複雑・ファジー小説

Re: AnotherBarcode -アナザーバーコード- ( No.3 )
日時: 2020/12/07 15:37
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)

 ──一緒に生きましょう。生きて、ここから出て、遠くに行こう。2人でなら、何処までだって行けるわ。ねえシオン、そうでしょう?
 ──私達、絶対に生きるんだから……。

「はあっ……はあっ……」

 部屋が暗い。蛍光灯は割れてしまったのだろうか。暗い。暗いのに、そこにあるものを見間違うことができない程度には光がある。部屋の扉が開きっぱなしになっているから、廊下の明かりが入り込んでいるのだ。
 腰をぬかして荒く呼吸を繰り返す。部屋の隅っこに座りこんだままの少女の視線の先は、一色の色彩に塗り潰されていた。
 親友の真っ赤な髪が、別の赤色に汚れている。髪だけではない。全身が、べったりと。死の匂いを全身に纏いながら、親友は笑う。傷だらけの四肢を彩るのは彼女の血か、それとも。
 考えるのが怖かった。でも、怖いからといって思考から逃げることはできない。逃げてもきっと、付き纏ってくる。床にへたり込んで立ち上がれずにいるくせに、彼女の脳は妙に冷静に働いていた。

「あは……」

 笑う親友の足元。黒かったはずの床。
 研究員の胴体、血液、薬指、靴、毛髪、血液、左足首、鼻、親指、ボールペン、右腕、左手首、歯、眼鏡、血液、左脚、腸、毛髪、頭部、小指、目玉、血液、名札、血液、血液、血液血液血液血液血液……血液。が。おままごとをしたときに、散らかしっぱなしにした玩具みたいに。バラバラに。ぐちゃぐちゃに。床を埋め尽くしている。
 吐き気を催すような光景と臭い。

「ふふ、綺麗ね……こんな眺め、初めて……彼岸花畑よりも、ルビーの宝石よりも、上質な赤……ねえ、あなたもそう思うでしょお、シオン」

 親友が上擦った声で、座りこんだままの彼女の名を呼ぶ。
 シオンは顔を上げて、親友の顔を見た。歳の割に大人びて見える整った顔立ち。薄いピンク色の瞳は細められており、口角は緩く上がっている。妖艶な笑顔で、一層美しく見えた。……頬にへばりついた異質な色彩がなければ。

「…………」

 きれい?
 どこが。
 彼女は何を言っている。
 違う。彼女は。
 誰?

「あい、りす」

 名前を呼ぶ。シオンの声は錆びついていた。
 シオンの声は辛うじて届いたらしい。自らの名前を聞き届けると、夢から醒めたように目を見開いて、親友は辺りを見回した。
 恐る恐る、自分の掌を見た。
 それから体に視線を落として、やがて目を見開いたまま、ゆっくりと。サナギから羽化したばかりの蝶が、翅を開くまでの動きみたいに、ゆっくりと、此方を見る。怯えた小動物のような顔がそこにあった。
 彼女の口から溢れるのは、混濁したうわ言。

「どうしたの、シオン。どうしてそんな目でみるのシオンねえ、シオン、なんで。ねえ……ねえ、違うの、違うのよシオン、私じゃない、私はやってない、これは違うの。こんなこと、こんなこと、こんなのこんなのこんなの……!」
「アイリス……」

 彼女は震えながらも、違う、シオン、私じゃない、と繰り返している。壊れたスピーカーのようだった。
 どうすることもできないまま、シオンはそれを見つめていたが、ふと、遠くから喧騒と足音がやってくるのが聞こえた。

「……──逃げるぞ、アイリス!」

 生存本能が、とにかく逃げろと警鐘を鳴らすから、シオンは立ち上がって、アイリスの手を取った。触れた手が不自然にベタついてゾッとしたが、気にしている暇はない。
 親友は困惑していたが、それでもしっかり足を踏み出した。彼女らは逃げなければならなかった。

 2人で生きると誓ったのだから。


【番外編】No.02 シオンの花束
(提供:メデューサ様より。シオン・アイリス)


 バーコードにされた2人の少女が、研究所から脱出した。
 追跡者の命を何度も奪って、ただ生命に縋りついた。殺さなければ自分たちが殺される。そんな状況下に置いて、もう、彼女らはただの少女ではいられなかったのだ。命が始まってから14、5年しか経っていない2人には酷なことだった。

