複雑・ファジー小説
- Re: 守護神アクセス ( No.90 )
- 日時: 2018/07/11 01:01
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
ベッドの脇で蹲る少年、彼は生まれて初めて己の無力さに震えていた。これまで過ごしてきて、そんな想いを抱いたことは一度だけだった。今と同じように、ネロルキウスを呼ぶことを恐れていた日々。そんな生活に終わりを告げたはずの、あの日。奏白が目の前で倉田 レタラに操られた瞬間、何もできない自分が嫌で仕方なかった。
だからこそ、長年恐れていた守護神を呼びだして、今までの自分を打ち破ったのに。またしても、あの頃の己の姿が重なってしまう。しかも今度は、大切な人がもっと増えたというのに、だ。自分には助けられるだけの力がある。今まで何度もフェアリーテイルを下してきた。
それなのに、今になってまた、弱虫で惨めな被検体に逆戻り。誰かの涙を拭えるように、って立ち上がったはずなのに、いつしかまた膝を付いている。地面が目の前に見えるのは、何も視覚的な問題だけでは無かった。一人で歩いていると思っていた自分が、倒れ伏してしまったようで。
再起することもできないまま、無力さを噛み締めさせるための地盤だけが、目の前いっぱいに広がっていた。
「洋介……ここは任せてええか」
「どちらへ?」
「最悪、儂が出なあかんからな。となると国連の方に要請出さなあかん」
時折規則を破り、些事に能力を用いている琴割ではあるが、戦闘のために能力を使用するためには、流石に国際的な機関で議決を取らねばならない。平時であれば確実に許可など下りようもない。しかし、この国の治安維持組織が匙を投げる程の脅威であれば話は別だ。
申請に数時間以上は確実にかかってしまうだろう。それでも、指を咥えて見ているだけよりはずっとましだ。秘書には、予め申請書のフォームを記入するようにと言いつけている。知君が出られないと推測できていたための処置である。
「そいつが、無理せんように見張っといてくれ。といっても、もうphoneは儂が預かっとるから何もできんやろけどな」
今となっては懐かしくもある、開閉式の旧型端末。それをつまんでひらひらと掲げて見せた。これを所持している分だけ、知君はより一層己の無能を嘆くだろう。それゆえ、武器を琴割は預かった。それさえ持っていなければ、戦地に赴く理由がなくなるため。すなわち、彼が余計に傷口を広げなくてよくなるため。
無理やりにネロルキウスを呼べたとしても、それが知君にとって望ましい未来に繋がるとも思えなかった。今呼びだしたところで、自身もなく、当然体力も抵抗力も無い彼は、乗っ取られてしまうだけだ。
それならば、せめて彼だけでも護るためにその強硬策に出るのは仕方の無いことだった。これで不意に知君が赤ずきんを処理できる可能性の芽は潰えることとなったが、仕方ない。今はそれよりも優先するべきものがある。労わってやるべき人間が居る。これまで、それを避けてきた分、これからは彼の安全をも考えてやらねばならない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ただひたすらに、か細い腕を病室の床に突きながら彼は、謝ることしかできなかった。
弱くてごめんなさい。
大事な時に頼りにならなくてごめんなさい。
足手まといでごめんなさい。
ふと、見上げた病室には洋介と二人きりで取り残されていると気が付く。そして湧きあがる、もう一つの慙愧。
貴方の守護神を、奪ってしまってごめんなさい。
彼が涙していることは、琴割もとうに気が付いていた。幼い日に、あれだけ泣くな、己の意志を見せようとするなと指導してきた彼も、もはやそんな事は強要しなかった。人間、辛い時には泣いておくべきだと、心の趣くままにさせてやった。
皮肉なことに、行楽日和の快晴の空。それなのに街中では、大量殺戮の狂い果てた守護神、赤ずきんが暴れていると言う。そしてこの真っ白な狭い空間では大粒の雨が降り注いでいた。
俺は一体、何度同じ過ちを繰り返すつもりなのだろうか。王子 洋介は、これまで弱みなど一度も見せてこなかった少年が、ようやっと子供らしく肩を震わせて泣いている様子を見て、自問した。
彼を悲しませているのは、何もその非力さだけではないだろう。ウンディーネを奪ったが故に、自分に顔向けできないと思っているだろうことも予想できた。何せ、知君にとっては大切な友人、洋介にとっては大切な息子である王子が、それ故に怒り、悲しみ、そっぽを向いて出て行ってしまったのだから。
彼を傷つけていたのは、自分だって同じだと気づいたばかりではないか。自分の半分も歳を取っていない奏白 真凜が、これまで支えられてきた分彼を支えると言ってのけたのに、自分自身何もできないままで、いいはずがない。
何より、このままでは光葉に顔向けができない。息子の不始末の責任を取るべきは、親である自分自身だ。光葉が負わせた深い心の裂傷をも、自分が代わりに治してやらねばいけないのではないか。
「いや、違うな」
知君にも聞こえないぐらいの小さな声で、自分を諭すように彼は一人呟いた。
