複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.80 )
- 日時: 2018/05/31 15:58
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
「僕は……僕に……どうしろって言うんですか」
方法は一つも無い、という訳では無い。一つだけ道は残されている。しかしその手段に走ってもいいものだろうか。この最後に残された一手はいわば何が起こるか分からない諸刃の剣。吃驚箱だなんて生ぬるい。災厄ばかりが溢れ出す、パンドラの匣。
思い出せと、知君はおもいきり首を横に振る。何度この力で辛い思いをしてきた。何度この力に泣かされてきた。そして何回……この力で、誰かを不幸にしてきた。迷惑をかけた回数はどうだ。落胆させたのは何度だ。
できない。彼には、できなかった。その扉を開いて細い綱を渡る覚悟が。何せ彼は踏み外し続けてきたから。奈落の底へと意識が沈んだ回数は何十回と重なっていた。言うなれば彼の意識が仮死状態に陥った経験は、数十にのぼるのだ。一生の内に、成人すらしていないのに彼はもう数十回も死んでいる。
そんな彼がどうして、再びネロルキウスを呼びだそうなどと思えようか。ネロルキウスを呼び、事態が好転する保障など何処にも無い。むしろ悪化する可能性まである。その力でドルフコーストの能力にかかった人々を助け出せる確証は何処にある。
そうやって厳しい現実から逃避して頭を左右に振り続ける様子に、結局能力が効果的なのではないかと見当違いの笑みを浮かべた。知君を殴打したことで罪悪感に囚われ、再びその暴力的な激情を押さえ込むことができた奏白は、再びその重すぎる鈍痛に抵抗していた。
「いいから知君……人ごみに逃げ込むだけでもいい。できることなら……下に行け」
誰もいない部屋に閉じこもって、助けが来るのを待ち続けろ。俺から言えるのはそれが最後だ、なんて掠れるような声で。
「奏白さんは……ここの人はどうなるって言うんですか!」
「だったら誰がどうにかできるっていうんだよ! 全員助からねえより、お前一人だけでも、逃げ延びた方がいいじゃねえか」
「ねえ、いいから早く片付けてくれる?」
再び意識を取り戻した奏白に、呆れた図太さだと倉田は賞賛する。どれだけ支配を強めようとしても彼は完全に堕ちてしまおうとしない。“彼女”でさえあっさりと術中に陥ったのにと、そのまま真っ赤な月を見上げた。むしろ簡単な部類だったな、などと。愛した男の事でも考えて、感傷的になった心の隙を突いたのが功を奏していたのだろうか、と。
そんな風に彼女が、まだ訪れてもいない勝利、その余韻に浸って気を抜いている間に、熱くて堪らない頬を抱えたまま、知君はぐるりと周囲を見回した。ここに現れた時同様に、人々は互いに互いを殴り合っていた。この破壊衝動に囚われた人間は、よほど精神力が強くない限り自我も理性も感情もほぼ全て失い、手当たり次第に壊そうとするようだ。
ただでさえ満員電車のように人がごった返しているのに、無理やり倉田の周囲だけスペースが開けているためにより一層過密な空間が広がっていた。ほんの少し足を動かせば他人の靴を踏んでしまう、少し手を伸ばせば襟首を掴むことができる。相も変わらず生々しい喧嘩の音がひしめいていた。
痛みに呻く声も、恐怖に慄く声も無い。時折鳩尾にいいものを貰ってしまった者が息を吐き出す喘ぎだけ漏らしているが、それだけだ。痛覚さえも遮断している、そうではない。実は怪我など負っていない、などという訳も無い。苦痛から逃げるよりも他者に傷を負わせる悦楽が優っているだけだ。
地面に膝を付いて這いつくばる知君、そのすぐ隣に少女が現れた。下の方の階層にいた際、自分達を塔の中に招き入れてくれた彼女だ。彼女ももみ合い、圧し合いのなかに居たからか随分と埃と砂まみれになっていた。その目はまるで、充血してしまったみたいに朱に染まっていた。
これならばまだ、下にいた頃みたいに、無感情でいてくれた方が良かった。あの時はまだ新品で汚れも無い服を着ていたというのに、今の茶色く、灰色に薄汚れた姿は見ているだけ心が痛い。
そんな事を考えていたからか、すぐ傍に立っていた男が、よろめき、その足で少女を蹴り飛ばした。背中を蹴り飛ばされた彼女は勢いよく地面に体を打ち付けた。膝をすりむき、切れた唇からは血が垂れている。
「大丈夫ですか!」
