複雑・ファジー小説
- Re: AnotherBarcode アナザーバーコード ( No.26 )
- 日時: 2020/05/17 22:20
- 名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)
「どれくらい、眠っていた」
「30分くらいですかね。クラウスさんとお話してたのがそれくらいでしたから」
そう言えばクラウスが既に彼女らと仲良さげにしていたことに気付く。30分で初対面のヒトと仲良くなるなんて。その点に関しては尊敬するな、なんてトゥールは密かに思った。
「クラウスがああいう風に笑うのは久しぶりに見た」
最近はハイアリンクや紅蓮バーコードの襲撃が多く、ずっと命の危険に晒されていたから。そうして、頼みの綱であるトゥールが負傷したこともあって、気が気でなかっただろう。だが、レイシャ達と会話をしているうちに、クラウスは笑顔になっていた。久しぶりに安心することができたのだろう。
目を細めるトゥールを見て、このヒトはやっぱり怖いヒトじゃないんだな、と思ったレイシャは笑いかける。
「お2人は友達なんですか」
「いや? 友人だと思ったことは無いな」
「弟さん、のような存在ですか?」
「近い……? いや、そんなことも無いな。あいつの事はよく分からない。クラウスが勝手に付いてくるだけだ」
案外冷たい言い方をするものだから、レイシャは肩を落とす。
「まあ。クラウスさん、必死になってあなたの事運んでたのに、そんな言い方するんですか」
「いや……仲間、だとは思っている」
「そうなんですか。ふふ、あの、クラウスさんとトゥールはんは──」
突如響いた甲高い悲鳴が、レイシャの言葉を遮る。
ネーヴェの声だ。トゥールは、咄嗟に最悪の事態に気付いた。クラウスが赤色に呑まれているんだ。こんなときに。
「レイシャ、今すぐに逃げろ!」
トゥールは声を荒げた。じくり、と僅かに腹の傷が痛んだが、動けないほどではないだろう。
レイシャは困惑した様子で言い返す。
「逃げるって、でも今のネーヴェの声ですよっ」
「俺が何とかするから、お前は自分の身を守れ」
「身を守るって、何ですか。クラウスさんが何かしたんです!? それならネーヴェを見捨てるなんて無理です、私はあのヒトに助けられたんだから……!」
トゥールの説得も虚しく、レイシャはネーヴェとクラウスの元へ駆けてゆく。慌ててトゥールも台から降りるが、左脚に激痛が走って、床に崩れた。歯を食いしばって、どうにか立ち上がり、左脚を引き摺りながら彼らの元へ急ぐ。1歩ごとに左脚は勿論、脇腹や背中にまで酷い痛みが走る。思わず壁を殴った。こんな時に、痛みに負けている場合ではないのに。
「クラウスさ、なんで……いやああああ!」
レイシャの悲鳴が木霊した。トゥールは体に鞭を打って、隣の部屋に駆け込んだ。
でも、遅かった。
見なくともわかっていた。鼻につく臭いが、辺りに充満していたから。嫌でも想像がついて、否定したかったそれも結局は真実になる。
佇むクラウスがいて、彼の見下ろす先には亡骸の彼女が横たわっていた。傍らには血のついたナイフ。クラウスの指先から垂れた水滴が無色で無かったから、もう何も否定させてはくれなかった。
ゆっくり、ゆっくりとクラウスがトゥールの方に顔を向けた。力のない表情よりも、頬に付着した乾いた赤色に視線が行く。
クラウスが、ナイフを掴んで、トゥールに突進してきた。それを、素早く彼の両腕を掴んで阻止する。
「クラウス……!」
ナイフを握った腕をしっかり掴んで、クラウスがトゥールに攻撃できないように押さえつけていたが、しばらくすると、カラン、と音を立ててナイフが床に落ちる。そうして、クラウスも床に崩折れた。
「クラウス」
赤色の衝動は収まったらしい。立ち上がらせようと、トゥールが手を差し出したが、クラウスはそれを振り払って、部屋の外に駆け出した。
未だに痛む脚で、トゥールもその後を追ってレイシャ達の病院を出た。
月明かりが震える青年の背中を照らしている。クラウスは病院の前で蹲っていた。自分の真っ赤に汚れた両手を、信じられないものでも見るみたいに見下ろして、引き攣った声で笑った。
「はははっ、生きてる、オレは生きてる! レイシャが死んで、でもオレは生きてる! やったぁー、明日もオレは生きてられるー……あははははは、は、は」
ぷつん、と声が途切れる。クラウスはゆらりと立ち上がって、覚束無い足取りで少し歩いた。
「ねぇ。オレ今、すごく安心してるんだ。レイシャが死んでるの見て、オレが殺したのに。安心してるんだ。この、死んでるのは、オレじゃないって事に」
──同じだ。俺も、殺すと安心する……。
トゥールは、声に出さずにそう答えた。
