複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.42 )
- 日時: 2018/04/19 08:17
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
彼女と出会ってようやく、一月が経とうとしていた。初めはその隣に立つだけでも何だかぎこちなく感じて、照れくさくて仕方がなかった。長い事絶望の淵に追いやられていた自分が、ようやく報われたような気がして。それ以来彼にとって彼女は、セイラは女神のように思えてならなかった。
警察に見つからないようにとびくびくしながら、人知れずフェアリーテイルを五件ほど救ってきた彼ら。セイラはある程度フェアリーテイルの中でも強力な守護神とそうでない者の判別がつくようで、今の自分たちでも勝てそうな守護神のみを選別して王子の鍛錬としてあてがっていた。実際、練習やセイラが能力を説明してのイメージトレーニングだけでなく、実戦を重ねるごとに王子はメキメキとその力を身に着けているようであった。
ただ、それでもまだ桃太郎や赤ずきんといった凶悪な相手と立ち向かうには実力不足に感じていた。これまで自分には戦う力など無いと思い込んでいた彼にとって、今の力はあまりに危険すぎる。勝ち目も無い負け戦でも無謀に突き進みかねない。だからこそセイラは、手綱を握るように王子を制御しようとしていた。
その身に余る正義感は近いうちに身を滅ぼす。それは絶対だ。折角見つけた大切な人を、彼女としても失いたくなかった。けれども彼はきっと、赤ずきんのせいで困っている人が西にいるなら、迷わず飛び込んでいくだろう。
だからまだ、伝えられない。分には相応と不相応がある。将来的にもっと多くの人を救うためだと、セイラは例え今後、王子から疎まれることになったとしても、大きすぎる相手にはだんまりを決め込むことにした。彼に力を与えられる守護神は自分しかいない。だから彼は、どれだけ自分が疎ましくても彼女を求めざるを得ないとはセイラも知っていた。
だから、これがどれだけ卑怯な選択肢だとしても、彼女にとってはそれが最善の答えだった。嫌われても構わない。彼から嫌われるのが自分にとってどれだけ辛い事であったとしても、失い、二度と会えなくなってしまうよりかはずっといい。
彼にとって自分は、たまたま出会うことができた守護神であって、自分である必要はきっと無かっただろう。しかし自分にとっては、光葉こそが紛れもなく自分を闇の底から救い出し、光溢れる世界へと導いてくれた王子様なのだから。勝手に自分で思い込んで、その価値をセイラは過小評価する。彼にとっても、彼女の代わりなどいないと言うのに。
そんな二人は今、一人のフェアリーテイルと向き合っていた。今回も中々手強そうな相手だなと、王子は息を呑む。実際のところ、今の王子であれば問題無いであろうとセイラが見通した相手ではあるのだが、伝えてしまっては油断するだろう。慢心は避けるべきである。それゆえセイラも、強敵ですよと王子に伝えた。ただ、強敵であると言うその言葉に嘘偽りなど無かった。
目の前では深緑色の植物の茎が、意志を持っているかのように蠢いていた。ただの茎ではなく、屈強な棘の付いた、触れれば怪我でもしてしまいそうな、茨の棘。鞭みたいだなと、王子は身震いを一つ。固い岩肌さえ悠々と抉るその鋼鉄のような棘、直撃すればきっとただでは済まないだろうなと王子は警戒を強めた。
「気を付けてください、王子くん」
相手も容赦が無いであろうことを悟り、すぐさまセイラはパートナーに注意を促した。分かっているさと王子は頷く。傍目には王子が何もない空間に大きな独り言を言っているようにしか聞こえないだろう。しかし人魚姫は完全に姿を消したわけでは無く、契約者たる彼以外の目には見えなくなっているだけだった。
