色になるよう、濃淡のグラデーション。腰の辺りには白い線で、三匹の魚が仲良さそうに並んで泳ぐような刺繍。下心などよりも、困惑が上回っていたために、裸体でない事実に彼は安堵していた。
髪の毛も、日本人らしい黒髪になっていた。まるでその色を身に纏うワンピースに託したように。金色の瞳はそのままに、美しく輝いたまま。ただ、赤い線でバツ印が書かれた真っ白なマスクで顔の下半分を隠していた。まるで話せないとアピールするような柄で、目立たないだろうかと少しひやりとする。マスクの模様なんてそんなに気にされないか、とりあえず自分にそう言い聞かせる。
半袖から覗いている腕もそうだが、それよりも裾から見せた脚が新鮮だった。長いワンピースはほんの少ししかその足元を見えさせていないというに、白磁のように美しいその脛が王子の目には眩しい。水色でヒールの低い靴を履いており、背筋を伸ばした彼女の前髪が王子の鼻をくすぐった。俺は男子でもそれなりに背が高い方なのだけれど、そう思うが彼女と背丈はそう変わらない。王子の目と、彼女の眉が大体同じ高さだろうか。大体二センチくらい違うとすると、彼女の背丈は百七十四センチくらいだろうか。
細められた目が弧を描く。無言で王子と目を合わせたセイラ、彼女が何と尋ねようとしているのか、何となく分かったような気がして王子は口を開く。今度は、ちゃんと言葉にできた。
「すっごいな! ちょう似合ってる、綺麗だ!」
それはおそらく、彼自身が目の前の変化に対して驚きを隠せなかったというのも大きい。足が生えるだけ、としか思っていなかった彼女が、そのイメージを大幅に変えた姿で現れた。ファッションショーのモデルでも、こんな一瞬でがらりと変わることはないだろう。
おとぎの国の住人らしい、幻想的な緑色の長髪が、大和撫子らしい大人しい黒い髪に。風が吹き、揺れた髪が顔にかかって。それを掻き上げるその仕草は、日本画に描かれる女性のように儚くて。彼女が泡となって消えゆく姿を何となく思い浮かべてしまった。
裏切るものか、手放すものか、他の人によそ見してなるものか、そんな風に考えた。
そんな王子の反射的な言葉を聞いたセイラはというと、途端に顔を赤らめ、目を伏せた。陽気にはしゃぐ、子供のような王子の姿が何だかとても眩しくて。綺麗だって、似合ってるって言われたその事実が、耐えようもなく嬉しくて。
耳の先まで真っ赤になった彼女の様子を見て、王子もまた己の言葉を振り返り、恥ずかしさに頬を赤らめる。顔の中に暖炉があるみたいで、じんわりと芯の方から熱い熱いと伝播する。すぐ傍に並んだ二つの赤い顔は、季節外れの桜桃を想起させた。
そろそろいいかな、などと考えてセイラが視線を上げると、王子とついつい目が合って。照れ臭くなった王子の方が目を逸らした。ちょっとムッとして、無視しないでって、彼女は少年の手の甲を抓った。
「いたた」
腕を組んで、不貞腐れる。視線を王子の方から九十度逸らして、マスクの下では唇を尖らせる。ごめんって、そう話しかける王子の必死な様子に、かたくなになりかけたその態度を軟化させた。手を差し出す。ポカンとした王子だったが、次の瞬間には意味を察したようで。
初めて守護神アクセスしたその日のように、迷いなく彼女の手を取った。満足した様子のセイラが彼の隣に並ぶ。
「じゃあ行こうか」
そう言って王子は彼女の手を引いて歩き出す。目標は、少し北上した先の広い高架。
近づくにつれて段々人影は増えたが、それでも道中は数十人程度とすれ違ったぐらいだ。やはり休日だけあって、少し目立つ広場のような場所よりも、もっと目立つ歓楽街のような所に人々は行きたがるのだろう。どうせなら自分ももう少しにぎやかな場所を見せてあげたかったけれど。王子はそう悔しがる。だが、セイラを遠出させると言うのも難しい話なので仕方ない。むしろ、近場にここがあっただけでも儲けものだろう。
同じ年代の若者こそ少ないものの、露店が立つ橋の上にまで行ってみると、そこには小さな子供を連れた家族や、近所に住んでいる老夫婦など、様々な人々が行きかっていた。ランニングをしているだけの人、わたあめを子供と分け合っている母親、孫と二人で川の写真を撮るおじいさん。微笑ましい彼らの様子に、平和な時間を覚える。
大地を踏みしめる新鮮な感覚と、耐えることのない人肌の温もり、どちらも普段得難い感覚であるため、セイラの心は絶えず満たされていた。地面を蹴って反発するその力を膝に受けるのが心地よくて、じんわりと掌に広がる、王子の手の温もりに心まで温かくなる。
