複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス【File0・完結】 ( No.82 )
日時: 2018/06/10 23:24
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)

 少年は屋上でベンチに座りながら、ただただ空を眺めていた。南から遠ざかり、西へと向かいつつあるまだ白い太陽を見つめて、為すことも無いまま網膜を焼いていた。じりじりと視界が侵されていく感覚が気持ち悪く、目を閉じた。九月に差し掛かったというものの、熱すぎる空気が身をも焦がす。
 背後では、触れる事さえできないものの、ひらりひらりと人魚姫が宙を泳いでいた。王子の表情が何一つ変わらない事が、酷く怖かった。皮を突き破って掌を貫きそうなほどに握りしめた拳はいつしか解かれていた。
 黙りこくったまま、目を閉じて、少年は呼吸以外の一切を全て忘れてしまった。瞼の裏に残照がちらついて、噴き出る汗に炎天下を覚える。闇の中に身を投じたつもりでも、風の吹く音に、照り付ける閃光に、くすぐる深緑の生命の香りが、自分の生を知らせてくる。
 これはきっと、深淵の闇でも何でもない。だとしたら、彼が感じた闇というのはどういったものだろうかと推測していた。暑いともつめたいとも思えず、手足を動かしたつもりでもどこに進むことも無い。落ちる感覚も昇る感覚も無くて、溺れるような苦しさすら感じられず、何も辛くないその感覚が、何より恐ろしい。
 怒っている人よりもずっと、表情の変わらない人の方が怖いんだ。他人との交流に長け、他者の心を何となく読み取れるようになった王子の経験が、それを裏打ちしていた。怒ってない人を振り向かせること程難しくて、怖くなってしまうものはない。
 この世界に生きている以上、五感全てを遮断される様な経験など体感しようも無い。平衡感覚は乱れ、立つ事すらままならなくて、きっと転んで怪我をするのだろうけれど、その怪我はちっとも痛くない。誰かに助けを求めても、その誰かが傍にいると知ることもできない。そんな真っ暗な世界に一人、取り残されたらきっと、俺なら五秒と持たずに発狂するんだろうな。静かに呼吸をしていた彼であったが、ふと大きく息を吐き出した。
 それはまるで、ため息とよく似ているけれども、深呼吸の方が似合っていた。見上げていた首を真下に向け、項垂れる。目は閉じたままだ。自分がのうのうと生きていることを肯定したくなくて、この世界に自分は居ないものだと思い込みたくて、目を開ける勇気を振り絞ることができなかった。
 屋上には、王子を除いて誰もいなかった。それは第三者が見たらの話であり、実際には守護神アクセスをした状態のセイラがいるのだが。しかし彼女は黙ったまま、ただ後ろで見守っていた。寄り添おうにも、今の状態では王子の身体さえ通り抜けてしまうから。だからただ、項垂れたままの彼を後ろから眺めていることしかできない。
 話し声の無い世界が、ずっと続いていたとしたらどれだけ良かっただろう。誰も何も口にしていないというのに、この空間にはある物語がずっと届けられていた。知君が過去を話し始める直前に、奏白が守護神アクセスしていた。アマデウスの能力により、離れた場所でのクラスメイトの物語が次々届けられていた。
 彼が生まれた理由、どうやって生み出されたのか、天涯孤独の訳。今までずっと知らなかった事実を全て告げられた。ELEVENであると聞いても、驚かなかったのは、何となくその予感があったからだろう。あれだけ強い守護神だ、何も驚くことは無い。
 産み落とされた彼は、人間の子供というよりむしろ、兵器の製造によく似ていた。白雪姫と戦う際にずっと、戦っていないと存在価値が無い、兵器として生まれたと口にしていた理由がようやく分かった。試験管の中で生まれた命、彼の誕生に歓喜した者こそいれど、きっとそれは純粋な親心など微塵も無くて、実験が成功した程度の感慨。その後の教育も、人間の教育というよりむしろ、機械のプログラミングや、動物の躾によく似ていた。
 いつも、怯えるように守護神アクセスしていた理由がようやく分かった。そう言えばいつも、彼は体を震わせていなかったか。それを笑顔で上塗りしていなかったか。知君が、我儘を言うところを何度聞いた? 自分のための我儘を言っていたことはあったか?
 一度として、無かった。仲良くなったのはたかだか一か月ほど前の事だけれど、それでも我儘を口にしないと言うのは異常だと気づく余裕は、まだ幼い彼の精神は持ち合わせていなかった。
 どうして、そんな事できるんだよ。その言葉をぐっと飲み込んだ。簡単だ、言っていたじゃないか。それをできなければ痛みによる制裁が加えられる日々を過ごしてきた。それゆえ、条件反射で本心を、そして欲求を押し殺してしまう。
 子供みたいな容姿で、小さな体をまだ抱えたままの未熟な少年。第一印象はそうだったはずだ。けれども知るうちに、その精神は誰より成熟していると感じていた。けれどそれは、無理していただけだったんだ、何で気づけなかったんだろうな。知君はずっと、王子のことを友人だと信じていた。自分だってそう思っていた。なのに、一つも理解できていなかった。
 知君が隠していた。それはきっと、そうだろう。けれども王子は知っていた。隠し事をしない人なんていないし、隠し事は何となく人は匂わせているものだ。それなのに、知君にはそれが無かった。脆くてぐずぐずの心の深層を、硬い容器で密封しきっていた。けれども、知る努力を怠っていた。

