複雑・ファジー小説

Re: 守護神アクセス ( No.89 )
日時: 2018/09/18 17:51
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)

「返事をして、お願い」

 自分がいくら焦っても、目の前の少年の方がよほど取り乱していることに変わりはない。それに気が付いた真凜は何とか、冷静に努めようと声を低くした。しかし、決して答えを強要しないように。強いるのではなく、促すような落ち着いた声音。痩せこけた頬を両手で包み、床を眺める首を前に向けた。目を合わせ、大丈夫だからとほほ笑む。

「ごめんなさい真凜さん……急に、取り乱したりなんかして」

 気丈に努めて、何とか笑顔を作る真凜。彼女も動揺しているのだと、頬に添えられた掌の震えから伝わってきた。また、彼女に心配を、迷惑をかけてしまっている。何度も何度も、みっともないところを見せられないと、泣き崩れてしまいそうな自分を何とか踏みとどめた。
 これまであまり見ないようにしてきた、一番初めの失敗。能天気な自分が、ネロルキウスは自分のために力を貸してくれると信じ込んでいたあの日。自分を管理していた研究者の一員、ピタゴラスの契約者であった女性はその守護神を喪った。それはきっと、世界で初めてのケースだったろう。何せネロルキウスがこの世に顕現したのはその日が初めてだったのだから。
 あの日間違いなく彼は、一人の女性の職を奪い取った。その後の成功をも奪ったと言っても過言ではない。これまで積み上げてきた、過去の栄光をも。その人がその人として歩んできた、進もうとしていた全てを台無しにしてしまった。
 そしてそれは、つい先日同じことを繰り返してしまった。ふと視線だけ動かして、病室の入り口の方を見る。そこでは、息子二人ともが居なくなってしまい、所在なさげにしている一人の男の姿。しかしその目は、心配そうに知君のことを見守っている。
 王子くんのお父さん、なだけありますね。自分を見つめるその瞳に、怒りや憎しみがこもっていないことに安堵しつつ、だからこその後悔を讃えて、また目を伏せた。

「ちゃんと前を向いて」

 自虐的になっていることは、お見通しだった。下を見て、自責にかられるのはもうやめなさいと真凜は知君に呼びかける。先ほどと違って、その声には叱責の色がほのかに混ざっていた。

「あの時、君がしたことは間違いじゃない。結果として、全員生きて帰って来れたの」
「でも……」

 再び、洋介の顔色を窺う勇気は彼には無かった。だから、それから逃げるためにも真凜の瞳だけただ真っすぐに見つめる。その瞳もまた、知君のことだけを見据えていた。そう言えば、以前はこんな風に見てはくれなかったと思い出す。
 以前はずっと、彼女は知君を避け続けていた。対話も避けて、お互い分かり合おうともしていなかった。我武者羅に頑張ればいつか自分は認めてもらえるだなんて信じていた。お互い、気合だけ入ってから回っていたのだ。自分が頑張れば頑張る分だけ、相手を焚きつけてより一層に危険な道へと歩んでいたと言うのに。

「それでも僕が、洋介さんのウンディーネを奪ったことに代わりありません」
「……そうね」

 しばしの思案。しかし、ここで否定してもそれは嘘であり、慰めにしかならない。そして、慰めと分かり切っている同情など、知君の傷を癒すための薬にはならない。ならばそれを、認めた方が良い。真凜は浅く首肯し、「ほら」と弱弱しく囁く知君。また、沈黙が流れる。けれども今度は知君も、真凜から目を離さなかった。

「あの日、私が伝えたこと覚えてる?」
「……全部、ちゃんと覚えてます」
「良かった。……君はね、今まで何度も何度も私達の事を助けてくれた」
「自己満足ですよ、ただの」