奏白 音也は常に、誰かを救うためにアマデウスと手を取っている。真凜も、平和な世界で生きる人々のため、メルリヌスの手を借りている。光葉とて、未熟ながらも誰かを救えるヒーローとなるため、人魚姫と手を繋いでいる。
これまで三十年以上、警察官として、phoneが開発されて十年以上、捜査官として働いてきた彼に、誇りが存在しない訳が無い。自分とて、強きを挫き、弱き者のためにこの職に就き、常に第一線にいたというのに。
それなのに、今目の前で崩れ落ちた少年の心を、そのままにしておいていいはずがないだろうに。
それだけではない。ここで何も声をかけられないなど、男として、二人の息子を持つ父としての名折れに他ならない。目の前にいるのは息子ではないなど、言い訳にもならないだろう。自分にとって無関係な人をも救う、それが父親、今立っている病院の院長から教わった教えであり、自分が従い続けてきた矜持であり、嫡男次男に受け継いだ精神ではなかったか。
「まだ君は、決して報われてなんていない」
あの日真凜は、知君とて報われるために生まれてきたのだと自分の目の前でもある場所で語っていた。だが、少年を信頼していた奏白兄弟だけから認められて、何が報われたものだろうか。これまで関わろうともしてこなかった自分のような者でさえ彼を支えてようやく、報われると称するべきだ。
ならば、自分がするべきことはとてもシンプルなものだ。真凜は、粉々になりそうな彼の心を何とか繋ぎ止めた。その後の襷は、自分が受け取ったと信じていいはずだと、洋介は頷く。両足を沼の中に絡めとられた彼を引き上げ、奮い立たせ、背中を押してやる。
今、それができるのは自分だけだ。あの日あの時、『これまで一番近くにいながら頑なに認めてこなかった』真凜が、彼を受け入れてやることに意義があったように……今この瞬間、『彼の力により守護神との絆を断ち切られた』自分こそが、彼を救うに最もふさわしい人間だと、覚悟を決めたのであった。
「知君くん、一旦ベッドの上に戻ってくれ」
このままでは体に障るかもしれない。そんなもっともらしい理屈をつけて、話をしやすいように柔らかなマットレスの上へと誘導した。肩を担いで、起こしてやって。光葉よりかはましかもしれないが、この子も手がかかるな、などと父親のいない少年の、義父にでもなったつもりでその身体をベッドの上に持ち上げた。
座らせることには成功したが、ちゃんと布団の中に潜ろうとしなかった。寝付いてしまえば、もうそこから逃げ出せなくなりそうな強迫観念が知君を襲っていた。だからただ、座すだけ座して、立ち上がることもできないまま、目の前に立つ洋介の脚だけを見ていた。
「おじさんとの話は苦手かい?」
「いいえ……校長先生なんかとは、話し慣れてますので」
「そうかい。それは良かった」
「話……って何ですか?」
委縮し、肩を竦めて彼は問うた。切り出したのは、先日ネロルキウスが守護神を奪い取ってしまった洋介。そして、話しかけられたのは自分。嫌な予感しかしなかった。罵り、蔑まれるのではないか。そんな妄想が、ふと頭をよぎる。
それもしかたないか。自分のせいでまた、誰かの人生を狂わせてしまった。歴戦の兵、その矛を奪い取ってしまったのは間違いなく自分だからと、納得させる。むしろ、常識をよく知る彼ならば、適切に罰を与えてくれるだろうとまで。
だから、返せと詰め寄られ、それはできないと頭を下げるぐらいの覚悟はしていた。許してもらえない、それを受け入れる心構えも出来ていた。
しかし洋介はというと、不意に突拍子もない話題を口にした。
「君も知っての通り、私には二人の息子がいるんだ」
「……はい?」
王子 光葉と太陽を指すのだろうなとは、不意な言葉に驚き、狼狽した知君にもすぐに分かった。
「太陽は光葉よりずっと年上でな……。もうすぐ、長女が生まれるんだ」
初孫なんだと朗らかに笑いながら伝える洋介。おめでとうございますと、ちぐはぐな頭で何とか祝辞を述べたが、どうしてそんな事を今語られているのか分からなかった。せめてもの情けで、戦地から意識を逸らそうとしている、のだろうか。
「私は我ながら、随分子煩悩で、二人とも甘やかして育てたもんだ。特に光葉は次男で末っ子だからな。随分と可愛がり過ぎた」
あの子が十歳になった頃に、太陽が警官になったんだと洋介は昔を懐かしんだ。小学校の高学年に上がった光葉はというと、捜査官の父や、その見習いの太陽の背中に憧れていた。太陽は昔からリーダー気質で、同級生たちを引っ張っていくタイプだった上に、洋介には部下が多く存在していた事から、皆を率いる前線のヒーローという印象が焼き付いていたのだろう。
そんな二人に憧れた光葉は、自分も捜査官になりたい、警察になりたいと言い出した。危険な職だから心配にはなったものの、同じ道を選ぼうとしてくれたのが誇らしかった。自分の守護神はどんなものなのかと期待して、想いを馳せ、日に日に大きくなっていく光葉を眺めているだけで、幸せだった。
「でも、知っての通りだ。あの子は中学生の頃にな、警官にはなれない、守護神アクセスできないという現実を、突き付けられたんだ」