「一声かけるだけで、良かったんだよな……」

 大丈夫か、なんて心配するほどの事でもない。何でそんなに強いんだ、って訊けばよかったんだ。実は強くなんてないんですよって、吐き出してくれるかもしれなかったのに。
 きっと、嫉んでいたんだ。ようやく戦うだけの力が、相棒を得たというのに敵わない知君があまりに遠くて、妬いていたんだ。知君の方が、よっぽど颯爽と現れるヒーローだなんて思って。誰かのために泥臭く戦う自分だって、ヒーローなんだと認められなかった。

「あいつ、あんなに精一杯戦ってたんだな……」

 セイラは答えなかった。ただ、黙って後ろで見守っている。その通りだと肯定するようなこともなく、ただただ彼が自力で乗り越えるのを信じていた。

「言われた通りだったよ。自分の言ったこと、こんなに後悔することになるなんて、思っていなかった」

 ずっと独りぼっちだった彼にかけた、友達なんて願い下げだの言葉。あの時彼は、どんな顔をしていた? 思い出したくなんてなかった。その時俺はどんな顔をしていたっけなと王子は思い返す。簡単に想像できた。あの時自分は、自分の事しか考えられていなかった。きっとただ、辛い感情全部、知君をサンドバッグにしてぶつけていただけだ。その顔はきっと、自分勝手な怒りだけに染まっていただろう。

「謝んなきゃな、沢山」

 そして今度は助けよう。これまで何度も助けてくれた彼を。人々を護り続けた知君を、今度は一丸となって他の者たち全員で支えよう。
 そう言えば知君は、訳があってこの病院にしか入院できないと聞いていた。その理由がようやく分かった。知君には、戸籍が無い。だから琴割と旧知の仲である王子の祖父が経営するこの病院を使って点滴をするしかなかったのだ。
 さらに、無理に戸籍を作ってその存在を表ざたにもしたくなかったのだろう。知君は「世間的にはELEVENと認知されていない」なぜなら、それが知られるといまほど自由に守護神アクセスできなくなるためだ。琴割が、先兵として使いたいときに知君を使うことができるよう、その存在が公になるのを拒絶しているのだろう。

「許してもらえなくても、いいから。ちょっとでもあいつが楽に感じられるように、俺の言った事撤回しなきゃいけないんだ。傷つけてごめんなって言わなきゃいけないんだ。絶好されても構わねえから、お前は何も悪くねえって伝えなきゃ。罪滅ぼしに俺が代わりに戦ってやるって、ついでに」

