複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス【File6・完】 ( No.44 )
日時: 2018/09/18 15:53
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

 その顔が、頭から離れなかった。彼女は目を覚まして、洗面所へと向かった。何だか目やにが張り付いて右目が開けづらい。視界が半分閉ざされて、何だか真っすぐ歩きにくい。
 昨日の食事会は、楽しかった。仕事の外で知君と会うのが初めてだったからか、何も思うところなく彼と接することができたのは、彼女にとって新鮮な体験だった。本当にいい子だなと、その人柄を見直して改めて感心する。
 それゆえ、罪悪感を覚えているのだろうかと彼女は己を問いただした。彼の事を遠ざけようとしていること? いや、そうではないと首を横に。それ自体はきっと、悪い事ではないはずだ。遠ざけようとする、その言葉は何だか冷たく聞こえていたとしても、本質は彼の幸せを願っている。
 だとしたら、何がいけないのだろうか。伝え方だろうか。そういう訳でもないなと、真凜は鏡の前に立って、鏡に映った自分の姿でなく彼の事を想起した。きっと彼は、必要だと言われたいんだ。誰かに求められて、誰かを助けていたいのだ。例えどれだけ自分の身を犠牲にしたとしても。二人の思想は、信念は相反するものだから。だから互いに意固地になる度、傷つけあってしまう。ハリネズミのジレンマみたいだ。自嘲気味に彼女は笑う。
 私も充分、傷ついているのだろうか。真凜は思う。彼にも……知君にも幸せになって欲しいと、傷ついてほしくないと、戦うたびに倒れて欲しくないと常々願っている。だから彼女は、自分の実力不足故に知君に助けられる度に、悔しくて仕方がない。苦悶の表情で彼の事を乗っ取ろうとするネロルキウスに抗う姿を見るたび、胸が締め付けられる。全て終わって、安らかな眠りに落ちる彼を見ればホッとするし、そのせいで彼がまた時間が無くなっちゃったと嘆いているのを見れば、自分とて気分が沈んだ。
 いつになれば私は、その高すぎる理想を達成できるのだろうか。顔を洗い、目脂で糊付けされていた右目を開いた。調子を確かめるように、ぱちぱちと数回瞬き。もう特に問題は無いようだ。視界が開けると、頭頂の髪の毛がぴょこんと軽く跳ねているのに気が付いた。寝癖が付くだなんて珍しいなと、ブラシを手に取る。昨日ドライヤーで乾かしたと思っていたが甘かったのだろうか。
 彼女は元の髪質がいいため、数回ブラシの歯を通すとすぐに真っすぐに戻った。さっきの跳ね方は知君くんのアホ毛みたいで面白かったのだけれど。そう思ってクスリとほほ笑むと、自分が思いの外彼を受け入れていることを、彼女も自覚した。
 嫌いになれる訳ないじゃないか。言い訳がましく彼女はこぼす。別に誰が聞いている訳でもないから、声には出さなかった。あんなに可愛らしい少年を。人の強さに気づいてあげられる子を。悲しくたって笑って見せる強い子を。誰かを思いやれる、思慮深い男の子を。
 そして何より、どんな高い壁だって乗り越える、とても凛々しい彼の事を。どうして、どうして嫌うことができようか。
 だからこそ大切なのだ。だからこそ隣に置いておきたくない。彼はもっと、後ろにいて構わない。友達と、新しく出た漫画が面白いだとか言って、来月出るゲームが面白そうだとか笑って、戦場からかけ離れた所に、ずっと居てくれればいい。彼と一緒にいて救われるべきなのは、自分のような強い人間ではない。もっと、支えが必要で、脆くて儚げで今にも崩れてしまいそうな子に寄り添ってあげて欲しい。そしてそんな姿が似合うのは当然、捜査官である真凜のすぐ隣などではなく、彼女が戦うその背中を見つめることしかできないような後方遥か彼方だ。

「お、真凜じゃん早いな」

 昨日代わりに出勤した分、彼女の兄は休みを今日貰っていた。その分久々に遠出しようと彼も早起きしたようである。兄が率先して休もうとするなど珍しいなと彼女は感じたが、最近は皆頼り甲斐があるから任せられると、保護者のようなことを奏白は口にした。充分自分も若手のくせに、大きなことは言わない方がよくないかと彼女も窘めた。