雑踏の喧騒にかき消される程度の声で、焦燥した様子の彼は駆け寄る。自分自身腰が抜けたままだと言うのに、その身体を引き起こす。だが、それが仇となる。ホッと一息ついたその瞬間、隙を見逃すものかと幼女は腕を伸ばした。先刻同様に知君の首筋を添うように彼女の掌が。背筋に悪寒が走り抜ける。ついさっきの、喉元を締め上げられた息苦しさが蘇る。
それはもはや反射だった。後ろにへたり込むように彼女の方から逃げる。だが、それを追うように彼女も飛び掛かる。制服越しに彼女の乳歯が彼の肩に突き刺さった。白いシャツの布地はあまり厚くなく、焼けるような刺激が肩を襲う。無理に引きはがせば線維にからまったその子の歯が抜けてしまう。誰かを怪我させるぐらいならば自分こそが痛みを耐えねばならぬ。受け続けた教育により、他の誰でもない知君自身が、己に命じていた。
それと同時に、湧きあがる強い感情。為す術も無い現実に対する強い絶望などではない、何もできない自分への悔しさでもなくて、こんな凶悪な事態の中心でほくそ笑んでいる倉田 レタラへの強い怒りでもなく、悲劇の真っただ中にいる悲哀とも異なる。
この胸に燃えている想いは、一体何だと言うのだろうか。
一体ここだけで、何人の人間が傷ついている。ただ、観光を楽しんでいただけの人々だと言うのに。
この幼い子が何をした。何もしていないじゃないか。ちょっと悪戯はしてしまったけれど、それだけだ。それだけの事で、こんな悲劇の舞台に引きずり上げられる必要があったか。
どうして奏白が己の正義を曲げるような事をせねばならなかった。こんなに卑怯で、自分よりも格下の女性に意のままに操られなければならない。
どうして人々が傷つかなければならないと言うのか。彼女は何と言っていた、理由なんて何もない。ただ思い立ったから何となく、それが動機だった。
ふざけるな。握りこぶしで強く床を叩きつけた。ジンと走る痛みが、自分はまだ生きていると、正常だと告げていた。まだ自分には彼女に立ち向かっていくだけの資格があるのだと。
そして右手に握りしめた真っ黒な匣には、それだけの力が宿っていた。この力を使えば、少なくとも主犯である倉田は討つことができるだろう。しかしその後、自分がどうなってしまうのか分かったものでは無い。ここではその暴走を止めてくれる者もいない。
けれども知君は、掌の中で出番を待ち望むphoneを閉じたままでは居られなかった。あんなに、あんなに恐れていたはずなのに。どうしてこんなに立ち上がるだけの勇気が湧いてくる。『彼』を呼んでも構わないだなんて思えるのか。
もうこの場に残されているのは自分一人だ。
立ち向かえるのは自分一人だ。
助けてあげられるのは、言うまでもなく己だけだ。
颯爽と駆ける奏白(ヒーロー)は捕らわれた。
護るべき人々は、これ以上ない災禍の中心にいる。
そんな中、巨悪(レタラ)は一人嗤っている。
嘲りながら、見下して、歪な弧を口と目とで描いて、背景に赤い月を背負って。
そう、許せないんだ。誰かを助けるだけの正義が屈して、誰かを貶めるだけの悪がのさばっているのが。
そうかと彼は相槌を打つ。ようやく、少年の旨の内に燻っていた熱い情動の正体に見切りが付いた。
悲しい涙だけ運んでくる強きを挫いて、苦しみ悶えて、痛みに苛む弱きを救いたいというこの想いは、間違えようがない。
これはきっと、正義感と呼ぶべき代物だ。
「知君……早く、逃げろ……って」
「………………いえ、駄目です」
ここで退く訳にいかない。そんなの、決して正しくなど無い。逃避に大義などどこにもない。戦うだけの力があるのに、救えるだけのものを持っているのに、背を向けるのは悪と変わらない。正義の対極にあるという意味においては。
僕は何のために生まれてきた。正義の使徒となるためだ。人々を護るための最後の砦としてだ。兵器、なのかもしれない。誰かを傷つけることが一番の存在理由なのかもしれない。大義を振りかざし、正しいと息巻いているだけの悪が正体なのかもしれない。
けれども、その力によってここに居る人たちを助け出すことができれば、その力は紛れもなく正義と呼んで差し支えの無いものではないだろうか。誰かを笑顔に変えられた分だけ僕は、人間に近づくことができるんじゃないだろうか。
とすれば、やることなんて決まっていた。Phoneを開き、構える。指を、「1」の所に置く。
「僕が、戦います」
「馬鹿野郎……俺でも無理だったんだぞ」
「大丈夫ですよ、実は僕、とても強いので」
肩に噛み付かれる痛みに耐えながら、柔和な笑みを知君は浮かべた。
「callingを、行います……」
Phoneナンバーは……。震えた声。この期に及んで彼はまだ、契約している守護神の事を恐れていた。しかし、恐れながらも何とかそのボタンを押し込む。
