複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.55 )
- 日時: 2018/05/03 15:45
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
王子が前線を離れた途端に、戦局は大きく傾いていた。父が手を血まみれにしているかと思えば、その掌を貫いた勢いそのまま、一本の矢がphoneを貫通していた。当然、守護神との接続は途絶えている。不味い。そう思う間もなく、フェアリーテイルは林檎を掲げる。濁流と評するのが何より似合っていた。洪水のような量も、あまりに強い毒気に濁り切ったその様子も、全てが相応しい。
間一髪間に合ったかと思った王子だった。すぐさま父と同様に、毒液の川の流れを操り、逆流させる。本人にぶつけても結局は無意味だとは分かっているが、それでも他にぶつけるあてはない。それなら術者本人に無害な水に戻させた方がよほどいい。
矢張りと言うべきか、指を鳴らすと同時に、腐りきった果汁は無臭の透明な液体へと変わる。ただの水となって王子が武器として使うこともできず、初めから存在しなかったように、また消える。
だが、それさえも陽動だと気づくのがあまりに遅すぎた。初めに『それ』に気が付いたのは、一分後の景色を見た真凜だった。付近一帯にどす黒い雨が降り注ぐイメージを彼女は見届けた。
そんな馬鹿な景色があってたまるかと、上空遥か彼方を見上げる。初めはその影を、誰もが小さな雲だと思っていたことだろう。しかし、違ったそこに浮かび上がっていたのは、果物と言うにはあまりにも巨大で、禍々しく、芯まで腐りきってしまったように真っ黒だった。かなり高い位置にあるため、詳細な大きさはつかめない。しかし、それでも半径数十メートルはあろうことがすぐに分かった。
顔のすぐ脇で白雪姫は、左手の指の腹を右手の平に叩きつけるように拍手を二度。同時に、熟した果実は妨害もできないほどの高みにおいて弾けた。中心から、中身が暴れるようにして皮の途中に亀裂が入る。あの中に入っているものが、これから飛散するものは、何であるのかなど、愚問と言わずして何と言おう。
小人の一人が、天高くに向かって、一射。光陰が一本、真上に向かって走る。尾を引いて天へと向かうその様子は彗星のようだった。腐ってぐずぐずになったような真っ黒な林檎の果皮を食い破り、貫通する。それを合図として、内部に溜まっていた腐蝕液は一気に爆散した。
晴天が破られ、一気に空が黒いドットで埋め尽くされる。次の瞬間を予知するまでも無く、周囲一帯……大勢の人を巻き込んで毒液が飛び散る様子が真凜にも、それ以外の者にも想像できた。
こんな広範囲の攻撃、一体どうすればいいものか。誰もが思考を止めたその時、甲高い少年の声が響き渡った。
「王子くん! 歌の力で浄化してください!」
いつの間にか前線を退いていた級友の指示。彼の指示ならば信頼するに値すると、条件反射のように王子は、体を蝕む病気や瘴気を浄化する歌を響かせる。毎度のことながら、自分の喉から女性の声が出るのは違和感がある。それももう、慣れつつあるが。
いつの間にか前線から撤退していたのは彼一人だけでなく、奏白も同じだった。おそらくは知君の策を聞いて即座に退避してきたのだろう。あの漆黒の雨をやり過ごすには王子の能力だけでなく、奏白の能力も必要なのだから。
王子が行使する人魚姫の能力が効果を及ぼすのは、その歌声を聞いた者だけだ。それゆえ、普通に能力を使用しただけだと届く範囲など限られている。だが、要するに声が届けばいい。声とは音なのだから、広範囲まで届くよう、奏白が、つまりはアマデウスがスピーカーになればよい。
あの能力がどの程度広い範囲に影響を及ぼすのかなど分からない。しかし、自分の能力圏の方がよほど広いだろうと奏白は判断した。半径2キロ、アマデウスであれば十二秒かけて行き帰りできる距離だ。摩天楼ひしめく大都会、それを包み込むように人魚姫の鈴のような歌声が鳴り響いた。どれだけ小さな物音でも、その音が掻き消えてしまわないように、維持し拡散させることができる。黒い雨に打たれるものの、体に変調を来たすより早く、その癒しの効力によりむしろ人々の身体には活気が満ちるほどだ。