 肩の上で切りそろえられた薄水色の髪の少女は、フラフラと近くの木にもたれ掛かって、座り込む。2人がいたのは山奥の研究施設だったため、その周りは当然鬱蒼とした木々が生い茂っていた。施設を飛び出したときは頭の上にあった太陽が完全に沈み、辺りは暗くなっていた。結構長い間走り回った筈だが、森を抜けてないということは、まだ追手がいてもおかしくない。頭でわかっていても、彼女らにこれ以上逃げ回る体力は残っていなかった。
 薄水色の髪の少女──シオンは、未だにべたつく右手を見つめて、深く息を吐いた。酸化してどす黒く変色していても、その鉄臭さで正体を理解してしまう。血だ。
 シオンがバーコードにされてから手に入れた能力は〈ミョルニル〉という、電撃を操る能力だったため、返り血を浴びる事は無い。だから、“あのとき”付着したものだろう。親友の手を引いたとき。

「……アイリス、その、大丈夫か?」

 できることなら、彼女から目を逸らしたかったが、そういうわけにも行かないため、シオンは共に逃亡した親友のアイリスに声をかける。
 ずっと座りこんで俯いたままだった彼女は、名前を呼ばれるとビクリと肩を震わせた。
 見事な紅色の長髪には、所々返り血がこびり付いている。右耳の少し上辺りに結ばれた紫色のリボンには、血の汚れが見当たらない。アイリスが以前「お母様から頂いたものよ」と嬉しそうに見せてくれたものだったため、シオンは少しだけ安堵する。彼女の思い出までもが汚れてしまわなくて良かった、と。アイリスの体は切り傷だらけで、返り血なのか自らの出血なのかわからないくらい全身が血塗れになっているのを見ると、何も良いことなんて無いのだが。

 顔を上げたアイリスの薄ピンクの中には、怯えの色が伺えた。不安げに視線を彷徨わせて、シオンと目を合わせることを躊躇している。きっと、自分自身に怯えているのだろう、とシオンは思った。シオンだって、アイリスのことが怖かったから。

 研究施設から逃亡することになった切っ掛けは、アイリスが突然、人が変わったように狂い始めたことだった。

『あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ』

 聞いたこともない、醜悪な高笑い。振り乱す紅色の髪と、研究員の千切れた肉片やら迸る鮮血が入り交じる、おぞましい光景。アイリスが手をかざすだけで、目に見えない斬撃が発生した。シオンは信じたくなくて、頭を振って否定し続けたが、誰がどう見たって、無邪気に笑う少女を中心に、周りのものが切断されていくのを見て、犯人が彼女以外にいるだなんて考えられない。なにも否定できなかった。アイリスが笑ってヒトを殺した事実が、無慈悲にもそこに横たわっている。……それだけだった。
 斬撃を発動する能力〈アイソレイト〉で、一心不乱に、心ゆくままに、切る。切り刻む。アイリスは自分の身体さえ傷つけているのに、気にも止めず。バーコードになると治癒力や身体能力が上がるため、既に傷は塞がり始めており、アイリスの着ている服だけが、自分の出血と誰かの返り血を染み込ませながらぼろぼろになっていた。

 バーコードにも種類がある、というのは研究施設で軽く説明を聞いたため知っていた。
 シオンは自分の服の襟元を軽く引っ張って、心臓の辺りを確認する。控えめな胸元に刻まれた深い青のバーコード。群青バーコードと言うらしい。正常で、特に問題のない成功品の色だという。〈能力〉が有能であれば、将来的にバーコード殲滅特殊部隊に入隊させられることもある、と聞いたことがあった。

