複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス【File0・開幕】 ( No.66 )
- 日時: 2018/05/14 22:47
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
どこまでも清潔で、どこまでも汚れの介入しない、そしてあまりにも冷たすぎる白塗りの部屋にて少年は泣いていた。あまりの苦悶に耐えかねて、声とも思えないただの嗚咽を垂れ流している。体が荒ぶるままに任せるその呻き声は悲鳴と呼んで差し支えなかった。まだ五歳だというにその少年は、首を起点に走る電流は、細胞が死なない臨界間際のものであった。
身体こそ耐えられる痛み、しかし幼い精神はその痛みに耐えられない。何とか大声を上げることで意識を保っているものの、理性は電流にショートして焼き切れていきそうになる。僅かばかりの気力を振り絞り、音だけが声帯から放たれるだけに、苦し紛れの懇願を織り交ぜる。
助けて、もう止めて。そんな言葉ばかりだ。悲痛に喚き、表情筋を歪ませる。しかし相対する研究員はというとあろうことか、その申し出を聞き入れない。それどころか厚手のゴム手袋を着けたうえで、男児の柔らかそうな頬を勢いよく引っ叩いた。
元々立っているのがやっとなくらいにふらふらであったのに、頬を張られた勢いそのままに彼は肩から転んだ。そのまま、絶え間ない電流のせいで海老のように仰け反ってしまう。
「その口の利き方は何だい?」
分厚いレンズのその向こう、低く窘めるような重たい声音で、研究員は少年に問うた。君は自分が何と口にしたのか分かっているのかと。途切れることの無い責め苦に、もはや痛覚が麻痺しつつある少年は、ただ涙腺から零れ落ちる雫が床を濡らすのを眺めながらひたすらにごめんなさいと許しを請うていた。
返事が無いのが怖くて、自分の謝罪など届いていないのかと不安になって、白衣纏ったその男の顔色が変わるまで何度も何度もごめんなさいの六文字を繰り返す。
「助けてください、『じひ』を下さい。僕が全部悪かったんです」
意味も分からず無理に覚えさせられたその言葉、それが許しを求める言葉だとは分かっていた。慈悲の意味も知らないまま、無機質な男にひたすらに懇願し続けた彼は、ようやく満足した様子の彼から解放された。
勿論この男に嗜虐的な趣味は無い。単純に、この個体はそのように躾けなければならぬと決められているだけだ。「助けてくれ」「許して」「謝るから」そんな言葉づかいは彼には許されていなかった。助けて下さい、許してください、僕が悪かったです。そんな風に、相手を敬う様な言葉遣いをしない限り、反省の色無しと攻め続けなければならない。
これらは全て琴割が決めたことだった。ネロルキウスの能力はまさしく、世界をその手中に収めるような力。だとすれば、一般的な道徳感を持った人間に持たせるわけにはならなかった。どんな人間よりも清く、正しく、優しく、そして自分等に支配者たる価値は無いと思い込ませなければならなかった。
あまりに強固すぎる、子供向けアニメのヒーローのような道徳心。ぶれることなく他者のためだけに力を振るえる、自殺にも似た自己犠牲の精神。それを養うには、多少人道に反する方法を用いねばならぬと琴割は判断した。それゆえの、教育。自分の利益のために他者の損害を考えないような人間にせぬよう、彼が道を違えた際には容赦なく電流を流した。
少年がその焼けてしまいそうな電気の痛みに慣れることは決してなかった。毎日のように浴びているというに、毎度彼はその拷問を初めて受けたかのように大きな拒絶を示した。当然だ、琴割が痛みに慣れることを拒絶してしまったのだから。
如何にネロルキウスの器とはいえ、契約前の状態では超耐性を得ることはできない。契約されてしまえば琴割の能力も効かなくなってしまうが、それより以前ならば超耐性も関係ない。
まずは自分の価値があまりに低いと思わせる教育を優先した。敬語という概念を覚え込ませ、敬語でしか話してはならないと教育した。世の中の全ての人間はお前よりもずっと優れているのだと、ずっと世界に貢献しているのだと。お前が一番世界でも最下層に位置する人間なのだと。だから例え相手がどのような人間であっても、彼らを敬う言葉で話し、彼らの幸福のために努めろと言われ育てられた。
それがこの頃の彼だ。教育が始まって大体一か月程度。痛みで無理やりいう事を聞かせるこの方法は、少年にとっては皮肉にも、大人たちの望むとおりに進んでいた。初日なんて起きているほぼ全ての時間において通電しており、食事すらまともに取れなかったというに、今や一時間の内ほんの一分ほどの通電で済んでいた。最初は年頃の子供らしく、やめてだの何だの一しきり叫んだ後に、やめろ、何でこんな事するのだの口にしていた彼も、この頃は自分から率先して止めて下さいと口にするようになっていた。