眠り姫、またの名を眠れる森の美女と呼ぶ物語のヒロインである。それ以外にも茨姫と言うだけはあるなと、その植物の鞭。軽快に蠢くその様子は、むしろ蛇によく似ていた。大地を這うように迫る茨の茎、眼前まで接したその鋭い一振りにも臆せず、王子は近場の窓ガラスの中へと逃げ込んだ。空ぶったことを確認した後、また現れる。初めて桃太郎と交戦した空間は、裏路地なので人通りも無く、咄嗟に逃げ込むための窓ガラスも豊富であり、水の供給まで行き届いているため、セイラ達が戦うに際しては打ってつけの空間だった。
いつもいつもその場に、標的であるフェアリーテイルを誘き寄せるのは不可能であるため、似たようなポイントはいくつか調べてある。人目、特に捜査官の目に触れずに事を済ませねばならないため、こういった場所を予め調べておくのは必須だった。捜査官に見られてしまうと、人魚姫も隔離されてしまう危険性がある。そうなれば、もう王子と共に戦うことも難しくなるだろうとの、セイラからの提案だった。
実際、初めて出会った頃は不意にフェアリーテイルの反応が消失したことなど初めてであったため、警察も注目していたようだが、その後勝手にその反応が消失する事件が五件ほど相次いだため、警察側も「そういうこともある」と割り切ったのか、兄太陽も話題に出さなくなった。
そもそも、首領であるシンデレラからして、夜十二時になればどこかへ帰るように消えてしまうため、感知の消失反応自体は珍しい事では無かったとも言える。日中、中途半端な時間帯に消えることが初めてであっただけで。
そして、その相次いだ五件の出来事というのが、王子とセイラとがその能力により正気に戻してやった守護神達であった。
一応、それらと戦い、癒しの歌の能力で赤い瘴気を取り去ってやるのは、いつも場所を変えるようにはしていた。ワンパターンな行動をとっていれば、いつか捜査官に見つかってしまうように思えたからだ。
確かにどれだけ注意していてもいつかは見つかってしまうだろうが、だからと言って何も気を配らないほど王子も愚かでは無かった。何せ彼にとって、ようやく望んだ通りの自分になれたのだから。その上、最悪の場合セイラとの仲を引き裂かれるとあらば、慎重になるのも当然と言えた。
軽く躱した王子だったが、矢継ぎ早に降り注ぐ茨の鞭。飛び、避け、鏡面へ潜り込み、叩き割られる前にまた飛び出す。大繩を飛ぶように跳んで避け、着地狩りを目論んだ足元の一本を確認した。させるものかと、そこらに張り巡らされた水道管を掴んだ。こうしていると、桃太郎を思い出すなと一月前の出来事を思い返す。真下で空ぶった茨を見届け、眠り姫の本体が見れないかどうかを確認した。あまりに鬱蒼と生い茂った棘だらけの樹海、その鎧に覆われた彼女の身体は一向に見えそうにない。
人目を憚るためか、彼女がここに現れた時には大げさな茨の森など背負ってはいなかった。水色のショートカットの髪に、見慣れた赤い瞳。部屋着のようなデザインが簡素なピンクのワンピースのみを身に着けていた。
睡魔と戦いながら、寝ぼけた半開きの目を擦った彼女は、頭痛に苛まれながらやって来た。というのも王子たちが誘き寄せたようなもので、浄化の歌声を周囲一帯に響かせたのが理由だった。浄化の歌声は、発している人魚姫本人あるいは契約者の王子、瘴気に囚われた一部の守護神にしか聞こえない。それゆえ、的確にフェアリーテイルだけに呼びかけられる。
その赤い瘴気はと言うと、浄化する際に一際強い苦痛を与えるようである。それゆえ初めて会った時の桃太郎同様に、その歌声を聞き届けた者はその苦痛から逃れるべく引き寄せられる。光に集まる虫のように、ふらりふらりと引き寄せられる。