「一か八かだったけど間に合ったな。さんきゅ、知君、王子」
「ええ……ギリギリでしたね」
「にしても、よく俺たちの能力で無効化できるって分かったな」
冷静に判断を下した知君の隣に並び、様子を確認する。またすぐにどこかに行ってしまわないように、声をかけた。
「ええ……。白雪姫から情報は取れませんでしたが、『人魚姫の能力であれを無毒化できるか』という情報を検索すれば、問題ないとの事でしたので」
事も無げにそう言うが、よくあの緊迫した場面、それも自分自身も小人と戦っていたであろうに思いついたものだ。流石だなと肩を叩くと、ふらりと少しその身体が傾いた。何事かと、背筋に走る恐怖。このまま倒れてしまうのではないか、吹き飛んでしまうのではないか、そう思うほどに軽くて、弱弱しい手ごたえだった。
ふらつく足で何とか知君は踏ん張る。呼吸が荒い、マラソンの後のように苦しさに喘いでいるかと思えば、高熱を出したように頭を押さえている。
大丈夫か、そんな短い言葉が胸の奥でつっかえた。明らかにおかしい彼の様子に、もはやいつ死んでもおかしくないとまで思えてくる。大丈夫かと尋ねて、否定されるのがあまりに怖かった。この場における希望など、誰から嫌われていようとも誰より強い知君くらいしかない。どれほど周りの捜査官が嫌っていようと、それは変わらない。
現状はどうなっているかともう一度王子は周囲を確認した。父は、phoneが壊れて戦線を離脱している。兄を含め様々な警官が交互に守護神アクセスを解き、即座に再接続。長期戦になっていた。誰の貌にも疲労が浮かんでいれば、このまま終わるのではないかと言う不安が隠しきれなくなっている。
まだ余力がある者といえば、奏白、真凜、王子くらいのものだろうか。そこに知君を含めてよいものだろうかと、横目で様子を窺う。周りの様子を気にかけていたのは知君も同じなようで、その瞳と目が合った。視線がぶつかると同時に、辛いだなんてすぐに隠して、また柔和に笑って見せた。
「大丈夫ですよ、僕ももう一度出れます」
「ほんとに出れるのかよ……って、お前口調……」
元の性格に戻っていないか。その問いが口に出せなかった。ただ、自分が閉口したその先の問いを彼も簡単に察したようで、「ばれちゃいましたか」と笑って頬を掻く。脳に全力で血液を送っているからか、彼は体全体の血行が悪くなっているようだった。カッターシャツから覗く腕はいつもよりも青白く、目元の血流が悪くなって隈が出来上がっている。
「いつもは完勝でしたから、こんなこと無かったんですけどね。……ネロルキウスの接続の許容時間、超えちゃったみたいです」
「おい、大丈夫なのかよ」
「ええ、こうしてピンピンしてますよ」
ただでさえ腕に筋肉なんて無いのに、力こぶを作ろうとする。そんな無理してんじゃねえよと、口に出したくて仕方なかった。けれども、彼がここで退けない理由が痛いほどに理解できた。一緒だ、こいつも。俺と同じで、後ろで見ている事なんてできないんだ。それを理解してしまったから、止めることなどできるはずもない。
ならせめて、調子を整えてから出て来られるようにと、退いた彼の代わりに前に立つと決めた。それは、以前桃太郎に対し慢心していた時のような無謀ではない。少しでも、友の負担を軽くしようという意志からだった。そんな時、王子くんはいつもより強くなりますからねと、信頼した眼差しでセイラはその後に従う。せめてここからは、私達が彼を護る番だと。今まで助けてくれた、その恩に報いるために。
けれどもやはり、庇われた彼は無理をするタイプの人間だ。休憩など必要ない。すぐさま二度目のcallingを始めようと、再び黒塗りの旧型端末を手に取る。指先に力が入らず、落としてしまいそうになる。両手で何とか握りしめて、取りこぼしたりはしなかった。
ただ、開こうとする手を誰かが阻んだ。ほんの少し手を添えるようにして上から押さえているだけなのに、それだけで知君の腕は御された。伸ばした手の持ち主を見る。霞んで、中心しか鮮明に見えなくなった視界に、真凜の顔が飛び込んだ。
- Re: 守護神アクセス ( No.56 )
- 日時: 2018/05/05 09:23
