複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.30 )
日時: 2018/04/03 09:12
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: Zf1WUFx6)

 その一日も、あっという間に過ぎてしまった。南天へと上り詰めたお日様は、西の方へと傾いていって。オレンジ色の光が透明だった川の水を染め上げた。最後まで綺麗な空で、曇ることも一度として無かった。
 ご飯を食べて、冷たい川の流れに足をさらして。そんなことをしながら半日を過ごした。日差しと緊張とで火照る体にひんやりとした水が押し寄せるのはひどく心地が良かった。そちらの方が本来の居場所であると言うように、水を蹴りながら元気よく歩くセイラの様子はとても楽しそうなもので。
 願わくば今日と言う一日が続いてほしかったが、それももう終わり。つま先を地平線の向こうに落とした太陽が、もう別れの時間だと囁いていた。そろそろ、南の方へと進んで、人気のないところで元の姿に戻るべきだろう。
 河川敷の上に戻って、靴下と靴とを履こうとした時、視界の端に一つの影を捉えた。その異様な姿には見覚えがあり、機敏に反応した王子はその姿を視界の中心に捉えた。
 全身ジャージを着ており、サングラスとマスクとを着用。茶色い髪がたなびいていた。あの時の女だとすぐに察した。そしてその女は、誰かから逃げるようにして後ろの様子を伺いながら走っている。女性の視線の先に目を向けると、一人の外国人男性が声を荒げるように口を開いたり閉じたりして追っている姿が見えた。英語で叫んでいるので、何を口走っているのかはよく分からない。
 それでも、彼がソフィアと呼びかけたのは聞き逃さなかった。今朝のニュースでも、彼女はそのような名前で報道されていた。やはり、間違いない。時計を見る。もう既にかなり遅い時間だ。予定されているコンサート、その開演のほんの少し前。タクシーに乗れば間に合うか。少し厳しい。おそらくは少々の遅延は生じるだろう。
 それでも、逃げようとする彼女は止めなければならない。王子自身はほとんど聞いたことも無いが、彼女の声にはファンが多くついていること。そのファンが彼女の復帰を待ち焦がれていた事。そして簡単に予想できる。彼女が現れなかったらファンたちが悲しむであろう事。
 逃げている彼女にも何か事情があるのかもしれない。それでも、王子には耐えられなかった。誰かを助けるだけの素質がある彼女が、逃げ出すように姿を眩ませたことに。その人にしかできないことがあるというのなら、その力を正しくふるうべきだ。
 セイラに呼びかける。あの人だけは止めなければならないと。王子の目に、ただの好奇心でない何かを察知したセイラは、一拍置いて頷いた。この目は、自分を救ってくれると言い放った時の目だと。
 距離は開いており、歌姫と思しき人物も走っている。普通に走っていればおそらく先に王子のスタミナが尽きる。人魚姫の手を臆することなく取る。その意味を悟った人魚姫はうなずいた。ほとんど人影は残っておらず、それらもわざわざ川の中の王子たちを見ていない。それに、見ていたとしても守護神の能力が普通に存在する世界だ。何か好意的に解釈されることだろう。
 自分のために握るのは苦手なのに。セイラは、あまりにスムーズに自分の手を取ってきた王子の様子に苦笑する。誰かのためとなったら易々とできるんですね。
 声が出せぬ人魚姫、彼女の代わりに王子は一人呟いた。

「守護神アクセス」

 そして二人は、川の水面へと姿を消して。鏡面から平面世界に潜り込む能力を行使する。水面上に王子たちの姿は、ゲームの中のキャラのように入り込む。しかし、地に足つけて立っていた二人の姿はもう、どこにもない。
 どこまでも透明な澄み切った世界。その中を王子は泳ぐように進む。泳ぐと言うよりも海流に乗っているというべきだろうか。体を動かすことも無く、その世界を吹き抜ける一陣の風に身を任せるように、前へ前へと押し進む。ある程度下流まで進んだところで、顔を上げる。大体追いついただろうか。
 水面から飛び出し、地面を蹴る。一応水中がホームグラウンドである人魚姫だが、充分地上でも身体能力は上がっている。河川敷から斜めに上り坂を駆け上り、堤防へと昇る。変装したその女性、真正面に立ちはだかるように王子は道を塞いだ。