救おうとしているのに憎悪と怒りを向けられる。その温度差には今も慣れない。救いたいと願っているのに認めてもらえない。その敵意の目が、どうにも苦しくて堪らなかった。
このままでは埒が明かないので、まずはあの茨の砦を攻略することから始めることに決めた。攻撃に用いる能力は水を操る能力しかない。なぜか水が止められていない消火栓を思い切り捻った。滝のように勢いよく、カルキ混じりの水道水が噴き出した。
それをそのまま意のままに操る。父親の持つウンディーネの能力によく似ていた。別に遺伝するようなことでは無いだろうから、単なる偶然であろう。現にあちらの能力とは使役できる水の範囲が大きく異なる。向こうは常温の範囲内であれば固体液体気体の条件を問わない。しかし、人魚姫による能力は何度であろうと液体の水を操ることしかできない。
だが、人魚姫の方がというべきだろうか、父の洋介よりも光葉の方がというべきだろうか、よほど繊細に水流を操ることができた。ウンディーネによる能力では、いわばただただ水流を自由に動かしているようなもので、洪水をただただ相手に叩きつけているだけだ。おそらくは父さんの性格のせいだろうけどなと、王子は苦笑する。あの人は繊細なことはあまり考えない。豪放磊落、そう呼ぶべきだ。
縦横無尽に降りかかる棘だらけの鞭、打たれるごとに地面が抉れ、粗いやすりで擦ったようにズタズタになる。それらの隙間を縫うように、細い水流を走らせる。そしてその触腕のような茎を根元から引き裂く。細く鋭く、高速に走らせた水、それは日本刀をも超えるような切れ味を誇る。ウォーターカッター、数十年前から用いられている、ダイヤモンドをも加工するほどの力を有している道具。
一番外側の外周を暴れていた太い薔薇の腕が地に伏した。流石に本体と切り離されると動かすことはできないのかと王子は確認した。苦悶の金切り声が上がるようなことも無い。そりゃ、流石にこの茎と神経が通っている訳でも無いようだなと、斬り落としてから安心した。
だが、元の規模がかなり大きなものなので、これは骨が折れそうだと覚悟する。再生の気配はない。となれば、慌てすぎる必要は無い。着実に被弾を避けて順々に進めればよい。
気を付けるべきは、この鞭のようにしなる棘だらけの触腕の乱舞のみ。そう侮ってしまった。フェアリーテイルというのはどれも、多様な能力を有していると言うのに。眠り姫、そのタイトルの意味を意識の外へと追いやってしまっていた。何も彼女は自分から好きで眠りこけている訳では無い。悪い魔女の呪いを受けた故にずっと眠り続けていただけだ。
そしてその呪いと言うものは、糸車の針に指を刺されてしまったことでその身に牙を向いた。多数の線が織り成すようにして視界を塞いでいる樹海のような眠り姫を囲う防壁。その波打つ茨の壁の隙間が丁度重なり合い、その中心にいる、半開きの目をした眠り姫の真紅の瞳と、王子の視線とが交錯した。
不味いというよりも、好機だと得心したのがいけなかった。そこを足掛かりに一気に仕掛けようとする。
「待ってください王子くん!」
そんな、セイラの声も聞こえていなくて。
一本の光陰が走った。大げさな茎の壁にだけ目を奪われて、その小さな針になんて焦点が合っていなかった。ゆらゆら揺れて、複数の手がお互いに王子を揺さぶるように退路を、進路を塞ぎながら襲い来る中で、それに気が付けという方が困難だったとも言える。気が付けば、首元に鋭い痛みが走った。不意打ちの痛みに彼は顔を歪ませる。何事か。手で触れてみるに一本の細い針。しかし何よりも不味かったのは、直後に針が突き刺した痛みなど遠のいたことだった。