それを知って悲しんだのは何も本人だけではない。真っすぐに夢を見続けてきた彼の道が閉ざされていることを嘆いたのは、家族である洋介も同じだった。辛そうな顔を隠し切れずに、息子に何を伝えたものか考えあぐねていたと言うのに、気にすんなってとまだ中学にも入っていない幼子が、けなげに笑っていたのだ。
「気づかない訳が無かった。夢半ばで破れるどころか、スタートラインにすら立てなかった光葉が、夜な夜な一人で泣いていた事を。その涙をひたすら私達に隠そうとしていたことも」
気づいた時には、守護神のしゅの字も口にしなくなっていた。将来の夢なんて一言も語らなくなっていた。自分がいつか警察になったら、こんな風に過ごしたいと語らず、代わりに、如何に父と兄を尊敬しているかばかり口にするようになったのだ。
「水泳や武道で体を鍛えるのも辞めてしまってな。身長には恵まれていたから、代わりにあの子はバスケットを始めたんだ」
「そう、でしたね」
「中学も同じなんだったね、光葉とは」
「はい。あの頃の王子くんの笑顔は……本当に辛そうでした」
「ああ、そうだな。そうじゃなくなったのは、二か月前頃のこと、だったかな」
自分のためではなく、他の人を安心させるため。王子がそんな風に変わってから、洋介は決心を新たにした。その二年ほど前の五十歳の誕生日で、まだまだこれからも現役として働き続けてやるさと誓ったばかりであったが、その誓いをより一層強めた。
光葉が誇ってくれると言うなら、その破れてしまった夢をも背負って、自分が代わりに叶えてやらねばならないと。
「老いのせいで体にガタが来てるっていうのにな。よくやろうとしたもんだよ、私も」
「そんな……洋介さんは、まだまだ壮健じゃないですか」
奏白ほどではないにせよ、数多くのフェアリーテイルを第4班は検挙していた。そもそも戦場において王子がそのまま人魚姫の歌の能力で浄化できるが故のものだが、それが毎度成功しているのは洋介の指揮能力が由来でもある。
ウンディーネ自体、高位の守護神であり、年老いているとはいえ充分第一線で輝けるだけの実力を未だに彼は有していた。
「健康だとしても、だ。私は息子の夢が潰えたことを勝手に背負って、戦い続けなければならないと思っていたんだよ」
もうとっくに、体は休みたがっていたのに。その欲求を押し殺して親心が勝ってしまった。息子が見たがっていた景色を代わりに見届けて、伝えようだなどと考えていた。
「少しだけ、話を脱線させていいかな」
「はい。構いません」
「君は、自分には人を不幸にすることしかできないと思っているね」
これまで年長者と話した経験は、学校の先生と琴割ぐらいのものだった。優等生として過ごしているため、先生から折り入った話をされることなどない。強いて挙げれば、三者面談が存在しないことを憐れまれるぐらいだろうか。それさえ除けば基本的に、琴割の瞳氏か知らない。
感情を知らないような、冷たい蛇のような目。しかしその奥には、ぎらぎらと燃える真夏の太陽のような熱気。そんな眼光しか知らなかった知君は、洋介の目の光に当てられ、見惚れてしまった。何も他意がある訳では無い、ただ長い時間を生きてきたが故に窺える、余裕を持った力強い双眸。
慈しみ、護り、育てる、そんな父の眼差しを彼は浴びたことが無いゆえに、ついつい我を忘れて見入ってしまった。
「それは違うよ。君はこれまで、多くのものを掬い上げてきた。君でなければ拾う事が出来ないものを、水が張った桶の中からね」
「掬いあげた、もの……?」
「ああ。君が何と言おうと、君の力でようやく沈静化できたフェアリーテイルというのは少なくない。アリスに始まり、桃太郎、白雪姫……。確かシンドバッドや孫悟空を討ったのも君だったね」
「ただ、力のままにねじ伏せただけですよ」
「そうかもしれない。けれども、結果を見てごらん。そのために手に入れたものも多かったはずだよ」
アリスを君が倒せなかったら、君を闇から救い出してくれた真凜さんは助けられていないままだった。
桃太郎の時も、真凜さんだけでなく、光葉まで死の瀬戸際に居た。
しかもそれだけではなく、クーニャンという心強い味方を、君のおかげで私達は得る事が出来た。
- Re: 守護神アクセス ( No.91 )
- 日時: 2018/07/11 01:03
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: hgzyUMgo)
「そう、君の力で得たものだって、ゼロじゃないんだよ」
「でも……でも、それが何だと言うんですか。僕は、僕は洋介さんに何も与えていません。ただ、ただウンディーネを、戦う術を奪っただけだ。王子くんのために、まだまだ頑張ろうって決めていた勇気ある人から、その手段を奪っただけだ。何も、何も貢献なんてできてない。そこまで言うなら教えて下さいよ。僕は、僕は貴方に何を」
「君が私に、第二の人生をくれるんだ」
消極的な知君の声を遮るように、力強い低音が染み入る様に病室内を満たした。嫌味など感じる余地も無く、ただ説得力だけを持って、腸の中にまで浸透していく。
第二の人生。言葉の意味を掴みあぐねた彼は、黙って耳を傾けることしかできなかった。
「君にとってはそうでなかったのかもしれない。けれどね、捜査官というのは常に死と隣り合わせなものだ。特にここ最近の、フェアリーテイル騒動においてはいつ死んでもおかしくないものだった」