自分が守護神であることなんて、忘れてしまう。こうやって誰かと共に歩いていると、恋人と遊ぶ人間と何も変わらないように思える。それでも、彼女は言葉を発することができないその喉に、自分が人間でないとまた自覚する。
仕方ないか。普段はこうやって歩くことすら叶わないのだ。その望みを叶えるためには相応の代価を払わねばならない。それが彼女にとっては声だった。人を惑わせるほどに美しいと言われる人魚の歌声。その姫ともなれば、あまりに美しくなるのもそれは当然のことで。人と接するために求めてやまぬ肢体を完全に得ようとするならば彼女が最も自信を持つその美声を捧げねばならない。
それでも彼女は伝えたかった。王子に。楽しいって。幸せだって。こんな日が来るだなんて思ってもみなかったって。後から、元の姿に戻ってから伝えればいい、そんな単純な話ではない。彼女は紛れもなく、今この瞬間に伝えたかったのだ。ありがとうという、感謝の言葉を添えて。
きっと王子は自分も助けられた人間だから、幸せにしてもらった人間だからと謙遜するだろう。まだこの恩は返しきれていないと言うだろう。だからこそ、その恩を返してもらった時には感謝を伝えなければならないと言うのに。彼女がこんなにも、王子に救われていると伝えるために。
「あのさ……ちょっと照れる」
バツが悪そうな顔をして、王子はそう言った。嬉しいけれども、それを口にするのは憚られるけれども、その恥じらいに耐え切れなくて。熱い視線を片時も王子から離さない彼女に、王子は呼びかけた。
「折角景色もいいし、周りも見てみな」
普段は視れない景色だろう? そう念押しされて、思い出したように彼女は橋の上から見る眺めに意識を向けた。いつもなら川の中から見ている景色なのに、今はその景色の上に立って普段泳ぐ川を見つめていた。空高く上った太陽の白い光が水面に跳ね返って煌く。川の流れが所々水面から飛び出した岩に割られて白い泡を上げていた。水のきれいな河川だとは、常日頃過ごしているために知っている。川の中から一匹の魚が飛び出した。直後にまた水中へと戻り、飛沫を上げる。
これが、憧れるべき王子様が見る景色。美しくも、暗い水底の景色とは違う。太陽の照らすどこまでも明るい世界。本来王子さまは人魚姫に振り向きなどしない。けれども彼女をここに連れ出した王子 光葉、彼を自分にとってのヒーローだって、王子様だって呼ぶのはいけないことなのだろうか。
ふと、自分も王子も足を止めていることを彼女は忘れてしまった。王子が手を離したことも気が付いていないようだ。胸元で己の両手を組んで、目の前の景色を堪能する。その時漸く、繋いだ手が離れていたことに気が付いた。
けれども、別に焦ることなど無かった。振り返ったところに王子の顔がある。彼は一本の棒を手にして、人魚姫にそれを渡そうと突き出していた。竹串の先にはピンポン玉程度のリンゴが付いていて、それを包むように、真っ赤な糖の衣。透き通る水あめに化粧したそのリンゴが、まるでルビーのようだった。
何ですか、これ? そう尋ねるように小首を傾げる。
「りんご飴。甘くて結構美味しいんだ。ただ固いから気を付けて」
飴、キャンディの仲間かと人魚姫は理解する。なら食べ方は分かる。マスクをずらし、桃色の唇を割って、舌がちろりと現れる。撫でるようにその舌が宝石みたいな球体の上を走って。強い甘みが舌先に広がった。蜜に溺れてふやけたみたいに、彼女の顔はほころんだ。
喜んでくれた、それが分かっただけでも王子の心も弾む。買った甲斐があるものだと、自分が食べた訳でもないのに破顔する。
自分だけ貰って申し訳ないと、人魚姫は貰ったその飴を王子の鼻先に差し出した。小首を傾げて、食べませんかと問うように。意味を理解したものの、そこに口をつけてしまっていいものかと王子はまたその顔を林檎みたいにして。
困惑する王子にすぐ傍の屋台の店主が声をかけた。
「何だ、さっきのお兄さん彼女連れだったのかい」
デリカシーもなく、あけすけに店主のおばさんはそう言った。慌てふためいた二人が、否定するような、否定したくないような、曖昧糢糊に受け応えて。恋人と言うか、戦友というか。二人の事情を知らぬその相手にとっては意味の分からぬことを口走り、逃げるように早足でその場を去った。