吐息。クラウスの半開きの口から、疲れきったそれが漏れた。それから、諦めたみたいに張りのない声。
「疲れたなあ……」
何に、とは聞かなかった。それから紡がれる言葉が、空気を震わせる。
「*してよ」
掠れた雑音。上手く聞き取れなかったのか、聞こえた上で脳の処理が追いつかなかったのか、トゥールでさえわからなかった。
だんまりを決め込んでいても、クラウスがそれを許しはしなかった。逃げ道を塞ぐみたいにはっきりと口にされた声は、聞き苦しいノイズのように錆びていていて。
“殺してよ”
全ての時が止まってしまったみたいな沈黙が、酷く息苦しかった。トゥールの耳には風の音が、やけにはっきりと聞こえた。
クラウスが笑う。
「トゥールは殺すの好きなんでしょ? お前なら殺せるんだろ? なあ、そうなんだろ。オレのことなんかもう、殺してよ。ほら、初めて会った日みたいにさあ」
そう絞りだすように言いながら、クラウスは覚束ない足取りで詰め寄って、トゥールのローブを掴む。
やっとトゥールの口から零れたのは拒絶。
やめてくれ、と。
頼りなく掠れた声に、クラウスが顔を歪める。
掴まれていたローブが引っ張られる。違う、強く握り直されたのだ。彼は引くつもりは無いらしい。そんな覚悟はしないでほしい。
けれど彼は何時だって壊れていて、きっともう、疲れてしまっていたのだ。苦しそうな顔で、畳み掛けるように言葉が投げかけられる。
「なんで? だってもう、嫌なんだ、こんなのは。オレは何回大事なモノを失うんだよ!? 殺したくなんかないのにさあ、ねえ、殺してよ! 次は誰を殺すか分かんないんだっ! 今度はお前かもしんねぇんだよ!? オレはトゥールを殺したくなんかない! わかってよ、いなくなっちゃやだよ……っ!」
「やめろッ!!」
トゥールは右手で振り払うようにして、クラウスを突き飛ばした。たたらを踏んで、転びそうになるのをなんとか持ち堪えたクラウスとトゥールの間に距離が生まれる。
喉がチリチリと焼けるみたいに熱くなる感覚を覚えた。指先が震えている。心臓の音が煩い。トゥールは感情の無い目でクラウスを見た。此方を見上げる、淀んだ金色の目を覗き込む。ぐらぐらと、朧月のようにくすんだ光を湛えて、じっとトゥールを見つめ返していたが、やがて、その視線は地面に落とされる。
トゥールは1度、深く息を吸い込んで、吐き出して、ゆっくりと右手を伸ばした。鱗で覆われた大きな手で、クラウスの首元を掴んで、呼吸と脈動と少しの暖かさを掌に感じる。
大きく目を剥くクラウスの瞳を見ないようにして、トゥールは彼の首を握り潰すみたいに右手に力を込めた。
「かっ……」
クラウスの表情が苦しげに歪められ、圧迫された喉から漏れる潰れた呻き声が耳を掠める。トゥールは首の骨を折ってしまおうとしていたのに、何故かそれ以上力が入らない右手を、怪我のせいだろう、と解釈して、空いていた左手を右手に重ねるようにして、クラウスの首を覆った。
クラウスはトゥールの腕を掴みながら、苦しそうな声を漏らす。早くとどめを刺してやらねば、余計な苦痛を与えてしまう。それはわかっているのに、どうして手が震えるか。
──殺せない? そんなはずはない。
トゥールは4年前の、毎日の様に誰かの命を奪い続けた日々を思い出していた。同じだ。あのバーコード達のように、ただ、殺せばいい。親しくなったバーコードも、彼も最後は迷わず殺すことができたのだ。彼らを殺したように、クラウスも殺してやる。
そう思っても、トゥールの腕に、これ以上力が入らなかった。紅潮した頬を伝う。口の端から嚥下できない唾液を、次第に弱っていくクラウスを見ていると、怖くなってしまった。
トゥールが手を離すと、クラウスはその場に崩れ落ちる。
できなかった。
「……すまない──」
トゥールの絞りだすような声に、クラウスがゆっくりと顔を上げる。
呪いのようだ。この手がこんなに震えるときがくるのだな、とトゥールは他人事の様に自らの右手を眺めた。
不自然に大きく、鱗に覆われ、その指先には鋭い爪が備えられている。このバケモノの手が、幾人の命を屠ってきたのか、流石にもうわからない。こんなに慣れたはずの殺しが実行できなかった。これは優しさではなく、弱さだ。いつの間にこんなに弱くなったのだろう。わからない。ただ、彼、クラウスを殺したくはなかった。
***
大切になりすぎて、殺すことができなくなる。命を奪えなくなった優しさは、弱さとも言える。優しい弱さ。まさにトゥールを表すタイトルです。
この話はずっと前から書きたかった。クラウスが過去に唯一殺人をしたときの話です。大切にしたいヒトができても、クリムゾンを抱えたクラウスはそれを殺してしまう。唯一、その強さ故に死なずに側にいてくれるトゥールの隣しか、居場所がないのです。