 自嘲気味に乾いた笑みを漏らした。けれども少年の顔はちっとも笑っていない。それがより一層、虚しさだけを呼び起こす。その実のこもっていない笑いに最も顔を歪ませたのは洋介だった。今まで、人々を護るために戦い続けた彼を、自暴自棄にさせたのは他ならぬ自分達だ。
 流石に洋介自身は大人げないから、知君を罵倒したり冷遇したりはしようとしなかった。しかし、必要以上に干渉しようとはしていなかった上、太陽が彼を敵視していることに気が付いていながら、何も言ってこなかった。
 ずっと失念していた。彼は警察の仕事にしゃしゃり出る部外者などでは無くて、息子の同級生の、友人の一人だということを。それゆえに壊れてしまった彼が、暴君である契約相手に呑まれてしまったことなど責める理由など無い。自分の守護神が奪われたのも、己の仕打ちに対する報いだとしか思えなかった。
 こんないい歳こいた親父になって、近々祖父にもなろう男が、情けない。けれども自分が彼に、何をしてやれるだろうか。洋介には分からなかった。五十五という歳月を生きてきてなお、その少年の境遇に置かれた人間が求める言葉など予測も出来なかった。
 こんな父を見て、光葉はどう思うだろうか。こんな優しい少年に対して、「友達だなんて願い下げだ」と息子に言わせるような父親は、果たして父と呼ぶに相応しいのだろうか。洋介は次男のことを甘やかして育てた自覚がある。それゆえ、今頃は突き付けた言葉のせいで逆に、光葉が苦悩しているとも察していた。
 きっと知君にとって、次男坊の光葉が唯一に近い友であったと、これまでの話でゆうに想像がついた。その、たった一人の替えなど効かない初の友に、絶縁された彼の悲痛な思いなど、自分には分からない。その絶縁宣言を受け取った少年は、壊れてしまう直前と同じように、極めて悲痛な顔色に染まっていた。
 戦う力を失ったことに、もう未練はない。しかしこうして守られる立場となった時、前に立つ者たちを支えられるだけの能がない自分が嫌になった。

「自己満足なんかじゃないわ」
「……そうだと、いいんですけれど」
「そんな顔しないで、思い出してよ。貴方は今まで何人の人を救ってきたの? 助けてきたの?」
「……僕が居なくとも、どうにかなってますよ」
「なってないわ。思い出してよ、私の前で初めて貴方が守護神アクセスした時の事」

 君がいなければ、絶対に自分はアリスに殺されていた。あの日間違いなく君は、私のことを救ってみせたのだと。奏白にしたってそうだ、知君がいなければアリスに囚われの身、今頃生きていたかどうかも定かではない。

「それに、スカイリンクがジャックされた事件を解決したのも君なんでしょう? あの時君は、何百人という人を救ったのよ?」
「……そんな事もありましたね」
「私は、君のおかげで殻を破れた。だからこそ壊死谷を検挙できた。成長できたから、多くのフェアリーテイルを倒せるようになった。君が居なきゃ、私はこんなに立派な自分になれなかった。私が助けた人々も、元をただせば知君くんの力で救ったのよ」
「関係ないですよ。それは、真凜さんが救った人たちです」
「だったら、君が救った私が生きているのは、君のおかげだって認めて」

 違いますよと、知君は首を横に振る。自分の力で救えたのではない。知君という少年は、ただ幸福な星の下に生まれただけの話だ。そのための力を持って産み落とされたからこそ、救えただけだ。

「真凜さんを救ったのは、僕じゃなくてネロルキウスです。彼の力が無ければ、アリスになんて勝てていませんでした」

 知君の声が、自己嫌悪のせいで震え始める。虹彩も雫で滲もうとしているが、琴割の前だからか知君はその熱い雫が瞼の縁から零れ落ちようとするのを必死にこらえる。

「だからあれは、僕じゃなくて」
「ねえ、そんな事本気で思っているの?」
「えっ……」

 見る間に眉はつり上がり、眉間には皺が寄っていく。怒気を孕んだ声が、悔やんでばかりで藍色の心の海に落ちつつある意識を貫いた。

「ネロルキウスが暴走した時、彼は私達全員を従えようとした。別に彼は私達を助ける気なんて無いわよ」
「そう、ですね」
「そんな人が、私を助けてくれただなんて思わない。私を助けてくれたのは、そんな大きな力を誰かを護るために振るってみせた、君だよ」
「でも……あれは僕の力なんかじゃない!」
「いいえ、紛れもなく貴方の力よ」
「そんな事……。だったら、今のこの状況はどう説明するんですか。彼にcallingするのが怖くて仕方なくて、ただの無能力者に成り下がった僕に、誰が助けられるって言うんですか」
「別に、誰も助けなくていいの」
「また……そうやって僕を置いていくんですか」
「違う。知君くん、たまには私達のことを信じて」