「まあそうだけどさ。ほら、何だかんだ俺が一番強いじゃん?」
「二番手よ、兄さんは」

 最近はマリンから奏白に対する敬語も抜けつつあった。あくまでも彼は目標で合って、お手本では無いと壊死谷の一件を乗り越えて再確認したためである。無理にこうあろうとしなくていい。彼の正義と私の正義は、血が繋がっていたとしても微妙に違う。だから、崇拝するようにその足跡を寸分違わず追いかける必要などない。

「聞き捨てならねえな、誰だよ一番は」
「知君くんよ。何、勝てる気なの?」
「お手上げ」

 あくまで捜査官だけに限って自分が頂点だと言い張っていた彼だったが、同じ班員である一介の高校生の名前を上げられて即座に試合を投げ出した。全くこれじゃ警察もいい笑いものよねと、全然悔しくなさそうにして真凜は溜め息を吐き出した。

「そこらへんにいるやわな高校生の方が強いだなんて」
「いや、だってしゃあねえだろ。ネロルキウスってのはな」
「ん? ちょっと待って」

 奏白が抗議し、反論しようとしたその時である。真凜の耳に、微かなphoneの通知音が聞こえてきた。部屋に置きっぱなしにしてはいるが、その通知音は最大にしてあるのでここまで聞こえてきていてもおかしくは無い。何か言葉を続けようとしていた兄を遮り、急いでその場を飛び出した。
 そう言えば。真凜の背中を見送った彼は、ふと忘れていたことを思い出した。彼女にまだ、何一つネロルキウスについて教えていないという事に。あまり多くの人には語るなと口止めされてはいるが、せめて彼女には伝えておくべきだろう。何せ真凜を含めて第7班なのだから。
 知君について、全てを理解しているのは、彼自身と琴割くらいのものだった。奏白は単に、その身に宿す守護神について教えられているだけ。
 琴割 月光は、裏で何やらきな臭い研究を行っているとはよく耳にする。それとは関係ないといいのだけれど。妹の寝室の方からは了解しましたという固い声。何かあったのだろうかとは簡単に分かる。これは、込み入った話は後だなと判断する。その部屋の扉をノックして中に入る。スーツをベッドの上に広げて今まさに着替えようとしているところだった。

「何か起きたのか?」
「アンノウンが出たというだけね。最近だとそれほど珍しい事では無いわね」

 未確認のフェアリーテイル、もう既に40を超える守護神達を観測してはいるが、まだ増えるのかと奏白は目を細める。それだけ不安も、負担も、危険も増える。今度の相手がまた、桃太郎や赤ずきん、さらにはアリスのように凶悪な性能をしてはいないだろうか。そう思うと、気が気じゃなくなる。
 そんな彼のよくない予想を察知した真凜は、彼に呼びかけた。

「大丈夫よ、兄さん」

 今日くらい楽しみなさいと、自分も現場に出ようかと焦る彼を諭す。昨日は自分が休んだのだから、今日こそはちゃんと休んで欲しいと。ガス抜きは大事だと添えて。

「何かあっても大丈夫よ。私を、誰の妹だと思ってるの?」
「いや、だけどよ……」
「危なくなったら連絡するわ。兄さんならすぐでしょ?」

 嘘だった。守護神アクセス中は通話できないため、それが彼女の優しさから出た方弁だとあっさりと看破できた。けれども、揺るぎないその目を見ていると、どうしてだか任せられると、頼りにできると思った。
 そうだよな、いつまでも子供じゃあるまいし。それなら自分も今日くらい、ゆっくりと羽を伸ばそうかと決めた。

