複雑・ファジー小説

Re: AnotherBarcode -アナザーバーコード- ( No.2 )
日時: 2020/12/07 18:15
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)
参照: https://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=article&id=2188

【番外編】No.01 雨


 彼が今日も嗤っている。暗雲に蓋をされた天を仰ぎ、体を仰け反らせ、狂ったように、けたたましく。
 狂ったよう? 違う。彼は狂っているのだ。そうでなければ、誰かの死体を抱き締めながら嗤うなんて、そもそも誰かを殺すなんて、出来るはずがない。彼は、狂ってしまったのだ。どうしようもなく、取り返しのつかないほどに。

 荒廃した町並みには、崩れた瓦礫と曇天に覆われた灰色の景色が広がっている。色の無い風景の中、不自然な程鮮やかに大地を染める色を、青年は忌々しげに睨み付けた。
 紅蓮バーコードと呼ばれるバケモノがいる。心臓の上に刻まれた、どす黒い血の色をしたバーコードが、殺人衝動を引き起こさせているらしい。元々は優しい人間であったはずの彼でさえも、バケモノに造り替えられてしまっては、その衝動には抗えないようで、今こうして目の前で、死体を手に嗤っている。お気に入りの人形で遊ぶ子供のように、大切そうに死人の身体を抱き締めているのだ。

 青年——ミドは、彼の真似をして天を仰いだ。何処までもどんよりと重たい鉛色の空が視界に広がる。その欠片を閉じ込めたようなミドの瞳には、疲憊が浮かんでいた。
 親友が、ヒト殺しのバケモノになってから、どれくらい経つだろう。紅蓮バーコードになってしまった時点で、親友が殺処分されるのは時間の問題だった。命を奪うだけの危険なバケモノを生かしておく理由など、ありはしない。ミドの心臓の上には群青バーコードがある。それは、実験の成功を意味する色で、ヒトの命を弄ぶ狂った研究員達には、大層喜ばれた。

『君のお友達は使えないどころか、ヒトの命を奪うだけの野蛮なバケモノになってしまったけど、君には利用価値があるよ。おめでとう』

 ヒトの命をなんだと思っているのか。野蛮なバケモノはどっちであろうか。あの研究施設でのやり取りを思い出すだけで、喉の奥がチリチリと熱くなってくる。
 親友が殺されてしまう前にどうにかして逃亡を図ったはいいが、親友はもう、かつての優しい青年ではなくなっていた。微かに残された理性で抑えているのか、何故かミドの命を狙ったことは一度もなかったが、無差別に他人を襲うようになったのだ。バーコードになった時点で得た〈能力〉を使って、誰彼構わずその身体を穿ち、引き裂き、殺した。彼の色素の薄い肌にこびり付いた鉄の匂いが消える日は来ないのだと知って、ミドは絶望した。
 ぽつり、と。頬に当たる冷たさに気が付く。零れそうなほど重たい雲が、遂に落ちてきたらしい。灰色が、涙を流すみたいに、ぽつり、ぽつり、ぽつりと、町並みを濡らしてゆく。親友の白い髪や服や肌の鮮血を、全て洗い流してくれるだろうか。

「ロティス……」

 帰ろうよ、と。親友の名前を呼んだ。自分たちに帰る場所など無いくせに。雨風を凌ぎ、就寝するためにいつも使っている半壊した住居はあるが、それを帰る場所とは、呼ばない気がする。
 ロティスの手からズルリと誰かの死体が落ちて、その場に転がった。衝撃で飛び散った血飛沫が、またロティスを染める。見たくない。ロティスが汚れるのを、これ以上見たくはなかった。
 彼はゆったりとした足取りでミドの方へ近付いてくる。既に雨水の染み込んだ少しだけ長い髪の先から、パタパタと雫が落ちる。血を含んで仄かにピンク色に染まっていた。
 親友は、紅蓮バーコードになってから、極端に口数が減ってしまった。ミドと言葉を交わすことを避けていたのかもしれない。ミドとしても、あまりロティスとの会話を試みたいとは考えなかった。嬉々としてヒトを殺す彼のことを、内心恐ろしく思っていたのだろう。今のところは、ミドには手を出してこないが、いつその切っ先がミドの腹を抉るのか。想像もしたくなかった。