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
「止めなさい。そんなことしないで後ろに下がっていて」
「何で……止めるんですか」
「こんなに長時間守護神アクセスしていたの、初めてでしょう? 普段でさえあれだけの反動よ、どうなることか分かったものじゃないわ」
「問題ありません……。僕はまだ、出られます」
強がり、制止を振り切ろうとする彼に現実を突きつけるため、彼の額をほんの少しの力で押してやった。ふらりと体が傾く。恐ろしい勢いで地面が背後から迫ってくるような錯覚を覚える知君。歯を食いしばり、咄嗟に一歩退く。何とか転ばずには済んだようだ。それでも、得体のしれぬ浮遊感が押し寄せ、今度は悪心がやって来た。
「そんな体で?」
「……そうですよ、こんな体でも、です」
ここで退いてしまえば僕は僕じゃいられない。強い意志を込めて真凜の険しい眼光に真っ向から向き合う。今まで、どちらかが一方的に気圧されることこそあれど、二人がこうやって正面からにらみ合う事など無かった。どちらも退かず、譲ろうとしない、真っ向からの衝突。意見を主張したのは、小さな男の子の方だった。
「僕は……ネロルキウスの器になるために生まれてきたんだ。戦うために生まれてきたんだ、だからここで退く訳に行かない」
「そんな訳ないでしょう。そんな理由で生まれてくる子なんていないわ。そんなもの、ただの兵器よ」
貴方だって別の理由を持って生まれてきているのだと伝えようとした。しかし、その本心とは裏腹に知君はより一層眉尻を下げる。何でそんなこと言うんですかと、またどす黒い感情が、胸の内に。やっぱり僕は、人間だなんて認めてもらえないんですか、心の奥底、厳重に保管された真っ黒な箱。それは外から見えぬよう、中から外に飛び出さぬよう、無間の闇に包まれていた。しかし、度重なる心の傷のせいで、いつしか亀裂が入っていた。
亀裂から見えたその箱の中には、ずっと泣いている自分自身の姿。その姿は、今の自分よりもさらにずっと小さい、十年も前の姿をしていた。生まれたての赤ん坊と変わらないような、無菌で真っ白の、ローブみたいな服しか着せてもらえなかった、あの頃の自分。
泣くなという指示、そして全身に流れる電流の感触。トラウマじみた躾が蘇る。何も刺激なんて加わっていないのに、体が強張る。
「ねえ、この場は絶対に私達が食い止めるから。必ず誰も死なずに白雪姫を救ってみせるから。次、知君くんが目を覚ましたら、話をしましょう」
「……もう二度と、戦うなって話ですか?」
「違うの、もっと大切な」
「何でそんなことばっかり言うんだよ!」
彼女の声など、もう彼の耳に届いていなかった。ただでさえ消えそうな意識の中、ほとんど彼に残された知覚は、触覚とわずかばかりの視覚だけだった。
ずっと隠していた。
ずっと話せなかった。
ずっと一人で耐えていた。
言ったら嫌われると思って。
言ったら一人前になれないと感じて。
言ったら認めてもらえないような気がして。
だからどれだけ辛くて寂しくても一人で耐え忍んできた、のに。
結局、何をしても認めてなんてくれないんだったら、こんなの耐える意味が無いじゃないか。
真凜の目が怯えているのが分かった。けれども彼には、彼女が何を恐れているのか、何を忌み嫌っているのか真に理解することはできなかった。
砂漠の中で擦り切れてしまった彼の心はもう、雨を待つサボテンよりずっと棘に覆われていた。だってもう彼は、雨を待つ事なんて、とっくに諦めてしまったのだから。
「戦えない僕なんて、生きてる意味が無いんだ」
「ねえ、何言っているの? お願い、私の話を聞いて」
その声は、やはり届かない。目の前の女性が、悲痛に呼びかけている様子は見える。けれどももう、その声は彼にとって聞く必要などまるで無くて、むしろ聞きたくないだなんて感覚を閉ざしてしまっていた。
彼の脳の中における精神世界は、今度は洪水に見舞われていた。痩せこけた砂漠の大地を、一番深いところに居た自身の本音の人形が流した涙に洗わせる。
何も残っていやしない、ただただ虚無だけが訪れる。おそらくこれこそが、ネロルキウスという唯一の生き甲斐、生きている理由を奪われた自分の姿なのだと把握した。