現に洋介の後輩である、歩瀬という男は桃太郎の手にかかり殺されていた。クーニャンが仲間入りした頃、当時の自分は暴走していたとはいえ、とんでもないことをしてしまったと桃太郎は腰を折り、額が膝に付きそうなほどに頭を下げた。
それで溜飲が下がった捜査官は決していなかった。しかし同時に、やりきれない理解がやってきたのだ。フェアリーテイル自身も被害者であると言う自覚。桃太郎を、感情では許すことは決してできない。しかしまた、恨んではならないと理性はちゃんと理解していた。
今の時勢、この命も、並び立つ同僚の命も、いつ奪われてもおかしくないのだと。
「理不尽と事故は、いつだって私達の命を狙っている。けれどね、そんな不幸が私達を奪い取るよりも早く、君という人間が『死なせないために』私達の生殺与奪の権利をも奪い取ってくれた。こうして我々が生きていられるのは全て、君が危険な異分子を引き受けて解決してくれていたからだ」
「だから、その事は……洋介さんからウンディーネを奪ったことと何も関係がありません。あくまで、理不尽な不幸を普通の生活に変えていただけ。何かを与えていたというには程遠くありませんか?」
「そんな事は無いよ。確かに見方によっては私は、戦えなくなったんだろうね」
それでも私は、君のおかげで戦わずに過ごせるようになったのだと、彼は言う。
「もうすぐ孫も生まれるし、丁度いい。私は一線を退いて、妻と共に太陽の帰りを待ちながら、孫を愛でて穏やかに過ごす暮らしを、君から貰えたんだ」
このまま進んでいればずるずると、戦場に立っていたことだろう。そのせいでいつ死ぬとも分からない緊張感から解放されずに過ごしてしまっていただろう。しかし、そうはならなかった。
「さっきも言っていたが、私は引き際を見失っていたんだよ。光葉のためと納得させて、まだ一人前になりきれない太陽のお守りのためにも、現役であり続けようとした。だがね、そんな風に過保護にしていたからこそ、見失っていたものも多かった」
しかし気が付けば、次男は自分が代わるまでも無く、自らの力で憧れていた景色を見ることができるようになっていた。嫉妬深く、今一奮わない男だったはずの長男は、いつしか心構えを変え、奏白の先輩として誇らしくあるべく、立派な姿を見せるようになっていた。
それは二人とも、自身が持つ能力者としての強さとは違うところから放つ光だった。ようやく、二人とも望むべく成長を果たして、立派な跡取りとなってくれた。思い残すことなんて一つもない。そろそろ、引退には程よいタイミングだ。
けれどもやはり、その時期を見失っていた。並び立てないと思っていた次男坊と職場で共に並び立つ喜びをかみしめてしまった。そんな風に構ってばかりだから、ずっと甘えてばかりで我儘な子になってしまったというのに。
「私が前線を去ってようやく、あの二人は完成するんだ。私の後を継いでくれる者としてね。老兵は死なず、立ち去るのみ。そんな言葉がある。戦えなくなるその瞬間まで抗い続けるのでなくて、私はここらで後方へと下がらなければならないんだ。後進のためにね」
そんな事は、考えたことも無かった。知君にとっても、彼にとっては身近な奏白にとっても、王子 洋介はベテランの、優秀な捜査官であった。中核を担っていた一人と言っても間違いではない。そんな男が、もはや引き際を超えているだなんて想像はしていなかった。
それなのに本人は遅すぎるぐらいだと言う。ただの慰めとは思えず、洋介はそれを本心から言っているようであった。きっとそれは、太陽のことを信頼しているからに他ならないだろう。彼ならば、自分が去り、その意志を継ぐ者になれるのだろうと。
「私はね、孫娘が生まれてくるのが楽しみで仕方が無いんだ。けれど、ずっと戦いづめであれば私は、その子に構ってあげるだけの余裕なんて無かっただろうね。だからこそ。そう、だからこそだ。私の一足早い穏やかな余生は、君がくれたものなんだよ」
「僕、が?」
肯定のため頷く洋介。その仕草に迷いなど無いものだから、それで納得してしまいそうになる。
しかし、受け入れられなかった。酷く簡単な話だ。その程度の理屈では、知君が自己嫌悪を振り払うには物足りない。それ以上にかけてしまった迷惑を思うと、素直に自分が与えられたものを受け入れられなかった。
洋介が居なくなった影響で、不安を覚えた人々は多いだろう。王子は、父が二度と守護神アクセスできなくなったと知り、自分のことのように激昂した。
平穏な暮らしというのは尊いものだとは理解している。しかし、周りの者にまで与えてしまった影響を考えるに、自分がしたことは許されるべきではない。未だに彼は己の過ちを釈明できる気がしなかった。
「もし、君がまだ納得できないんだとしたら……いや、まずは閑話休題と行こうか」
本題に戻り、再び王子の話に舞い戻る。どこまで話したものだったかと、思い返す。二か月ほど前までは、王子の笑顔には覇気が無い、といったところまで話したかと確認し、その続きを語りだす。
「丁度、君がアリスを討ち倒し、初めてフェアリーテイルの討伐を終えたあの頃だ。桃太郎と太陽とのいざこざとに巻き込まれてね。どうして学校を抜け出してそんな危ない所に行ったのかと叱りつけたものだよ」