「Keep out of my way!」

 英語で怒鳴られたが、それほど成績のよくない王子には意味が分からない。というよりもまず、何と言ったのか正確に聞き取れなかった。どうせ道を開けろって言ってんだろ、お断りだ。彼が勝手に決めつけたその内容は、奇しくも当たっていた。
 止まる様子は無い。仕方ないなと、指を軽やかに打ち鳴らす。パチンと響き渡ると同時に、周囲の空間は色とりどりの泡にまみれて埋め尽くされた。こんなもの、そう思って腕で払おうとした彼女だったが、その腕に泡は絡みつく。直後、あまりの重みに耐えきれなくなった彼女は体勢を崩す。転びそうになる彼女、しかしまた別の泡が、今度はクッションのように倒れる体を受け止める。斜めになった体は、半分不安定そうにその場に静止した。
 傾いた体を起こそうとする。しかし、彼女の下敷きとなっているその大きな泡のクッションは、鳥もちのように彼女をその場に縫い付ける。綺麗な声で悪態のようなものを彼女は吐き続けているが、王子はそんなこと気にもせずに動けぬ彼女のマスクとサングラスを奪い取った。
 露わになる双眸と鼻立ち、鼻の頭と、そして目元とが赤くなっており、潤んだ瞳など見ずとも泣きはらした姿が容易に想像できた。そしてその顔立ちは紛れもなく今朝の報道で取り上げられていた、行方不明の歌姫そのもので。
 後ろの方から、ずっと走っていた中年の男性が追いつく。スーツ姿で走り続けていたからか、汗で下のシャツが半分透けており、部活後のような酸っぱい臭いが鼻を突いた。走りつかれて苦しそうにしているのは、二人そろって同じのようで。無事に怪我無く行く手を阻んだ王子に、マネージャーらしきその人物は深々と頭を下げた。
 諭すような口調で男性が彼女に囁きかけた。突き放すような金切り声。畳みかけるように言い返して、今度は王子の方をキッと睨んだ。
 その口からは、欧米系の顔立ちからは想像しにくい、流暢な日本語が飛び出した。

「大体あなたもお節介ね! 勝手に守護神アクセスなんかして!」
「自分の立場考えてない人に言われたくありません。それにどうせ大事になりませんし」

 許可なく守護神の能力を使うと厳罰を処されることもある。しかし、そうはならないだろうと王子は踏んでいた。許可されていない守護神アクセスは、phoneの波長を感知しているため、phoneを媒介とせずに守護神アクセスする場合、機械で観測することはできない。
 すなわち、現行犯以外でこの状況を咎める人間はいないのだ。

「大した自信ね……アー、that's right」

 突如何かに納得した歌姫、星羅 ソフィアは頷いた。

「何ですか、急に頷いて」
「何か、特別な方法で守護神アクセスしているのかな、って」

 特別な方法。自分たちの正体を言い当てられたような気がして王子は冷やりとした。だが、表情に出ないように何とか取り繕う。今大事なことはこの人を留めることであり、コンサートホールへ向かわせること。
 だが、王子の発する緊張の糸、その雰囲気が変わった様子を見逃さない。

「図星みたいね」
「ソフィア、いい加減にしなさい」

 急に、少したどたどしい日本語でマネージャーらしき男が割って入った。王子に伝わるような言葉で自分も割って入るべきだと思ったのだろう。だが、ソフィアはその、父と呼びつけた相手の言葉を遮った。

「ダディは黙ってて。会場へはちゃんと行く。ダディの能力ならすぐでしょ」
「じゃあ、なぜ逃げていたんだソフィア」
「あなたが見捨てた女と会うためよ」

 ここのすぐ近くでしょう。そう問われて、父親は黙り込む。
 なるほど、本当に近くの墓地の庭園に墓参りに行っていたのか。あながち自分の勘も当たるものだと王子は少し緊張を緩めた。
 彼女の母は、昨年亡くなったはずだ。近くの墓地と言えば一つしかない。

「それはもういいの、代わりに貴方達に質問よ」

 そう言ってソフィアは、視線を少年へと向けなおし、指をその鼻先に突き付けた。迷いなく突き付けられたその人差し指に、まるで刃物を向けられたかのような殺意を覚える。桃太郎が刀を向けた、あの瞬間が思い浮かんだ。

「どうして貴方達は、自分にとって縁も所縁も無い私に接しようとしたの。答えなさい」

 関わるだけ無駄でしょう。そう、彼女は続けた。自分とは関係の無い事なんだから、ふらふら追っかけるダディなんて見捨てて、放っておいたらよかったのに。そう主張する。

「他人の事なんて道に転がる石ころくらいにしか興味の無い。不幸になろうが凶事が起きようが」

 だったら私たちの事も放っておけばよかったのに。きっと、そういうことなのだろう。
 けれども、王子にとってはそうではない。脳裏を過るクラスメイトの顔、知君だってきっと自分と同じであろう。困っていたら助けたくなる。
 それに、このままだと沢山の人が悲しむと思ったからだ。そこが自分の信条に最も反した。ならば、自ら行方をくらませた歌姫を、捕らえなければならない。