今までずっと知ろうとしてこなかった、発信しようとしてこなかった本心が、次々と溢れ出る。この、本当の姿を、弱い心を晒してしまえば、今度こそ本当に自分は空っぽになってしまえるだろうか。
空っぽになってしまえば、もう寂しいとは思わなくて済むのだろうか。
ねえ、教えてくれよネロルキウス。肝心な時に限って、彼は何も教えてはくれない。
次々と、決壊した心のダムから彼の押し殺した言葉が漏れ出す。呼びかけ続けていた真凜もいつしか、彼のその言葉に黙って耳を傾けていた。
僕は、ネロルキウスの器となるためだけに生まれてきたから。
いざという時の武器として作られた命だから。
だから取り得なんて、戦うところにしか無いのだから。
戦場に立って初めて存在価値を示すことができるのだから。
そうでないと僕は、生まれてきた意味を見失ってしまう。
そんなのただのごく潰しに過ぎない。
僕がただ幸せに生きているだけで喜んでくれる父は居ないから。
惜しみない愛を注いでくれる母なんていないから。
僕の手を引いてくれるお兄さんはいないし。
優しく頭を撫でてくれる姉もいない。
慕ってくれる弟妹なんて、なおさら。
友達だけは、ようやくできたのかな。
だからそれだけで、満足しないといけないのかな。
仲間だって認めて欲しいだなんて、そんなこと思うのは……。
「そんなこと思うのは……兵器の……化け物の僕には、あまりに贅沢すぎるんですかね」
目の前の少年が、今までよりも一際明るく笑って見せたその姿を見て、ようやく真凜は先ほどの言葉が失言だったと悟った。
違う、そうじゃない。君が化け物だと突き付けるつもりで言った訳じゃないのに。そう言おうとしたけれど、次々湧き出る彼の言葉に、どれから否定したものなのか分からず、押し流される。
ただ、それよりも先に押さえるべくは、彼の手だった。ふと気を抜いた途端にいつの間にかphoneを開いていたようで、三度のコール音がすると共に彼女は我に返った。もうあと少しで、親指が発信ボタンにかかろうとしている。
彼の身体は、心は、もうこれ以上なくボロボロだ。今この場において、一番だと言って相違ない。怪我こそ何一つ負っていないものの。もっとずっと深刻だった。
だから、守護神を呼ばせる訳にはいかないと、彼のphoneに手をかける。一応アクセスさせないように間に合ったようで一度その手ごと自分の方に引き寄せようとする。けれどもその瞬間、彼が腕に力を込める。力がより一層強まった。力任せに引っ張るその腕力は、小柄で足取りもおぼつかない少年のそれとは思えない程だった。
鋭く、焼けそうな痛みが伸ばしていた手に走った。親指の皮が彼の手に引っかかったようで、めくれて血が出ていた。
もう一度、端末を持つ彼の手を握る。待ってほしいと懇願するように。
再び手を握りしめられた彼はと言うと、今度は硬直して動かなくなってしまっていた。ただ、その眼光は先ほどよりも力強くなったようで、興味深そうにじっと、繋いだ二人の手を見つめていた。
そのまま、何秒経ったのだろうか。伝わってくれたのだろうかと、安堵しかけた彼女の耳に、無感情で、冷たくて、効いたことのない知君の声が届いた。
「何でこんなに、冷たいんだろうなぁ……」
あんなに、暖かそうに見えたのに。王子達の様子を思い返す。あの二人の姿を見て、ずっと誰かと手を握ることは、暖かくて、心安らぐ優しい行為だと信じていた。冷え切った心を溶かしてくれるような、そんな暖かさがあるんだって信じていた。
けれども、怯えた瞳で彼を見つめる彼女のその手は、今の彼にとって驚くほどに冷たかった。
「やっぱり僕は、真凜さんの仲間には相応しくないんですね。ほら、こんなにも怯えさせてる」
熱い何かが頬を走るのを彼は感じた。一滴だけだった。けれども、その一滴に、自分の中の熱を奪い取られたみたいだった。頬に一本の線が入り、そこだけ火傷してしまいそうなほどに、涙と言うものは、熱くて苦しくて仕方なかった。
同時に、大事な何かが零れ落ちてしまったことを感じた。もうどうなっても構わない。本能のまま、力に身を任せて突き進んでみよう、と。
その方がずっと化け物らしいじゃないか。