しかしその日から、目に見えて王子の態度は変化したと父は見逃していなかった。太陽はしきりに首を傾げていた。何せあの時太陽はむしろ、不甲斐ない姿しかさらしていなかったのだから。それなのに王子はそんな太陽への目つきを蔑んだものに変えるどころか、より一層輝かせたのだと言う。
兄貴達はみんな、あんなのと毎日戦ってんのか。すげえよな、やっぱ自慢の兄貴だよ。部活帰りの汗臭い体で、そう告げている姿を目にした。身重の月子さんは、太陽が恥ずかしそうに鼻の頭を掻いている様子を見て、笑っていたものだよと、洋介はまた穏やかに述べた。月子さんというのは、太陽の奥さんだと添えて。
「その時、きっとあの子は人魚姫と出会ったんだよ」
ずっと、恋のように焦がれていた。その時がいつなのか誰も答えてくれないのに、いつか自分も望んだ英雄像となれる日が来ると。愚直に、自分でも見ないふりをしながら心の奥で願い続けていた。何かの間違いでも構わない、出会うことができたら、その時こそ自分は。
何もない空に手を伸ばし続けて、腕が疲れ切っても下ろそうとせずに、誰からも見向きもされてないのに祈り続けた彼の努力は、ようやく実った。それは当然、生まれ変わったようにもなるよなと、今更ながらひとしおの喜びが湧いてきた。
「だからな……君が桃太郎を倒し、光葉が守護神と出会えていたと知ったその時、私はあの子を怒ることができなかった。祝福してしまったんだよ。危ないことに首を突っ込みやがってと、叱咤なんて何一つできやしなかった。夢が叶ってよかったな、って肩を抱き寄せる事しかできなかったんだ」
ずっと生ける屍のように過ごしてきた彼が、息を吹き返したように笑いだしたことにとんと納得し合点がいったのもその時だ。太陽も初めて知った日には終始狼狽していたものの、自分と同じ想いを抱えていただろう。
「中学生の時に止まって、止まったままだったあいつの時間は、最近になってようやく動き出したんだ。通行止めの看板は無くなって、ようやく歩み始めることができるようになったんだ」
けれども最近になって、その歩みがあまりに前のめりになっていると薄々勘付き始めた。周囲により強力な能力者が多いせいで忘れがちだが、人魚姫とて一歩間違えればフェアリーテイルとなっていたであろう強力な守護神。無能力だった長い日々の後に、唐突に強すぎる力を持ったりなどしたら。よい方向に進むばかりでは無いと、次第に理解し始めた。
唯一幸福なことがあるとすれば、王子の正義が強すぎる力で歪まなかったことだ。今でもかつて憧れた、物語の英雄のような背中を目指して歩んでくれている。しかしその邁進が、あまりに不安だった。夢見るがあまり歯止めがきかず、どこかで躓いて転んでしまいそうになる。
つい先刻の過ちとてその一つだ。我儘になってしまった彼の精神が、父の代わりに怒ってやるのだと、辛辣な言葉で友を傷つけた。確かにこれまで彼は、守護神に恵まれなかった。力を振るいたくても振るえない絶望を知っている。同じように、自分の非力さを受け入れられず洋介が絶望すると思い込んでしまったのだろう。
これだから、光葉は青臭くて困ってしまう。手段と目的を履き違えている。白雪姫との戦いにおいて、誰も死なずに全員が生還できた。それだけで洋介は満足だったと言うのに。理想が高い、というのは買いかぶりすぎだろう。光葉はただ、完璧でないといけないと思い込んでいただけだ。
きっと、知君という少年の小さな背中に、ずっと夢見ていた大きな背中を重ねて、憧れてしまっていたのだから。
「私は赤ずきんの戦う姿を何度か目にしている。今、その場にいる捜査官全員の戦力も把握しているつもりだ」
その上で、洋介は「戦力が足りない」と判断していた。赤ずきんとシンデレラ、そして洋介は知る由も無いが、アリスの三人は、フェアリーテイルの中でも別格の腕利きだ。かつて知君が撃退したシンドバッドや孫悟空も同じ輪の中に入るだろう。奏白やクーニャンを束にしても、犠牲者を減らすのが精いっぱい。一体誰が安定して勝利を収められるものだろうか。
知君を、除きの話ではあるが。
「さっきの話の続きに、戻ってもいいかな」
もし少年が、まだ自分の犯した罪が、償うべき過ちだとしか見られないならば。そう言った寄り道の話の続きだった。正確にはあの話は寄り道でも何でもない、むしろそれが本線と言ってもよかった。しかし、ただ頼むだけなら知君も納得できないだろう。それゆえ洋介は、知君が一層納得しやすいように、自分から息子たちへの想いを吐露したのだ。
「もし君が、まだ自分を許せないというのなら……許すために、この私の頼みを聞いてくれないか?」
「頼み、ですか」
僕にできる範囲であれば、如何なるものでも引き受けると知君は強く応じた。罪悪感から逃げるためではなく、彼本来の性質として、目の前の頼み事から逃げることができないためだ。
「いや、私から君への頼みだなんて、少し図々しいな。これは、懇願であるべきだ」
「図々しいだなんて、そんな事……」
「いや、厚顔無恥にもほどがある。君が思うより私達は、ずっと君へ酷い仕打ちをしてきたものだ。だから先ずは、私がその事を詫びねばならない」
