複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス【File8・完】 ( No.59 )
日時: 2018/09/11 11:52
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

 耳を疑った。仮にも市民を守る警視庁、その統監たるこの男は今、何と命令した。知君を殺せ、そう口にしたのか。ネロルキウスを鎮めるためだけに、何の落ち度もない高校生の息の根を止めろと、そう言ったのか。一人、少し離れた位置にいる真凜は、ようやっと体が動くようになったことに気が付いた。
 近くに無造作に転がっているスノーボードを手に取り、すぐさま飛び乗る。早く行かなきゃ、疲れた体に鞭打って、一秒でも早く。幸いなことに、彼らは誰一人動いていない。充分素早く移動していると言うに、その数秒間がもどかしかった。次の瞬間、奏白が知君を背後から殴りかかるかもしれない。王子がセイラと共に攻め入るかもしれない。それなのに、その場に居合わせていられない自分が、どうしても嫌だった。
 あの子を死なせてなどなるものか。あの子が、あの子にとって大切な人の手にかかって殺されるだなんて、そんな不幸な未来などあってなるものか。それじゃ、あまりに報われない。彼が今まで、わが身を賭して自分たちを守ってくれていたのは、決して彼らに殺されたいからなんかじゃない。
 きっといつか、そうしていれば受け入れてもらえると、信じて疑っていなかったからだ。いたいけな少年の、そんなあどけない願いにこたえられなくてどうするんだ、信頼にこたえられなくてどうするんだ。
 これまでずっと、真凜は彼のことを仲間だなんて見ようとしてこなかった。守るべき一市民として見てきた。ならここで守らずして、どこで守るんだ。その誓いを、都合よく今だけ切り捨てる訳にはいかない。
 そうこうしている間に、局面は動こうとしていた。けれどもそれを何とか抑えてくれていたのは、王子 光葉だった。

「待ってくれよ、何で知君が死ななきゃいけないんだよ」
「ずっと前から、あいつが言ってたんだよ。もし僕がいつか暴走したら、被害者が沢山出る前に、殺してくださいね、って」

 約束したんだ。重い口調で奏白はそう諭すように呟いた。諭す相手は、王子というよりも自分自身といった色合いが強かっただろう。何せ彼は、警察の人間で唯一、知君のことを最初から仲間だと認めて歩んでいた者だから。だからこそ、ここで最も知君を始末することに抵抗を感じているのは自分だと信じて疑っていなかった。

「でも、それでも……! 何であいつがっ」
「いいから! あいつが、そうしてくれって頼んだんだよ。仕方ないだろ、自分のせいで苦しむ人なんて見たくないって言ったのは、他ならぬ知君自身なんだからよ」

 他者を傷つけるぐらいなら、命ぐらい捨てる。そんな覚悟、ずっとあいつはしてきたからと奏白は主張する。

「あいつが、誰かの犠牲の上に帰って来て、喜べる訳無いんだ、だから」
「ここで、仕留めるしか、ないってのかよ」

 それが本人たっての望みと言うなら仕方がないのか。やりきれない思いを抱えたまま、彼もまた決意と共に友人の姿を見た。誰かを思いやる心に溢れた、慈愛という言葉を誰より体現しているような男。級友でもあるというのに、どこか尊敬までしているその男を、今からこの手で討たねばならない。その現実が、二か月前まではただの高校生に過ぎなかった彼にとってはあまりに重たかった。
 確かに、これだけ派手にやらかしてしまえば、戻ってきた知君が笑顔になるとは到底思えなかった。覚悟を、決めるしかないのか。だが、そんな彼の前に虚像でしかない人魚姫が立ち塞がる。そんな事をしちゃいけないと、かぶりを大きく振って否定した。

「駄目です、そんな事しちゃ。王子くんの心が耐えられません」
「大丈夫だよ。今まであいつが耐えてきたのと比べたら、これくらい」
「いいんですか、そんな簡単に諦めて」
「でも、こうするしか!」

 臨戦態勢に入っているのは何も二人に限った話では無かった。当然、誰を差し置いても孤立したネロルキウス……に乗っ取られるままの知君もそうであるし、後ろで控える太陽たちも同様であった。最高位の上司による至上命令、それも今まで忌々しく思ってきた者を屠る仕事。
 それなのに、どうしてここまで心が痛む。そんな理由、これまで知君のことを疎ましく思っていた彼らにも、すぐに分かる。本当は気づいていた、彼と言う人間がどれだけ大きな存在であるのか。それなのに、どうして今まで傷つけることしかしてこなかったのか。何より太陽にとっては、弟の言葉が突き刺さっていた。
 普段は嫌いってことだろ。そうだよな、俺みたいな歳になっても、嫌われるのは願い下げだ。それなのに。「俺たちまだガキなんだからよ」って、言われないと気づけなかった。どれだけ細いその肩に、どれだけ重たいものを乗せてきたのかを。
 ならここで、彼の望み通り終わらせてやるのが正解、であるはずなのに。どうしてこんなに、寝覚めが悪い。結局のところ自分たちは彼の望みを叶えてやることが癪に障ると言うのだろうか。