「アイリス……自分のバーコードの色、わかるか?」

 シオンの質問に、アイリスは泣き出しそうな顔で震える。震えながらも、ボロボロの服の上から、心臓のあたりをきゅっと握りしめた。かくん、と確かに頷く。それから、軽く襟元をつまんで下に引く。シオンと対を成すような色。彼女の髪と同じ色のバーコードが。紅蓮バーコードがそこにあった。
 互いにわかっていた。ヒトが変わったように殺戮衝動に駆られて、なりふり構わず殺してしまう残虐性。その特徴は紅蓮バーコードそのものだったから。彼女は、もう普通の人間ではない。生ける殺戮兵器だ。
 そうなってしまった彼女に、シオンはなんと言葉をかければいいかわからなくて、遣る瀬無い気持ちで項垂れる。
 紅蓮バーコードの存在は危険だから、普通なら生まれた瞬間に処分される。危険性が少ない〈能力〉を持った紅蓮バーコードなら、生かされて有効利用されることもある、なんて話も聞くが、やはり殆どの場合殺処分だ。如何なる〈能力〉を持っていたとしても、殺人衝動の凶暴性が厄介なのだ。

 不意にアイリスが立ち上がった。足取りは不自然なくらい安定している。シオンがどうした、と訊ねながら顔を上げた瞬間、空気の裂ける音を聞いた。

「は?」

 左耳がブワッと熱くなる。痛み。アイリスが右手をかざしていて、それでやっと、シオンの脳内に恐怖が雪崩込んでくる。
 咄嗟に右手で地面を押して、立ち上がろうとした。刹那、右腕を裂く痛みで、バランスを崩して地面に転がった。
 不味い。傷の深さを確認するとか、痛みに呻くとか、アイリスに怒鳴りつけるとかよりも先に、何よりも先に、空いている方の左手で地面を押して転がる。先程までいたところに亀裂が入って土煙が舞う。すぐに体制を立て直して、地面を蹴る。少しだけ遅れた右脚に鋭い痛みが走る。
 殺される。殺される!

「……ッアイリス!」

 彼女に伸ばした掌が裂ける。痛みと恐怖で涙が滲んだ。
 親友なのに。アイリスが、〈能力〉で自分を傷つけている。そこには表情さえなかった。ただ、切り付ける。アイリスの視界には、切り刻みたい肉がある。それだけだった。

「痛いよアイリスッ、やめて、痛い……!」

 怖い。恐い。痛い。死にたくない。
 シオンは震える声でアイリスを呼んだ。殺されてしまう。こわい。嫌だ。アイリスには殺されたくない、その一心で。

「シオ、ん」

 次の斬撃が裂いたのは、アイリスの右の太腿だった。傷が深かったのか、勢い良く血が迸る。

「痛、うう、ううううううう、嫌、嫌だ! ああああああああああ!」

 アイリスがけたたましく声を上げ、次の斬撃は、彼女の左二の腕を切り裂く。

「痛い、痛いよ、嫌、嫌ぁ……ああ……」

 ようやくアイリスが止まる。彼女は自分の身体を抱き締めるようにしてその場に崩れ落ちると、蹲ってしまった。
 その様子を、シオンは肩で息を繰り返しながら呆然と眺めた。
 ──今、確かに殺されかけたんだ。
 自覚すると、身体の底から恐怖が溢れかえって、泣きだしてしまいそうになる。

「どうしよう、私、今シオンのことッ……」
「アイリス……」

 泣き出した親友を抱き締めて、慰めたかった。そのくせ足は動かない。近寄るのが怖いと思っている自分がいる。
 嗚咽を零しながら何度もごめんなさいを言う親友を、シオンは黙って見つめることしかできなかった。

 ──それでも、私達2人で生きられるの?
 誰も答えてはくれない。

「ねえ……シオン、私、私、ごめんなさい……」

 蹲って、可哀想なくらいに震えるアイリス。シオンだって震えていた。親友に殺されそうになった。その事実が恐ろしくて仕方がない。
 でもきっと、2人して折れている場合ではない。シオンは掌を強く握り締めて、力強く声にした。

「大丈夫。生きるぞ、アイリス」

 ──アタシ達、生き抜いてみせるんだ。


***


 シオンはその日、夢を見た。何処かの川辺で、シオンとアイリス、2人で手を繋いで、笑っていた。ただそれだけのことが途方も無く幸せだと感じた。叶わない事を知ってしまったから。この手の温もりも。親友の笑顔も。幻だ。咄嗟に夢であると気が付いてしまえるほどに、シオンは現実を理解していた。
 理解していた。していたのに。目が覚めてから起こったことを、脳が上手く処理できなかった。

 まず、アイリスが何処にもいなかった。