きっぱりと言い切った洋介の姿勢が、不意に下がっていった。座ったままの知君の目の前で、洋介は膝を床につけた。右、左と順番に。そしてそのまま正座して、目の前の床に手をついた。そのまま、腰を深々と折り曲げて、額を地面にこすりつけた。
「今まで君一人に辛い想いをさせて、本当に済まなかった」
「ちょっと……何してるんですか洋介さん、顔をあげて下さいよ!」
「いいや、駄目だ。余所者だからとずっとのけ者にしようとした太陽の分も、君を深く傷つけた光葉の分も……ずっと君がのけ者にされていたのを見て見ぬふりしていた私自身も含めて、こうして謝らねばならない。本当に……本当に申し訳なかった」
知君が己の間違いを悔いているのならば、自分たちとてその罪を無かったことにしてはならない。表面上、頭を下げて謝った捜査官達は数々いる。しかし、ただ謝るだけではまだ足りない。
この、強くも脆い少年の優しさを、尊厳を、踏み躙り続けただけの罪に釣り合う、態度が必要だった。
「そして私は……この上さらに君に、酷い頼みごとをしようとしている。そのせいで君がより一層傷つく可能性があるというのに。君にとってはこれ以上とない艱難辛苦だと言うのに」
「いいからまずは顔をあげて下さい。僕にできることならしてみせます、だから……」
「なら、どうかお願いだ。あいつが、君にどれだけ酷い宣告をしたかは理解している。だが、それでも私にとっては大切な息子なんだ。君にとってこのお願いが、さらなる苦しみを産む可能性があるとも分かっている。だがどうか頼む、君以外にそれができる者がいるとは思えない。私の息子たちを、同僚たちを、赤ずきんから守っては貰えないだろうか。私の望むこれから先の未来に、太陽と光葉が必要なんだ。君が悲劇を奪い取ることでどうか、私達に幸福を授けてはくれないか」
それは、またとない申し出だった。声にならない驚きの音を、小さく開いた口から漏らし、目を丸くして洋介の頭を眺める。ようやく、顔をあげてくれた男と目が合った。その瞳は先ほどまでの力強さは息を潜め、逆に知君による助けを求める、力ない眼光となっている。
この人は、真剣に頼んでいるんだ。一瞬で彼も理解した。瞬きをする暇もなければ、目を逸らす暇も無い。洋介が、一片の迷いも無く、知君ならば頼むことができる。彼以外の者には任せられないと、信じて疑っていない瞳だった。
自分はこの人から、大切な者を奪い取ってしまったというのに。それでも彼は、それを嘆くでなく、憎むでなく、全て受け入れて見せた。気にするような事ではないと、広い懐に飲み込んでみせた。あまりに大きくて、深い心。それはきっと、自分には無いものだと少年は理解する。彼が持ち合わせているのは、ただの諦めの良さでしかないと。しかし、洋介は違う。仕方の無いことは仕方が無いと認め、その上で譲れないもののために、抗っている。
「僕なんかが……また、そんな事してもいいんですか?」
「いいともさ。いや、君が拒むなら無理強いはしない、できないんだ。君が戦うかどうかを決めるのは私達ではなくて君自身なのだから」
「僕自身の、意志」
「そう、君の意志だ。琴割さんが駄目というからしないのではない。誰かに求められたから向かうのではない。君が誰かを救いたいと、そのために巨悪を討ち倒したいと願う時に行くべきなんだ」
「でも……それでも……」
- Re: 守護神アクセス ( No.92 )
- 日時: 2018/07/11 16:28
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: EnyMsQhk)
知君にしか見えない幻覚がまた、ひたひたと足音を立ててにじり寄ってくる。うろのような真っ黒な孔を、目の代わりに見開いた人影が、三つ、四つ。ただひたすらに、知君への恨み言だけを囁いている。
その内の一つは、無理やりに奪い取られた代物である、ウンディーネのものだった。真っ黒に塗りつぶされた虚ろな眼窩が、立ち上がった洋介の顔と重なった。同時に、また吐き気のように体の奥からせり上がってくる罪悪感。麻痺してしまったかのように、喉が上手く動かない。気道が開いた実感が無く、吸い込んだはずの空気が肺にいきわたらない。苦しくて、辛くて、過呼吸のようになって喘いでしまう。
「でも、またどうせ僕は、誰かを不幸に……」
「俺がいつ不幸だと言った!」
途端に、部屋の壁を震わせるような大きな声。一瞬叱られたのかと、知君は怯えた目をしながら体を洋介と反対側に逸らした。しかし、洋介の表情に怒気など微塵も孕んでいない。その顔はただ、切実に、この場に居ない誰かの安全を願っていた。王子 光葉の、無事を願っていた。
「俺はまだ生きている。君が白雪姫を無事に倒したからな。俺の息子は恵まれている、あんないい子と契約できたのだからな。俺とて恵まれている。こんなに強くたくましく、優しい仲間に出会えたのだからな。知君 泰良、君の事だ。そして光葉は、やはり誰よりも恵まれている、こんな素晴らしい学友に恵まれたのだからな。それだって君のことだ。もう一度言うぞ、俺が誰のせいで不幸になったというのか言ってみろ。きっと分かっていないのだろうな、俺が今『こんなにも幸せ者だ』という事なんて!」