 雨足は次第に強くなっていく。降り出す前から聞こえていた雷の音が、大地を揺らす。既に水中にいるみたいに、全身が雨水を吸い込んで、冷たさや不快感さえも感じられなくなってきていた。
 ミドはチラリとロティスの方を見た。浴びたはずの鮮血も大分流れ落ちたようで、元の白い髪と空色の瞳と、灰色の服を纏った病弱そうな肌の男に戻っていた。こびり付いた血の匂いだけは、洗い流せそうもないが。
 濡れて身体に服が張り付いた事で、ロティスはなんだか妙に頼りなさげに見える。ふと、この弱々しい男に、ヒトを殺せるのだろうかという思考がミドの脳裏をよぎる。そうだ、ロティスは気立てが良く、温厚で大人しい青年であったはずだ。だから誰かを殺せる筈など無い。なのに。
 何処か虚空を見据えていた空色の瞳と、視線が合った。心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えて、咄嗟に目を逸らす。ミドがよく知る蒼穹を思わせるあの瞳はもう、どこにも無かった。濁った殺気の燻る空色が、頭に焼き付いて離れない。心臓の音が喧しくて、一瞬だけ、呼吸も忘れていたように思う。

 親友の目を見て、確かに“殺されるかもしれない”なんて考えてしまった。

 ミドは奥歯を噛み締めた。ロティスが自分を殺すはずがない。彼はこれから先、誰を殺す事があっても、ミドを殺したりなんてしない。しないはずだ。それにいつか、誰も殺さないロティスが帰ってくるかもしれない。ロティスだって、誰も殺したくない筈だ。時々ミドの頭をよぎる“これ以上彼が誰かを殺し続けるくらいなら、自分の手でロティスを楽にさせてあげよう”という考えが、再び思考の端に現れる。
 ロティスに、ヒトを殺してほしくはない。ただ普通の人間として生きてほしい。そう願うことさえもきっと、許されないのだろう。自分達はもう、人間ではないのだから。

 ふと、叩きつけるような大粒の雨が遮る視界の先に、人影を見た。こちらにはまだ気が付いていないらしい。人影、と呼ぶにはかなり歪な形をしていた。やけに大きな深緑の皮膚に覆われた手足に、同じ色をした長い尻尾まで付いている。明らかに人間ではない——そもそもこの街で出会う者が、人間であるはずなどないのだが、兎に角獣化の〈能力〉を扱うバーコードであることに間違いなかった。
 立ち止まるミドの横を、ロティスが通り抜けて前に出る。獲物を見つけた狩人の思考には、ただ殺す事以外の余計なものは何もない。

「ロティスッ、駄目だ……!」

 ミドは慌ててロティスの腕を掴んで、建物の影に引っ張った。ロティスの首がゆっくりとこちらに向けられて、殺意に染まってドロドロとした空色が、じっとりとミドを睨みつける。一瞬怯みかけたが、それでもミドは、ロティスに誰かを殺してほしくなかった。

「お願いだからもう……誰も殺すな」

 恐ろしい彼の瞳を真っ直ぐに睨みつけて、ミドは言う。親友はそんな願いなど意に解さず、ミドの腕を振り払おうと激しく暴れる。それでも放そうとしないミドを、ロティスは冷たく見つめる。