「まずは、1……」
ピッ、と小さな電子音と共に、知君の親指がほんの一ミリ程度沈みこんだ。それだけで知君はスタミナのほとんどを持っていかれた気分だった。その胸の内に根強く巣食う恐怖、それが簡単に拭えないのは当然と言えた。ネロルキウスに体を奪われ、暴走している時間はまさに、死んでいるのと同じような者なのだから。意識が闇に沈む、眠っているのともまた違う独特の感覚。
その正面で奏白はというと、この少年はもしや100番台の能力者なのではないかと期待する。本当にそうであれば、希望は見える。だが、もう一度「1」を押した姿を見て、彼の抱いた希望は儚く消えてしまった。ピッ、ともう一度全く同じ電子音。
「二桁目も、「1」……」
111から119までのナンバーは、ELEVENに次ぐだけの実力者の証として『next9’s<ネクストナインズ>』と呼称され、世界的にその契約者が認知されている、next9’sに属する日本人は一人も存在しない。そもそも九人しかいない以上、確率的に仕方の無い事ではある。
ともすれば、知君はどれだけ前向きに考えても、1100番台でしかない。自分自身が649番である以上、その数字は少し頼りなく思えてしまう。そもそも敵のドルフコーストにしたって、666であり、明らかに格上となる。
「そして……」
すっとその指が下の方に伸びていく。1から離れたその数は、今度は最下段まで。武者震いだろうか、畏怖から来たものだろうか。右腕の肘から先は、大きく揺れ始めていた。
「三つ目に、「0」……」
ポッ。三度目の電子音。1100番台の中では相当ましな方なのだなと奏白は幾分か安堵する。と言ってもそれは気休め程度にしか過ぎない。666と比べてしまえば1100も1199も誤差と言って差し支えないだろう。それほどに、3桁ナンバーと4桁ナンバーの守護神の間には高い壁がある。
ただしそこで、知君の手は止まる。最後の番号を入力するのに躊躇しているのだろうかと推察する奏白は、まだ気が付いていないようであった。知君が持ち得る、最後の可能性に。
ゼエゼエと吐き出される荒い息。いつしか知君の右手親指は宙を彷徨っていた。その指はあちらこちらをふらふら泳ぎながらも、数字の並ぶキーを飛び越えて、まっすぐにある場所へと向かっていた。
刹那、奏白の脳裏に今日この日の間に耳にした、彼の台詞が蘇った。
僕は、『この国で警察になるために』生まれてきましたから。
なりたいとは言ってないんですけどね。
日本で、警察と言えば果たして何番を意味するだろうか。それに気が付いた時奏白は、中枢神経のど真ん中を光の矢で射抜かれるほどの鋭い刺激が走るのを感じた。曇っていた脳が冴え渡っていく。
ここに登ってくるまでに目にした、とあるニュースの事をも思い出した。
それゆえ、地上に存在するELEVENがとうとう十名となったのだと、鼻の穴を大きくしながらアナウンサーは主張していた。残すところは最上人の界に住まうELEVENのみだと。
彼は一体、名を何と言っていただろうか。
ELEVENのアクセスナンバーは、統治している異世界が人間界に座標として近い所からつけられていく。最も近いフェアリーガーデン、ここを統括するシェヘラザードのアクセスナンバーは、100だ。そして二番目に近いのは幻獣界であり、三番目に近いのは伝承界。伝承界の王であるキングアーサーは102である。
自らの守護神の影に、どうにも気おされて仕方の無い知君。項垂れながら、やはり自分には勇気が足りないのかと折れそうになる。ただその時、暖かい雫が彼の左肩に落ちた。目をやるとそこでは、かじりついたままの少女が真っ赤に染まった瞳から、一滴、二滴、と雨漏りのような涙を垂らしていた。
その涙に、ようやく知君は知ることができた。こんな風に意思を奪われ、無理やり暴れさせられている彼らが、平気でいられる訳が無いのだと。辛くて苦しくて、もう嫌だと縋っている。
誰も、何も口にしていないというのに、彼の耳にはそこの大観衆が「助けてくれ」と請う声が、はっきりと聞こえた。
背中は押された。ならば、もう恐れるものなんて何処にも、何一つ有りはしなかった。そのまま彼は意を決したように、緑色の受話器のマーク、発信ボタンをぐいと押し込んだ。
僕こそが正義だ。そう声高に主張するように。溢れ出す黒色のオーラが全身を覆う。もう、立ち止まって傍観などしていられない。
この国で警察になるために生まれてきたと言う知君。彼の宿す守護神の名とは、その彼が冠する、王たる証であるナンバーとは。
もう、尋ねるまでも無い。
「phoneナンバーは110……来てください、ネロルキウス!」