視界が透明になっていく。目の前の路地裏の錆の色と、茨の鞭の深緑色が遠のいていく。全ての景色が滲んで霞む。段々、周囲の音すらも足早に去っていくようで。自分がたった一人の世界に押しやられてしまったようだ。意識も段々と暗がりに沈んでいき、何も考えられなくなりそうになるその一瞬前、彼女の声だけが彼の耳に鮮烈に響いた。
「王子くん! 歌ってください!」
セイラの声。混濁の中に意識が沈みそうになるその前、深い海の底に沈む彼を水面へと引き上げるように、脳裏に彼女の顔が浮かんだ。そうだ、こんなところで寝てはいられない。その指示に従って、ちょっとでも歌声をあげられるように、肺から空気を吐き出した。
聞いたものを回復させるための歌声。その対象を指定することもできる。王子の身体をデトックスするための癒しの聖歌が錆び付いた空間を包み込んだ。百年の眠りに人を引きずりこむ呪いも、あっと言う間に無力化してしまう。すっきりと目が覚めた王子は、咄嗟に指示をくれたセイラに頭を下げた。
「ごめん! ちょっと油断してた」
- Re: 守護神アクセス ( No.43 )
- 日時: 2018/09/18 15:52
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
「ごめん! ちょっと油断してた」
「気を付けてくださいね。……彼女は、今まで貴方がまともにやりあってきた中で一番強いんですよ」
少し語調の強くなった彼女に、彼も少々肩を落とした。勿論、自分の思慮の無さに対する後悔故である。これでは、彼女と交わした約束すらも果たせそうにない。呆れさせてしまったかなと、知らずに慢心していた自分のことを情けなく思った。目の前にその顔が現れたら殴りつけてやりたい。
反省の意を込めて、握りこぶしで太ももを打った。今できる反省はここまでだ。ここから先は行動で示して見せろ。今ここで足を止めたら、それこそ慢心を払拭できていないだけだ。
だからまた、迫る何本もの太い茎の連撃を躱し続ける。右へ、左へ、飛んで、避けて。時に体が動かない時には水流で無理やり自分の身体を押し、鏡がすぐ傍にあるならその世界へと一時避難する。干渉できぬ世界に入り込み、反撃のためすぐさま元の世界へと戻る。
消火栓から噴き出る水は、地面に衝突して四方八方へと飛び散っている。大きな水溜まりが、そこを中心に輪を広げていた。どうせ正攻法ではその深淵へと辿り着く気配はない、それなら。
先ほど、呪いの針を撃ち出した際に見えた真紅の瞳は、王子の目線よりもやや低いところにあった。あの森の中心に、眠り姫は特に足場など無く、地面にそのまま立っていると予測できる。つまり、ある程度高い位置をいくら切り裂いても、眠り姫の身体ごと両断してしまうことは無い。
だったら一気に全部伐採してやる。水刃が通る軌道を予め掌で指示するように、掌を相手の方に向けた王子は、右から左へと目いっぱい薙ぎ払った。音もなく、鋭い刃が一気に立ち並んだ茨が鬱蒼と生い茂ったその林を一瞬で引き裂いた。ばらばらと、居合道で両断された人形のように、足と切り離された棘だらけの茎がばらばらと地に散らばった。
中には糸車を引く、可憐な少女の姿。手にした紡錘を王子に向かって何本も投擲。宙を駆ける内に糸が周囲に散らばった。中から剥き出しの針が迫る。もう油断はしない。王子はその視界中に、真っ白な泡を張り巡らせた。その泡を貫いた針だが、貫かれただけでその強靭な泡は弾けようとしない。こんもりとした柔らかな泡が針を包み込んで、勢いを殺されたその針は全て重力に引かれて地を這うばかり。
からんころんと音を立てて。散らばった針。もう決して、その毒牙が彼の首筋に突き立てられることは無いだろう。チャンスがあるとすれば今しかない。張り巡らせたその泡を、眠り姫の下に集める。もがけばもがくほどに絡まりつく真っ白で丈夫な泡。元が非力なのは眠り姫もよくあるフェアリーテイルの例に漏れないようで、身動きなどもう、自由に取れそうも無い。