それどころか、教えてもいないというのに研究者達を労う言葉すら言い始めた。「いつもご苦労様です」「僕なんかのために毎日ありがとうございます」「みなさんのおかげで今日も僕は生きていられます」なんて。ただ嬲っているだけにしか思えない彼らにとって、少年の無垢な笑顔は毒だった。この教育が非人道的な事だという認識から目を背けるため、大人たちはいつしか無表情の仮面を貼り付けて少年と接するようになった。
少年がすんなりと初めの教育を思い通りに修めたため、担当官の面々はホッと息を撫でおろした。大体半年程度のことであった。合格条件は、一週間の間、不条理な目に合わされ続けても、抵抗も反抗も無く、世の中への敬意を忘れない事。要するにこちらから何をしようと電流を流されないよう彼が振る舞い続ければ次へ進む、というものだった。
急に殴ろうと、夕食を奪おうと、暴言を突きつけようと、何をされても五歳から六歳になろうという知君にはもう、顔色一つ変えず笑顔のまま耐えられる代物となっていた。
ただその頃には先に、職員の方の心が壊れていた。彼を人間と扱ってしまったら自らの行いに本心から悔い、すぐにでも手を差し伸べてやりたくなってしまうから。だから彼らは一様に、幼い知君のことを人間として見るのをやめた。これはマウスと何も変わりない、検体に過ぎないのだ。
かくして大人たちは、知君が望み通り成長しても、夏休みの宿題で育てるべき朝顔が毎日すくすく背を伸ばしている程度の感慨しか持たなくなった。そうして、躾という名の、都合いい人格形成が進んでいった。
次に教え込んだのは、他者を労わる優しさであった。これは座学の要領で教えた。まずテストを行い、その場その場の行動が本当に他者のためのものであるのか、自分の事をちょっとでも優先したりはしていないだろうかと、人類の行動を研究している学者と意見を交換する形で毎日議論し、成長した。電車では席を譲るべき、だが誰に優先して譲るべきであろうか。身重の女性だろうか、足腰もまだ達者なご老人だろうか。はたまた松葉杖のお兄さんだろうか。様々なケースを想定し、簡単に表面上の情報だけで判断してしまわないようにと、知君は学習した。彼自身充分に心優しく聡いところもあるようで、子供らしいが、大人には気が付けなかった意見に学者の方が学ぶこともあったのだという。
優しさも身に着けた彼、次に修めたのは正しさであった。正義とは何か、悪とは何か。相手が悪ならばどうすればいいのか。そういった事柄を、今度は琴割と一対一で議論した。世の中で最も低い価値を持つのは自分だと教育された彼だったが、この教育と共にそれは違うと否定された。真に価値の無いものは他者に迷惑をかけたものだと。
世間に逆らい、正義に反逆の牙を突き立てた者。犯罪者や極悪人といった連中には文字通り価値など存在してなるものかと伝えた。しかし少年はというと頑なに、犯罪者たちにも尊重せねばならぬ分野もあるはずだと主張した。最初の教育を過激にし過ぎたかと琴割は頭を抱えたこともあったが、逆によい兆候だと捉えることにした。この調子ならば、知君の人格はネロルキウスの能力を悪用することは無いだろう。
価値観の側から善悪を教育するのを避けた琴割は、逆に優しさの側から善悪を飲み込ませることにした。優しくて、悪いことをしていない人間が酷い目に合っていればどうするか。そう尋ねれば、少年は助けますと迷わず一息に応じて見せた。
多くの人が困るような悪事を為す者がいれば、価値のあるなしに関わらず止めなければならない。そして間違った道を進んだ人間を元の道に戻してやらねばならない。それこそが、真に平和で穏やかな世界に直結するのだと琴割は語った。
元来彼自身も正義を愛する人間だったのが大きかったのだろう。その本心からの言葉は作り出した器たる少年の心に響き、彼が望む通りの精神的な成熟を促された彼の人格は完成したのだ。
そして計画は最終段階に突入した。知君には、この時代における最新型のphoneが手渡された。真っ黒な、二十一世紀初頭、スマートフォンが流行する前に人々が利用していたガラパゴス携帯の形を参考にしていた。というのもこの頃のphoneは嫌が応にも、基盤の大きさを大きくせねばならず、スマートフォンのように薄型にすることはまだ不可能だった。