「分かった。……ただ、流石にシンデレラみたいなのが出てきたら絶対連絡しろよ」
「分かってるわ。勇気と無謀は」
「違うからな」

 もう驕る時間は終わった。これからは前だけを見て一歩一歩昇りつめて見せる。自分の過大評価はしない。隣の誰かの過小評価もしない。背伸びはしないし、下ばっかり見ない。一段飛ばしや二段飛ばしなんてもってのほかだ。
 ただしその数時間後、王子はその両者を履き違えることとなる。それはきっと彼が、既に階段を数えきれない程の数、一足飛びに進んでしまったから。これ以下など無いほどの下層、守護神アクセスできなかった過去から、誰かのヒーロー足り得るところまで。地獄に垂れた蜘蛛の糸、それを掴んだ王子は、自分がスタートラインに立ったばかりだとは分かっていた。それが分かっていたからこそ彼は、誰よりも焦っていた。人生の周回遅れをしたような気分だった。
 近場に知君がいたというのも彼にとって、その背中を無理に押す追い風のように働いていた。その背中は、奏白達捜査官にとってもずっと前方をひた走っていると言うのに、これまで戦おうとも思えなかった王子が目指すにはあまりにも遠く、高すぎた。
 八時半ごろに署へと到着した真凜だったが、慌てて駆け付けた割には、ずっと待つことしかできなかった。というのも、現れたと思った守護神が活動しようともせず、力をあまり使おうともしていないようだったからだ。その近傍に何人かの捜査官を派遣しているけれども、目立った被害などどこにも無い。本当にアンノウンなフェアリーテイルがいるのか疑わしいほどに静まり返っていた。
 そもそも戦うつもりなど無いのか、漏れ出た瘴気を観測するその数値はやけに低い。数々の交戦時のデータにより、彼らを感知している数値は、戦闘時に上昇すると分かっている。逆に活動していないときは、あまりに数値が低く時として一切感知できない。こちらの世界に顕現してから長い時間が経てば経つほどそのコントロールが上達するようで、シンデレラも赤ずきんも、暴れ出すその瞬間まで出現位置など分かりそうにも無かった。
 そのまま待ちぼうけで、数時間。これでは休日とそれほど変わらない。ブラックのコーヒーを啜りながら、未だ消失せぬアンノウンの反応を真凜は見守っていた。同室の知君は子供らしくココアを啜っている。できるだけ彼に目線を向けないように、彼女はモニターばかり注視していた。
 ある瞬間、モニターに変化が訪れた。それまで動く様子など無かったアンノウンの気配、それがたちまち動き始める。正確な位置情報を特定できるほど情報は集まっていない。それゆえ大雑把な所在地しかつかめていないのだが、アンノウンが存在しうる範囲を示した赤い円形が、次第に移動し始めたのだ。
 どこに向かっているのかとよく観察する。知君はその進行方向が自分たちの学校を目指しているように見えた。何となく、嫌な予感がする。動きがあったため、出ても構わないかと確認するも、陽動かもしれないからまだ出るなとの声。待機の命令は、渦中のフェアリーテイルが能力を解放してからもずっと続いていた。
 きっと自分が出動するとなると後回しだろうなと彼にも分かっていた。常に琴割から、自分の身の回りの世話をしてくれる人たちから、絶対に許可が下りない限り人前で守護神アクセスを行うなと言われている。
 そして当然、今も許可が下りていない。基本的にフェアリーテイルが捕らえられた際にしか守護神アクセスなど許可されていない。この一か月、それ以外の事態で許可されたのなどそれこそアリスと戦った以外にはほとんど無い。誰かを助けるにはあまりにフットワークが重すぎる。これでは誰かの役に立つなんて、真凜から認めてもらうだなんて、近い未来には決してできはしないじゃないか。奥歯を軋ませる。
 僕には、人の役に立つ以外に、ここに居る理由なんてないと言うのに。
 倒れた守護神の毒気を抜き取るだけの作業。そんなもの、保健室の非常勤の先生と大して変わらない。居ない訳にはいかないけれど、傍目には居なくても構わないように見える。こんな宙ぶらりんな僕の存在理由は何なのだろう。
 おそらく破壊活動でも始めたのであろう、観測値の上昇した正体不明のフェアリーテイル。逸る気持ちを何度も隣の真凜から抑えられる。彼女も、周囲からまだ出るなと温存されている側の人間だ。何か被害が出てからでは遅いと言うのに。握った拳に力を込めて何とか耐え忍ぶ。
 だが幸いな事に、その反応はものの数分で消失した。急に霞のように消えてしまった新規のフェアリーテイルの反応消失。これでこの事例が起こるのは7例目かと同室の人々は皆神妙な面持ちである。流石に同じことが起こるにしても数が多すぎやしないかと怪訝に思っている風でもある。