 いつもいつも、自分が解決することに躍起になっているが、それは裏を返せば自分でなければならない、他の人間にはどうしようもないと突き付けているようであった。

「君はずっと、私より前にいる。ずっと前に立って、護ってくれている。私はね、後ろにいるだけの自分が不甲斐なくて、嫌で嫌で仕方なくて、君の横に立てるぐらい強くなろうって決めたの。君の事を認められなかったのはきっと、どこかで君に頼られたいと思っていたから」

 知君に頼られる人間になれば、自分は目指す自分になれたと納得できると思ったから。彼以上に力があって、優しい、正義と呼ぶに相応しい心根を持った人は他にいないのだから。

「今までずっと、私達は君に支えられてきた。それこそ、君無しじゃ立てないぐらいに。でもね、今度は違う。立ち方を忘れてしまった君を、今度こそ支えて見せる。いつか君がまた死地に立つんだとしたら、その日まで私達は待っているから。君なら、こんなトラウマ簡単に乗り越えられるって、信じてるから」

 横に立つだなんて、今の自分にはまだおこがましい。けれども、後ろに立っているというなら、せめてその背中ぐらい押してあげたい。疲れて立ち止まった彼の事を、一旦追い越して、「待っていたよ」といつか出迎えたい。

「君が、私より強いって分かってる。頼りになるとは自覚してる。けれどね、今は休んで。休みなく動き続けられる人なんていないんだから。……多分このまま兄さんたち二人に任せてても、赤ずきんには負けちゃうわ」
「そんな! だったら尚更、僕が今から……」
「待って、知君くん。……総監、お願いです。今の彼なら洋介さんがみているだけで充分引き留められます。私も出動させてください」
「お前が出て行って何が変わるんや」
「支援能力なら私は高いです。撤退のための誘導を行います」
「一度、体勢を立て直すんか」
「ええ。周囲の民間人は全員避難が済んでいます。まだスタミナの残っている、現着できていない王子さんやその弟、私がいればおそらくは逃げ帰ることぐらいできるはずです」

 このままクーニャンや奏白を失う訳にはいかない。知君が易々と守護神アクセスできない中で、最も多くのフェアリーテイルの討伐に貢献したのはこの二人だ。クーニャンに至っては、多少の手加減をしていたとはいえ赤ずきんを単独で足止めできるほどに優秀な傭兵。そしてそれに逼迫した戦力である奏白はこんな時期に失えない。

「今出れば、王子さん達と同じぐらいに到着できます。今しかないんです」
「なるほどな……。確かにそれなら」
「危険ですよ真凜さん。忘れたんですか、赤ずきんは一対多数の戦闘で本領を発揮するんです。向こうはこちらの人数が増えても的が増えたと思うだけ。被害者が増える可能性の方が高いです。奏白さん達は決して無茶をしません」

 特にクーニャンは、生き残る術に関してはいくらでも学んできている。プロである以上、退くなと言われたらそれこそ死ぬまで抗い続けるが、それでも引き際を間違えない程度には場慣れしている。本当に、どうしようもないと判断した時には撤退を自ら奏白に宣言するだろう。

「そう簡単に逃がしてくれると思う?」

 それなら、抵抗する人間の人数は多い方がいいに決まっている。それが真凜の主張であった。相手が攻撃してくる瞬間を易々と見極められるメルリヌスの力ならば、逃げおおせられる可能性も飛躍的に上がるだろう。

「だから、私が出るの。一旦待っていて。無事に戻るから」
「待ってください」

 詰め寄る様に知君に接していた真凜が、不意に離れて虚空へと手を伸ばす。何もない空間に真っ暗な次元の裂け目が現れて、そこからスノーボードの板を取り出した。今にも病室から飛び出して、ボードに乗って駆けて行ってしまいそうなほどに。
 走り出そうとする彼女の腕を、知君は掴んだ。切実な眼差しで焦る彼女の顔を見る。そして、たった一つの懇願をする。