「あんたを待ってる人がいるんだ、だったらもう、我儘は聞けない」
「待ってる? 別に彼らは張りぼての人形を並べて音源と録音した声を流すだけでも満足するわ」
「馬鹿にしてんのかよ」
「別にそうでもないわ。その程度の事にお金を使えることは尊敬に値するしね」
「その程度って……今してるのはあんたの話だぞ」

 段々とヒートアップした王子は、さっきまで使っていた丁寧な言葉遣いなどとっくに忘れていた。やめなさいと父親が彼女の肩に手を置くが、彼女はそれを払いのける。

「別に、自分だって大した人間じゃない。母の死に目にも立ち会えないどころか、具合が悪くなったことも知らされてなかった。誰より愛していたのによ」

 忙しさにかまけて、母との対話は全てメールで済ませていた。空き時間にちまちまと打ち込んで、書き上がったら送信。電話なんてする余裕は無くて。実際に合う時間なんて、もっと無かった。
 病気になったことなど知らなかった。容態が悪化したことも当然知ることも無く。亡くなって初めて事実を知った。

「恨んだわね、琴割 月光を」

 ELEVENの一人に、ナイチンゲールという守護神がいる。ありとあらゆる病気や怪我を完治させる能力。死者こそ治すことができないが、守護神アクセス中は、能力行使の対象者が体に傷を負ってから死ぬまでに一瞬でもタイムラグがあれば死ぬ前に体が修復される。
 すなわち、ほぼ完全な不死化ができる。だから母親が死ぬ前にその能力者が診てくれていれば、助かっていたはずなのだ。しかし当然そんなことはできない。ELEVENは許可なく守護神アクセスを行えない。未だ未発見の最後の一人はさておき、残る十人の契約者はそのように取り決められていた。

「そして恨んだわ、何も教えてくれなかった人々を」
「それは違うだろ。忙しいあんたに迷惑かけたくないって思ってたんだろ」
「だとしても、母を愛する娘の気持ちが貴方たちに分かるの?」
「その母さんからの思いやりを汲んでないあんたには言われたくない」

 口論が中断する。相対した二人の視線が、どちらも退かずにぶつかり合った。互いに険のある顔で。だが、王子としては時間との戦いでもあった。守護神アクセスが不意に途切れれば人魚姫の姿がこの親子の前に晒される。その前に、何とか終わらせなければならない。

「あんたが辛かったことはもう分かった。けどその個人の我儘と、あんたのファンに応えないことは別の問題だろう」
「そうね。職業にしている以上は」
「だったらこんな事してる場合じゃないだろ」
「そういう場合だったのよ、今夜中に決めないといけないこともあって、ね」

 今夜中に考えておかねばならないことがある。そのため、この国を見て回ることから始めた。一週間かけてずっと見回った感想こそ彼女は言わなかったが、疲れているであろうことは、黙って漏れ出た吐息の弱弱しさからうかがい知れた。

「それにしてもいやに突っかかってくるわね貴方。何か気に食わないことでもあるの?」
「……ありまくりだよ」

 俺が今日まで、どれだけ辛酸を舐めてきたと思っている。王子は一拍置いて、一息に文句を吐き出した。

「俺は、ずっと誰かのことを助けたいって思い続けてた。でもできなかったんだよ、誰に嫌われた訳でもねえのに。それに見合った力なんて持ってなかったんだ。何かを為すだけの力がある癖に何もしないやつが、羨ましくて妬ましくて仕方ねえ。あんたにしたってそうだ、あんたの歌だって人から好かれて、望まれて、沢山の人が待ってるってのに、こんなところで油売って道草食ってる場合なのかよって思ったら、体が動くのが止められなかった」
「何よ、あなたの八つ当たりじゃない」
「それの何が悪いんだ。あんただってただの八つ当たりだろ。何も教えてくれなかったからって臍曲げて。沢山の人を不安にさせて。まだ、あんたを待ち望む人から感謝されるだけ、俺の八つ当たりの方が道徳的だろ」

 ソフィアは何も言い返さない。目線をほんの少し伏せる。自分の行いが褒められたものではないとようやく察した。この姿をいざ母が目にしたら、どう思うだろうか。そう自問自答すると、絶対にその顔は喜んでいやしないとすぐに分かった。
 自問でさえそうならば、他者から問いかけられれば脳裏の母は必ず怒るか悲しむだろう。だが王子にとって、大切なのは彼女との口論に勝つことではない。必要以上に追い詰めることなく、彼は最後に何よりも強く言葉を告げた。

「あんたには人を楽しませる才能があるんだろう。だったらとっとと正しく使ってこい」

 沈黙が、三人と人魚姫との間に訪れた。