何も、反論などできなかった。一体何時から、自分は彼が不幸の只中にいるだなどと錯覚していたのだろうか。彼はここを訪れてから、一度として知君に詰め寄り、誹り、詰るようなことなどしなかったというのに。むしろ王子を諫めていたというのに。知君のことを労わってくれたと言うのに。
一体どうして、自分が恨まれているのだと思い込んでいたのだろうか。
洋介はその沈黙を、知君が彼の言葉を信じられていないからだと判断した。それゆえ次々と、自分が幸せだと感じる論拠を述べ始める。その理由なんて、もうとっくに耳にしていた。もうすぐ孫が生まれること、二人の息子が共に大きく育ったこと。後輩たちが立派になったことに、次男坊の友人が、大層立派な正義の味方であること。
そうだった。この人は、一つとして嘘偽りなど口にしていなかったのだと、ようやく理解した。上司というには、所属が違う。血も全く繋がっていない。旧知の仲でも無いと言うのに、この男は、易々と自分の後ろ向きな心を、無理やりにでも前を向かせようとしてくれているのだと。
恨んでいる訳でも、利用しようとしている訳でもない。ただ、目の前で自分が苦悩していたから。だから手を差し伸べずにはいられなかった、それだけ。自分の行動理念と、何一つ変わらない。そして、自分のよく知る、クラスメイトの彼と、信じ貫く想いが、何一つ変わらない。
誰かのために。知君の周りではありふれてしまっている、そんな偽善にもとられかねない行動理由。けれども、その想いを向けられた自分だけが理解できる。横目に見た誰かが何と評しようと、その根底にある感情は、優しさ以外にあり得ないと。
その暖かい感情が、思いやりが、ようやく少年の胸の奥にまで響き渡る。空っぽだった体の奥に、じんわりと何かが詰められていく。優しさほど甘くなくて、勇気のように自力で沸き立たせるものでもない。これは間違いなく、他人から受け取る感情だ。
この感覚に、名前を付けられないほど彼は馬鹿ではない。すぐに悟った、今自分はかつて傷つけてしまった人から期待されているのだと。
「決めるんだ、知君くん。口にするんだ、本心を。行きたいのか、ここでじっとしていたいのか。他の人達を信じて待つのか、待ちきれずに迎えに行くのか。選べるのは自分一人だけだ」
「いいんですか? また、誰かを傷つけるかもしれない。失敗しちゃうかもしれない。そんな僕がまた、戦うために立ち上がってもいいんですか?」
「いいに決まっている。君なら、同じ間違いはきっと繰り返さない。護りたい者全員、漏らすことなく救って見せる」
「僕は……待ってなんかいられない。今すぐ、皆の横に並び立ちたい。認めてくれたんだ、もう一度認めてもらいたいんだ。だったら答えなんて、もうとっくに出てるに決まってます」
それは奇しくも、真凜が壊死谷を前にして、絶望していたあの時。再び、立ち上がろうと決めた時に一人呟いた言葉とよく似ていた。
満ち足りた想いの中、不意に涙さえ湧いてきそうになるが、それを何とか堪える。これから先の戦いには、涙など必要無いから。
それは奇しくも、王子が初めて人魚姫と出会ったあの日。彼が手放しかけていた夢を、再び握りしめなおした瞬間に考えたこととよく似ていた。
「トラウマなんて理由にして、ここでじっとしている人が、認めてもらえる訳ありません。だから行くんだ、だから戦うんだ。ここで奮い立てない人間なんて、一生かけても死んでも認められる訳ないんだ」
その言葉は、理念は、いわずもがな奏白から引き継いだ代物だった。
これまで、自分だって多くの人の言葉を想いを一心に吸収して、生きてきた。成長してきた。琴割の躾は厳しかったかもしれない。研究員たちの目が冷たかったかもしれない。それでも彼らの教育があったから、今の自分がいる。今の自分だからこそ、真凜達から認めてもらえた。
「だとしたら、全部受け入れるしかないんだ。感謝するしか無いんだ。僕はずっと、奪うことしかできないと思っていた。けど……こんな僕が、誰かの怒りを憎しみを、悲しい感情を全部奪うことができるというなら、それはその人に、幸せをあげることができる。ですよね? 洋介さん!」
「ああ、そうだ」
なら、君のことも受け入れなければならないんだね。何も手にしていない、その掌を見つめる。脱力し、柔らかくほんの少し曲がった指は、そこにphoneがあるかのような形で、何もない空間を支えている。
そう言えば、一つ失念していたと、知君は不意に顔を青くした。
「どうしましょう。Phoneを渡したままだから、callingできません」
先ほど、怯えていた知君に親心を示した琴割が持ち去ってしまっていた。流石に端末が無ければ知君とて守護神アクセスを行うことはできない。ようやく心の準備はできたというのに、あと一歩の勇気を踏み出せそうだというのに、足りない。
いつもいつも、パズルの最後の位置ピースが足りないんだ。決してハッピーエンドの絵柄を完成させないようにと、誰かがその欠片を隠してほくそ笑んでいるみたいに。小さく悪態をついて、自分の膝を殴りつける。