「真凜さん、上から目線で心配するの止めてください、目障りです」
「目ざわりって、心配するのの何がいけないの」
判ってる。この退けない議論は、自分が敗北せざるを得ないことは。それでも彼女は抗う。目の前の少年にこれ以上負担をかけさせてなるものかと。
けれども、彼女の決意の僅かな残痕、それさえ全部拭い取るように知君は牙を向き、噛み付くばかりの勢いで吠えたてた。
「五月蠅い煩いうるさい! だって心配するのなんてお門違いじゃないか! 僕のこと、大切だなんて思ってないくせに!」
「えっ……」
そんな事ない。大切だとは思っている。君だって、自分にとって護りたい者の一人だと。いつかは君すらも助けられる人になりたいのだから、と。けれどもそんな事告げる暇もなく、知君は畳みかけた。
「仲間だなんて認めてくれないくせに!」
一体私はこの三か月、何をしていたのだろう。
私はこの三か月で、一体何を見ていたのだろう。
何を伝えられていたのだろうか。
初めの一か月、彼女はずっと彼にいら立ちを全てぶつけていた。自分の不甲斐なさも、周りの者への嫌悪感も、無実の彼に全部押し付けて、辛い思いをさせ続けてきた。けれどもずっと笑っているこの子は、無神経なのかなんて思ったりもしていた。
転機が訪れたとしたら、アリスを検挙したあの日だ。あの日彼は、自分を救ってくれた。守ってくれた。誰より強い力を初めて示してくれた。今思えば、あの日が彼の事を認める、最初の機会だったように思う。けれども真凜は、そのチャンスをあっさりと棒に振っていた。ネロルキウスに支配されたような彼の姿が、恐ろしくて仕方なかったから。
助けてくれてありがとう、なんて結局伝えられていなかった。絶対、言い損ねてはいけない言葉だったのに。
二度目のチャンスがあるとしたら、壊死谷の一件だろうか。彼の言葉で、彼女は以前よりずっと強くなれた。壁を打ち破れた。でも、彼のおかげだなんて認めるより先に、結局成長の優越感が来た。壁を一枚乗り越えたことに、満足してしまった。いつかは彼より先に進めるだなんて、傲慢にも考えて、より一層彼を後ろに置こうとした。
彼に突き付けられた、怯えた目をしているのは事実である。だが、彼女が怯えているのは知君本人でなくて「優しくて、護りたいと願う、誰より強い彼が失われてしまう事」だったのに。伝えるのを怠っていた。
そんな事ばかりだった。内心では、彼の事を忌むべき邪魔者ではなく、大切な者の一人だと見始めたというのに、何も彼に伝えていなかった。
だって、何でも知っている彼なら、それぐらい察してくれていると思っていた。
それだけではない、いつだって明るく振る舞う彼は、傷ついていないと思っていた。どんな態度を取られても、前向きに取り掛かるその姿勢から、辛さなんて感じていないと思っていた。子供だったら、辛かったら吐き出すだろう、って。
けれども忘れていた。彼が誰よりも優しくて、誰よりも強い心を持っていることを。子供だからこそ、大人に弱みなんて見せられないのだということを。そして何より、自分たちは彼が心を開くには、あまりに冷酷な人間だったことを。
分かってくれていると思っていたのも、彼ならどれだけ辛くても、精神が成熟しているから大丈夫だなんて思い込んでいたのも、全部自分の怠慢だ。そんな訳ないのに、まだ子供に過ぎないのに。
伝えなくちゃ、今度はちゃんと。誤魔化さずに。彼が本当に望んでいる言葉を。
君は、私にとって。
だが、伝える間もなく、知君は真凜の手を振りほどいた。俯いてしまったせいで、もうその目を見ることなんてできやしなかった。
「待っ……」
もう、止められなかった。彼女を絶望させる、たった一音の電子音が鳴り響く。
すぐ近くで聞こえているはずの、白雪姫たちと戦う喧騒があまりに遠かった。目の前にいるのは本当に知君なのかと疑うほどに、冷たく、感情のこもっていない声。
どうして、こうなってしまったのだろう。私は、彼にこれ以上傷ついて欲しくなんてなかったのに。そうやって後悔せども、もう遅い。戦場に立つなんて、あの獰猛な性格を強いらせるなんて、絶対に嫌だったのに。
彼の事を一番に傷つけていたのは、他ならぬ私だったんじゃないか。
「もう一度だ! 来てください、ネロルキウス……!」