「あら、そういえば」

 ここって、初めてフェアリーテイルの消失現象が起きた場所の近辺ね。そう、真凜が告げた瞬間に知君の表情が大きく変わった。目を見開き、何かに怯えるようにその瞳孔を揺らしている。それは決して、真凜が放った言葉が原因となっていた訳では無かった。何せそんな事など、言われるまでも無く知君は覚えていたのだから。
 ならばなぜ彼はそれほどに衝撃の色を露わにしたのか、真凜も彼の視線の先、大きなモニターの方に視線を移す。と同時に、「桃太郎」の三文字に目を丸くした。ここ一か月目立った動きなど何一つ見せていなかった初期に現れたフェアリーテイル。返り討ちにあった警察の数知れず、数人の死者まで出してしまった、赤ずきんと肩を並べる最悪のフェアリーテイルの一人。
 だが、そこまでもまだ驚愕の範囲で我慢できた。しかし、鳴り響くアラートが、その桃太郎が示す観測数値があまりに強い衝撃をこちらに与えてきた。
 その数値は別段戦闘能力と強い関連性がある訳では無い。シンデレラよりもその瘴気の観測値が大きな守護神は沢山いた。そのため、その数字がただ大きいだけならそれほど警戒する必要も無い。
 しかし、この観測値の大小に関して、別な特徴が既に割れていた。ある守護神一個体に対しては、その測定データが低い時よりも大きい時の方がより一層力を高めている状態であると。
 実測値が1000のシンデレラよりも、実測値2000のアリスの方が強いとは限らない。しかし、測定したデータが1000の状態のアリスよりも2000の状態のアリスの方がより凶悪に、強大な力を以てして暴れ回る。
 そして今回桃太郎が発していると思われるその数値は、これまで彼が一人で暴れてきた時と比べ、数倍にまで膨れ上がっている。
 一体、どうやってこんな強化を。そんなところに気を取られている真凜に知君は呼びかける。

「真凜さん! 早く……早く行かないと!」
「どうしたのよ、そんなに血相を変えて」

 慌てているのは真凜もそうであるし、その他の捜査官も全員だった。にも関わらず一番焦っているのは知君だった。と言うよりむしろ、他の警官はその桃太郎の反応が人通りなど無さそうな裏路地の辺りに出たことに少し安堵しているようだった。
 だが違う、知君は覚えている。あの場所には特別な意味が持たれることを。その出現値を見直した真凜も、目を丸くした。

「ちょっと待って……あそこって」
「一か月前……王子くんが、桃太郎と会った所です」
「と言うより、さっきフェアリーテイルの反応があの辺りで消えたわよね? それって……」
「だから急いでいるんじゃないですか!」

 血相を変えた知君が叫ぶ。その声に、多くの捜査官の目が惹きつけられた。ただ、その目は冷ややかだ。自分だけが何でも知っているような風に、慌てふためき、自分たちを置いてけぼりにしているように映る。一部の捜査官は、そんな知君に舌打ちを隠そうともしない。嫌悪を表すその仕草が、直接に知君の心を抉った。しかし今は、そんな事よりもあの現場に急行しなくてはならない。
 王子のことを周囲に漏らさぬよう、真凜は声を潜めて彼に問う。あそこに王子がいるのかと。

「ええ。でないと反応なんて、消える訳……」
「そしてそこに、桃太郎が現れた。でもどうしてこんなに数値が高くなっているの?」

 考えたくはないですがと言い置き、知君はその予想を口にした。彼の推測は、あまりに信じがたく思えたが、彼が言うからには本当のことのようにも思えた。

「桃太郎が……守護神アクセスを行っているからです」

 もしそうだとして私たちは、そんな強敵に勝てるのだろうか。背中を冷や汗が滑り落ちていく。けれども、あの場にはきっと、逃げられない一人の高校生が桃太郎と対峙していることだろう。
 行かなくちゃ、そう判断した真凜は、数秒後に出撃要請が下りるとはいえ、許可が下りるよりも早くに地面を蹴ったのであった。