一気に決めて見せる。赤い瘴気を打ち払う。浄化の聖唱。響き渡る歌声が、宥めるように、包んで抱くように、頭を撫でるように眠り姫の耳から、肌から浸透していく。
「きゃあああああぁあああぁぁあああぁあっ!」
眠たそうに半分閉じていた目が、苦悶に耐えかねて最大まで見開かれる。気だるげで、口数などゼロに等しいような彼女が、その喉すら壊れてしまうのではないかと思えるほどの大声を張り上げる。これでもう、六度目だ。苦しくて泣いて、痛くて喚いて、逃げ出したくて暴れる守護神を無理やりに押さえつけてでも救済するのは。
その尖った金切り声が、王子の心に突き刺さる。止めてくれ。そんな声をぶつけないでくれと。その目で俺を見ないでくれ。全部、君らを救うためにしていることなのだから。
そんな彼の想いなど、実際に届くかどうかなど、この瞬間の彼女らには関係ない。ただただ苦しいだけだ。全て終わってしまえば、王子にひどく誤って、正気に戻してくれたことに深い感謝の言葉を送ってくれる。けれど今、この瞬間。破壊への熱狂的な願望に理性を全て奪われたこの状態において、それを無理に取り去ろうとし、体に、精神に大きな負担を強いるこの処置は彼らにとってこれ以上の無い冒涜であり、暴威でしかない。
だが、今この一瞬、恨まれることになろうとも、絶対に助け出さなくてはならぬのだ。王子の喉からその歌声は確かに放たれているのだが、その声音は間違いなくセイラのものだった。美しく、透き通るような女性の声が響き渡る。薄氷なんて、簡単に打ち砕いてしまいそうな鋭い金切り声がこだまする。近いうちに避難しないと、捜査官に自分たちも見つかってしまうなと焦り始める。
「あ、ああぁあぁあぁぁ……」
その身から、オーラのように垂れ流していた真っ赤な煙が透明になって空中に消えていく。人魚姫の能力による泡のクッションに包まれたまま、すやすやと安らかな吐息を上げて、指先一つ動かさなくなった。漏れ出る吐息と、上下する胸の動きとが、大事無い事を知らせていた。
「良かった……」
ほっとセイラも胸をなでおろす。彼女が救われたこともそうであるが、王子が大けが負うことも無く、今回も無事に済ませることができたからだ。一時はどうなることかと思ったものだが、何事も無く終わってしまえばもうこれ以上望むことなど無かった。
守護神アクセスを解き、その安全を確かめるようにセイラは全身で王子を包み込むようにハグした。魔女の薬を飲んだ人間の状態でなく、人魚姫の状態に戻っているため、ほとんど水着や下着姿と変わらない。見慣れはしたのだが、触れ合うのは一切慣れていない王子にとって、少し刺激が強すぎた。顔を赤らめて、もう大丈夫だから離してほしいと、恥ずかしそうに目を逸らして。
その照れくさそうな、女々しい姿に人魚姫も嘆息する。最近少しは男らしくなってきたかと思ったのに、と。だが、そんな本心を彼女は口に出さない。不老不死の守護神と人間で恋に落ちたとして、待っているのは死別だけだ。だから、彼が自分を特別に思うことが無いように、あるいは自分を保護者に近い者と見てくれるように彼女は振る舞う。
「さあ王子くん、私たちが追われる前にここを去りますよ」
眠り姫は最悪このままでも問題ないだろう。討伐した守護神を管理するための施設があるとは、王子からセイラも聞いていた。そのため、このまま置いておいてもそういった施設に運び込まれて、事件の収束までは平和に暮らせるだろう、と。
だからこの場においては自分たちの撤収が何よりも大事。それは決して間違っていなかった。その判断が遅すぎたと言うだけで。眠り姫に手こずりすぎたと言うだけで。