それゆえせめて折り畳み式にしようという技術職の者と、当時守護神アクセスをcallingと呼んでいた洒落っ気から携帯電話の形を模した代物となった。現代における、スマートフォン型のphoneに関しても、機能を追加したうえで、その端末の正統進化を表現するためにその形になったと言っても過言ではない。
現代の話はさておき、琴割や他の職員が厳重に監視するその中で知君初めてのcallingが行われようとしていた。それから起こる悲劇など、誰も知るはずもなく。当然ネロルキウスがどのような人格をしているのかなど、契約者となる知君すら分からなかった。守護神を略奪できるなどという能力、ジャンヌダルクさえ知らなかった。
何せ守護神を奪うというのは、ネロルキウスが他の契約者と出会って初めて奪うという発想が出てくるのだから。現世に現れたことの無いネロルキウス、それゆえ赤の他人の契約者から守護神の能力、その行使権を奪い取る力など、誰も知る由なんてない。
衆人環視のもと、弱い十の知君は、初めてphoneを開いた。傷一つない、ピカピカの画面と目が合った。今みたいに0や1だけすり減ったものでなく、まっさらなボタンが規則正しく並んでいる。
琴割から使い方の説明を受け、それをなぞるように手順を追う。まずはネロルキウスの番号を入れる。ゆっくり、一つずつ、確認するように入力する。ピッ……ピッ……ポッ、無機質な電子音が響いた。ついにこの日が来たかと他の研究者も息を呑んだ。あの頃はまだ髪も真っ黒だったのに、今や白髪交じり、顔には皺が浮かんでいる。
こうして、報われる日がようやっと来たのか。そう思えばこの二十年近い月日が無駄では無かったのだと、充足感が胸を満たす。早く、早くその成果を見せてくれ。固唾を呑んで見守る中、最後に琴割が彼と言葉を交わす。
「ええか知君、お前は将来警察になるために生まれてきてんぞ」
「はい」
「警察って何のことかわかっとるか」
「琴割さんが統括している、日本の治安を維持する組織です」
「つまり何や」
「揺るぎない正義に他ありません」
「そこに属するために生まれたお前はどうや」
「紛れもなく、正義の遣いです」
「上出来や」
最後に左上のあたりの通話ボタンを押せば『奴』が現れる。そう言い残し、踵を返した。研究者たち同様に、少し離れた位置へと戻り、もう一度振り返って知君の方へ向き直る。
まだ幼かった少年は、今一ピンと来ていなかった。この小さな機械を使うだけで、特別な誰かと出会うことができるなんて。その人から力が借りられるだなんて。そして自分はそのために生まれ、あの教育を受けてきたのだと。
という事は、この困難な教育を大人たちが授けてきたのも、ここに収束するのか。それは理解できた。ここで自分が言われた通りにやり遂げることができれば、彼らは喜んでくれるのか。そうと決まれば彼は、最後の扉を開けるがごとく、発信した。
不運なことに彼は、生まれつき最低の環境にいた。自分が壊されていると、気づかせてすらくれない環境に。彼はもう、とっくに人間として壊れていた。自分の幸せを求める技能を失ってしまっていた。
彼の倫理観は、完成しているようで、何よりも最初に粉々に磨り潰されていたのだ。この日を迎えるまでの十年間、彼が受けてきたのは間違いなくただの虐待と洗脳であったというのに。彼にとっては、躾と教育と信じて疑っていなかった。
優しくて、思いやりがあって、誰かのために戦うことができる。自分よりも他者のために力を尽くせる、心の強い少年。そんなもの、ただの詭弁に過ぎない。
言い換えるなら、意志が弱く、他人の顔色を窺い、自分のことを何一つ気にかけない。他者にどれだけ己の利益を脅かされようと、へらへら見届けていることしかできない、ただの自己犠牲家の死にたがり。
そんな彼が、ネロルキウスに対抗などできる訳が無かった。当然だ、ネロルキウスが欲するのは知君の身体、それは知君にとって、護るべき大切な存在の中に入っていないのだから。
科学者達はいくつも過ちを犯していた。自分たちの検体は、実験動物ではなく同じ言語を用いる人間だという事を失念していた。ネロルキウスの器にするならば、己をも労われる強靭な意志を優先して作り上げるべきだったのに、それを怠った。
そして何より、最上人の界を統べる王を侮りすぎていた。そこに住まう守護神は、アマテラスにゼウス、オーディーン、アレクサンドロスにヤマトタケル、あらゆる名声を得たそれぞれ当時当地、あるいは神話の最高権力者であるというのに。彼らを統べている王こそがネロルキウスだというに。一介の島国、そこに住む『支配される側』の猿に過ぎないというのに、どうして御することができたつもりでいたのだろうか。
だから、仕方なかったのだ。初めて呼びだした彼が、そのまま暴走したのは。