「邪魔、だ……」

 声と同時に、ロティスの影が蠢いた。地面に張り付いている筈の影の中から、真っ黒の槍のようなものが飛び出す。切っ先がミドの喉元に軽く食込んで静止する。思わず情けない声が漏れた。影は氷のように冷え切っていて、触れた皮膚から体温を奪われていく気がした。
 どうすれば、どうすれば。死の恐怖に、ミドの足も指も震えていた。痛いほどに心臓が胸を打つ。親友が自分に対して殺意を向けて来たことを、信じたくなかった。だからって、ロティスが誰かを殺すのを見るのはもう嫌だった。

 その時のミドは、自分がまともな思考をしていないことを自覚していた。それでも、それを行動に移そうと決意した。

「じゃあ……あのバーコードは、僕が殺してくる」

 ロティスの瞳が揺れた。面食らったように、口を開いたままの彼をおいて、ミドは走り出した。


***


 赤と、朱と、紅とが、轟々と思考を支配するのは、もうどうしようもないことだった。それでもたった1人だけ、自分の中に残った最後の人間らしさが“殺したくない”と叫ぶ存在がいたから、殺さないように、殺したいのに、殺さないように、殺したくないから、殺さないように、殺したくても、殺さないように、殺さないように殺さないように殺さないように、今日まで、どうにか踏み止まっていた。もう、名前すらもよく思い出せない、大切だったはずの、殺したくない殺したい、誰か。
 震える灰色の瞳が、ロティスを射抜く。邪魔をするなら、殺してしまおうかと思っていたはずなのに、目の前の青年が誰であるかもわからないのに、その雨雲のような色が、どうしてかロティスの殺意を鈍らせた。
 しばらく黙って睨み合っていたが、先に口を開いたのは彼の方だった。

「僕が殺してくる」

 え、と。掠れた音が喉の奥から溢れたが、彼がそれを聞き届けることはなかった。引き攣った笑みを浮かべ、彼は走り出す。蜥蜴のような男の元へと。遠退いていく赤毛の後ろ姿を、ロティスはぼんやりと見つめることしかできなかった。

 雨音に紛れて接近する青年に、男は気付けなかったようで、避ける事も受け止めることもできず、側頭部を殴打され、よろめく。よく見ると、青年の拳が鉛色に変化しており、硬化の〈能力〉を使ったのだと理解した。
 怯んだ蜥蜴男にもう一発、と赤毛の青年が拳を振り上げる。
 が、その一撃が届くより先に、閃光のような速さで蜥蜴男の右手が、彼の肩を抉った。視界の悪い豪雨の中でも、場違いなほど鮮やかな血飛沫が宙に舞うのが見えた。
 衝撃に耐えられずに、彼の身体が地面に転がる。直ぐに立ち上がって、蜥蜴男に殴りかかろうと繰り出した右手は、呆気なく受け止められてしまう。
 男は、掴んだ腕を引いて、地面に叩き付けると、仰向けになった彼の肋骨の辺りに、足を振り下ろした。

「——ッあ''、アァ……!」

 ベキベキ、と。骨の砕ける音と断末魔に、耳を塞ぎたくなった。なんとか逃れようと彼が藻掻くが、震える四肢に上手く力が入らないらしく、痛みに耐えようと食い縛った口元から血液が溢れだす。
 蜥蜴のような男は、踏み付けた足はそのままに、ゆっくりと腰を落として、赤毛の彼の顔を覗き混んだ。爬虫類を思わせる琥珀色の眼には、研ぎ澄まされた殺意が静かに燻っていた。
 青年の喉元を、鱗に覆われた大きな掌が覆って、とどめを刺そうとする。