「久方ぶりだのう、お前たち」
路地裏に、新参者の声響く。まさかこんなところに人が来るなんて。予想だにしなかった来訪者に二人は慌てふためく。しかもこの声、できることなら会いたくも無い声だと言うのに。冷たい汗が衣纏わぬセイラの背中を滑りおりた。
目と目の中心、その奥にツンと来るような絶望感。こんな時に、彼が来るなんて。あまりの格の違いに、セイラの脳裏に最悪の結末が思い浮かんでしまった。王子は確かに強くなった。しかし、それでも勝ち目の薄い相手と言うのは存在するし、何体かは絶対に勝てない相手も存在している。例えその相手が、守護神アクセスでなくジャックであるというハンデを背負っていても、だ。実際に一度戦った時、その戦績はどうだったか。撃退に成功した。しかしそれは、完全勝利と言って差し支えないものだったか。
答えは勿論ノーだ。あんなもの勝利と呼べない。守護神ジャックすらしていない、相手の純粋な体術だけで自分たちは十分に翻弄された。何とか撃退できたと言っても、運に助けられた側面もあの日は大きかった。そして何より、あの時彼が身の安全を顧みずに王子を殺すことだけに注力していれば、確実に王子は殺されていた。
自分たちのことを知った上での自信ありげな襲来。それは要するに、彼自身以前と同じ轍は踏まないというだけの自信があってきたのではないか。
目の前の、小柄な少年のような武士を見る。のぼりを背負った、白と桃とを基調とした着物を羽織り、刀を引っ提げ、キビ団子を備えた男の子。日本一の三文字が誰よりも似合う男。
「桃太郎……!」
一月前に戦った、最初の敵。彼との再会に王子も目を丸くする。だが、警戒など緩められるはずもない。彼はまだ、フェアリーテイルのままだからだ。血みたいに真っ赤な瞳が、満月みたいに爛々と輝いている。空に浮かべれば月だって本当に信じられそうだった。
セイラの動揺を彼自身感じ取っていた。おそらくこの男と真っ向からぶつかれば敗色は濃厚。むしろ、死んでしまう危険性すらある。というのも、彼が最後に現れた際、つまりは奏白と戦った時には守護神ジャックを行っていたという話は太陽や洋介から聞いている。かつて戦っていた時と、比べ物にならないほどの力を有していることくらい、容易に想像がつく。
それでも王子に退くと言う発想は無かった。ヒーローの辞書に逃げるだなんて言葉があってたまるか。怖くて震える足を押さえつけて、強張りそうな顔の筋肉を無理に動かして笑顔を作る。そんなやせ我慢を見抜けないセイラではない。
「駄目です王子くん! ここは逃げなくちゃ!」
「いや、退けない。ここで退いてちゃ男じゃない」
「何言ってるんですか? 勇気と無謀は違うんですよ!」
「大丈夫だって! 今まで六人倒してきたんだ。こいつも、その延長線の上だ」
違う。人魚姫は首を大きく横に振る。これまで私が選別してきた者たちとは、その格が段違いだと。桃太郎は、数多の捜査官を返り討ちにし、時に屠ってきた。そんな彼が今までの敵と同格だなんてあり得ない。
戦意に溢れた桃太郎、勇気を勘違いした王子、そしてそんな王子の無事を願う人魚姫。かみ合わない三つの意志がぶつかり合い、その中心に訪れたのは静けさ。誰も、何も発しない。ただ相手の出方を待ち、己の望む最善手を選ぼうとする。
そんな静寂が支配する中だった。暗がりを裂くようにして、靴が地面を打ち付ける音。その音に、王子もセイラも酷く驚いた。こんなところに、これ以上別の人間が来るだなんて。
来るのは守護神ではない。その気配から人魚姫は直感した。とするとここに来るのは人間である。ただでさえ劣勢であると言うのに、人質でも取られようものなら、巻き返しなど到底不可能になる。なんとかして遠ざけなばなるまい。そう思っても、刻一刻とその足音はこちらへと向かっていた。すぐ傍の角にその主が辿り着く、方向を転換して、王子たちのいる方へと迷いなく足を向けた。と言っても、その方角に進むか引き返すかしか道は無いのだが。