「未来を予知してみてください」
「……いつの?」
「真凜さんが着いて、本当に皆無事に逃げられるかどうかの」
「……大丈夫、それを変えに今から行くんだから」

 これ以上語れば、引き留められてしまうだろう。少年の細い腕の、か弱い握力を振り払って彼女は駆け出した。これ以上、時間を無駄にしてしまう訳には行かない。
 そう、彼女は既に忌避すべき事態を予見してしまっていた。苦戦する一方の戦場において、王子が撃ち殺されてしまう未来を。その場に自分の姿は無かった。だからこそ、自分が助けにいかなければならないのだ。

「待ってください!」
「ごめん、帰ったら謝るから!」
「絶対! 絶対ですよ、破ったら許しませんからね!」

 知君の部屋は一階にあるため、すぐに屋外に出ることができる。外に出てしまえばメルリヌスの能力ならばすぐさま現地に向かえるだろう。
 しかし、真凜が先ほどの問いに返答しなかったことが気がかりだった。あれはつまり、真凜が行く場合か行かない場合か判別はつかないが、不穏な未来になりかねないという事だった。
 だとしたら、変えなければならない。だらんと頼りなくぶら下がる右腕、その先に握りしめたphoneのことを思い出す。

「callingさえできれば……それさえできれば、僕も向かってもいいですよね?」
「ああ、できるんならかまわん」
「なら、今ここでしてみせます」

 発信ボタンに合わせた親指に、ぐっと力をこめる。それなのに、ボタンはびくともしなかった。真凜が触っていた時にはあれだけ簡単に押し込めていたのに。

「どうして……何でッ、何が駄目なんだ……。早く、早く早く早く早く早く早く早く早く……いいから反応してくださいよ、お願いだから!」

 藁にもすがらねばならない。暴君にとて、懇願せねばならない。不幸な未来を回避するためにはどんな危険な橋だって、渡って見せたいのに。体が言う事を聞かない。
 洋介はもう、知君がどうして守護神アクセスできないのか理解していた。少年自身、体の変調を理解していた。彼の意志がどれだけ投げやりに己の命を投げ打って戦おうとしていても、体がそれを拒んでいるのだ。恐怖を振り払ったつもりでも、体の芯には闇を恐れる畏怖がこびりついている。
 だからこそ、ネロルキウスを認めないために指先に力が入らない。決して、この脆弱な体に、身に余る力の権化を顕現させてしまわないように。
 彼が戦うことを拒んでいる存在は他の誰でもない、彼自身だった。

「来てください……来てください、何でもいいから。ネロルキウスだって構わない。その後僕が消えちゃってもいいから……早く、早く……手遅れになる前にきてよ……ネロルキウスっ!」

 拒んでいるのは、少年自身。それでも、力を求めているのも少年自身だった。心と身体、二つの自己が二律背反で契約相手の守護神を捉えている。それゆえに生まれた自分の中の齟齬。受け入れなくてはならない存在を、無意識が否定し続けている。

「やっと……やっと真凜さんが認めてくれたんだ……。王子くんにも謝らなくちゃいけないんだ……。奏白さんも、クーニャンも、失いたくなんてないのに。これから、これからなんだ……。全部これから始まるんだ。フェアリーテイル事件が終わるんじゃない、これからやっと平和な未来になるはずなのに何で……何で今に限って僕は……」

 その先の言葉を、自分では紡げなかった。使えもしない残酷な現実をつきつけるだけなら、こんなもの無い方がましだと、泣き崩れた知君の掌から琴割はphoneを奪い取った。
 握りしめていた端末を失った瞬間に、言葉にしていなかった絶望がどっと押し寄せてくる。


 知君 泰良は自覚した。

「何で今に限って僕は……無力なんだよ……」

 教えてくれと呟いても、返す言葉など無い。
 当然のこと、ではある。
 それでも残酷なことに、ネロルキウスは何も答えない。