 それを視界に捉えた瞬間、ロティスは駆け出していた。
 赤色に支配された殺意とは違う。何かがロティスを突き動かしていた。
 殺したくなかった、今日まで必死に殺したくても殺さぬように衝動を抑えつけてきた。大切な存在だった筈だから。
 ——その手を放せ。そいつは、俺の……親友だ。
 此方の殺気に勘付いた男は、咄嗟に立ち上がり距離を取ろうとしたが、ロティスがその脾腹にナイフを突き立てるほうが速かった。
 男の一撃を食らわされる前に、素早くナイフを引き抜いてロティスは後ろに飛び退く。迸る鮮血の香りは、やはり心地良かった。
 自分は親友のために駆け出したのか、紅蓮バーコードとしての殺人衝動に突き動かされただけだったのか。残念ながら、きっと、後者なのだろう。ナイフにこびり付いた血を見ていると、何も考えられなくなってしまう。ただ、殺したい殺したい殺したい。ロティスの脳裏にあるのはそれだけだった。
 対峙する男は刺された患部を押さえつけて、荒い呼吸を繰り返す。しかし、その瞳に浮かぶ色は殺気のみで、死に対する恐怖のようなものは感じられなかった。
 怯える生き物を貫く方が楽しいに決まっている。ロティスはつまらなさそうに自らの影を蠢かせる。男が身構えたが、遅い。次の瞬間には影から伸びた無数の黒い槍が蜥蜴男の身体を貫いた。

「がっ……」

 男が地面に崩れ落ちて、動かなくなる。身体から滲み出る鮮血は、雨に薄められてピンク色に変化していた。

「なんだよ。案外大したこと——」

 突如、右脚を襲った強い痛みの正体にも気付けないまま、ロティスはバランスを崩して地面に倒れた。ああ、蜥蜴男に抉られたのか、と気付いた頃には腹部に耐え難い痛みが走り、せり上がってきた血液を口から吐き出した。

「は……ク、ソ」

 痛みに目眩がする。それでも、どうにかして再び影を伸ばす。黒い影でできた槍の切っ先が、男の肩を穿いた。瞬間、なんとなく、爬虫類のような瞳の中に、悲愴を見た気がした。

「……シャド……」

 男は、掠れた声で誰かの名前を呼んだ。苦しそうに見えたのは、けして痛みによるものだけでは無かったように思う。
 蜥蜴男は、ロティスにとどめは刺さなかった。刺せなかったのかもしれない。大量の血を滴らせながら、覚束無い足取りで去って行った。

 取り残されたロティスは、地に伏したまま動けず、呼吸を繰り返すたびに鋭く痛む腹部に視線をやって、ゾッとした。生きているうちに、自分の内蔵を直接目にする日が来るとは思わなかった。
 身体が冷えてゆく。雨の冷たさによるものではない。きっと自分はこのまま死ぬのだと悟った。打ち付ける雨音は、逃れ難い死神の舞踏に聞こえる。
 顔を横に向ける。青年の赤い髪が見えた。名前も思い出せなかった筈の、親友。
 ロティスは、もう殆ど動かない腕を必死に伸ばす。

「ミ、ド……」

 ああ、何故今まで忘れていたのだろう。大切な友の名を。
 ミドの瞼が僅かに動いた。そうして、ゆったりと開いた目は、酷く濁っていた。
 横たわるミドも、もう身体を起こすことも出来ないらしい。そのくせ、なんとか口角を上げて、笑ってみせた。

「生きたか……った、ね」

 無理に声を出したせいか、ミドの口元からまた血液が溢れてくる。それも直ぐに、打ち付ける雨水に流されて薄まってしまう。
 ミドも、ゆっくりと腕を伸ばした。そして、ロティスの掌に触れる。豪雨に冷やされた筈の指先は、仄かに暖かく感じた。頬を伝う雨も温かい気がしたのは、どうしてだったのか。その答えすらも流されて、全てが終わる。自分たち自身も、雨になってしまったような気がした。


***
ジンと出会う少し前。トゥールが殺してしまった、誰かの話。

シリアスブレイク過ぎて書くか迷った余談ですが、ミドとロティスの名前の由来はアオミドロとミクロキスティス。微生物です。微生物ネームは初めてであり、ジンの名前の由来がミジンコ、なんてことはありません。