「おい、早くせえ。待っとったらこっちがお陀仏やぞ」

 不思議と、ネロルキウスは好戦的な目でこちらをねめつけてはいるものの、返り討ちにしようと踏み出してくることは無かった。不思議な事だと訝しむが、こちらの出方を伺っているのだろうかと琴割は判断した。彼にとってこの対策課も使うべき駒の一つとして捉えているからこそ、できることなら壊したくないと思っているのだろうな、と。
 だが、その予測は見当違いであった。まだネロルキウスが仕掛けてこない理由に気づいているのは、この場においては真凜一人だけであった。戦場に一陣の風が吹き抜ける。猛スピードで宙を駆け抜けた一人の女性の影走る、それゆえだ。
 今にもその場に居合わせた捜査官は全員、仕掛けようとしていた。しかし自分たちより一足先に空を裂くように飛ぶ、その姿に足を止めた。残る全ての捜査官達を置き去りにして、彼ら全員と向かい合い、知君を庇うようにして彼女は立ちはだかった。
 その行動は、あまりにも意外だった。一番驚いていたのは奏白だっただろう。何せ立ち塞がった彼女は、彼の中では最も知君を庇いそうにない人間だと思っていたからだ。
 急ブレーキをかけた反動で、彼女の長いポニーテールがゆらゆらと揺れた。ボードから降り立ち、正面に並んだ数名の捜査官と、人魚姫の契約者を睨みつける。その気迫に、誰しもが気圧された。二人の高校生を除いた、捜査官の中では最年少の女なのにも関わらず、その表情には鬼気迫るものがあった。
 怒っているようで、でも泣きたいようでもあって。そして何より、誰かの真似をするように、何とか笑顔を作ろうとしているみたいで。何に似ているのだろうか、あの表情はと考える。そうか、あの様々な感情が、ない交ぜになったような表情は、般若の面に似ているのだ。

「ねえ、皆何してるの……?」

 震えた、今にも泣きだしてしまいそうな声。喉からようやっと搾り出したようなその声を耳に資、誰もがその戦意を失ってしまった。

「ねえ、皆、何でそんな事できるの。ここまで……事件が解決してきたのは誰のおかげなの?」

 私にはできない。強く、何より強く、彼らが決めた覚悟よりもずっと強く、彼女は己の決意を主張する。けれども、強い口調で仕方が無いんだと奏白は反駁した。

「仕方ないだろ、あいつたっての望みなんだから!」
「仕方なくなんかないわ。今まで、何のために戦ってきたと思ってるの」
「……治安統治のためだろ」
「揚げ足取られないようにって、難しい言葉わざわざ使わないで」

 人々を護るためでしょう? 真凜は確認するように問いただす。図星だと言わんがばかりに目を背けて、奏白は頷いた。あまりに真っすぐな、彼女の瞳なんて、今の自分には見ていられなかった。

「何でその枠の中に、彼の事を入れてあげられないの?」
「入れてえよ」
「入れたらいいじゃないっ……」
「仕方ねえだろ、知君は大事でも、今のあいつはただの暴君なんだからよ」

 あれは、俺たちの仲間の皮を被っているだけの悪人だと奏白は断言する。
 だが、そんな言い訳を真凜は許容しなかった。

「じゃあ、ここにいる彼を始末してみる? そしたらどうなる? 身体を操っていた守護神は無事に異世界に帰って、本当に死んじゃうのは被害者の知君くんよ?」
「うるせえな、分かってんだよ」
「ええ加減にせえよ、真凜。一刻を争う一大事なんやぞ、そこにいる化け物片づけるんは」
「化け物なんかじゃないわ」

 ここにいるのは、ただの一人の、十代の男の子だと彼女は言う。怖くも何ともない。彼の危険性を主張するどの声よりも確固たる信念を持って主張する。彼が、人を傷つけられるはずが無いと。

