複雑・ファジー小説

Re: Abyss × Alice ( No.1 )
日時: 2018/02/10 02:11
名前: 津波紀 (ID: vGUBlT6.)

 目を覚ましたアリスの視界に最初に飛び込んで来たのは、灰色の天井だった。
「やあ、お目覚めの様だね」
 アリスがゆっくりと上半身を起こすと、壁も床も全部が灰色の部屋の中、相も変わらず黒いチョッキを着た白兎が傍に立っていた。アリスは思わず目を瞬く。
 周囲を見渡し、ぼうっとしているアリスに白い手を伸べながら、白兎が言った。
「立てるかい?」
 しかしアリスは何も答えず、差し伸べられた掌と、白兎の顔を交互に見ている。とろんとした瞳と、半開きの唇。向けようとして向けられているのかすら曖昧な視線を受け、白兎は溜め息を吐いた。アリスの呆けた顔を正面から覗き込む。
「アリス、僕が分かる?」
 目を直接合わせられ、又は声を掛けられて漸く気が付いたのか、アリスは数回瞬きした後に自分の頭を掻いた。彼女の纏うぼんやりとした雰囲気はさっと散り、些か目付きもしっかりとして来た様に見える。アリスは軽く息を吸い、少しだけ迷いながら話し始めた。話し始めたといっても、ぼそぼそと、随分歯切れの悪い語り口であった。
「貴方は……そう、白兎。分かるわ……白兎……? ええ、白兎よ……兎なの……」
「……何処か悪いのかい、アリス。君らしくもない」
 片頬だけで笑いながら問う白兎。
 アリスは少しの間を置いて、そしていきなり口を開いた。
「いいえ。私は今凄く健康」
 さっきまでの口調と一変し、きっぱりと断言したアリスは、勢いよく立ち上がった。スカートの裾が一気に広がる。白兎はその勢いに思わずのけ反って苦笑した。膝を伸ばしながらゆっくりと立ち上がる。
「どうやら、君の中に混乱はあまり無いみたいだね」
「そう見える? でも私、頭の中は結構ごちゃついてるわ」
 白兎は頷いた。
「僕もだよ」
「嘘でしょう? 凄く平然としている様に見えるもの。この状況はてっきり貴方の悪戯かと思ったわ。違うのね?」
「勿論、違うさ」
 肩を竦めた白兎に対し、アリスは鋭い溜め息を吐く。そして今一度、白兎の姿を耳の先から足先までゆっくりと眺め……もう一度息を吐き出した。
「兎に角、私は今とても多くの疑問を抱えているの。例えば……そうね」
 不意に、アリスと白兎との目が合った。
「貴方、『白兎』の筈じゃなかったの?」
「僕はまちがいなく白兎さ。ほら、耳が白いだろう?」
 白兎は自分の大きな耳を指差した。
「私は『白』の方を疑っている訳じゃないの。『兎』の方を疑っているのよ」
「ああ……そうかい。それでも僕は白兎さ」
 白兎が喉の奥で笑う。
「名目上は、ね」
 そう言って、どうだい、似合ってないかい、と人間と変わらぬ形の両腕を広げてみせた。穏やかでいて時折冷たく光る深紅の瞳も、すらりと伸びた長い脚も、薄い笑みに歪む唇も____ただ一つ、天井に向かって飛び出た白く大きな耳を除けば____全て、白兎は、アリスの様な人間達と何ら変わらない姿を取っていた。
 アリスは無遠慮に白兎を眺め回す。一歩近付いてみると、アリスより大分背の高い事がはっきりと分かった。目を細めて笑う仕草も、『只の兎だった頃』よりはいくらか様になっている。しかし、どうにもアリスは胡散臭く思えてならなかった。
「どうして、そんな姿に?」
「それについてはおいおい考察するとしよう。今は、この状況について考えないかい? どうやら僕らは閉じ込められている様だ」
「確かに。それに、此処は不思議の国でも、鏡の国でも無さそうね」
「ああ。しかも僕はさっさと此処を出たい」
 白兎はぐるりと部屋を見渡した後、アリスを見下げて言った。
「君の様な年寄りと一緒に居るには、どうも息苦しくてね、この部屋」
「私はまだ17よ」
「僕は13歳以上の女性を魅力的だとは思わない……って、前に言わなかったかい?」
 アリスはきょとんとした顔で白兎を見た。初めて聞いたわ、と首を横に振る。
「そうかい。以前言った気がするんだけど」
「聞いたこと無いわ。貴方がロリィタ・コンプレックスだったなんて」
「きっと君は忘れてるんじゃないかな」
 暫く大袈裟に考えるふりをした後、白兎はおどけた口調で言った。
「年寄りの証拠さ」
 白兎を冷たく睨めつけてから、アリスも改めて部屋を見渡した。
 するとアリスの視界に、脚が長いテーブルが飛び込んで来た。例えるとするなら、今まで消えていたのが突然現れたかの様に、それには存在感がまるで無かった。少なくとも、アリスの視界に入るまでは。アリスがその気味悪さに思わず一歩退くと、反対に白兎は一歩前へ進み出る。きらりとその瞳が光った様にアリスには見えた。
 テーブルの上、その真ん中には、何の変哲も無いガラスの小壜が置かれていた。中に、形容出来ない様な怪しい色をした液体が三分の二程入っている。唾を飲むアリス。白兎はわざわざ白い手袋を取り出してそれをはめ、ゆっくりとその小壜を持ち上げた。目を細めてじっくりと液体を睨む。
 一方アリスはというと、この小さな壜に凄まじいデジャヴを感じていた。否、デジャヴとは言えない。デジャヴとは実際に見たことの無い物に対して湧くものであるが、しかし確実にアリスはこの壜を過去に見たことがあった。怪しげに揺れる液面。その静かな音にも暗喩が含まれているかのようにアリスには聴こえた。器用にくるくると壜を回し、古めかしいラベルの貼られている面に差し掛かった時、白兎の手が止まった。ラベルをなぞる様に繊細な指先を動かす。
 暫くして、白兎は前触れも無く笑い始めた。声を上げてではなく、そう、あの猫に似ているにやにや笑いをしている。アリスはちょっと目を瞬いた後、よく理解出来ずに首をかしげた。
「……ははあ、成る程」
 そう呟いた白兎は、その小壜をいぶかしがるアリスに差し出した。無論、ラベルの面を上にして。
 アリスはそれを恐る恐る受け取る。そして程なくして白兎の笑みの意味を知り、思わず深い嘆息を漏らした。
「ああ」
 アリスは叫ぶ。
「もう一度、やり直せと言うの?」

 ラベルには、こう書いてあった。

『わたしをおのみください』