現れたのは、しっかり小麦色に焼かれた肌に身を包んだ女性であった。自分よりかは幾分か低いが。その女性を王子はじろじろと観察する。それでも知君よりは少し高い程度であろうか。豊満なバスト、それに対し細く引き締まった胴。艶めかしく覗く肢体はまるで豹のようであった。その眼光は、狡猾で気まぐれな猫のそれを想起させる。特徴的な目鼻立ちから、日本人では無さそうだと察せられた。
「何してんの、ちびっこ」
なれなれしく、彼女は桃太郎にそう呼びかけた。あからさまに不機嫌そうにして、彼は青筋を額に浮かべた。それと同時に、戦慄する王子とセイラ。
「馬鹿野郎逃げろ! 死にてえのかよ!」
先ほどセイラに言われたのと同じようなことを彼はその女性に告げた。それが分かっているならどうしてあなたは逃げてくれないのかと彼女の目が曇る。貴方がそうやって他者を思いやる分だけ、私は貴方を心配していると言うのに。そんな彼女の葛藤も、配慮も、王子には届いていない。とはいえ、王子の想いも彼女に届いていないため、お互いさまではあったが。
王子たちが代わりに慌てても、褐色肌の女性は一切の動揺を見せなかった。むしろ、心配の言葉に当惑しているように見えた。そして次の瞬間、彼女はそのアーモンド形の目をしばたかせて、ホットパンツのポケットから写真を二枚取り出した。その内片方をじっと見つめて、王子と見比べる。称号が完了した、そう言わんばかりに不敵に口角を持ち上げた。
「なるほど。じゃ私が探してたのと、ちびっこが探してたの、同じ奴か」
流暢に話せてはいるが、ところどころ発音に詰まっているようである。やはり外国人と見て間違いはない。それにしても、王子を探していたとはどういうことなのだろうか。そして桃太郎に対してあれだけ気さくに打ち解けられているのはどういった理由があるのだろうか。
日の本一、そう呼ばれていたせいで驕りがちな桃太郎が、あんな態度を取られても気にもかけていない。彼にとって彼女は、特別な存在なのだろうか。思っても見なかった未知の来訪者の分別をどうつけたものか分からない。
桃太郎にあれだけなれなれしくできる者。対等に話ができる者。必要な、仲間が、相棒がいるとしたら。この時ようやく、セイラは答えに思い至った。つまりあれは、彼らは私達と全く同じなのだ、と。
「王子くん! 絶対に逃げなきゃダメです!」
セイラがひっ迫した表情で王子に呼びかける。その必死の表情に、先ほど強気で笑おうとしていた王子も、ただならぬ気配を感じ取った。しかし、桃太郎たちはそんな二人を嘲笑うように、肩を一直線に並べるように真横に並ぶ。その高さはかなり違っていたが、左に立った桃太郎が右手の平を、右に立った女性が左手の平を相手に突き付けて、ぴたりと合わせるように重ねた。
手と手を重ねたその様子に、王子は既視感を感じた。あれはまるで、自分たちのようではないか、と。
「特別なの、自分だけだなんて信じちゃってたか?」
純粋に拙いだけのその発音が、王子を煽っているように聞こえた。というのも、桃太郎と重なった次の言葉が、あまりに美しく発音できていたためでもある。
現代の社会で生きる王子にとって、何度も聞いた馴染みある言葉。それは、彼自身長い事憧れていた特別な言葉で。だけど世の中にありふれた、至って普通の言葉だった。
桃太郎とその女性、クーニャンとの声がズレ無く重なる。それはまるで、鏡に映した自分自身を見ているように思えてしまった。
「守護神アクセス」
File6・クーニャン hanged up