「強情張っとる場合か。そんな言うなら未来予知でもしてみろや。散々な結果が出るじゃろうがな」
「そんな事する必要なんて無いわ」

 そう言うが早いか、挑発に乗るように真凜は、あっさりと守護神アクセスを解除した。宙に浮いていたボードがカランと音を立てて地に落ちる。彼女の身体を纏っていたオーラはたちまち霧散して消えてしまった。
 一体何をしているのかと、彼女の行動を目にした彼らはそのまま一様に目を丸くし、あんぐりと口を開けた。何をしているのかと叱責する声も上がる。殺されるぞ、そんな注意すら。
 けれども彼女自身はそんな忠告に耳を傾けない。傾ける必要などない。何せ彼女は、後ろに控える少年のことを信用しているのだから。
 メルリヌスの能力なら、己がどう発言するかに依り彼らがどのように反応するのか予知することによって、最適な回答を用意することができる。それゆえ、無難な答えを用意することはいくらでも可能なのだ。
 しかし、それでは意味が無い。そんな、おっかなびっくり、ずるをしながら言葉を交わしても、彼の心には響かないと彼女は分かっていた。だから、そんな卑怯な真似をしないよう、していると疑われないように守護神アクセスを自ら解除した。これから口にするのは、私自身の本当の気持ちなのだと示すために。

「やめろよ真凜、意固地になんなよ。最後ぐらい、あいつの希望に沿ってやれよ」
「ふざけないで。皆何も分かってない」
「俺よりお前の方が、本当に知君のこと分かってるってのかよ!」
「ええそうよ、兄さんは、上っ面だけ見て、可愛がって……理解してあげようだなんて思ってないわ」
「お前も一切そんなことしてこなかっただろうが」
「そうね……。でも、さっき人魚姫に教えられてようやく、見てあげようって決めたのよ、その本心を」

 仲間だったら、そのお願いを聞き届けて、安らかに死なせてあげなければならない?
 そんな理屈、馬鹿げているわと彼女は切り捨てた。
 これまでの罪滅ぼしとして、最後に大義ある終わりを迎えさせてあげる?
 そんなものただの自己満足よと、奏白以外の者を叱咤した。

「結局そんなの、面倒なものを切り捨ててるだけ。反省なんて何もしてない。結局のところ、自分たちが楽になりたいから、彼を消すことで安心しようとしてるだけ」

 本当に申し訳ないだなんて思っているのなら、生きている彼に詫びなければならない。これまでの言葉を、仕打ちを、視線を、態度を。それからようやく始まるのだ、彼に応えるための新しい日々が。これまで多くの人を救ってきた彼を、幸せにしてあげるだけの日々が。

「知君くんね、まだ高校生なんだよ。死にたいなんて、思える訳ないじゃない。ねえ、考えてよ。彼ね、今までずっと、本心なんて誰にも見せないように、って過ごしてきたんだよ。何で、死にたいだなんて言葉が、本心だなんて思えるの。認めて欲しいなんて我儘言わずに、辛いだなんて弱音を吐いてこなかった彼が、自分を殺してくれだなんて残酷な本心だけ、口にする訳ないじゃない」

 助けてください、なんて彼が言える訳ないじゃない。彼女の発したその言葉が突き刺さる。

「ねえ、頼まれなかったら皆は助けようとしないの? そうじゃないよね。だって見たら分かるわ、彼の心はあんなにも助けて欲しいって叫んでる。口に出さないのは、自分を助けるのにはきっと、多大な犠牲を必要とすると思い込んでいるから」

 自分の命よりも、ずっと価値のある別の命が散らされては堪らない。それゆえ彼は、一人で抗い続けるのだ。それなら自分が死んだほうがましだなんて。そう思っても仕方ない理由を彼女は確信していた。
 彼の中ではきっと、知君 泰良という人間に、価値は無いのだと。
 そんな事無いって教えてあげなきゃいけない。他の誰でもない、この私が。

「知君くんだけじゃない、ここにいる全員に教えてあげる。貴方にもよ、ネロルキウス」

 そこでようやく、彼女は振り返り、ネロルキウスと目を合わせた。かつてあんなに恐ろしいだなんて思っていたのに、今は簡単に向き合うことができた。何故かなんて、問う必要も無い。答えは簡単だ。これは、剣を手にしていないだけで、大切な誰かを護るための戦いなのだから。
 今の彼女の背に隠れた護るべき人影はたった一つしかない。けれど、そのたった一つが何よりも重たかった。強く塗り固めた壁の中に、誰より脆い心を抱えた、本音もろくに口に出せない弱虫な少年。檻に囚われた彼を、救い出さなくてはならない。
 ノアの箱舟から飛び立った、鳩のように。貴方は自由に空を飛ぶように、生きていていいのだと。

「私がこれから見せてあげる。全知全能の力を持っていても知ることのできない、誰かを幸せにするための方法を」

 それはネロルキウスに対する宣誓だった。お前から必ず、彼を取り戻して見せると言う、硬い決心。
 さっきは拒まれてしまったけれど。自嘲気味に彼女は笑う。さっきは、照れくささかプライドからか、言葉を端折り過ぎたから、仕方ない。だから今度は、恥ずかしくたって赤裸々に、想いを伝えようじゃないか。
 私と君とで、大切な話をしよう。その言葉を、知君の意識が戻ってくるまで、一旦彼女は胸の内にしまっておいた。