 残る大きな敵はもう少ない。その内の一人はシンデレラであり、傾城の特質を持っている。嫌が応にも、ネロルキウスでなくセイラの能力で浄化をしなければならないのだ。最後の最後に決めるのはきっと、自分になる。その事に強くプレッシャーを感じていた。自分こそ最後の砦、そう言われてはいたが、それがあまりに怖かった。しかしきっと、知君はこの重圧とずっと戦ってきたのだろうし、戦力としては未だに最高だ。それゆえきっと、これからもその重たい圧に耐えねばなるまい。
 しんどいな、これは。自分にはずっと見てくれる人がいる。父も兄も支えてくれるし、何よりもセイラが見てくれている、それだけで勇気はとめどなく湧いてくる。それなのに、知君は。
 その時だった、力強い警鐘が、響き渡ったのは。





「何だ? 今度は何が出やがった?」
「以前一寸法師を倒したところなのに……」

 既知のフェアリーテイルの発現を告げるアラートが、その場の全員のphoneから鳴っていた。その警報はアマデウスの能力に乗って王子にも届けられる。新規でないとすれば残っているフェアリーテイルは二人しかいない。先日契約者を引っ提げて再び活動を開始したシンデレラ、そしてフェアリーテイルの中で『最大の人的被害をもたらした』少女、赤ずきん。死傷者の数は、もう数え切れない。

「私達は出なくて大丈夫なの、兄さん」
「大丈夫だ。今はまず知君を守れって指示が下りてる」
「誰から?」
「総監」

 琴割からの命令。ならば拒むことはできない。自分達最高戦力が出動できないのは極めて痛いところだが、それ以外の人員は全て現地へと駆け付ける最中だと言う。それに何よりあのじゃじゃ馬が先陣切って赤ずきんと戦っているところなのだとか。
 確かに、知君はさておき、対策課の外にいる人間にも目を向ければきっと、彼女が日本において最も強い戦士の一人に数えられる。少なくとも、真凜一人や奏白一人だけが駆け付けるよりかはずっと頼りになる。

「とりあえず知君、お前は今回安静だからな!」
「無理して出ていこうとしないでよ、私達が何とかしてみせるから」

 慌てた様子で奏白兄弟は咄嗟に知君に呼びかけた。こういった時、誰よりも逸って前に立とうとするのは彼だから。今回こそは休ませなければならぬと引き留める。実際、枕元に置いたままの黒い端末に伸びようとしていたからだ。

「まあ、今日のところは休んでおきな。……俺はそこの二人ほど強くないからよ、何とかしたいなくらいにしか思えねえけど、今回から、お前のためにも戦うからよ」

 ぶっきらぼうにベッドの上に座った彼の肩を叩く太陽。王子くんと違ってぶっきらぼうだけれど、彼と同じで肝心なところでの嘘は下手そうだと知君も思ったが、それは言わずにしまっておいた。
 どうしてか、緊迫した状況だというに、笑みが零れ出た。今までこんな事なんて一度も無かった。ひどく温かい言葉に満たされた彼の身体の芯は、まるで燃えているようであった。どれだけガンガンストーブを焚いても温もりなんて得られなかった冷え切った体が、優しさで満ちていく。
 病室のベッドの上、戦いはこれからだとは自覚しているものの、幸福感に包まれた少年は、隈の上に浮かんだ目を閉じて、ただ一言、ありがとうございますとだけ呟いた。
 あの日の真凜の言葉が蘇る。その言葉をようやく、知君は心底噛み締めていた。

 そうか僕も、やっと報われたんだなぁ。

 病床の暴君は、どんな凪より穏やかに笑っていた。そしてその笑顔は、知君が初めて見せる、嘘偽りの無い、気を許した相手にしか見せられない、そんな幸せな油断を孕んだ表情だったということだ。

File9・hanged up