そんな時だった。皺や擦り傷が深く刻まれた、石のようなごつごつとした拳が目の前にすっと現れたのは。掌を見せるようにくるりとその手首が返った。目に飛び込んできたのは、使い古されたであろう、ところどころ傷のついたphone。持ち主は当然、洋介に他ならなかった。
自分にはもう使えないから。悔しそうに握りしめた知君の手を優しく開いて、その手に自分が所持していた端末を収めた。
「受け取ってくれないか?」
「洋介さんの、ものですか……?」
「ああ」
本当は、太陽にでもくれてやろうと思っていた。これからはお前が代わりに頑張ってくれと、意志を託すつもりで。しかし、その必要が無いほどに彼はもう、大人に育っていることだろう。ならばこの端末は、渡すべき優秀な若手に託しておくべきではないだろうか。ふと、そのように思えた。
Phoneは本来、持ち主と設定している人間にしか使えないようになっている。しかし、自分が守護神アクセスできなくなった以上、洋介にはもう使えない。それならと、開発部局の者に依頼して、本体設定を初期化してもらった。それこそ息子にでも受け継がせようとして。
「だがこれは、君が持つに相応しい」
「でも、僕は受け取れませんよこんな大切なもの。謙遜なんかじゃなくて、これは洋介さんの家族が」
「いや、いいんだ」
これを知君が持ったとしたら、その時きっと、あの日ウンディーネを奪い取られた認識さえ、変わってくれる、そんな気がした。あの日知君が無理やり守護神を奪い取ったのではない。勝利のために、洋介がその力を授けたのだと。
「これで君は、自分が許せるかな」
「そのため……ですよね。はい、もう大丈夫です。ここまでしていただいて、後ろなんて向いていられません!」
「……赤ずきんを倒したら、うちにでも来ないかね。俺の後輩として、太陽の同僚として……もう一人の息子の、友人として。妻に、あの子らの母に、紹介させてほしい」
「ありがとうございます。絶対、絶対王子くんと仲直りして、伺わせてもらいますね!」
「ずっと塞いでいたのが嘘のようだな。じゃあ行こう、車は出そう」
ふらつきながらも、起き上がる。精神の調子がよくなったからか、何とか一人で立つ事が出来た。少し慣れれば、すぐにでも走り出せそうだ。
病院服で向かわなければならないのが、少し恥ずかしいけれど。そんな風に思っていたところに、まるで示し合わせたように琴割が入室する。
「ことわっ……りさん」
「安心しろ、止めへんから」
柔らかな塊を知君に投げる。胸に当たったその布を、何とか受け止めた。見慣れた色合いのスラックスに、ブレザー。彼の通う高校の制服だった。スーツが捜査官の正装であるように、知君にとっての正装はそれに他ならない。
再起の可能性も信じて、一応準備しておいてくれていたのだろう。本当に、あれだけ冷たかった人が、よくもこんなに変わったものだ。彼が代わったのは奏白の影響だと言う。やっぱり、奏白さんはお兄さんみたいな人ですねと、くすぐったい笑みを他の人に見えないように漏らした。
「行ってきます!」
「おう、信頼しとんぞ。ああ、それとな知君」
お前その呼び方もうちょい何とかならへんのか?
脈絡なく琴割が問いかける。何を指しているのか分からない知君だったが、携帯電話を耳に押し当てるような動作から、何となく指している言葉を察した。
「お前ぐらいやぞ、そんな呼称を未だに引きずっとんのは」
「……そうだな。知君くん、俺が恩師にかつて教わった言葉を教えよう。強い意志というのは、言葉に宿るものなんだ。『勝つ』のではなく、『勝ち抜く』んだ。ただ『やる』のではなく、『やりとげる』んだ、と」
君が“生まれ変わった”というその事実は、言葉から主張してみたまえ。そのように諭された。言わんとしている意味は、よく分かる。確かにそれは、今の自分にとって変えるべき代物だとは自覚できた。
「そうですね、僕も丁度思っていたところです。“皆と一緒に”戦ってるんだ、って。独りよがりじゃない、誰のために戦うか、もう一度見直した僕を見せるために」
「はあ。男子三日あわざれば刮目して見よとはよう言うたもんじゃ。こいつ数分目ぇ話しただけで顔つき変わりよったわ」
「帰る時には、もっと変わってますよ」
「そしたら祝いに服でも買ったるわ。お前学生服しかもっとらんしのう」
「王子くんに選んでもらいますね」
「そうしろそうしろ。金だけ出したるわ」
着替えは車内で済ませればいい。病院着のまま知君は、洋介に並び立って駐車場の方へと駆けていく。院内専用のスリッパのままだというのに。
「まあ、ガキなんじゃったらそんぐらい向こう見ずな方がええもんじゃのう」
少年の力で、多くの人が代わっていった。奏白がより成長して、真凜が志を新たにして、王子は理想を手に掴み、彼らが琴割の反省を促した。そして結果、変わったのは何も、周囲の人間だけではない。彼自身もまた、支えてくれる人々の影響で、変わりつつある。
本当に、眩しくて仕方が無い。
「愚息のことを、よろしく頼む」
薄い彼の身体を押す追い風のように、洋介は少年の背中を叩いた。楔のようにその願いが、受け継ぐべき矜持が彼の中に打ち込まれていく。
これまでの不幸も、理不尽も、全て自分を構成してきた大切な思い出。そんな風に受け入れられる老獪さ。それさえ、自分の糧として見せる。
力強い声で、知君は洋介の申し出に応じて見せた。