複雑・ファジー小説

Re: AnotherBarcode アナザーバーコード ( No.33 )
日時: 2020/12/12 20:43
名前: ヨモツカミ (ID: xJyEGrK2)

【二次創作】 No.04 鱗
 
 雨が降っている。それも豪雨だ。道の上に落ちた雨水が排水溝で氾濫している。飲み込まれない水はそこに残り続けて、もう何処にも行けないようだ。
 まるで――まるで? まるで何の様だと云うのか。一瞬思い浮かんだものはすぐに消えた。きっと、その程度のものだったんだ。
 クラウスは窓を閉めようと首を引っ込めた。前髪が雨に濡れて少し重たい。額から瞼へ、鼻筋へ、頬へ、顔の形を覚えるように、水滴が滑り落ちていく。水の匂いがこんなにも強い。深海にいるみたいだ。クラウスは息を吐きながら、何となくそう思った。
 長い袖で顔を拭って、窓を閉める。そういえば、どうして外なんて見ていたんだろう、しかも窓を開けてまで。薄闇の中で雨雲が蠢いているばかりで、面白味のあるものは何も無いのに。
 ふと、もう一度外に視線を向けると、道路を歩く人影が見えた。否、人影というには歪だ。足と手は常人よりも大きく、路上に尾を引き摺りながら歩くそれを、『彼』を見て、クラウスは全てに合点がいった。
 ああそうか、自分は待っていたのだ。
 トゥールの帰りを。


 コンクリートの階段を駆け足で降りる。そして、二階の踊り場でトゥールと出会った。トゥールは、水以外の匂いを身体に纏わせていた。血だ。錆びた鉄のような、血の匂いがする。眩暈がしそうな程強烈なその匂いに、クラウスは一瞬、息を止めた。
 どうしたの、何があったの。訊いたところで答えてくれるか分からない、答えられたところでどうにもできない、けれど訊かずにはいられない。だのに、喉元を掻き切られたみたいに、音が出なかった。
 トゥールの眼は――正直なところ、自分を見ているようだった。紅蓮に支配された時と同じくらいの殺気を、琥珀色に滲ませていた。
 暫くの間、二つの琥珀色が対峙していた。その間にあるのは雨音だけだった。クラウスの琥珀色は動揺で波打っていた。
 やがて、トゥールがクラウスの横をすり抜けていった。一足遅く出した手は宙を握る。トゥールは振り向きすらしなかった。クラウスはそれを見ていた。
 はあ、と息を吐く。湿った空気に、渇いた吐息が混ざる。胸が締めつけられているようなこの感覚は、きっと水中に溺れている時と同じだ。足掻いて、何も掴めないのも同じ。

 クラウスは踵を返し、重い足どりで自分の部屋へ向かった。血液の匂いに当てられたのだろうか、心臓がうるさく拍動している。心臓音が外に漏れないように、クラウスは自分の左胸に触れた。ぎゅ、と服を掴んで、覚醒しないように祈った。
 ソファに倒れ込み、冷たい革に顔を押し付ける。身体全体が脈打っている。どく、どく、という音。体内を血が流れる音。体温が上昇する。そんな自分に対して心が冷えていった。乖離していく。心を残したまま、もう一人の自分が自分を蝕んでいく。クラウスはそれを外から見ているしかない。
 レザーに爪を立てる。背を丸める。衝動を体内に収めるように、身を小さくする。血の匂いがする。神経を貫く鉄の匂い。瞼の裏に赤色が見える。匂いはどんどん強くなる。喉奥が熱くなる。左胸から毒が回っていく。トゥールは近くの部屋にいる。きっと苦しんでいる、だからその苦しみから解放してあげなければ。止めを刺して。自分が、あの鱗を突き破り、ナイフを突き立てて。いやダメだ。殺したくない。匂いがする、鉄の匂い。痺れる。息は荒く、熱く。

 ――以前、トゥールの血を浴びたことがある。今のように彼が弱っている時に襲ったのだ。鱗の隙間に刺したナイフが、皮膚をぷつんと破って筋肉を裂いた。意外と深くまで突き刺さるんだ、と思ったのを覚えている。刃と身の間に血が滲む。その赤色は暗色の鱗によく映えた。刃を抜くと、傷口から血が溢れだした。飛んだ血が、クラウスの顔にかかった。温かい血だった。血は内部から溢れ出し止まることを知らない。
 生きていると、実感した。

 クラウスは、自分の口角が上がっているのに気がついた。
 何かが鼓膜の奥で破裂した。クラウスはソファから下りて立ち上がる。そして廊下へ繋がる扉を見た。酷く、冷静だった。
 思考など無かった。雨がコンクリートを叩く音、雷が唸る音。それが頭蓋骨を震わせる。空気は湿っていた。レッグホルダーからサバイバルナイフを取り出す。柄の形を手に覚えさせるみたいに強く握った。皮膚の感覚にそれは溶け込んで、最早凶器を手放すことはできない。
 暗い空間を進む。『生物』の輪郭が見える。馬乗りになって、ナイフを振り翳す。雷光で『生物』の姿が顕になる。鱗を纏った異形。その鋭い歯も、長い爪も、逞しい尻尾も全てが何かを傷つける。いつかこれに殺されるかもしれない。実際初めて出会ったとき、クラウスは殺されかけたのだ。死にたくない。だから殺すしかない、殺される前に。
 それは最初はクラウスを傷つけまいとしていたが、やがて手荒くクラウスの身体を投げた。それの心が見えない。鱗で覆われた心が見えない。 結局は自分だって生きたいくせに、いつも死を望んでいるようで。鱗で、 弱いところも人間らしいところも全部隠してしまっている。クラウスはナイフを刺してそれをこじ開けようとする。無理やり刃を抉りこませて、奥にあるものを見ようとして。その鱗を全て剥いだとき、それは人間になれるだろうか。
 弱いところを誰かに許容してもらって、寂しさを分かちあって心を慰められる人間に、なれるだろうか。
 
 一瞬、視界が白んだ。稲妻が光ったのかと思ったが、床に頭を打ち付けた衝撃によるものらしかった。トゥールが自分を組み伏せている。その大きな手で頭部を鷲掴んで、折れていない方の腕をきつく握り締めて。どうした、まだ三本残っているぞ。トゥールが低く囁く。その声はどこか楽しそうで、クラウスの肌は粟立った。
 自分を殺そうとしているのだろう。あんなに苦しそうに、殺すまいとしていた自分を、こんなにも容易く殺そうとしているのだろう。
 当然の報い、自業自得。そう言われてしまえば反駁できない。それでも殺されたくない。もう滅茶苦茶だ。
 殺されたくない。せめてトゥールには、殺されたくない。トゥールにまで、生を見放されたくない。
 
 やめて。お願いだから、もうこんなことしないから。やめてくれ。痛いんだ――。

 知らず知らずのうちに漏れていた呻き声は、いつの間にか嗚咽に変わっていた。クラウスの言葉を聞いて、トゥールはやっと手を離した。そうして、トゥールはクラウスの隣で倒れた。
 窓の外で、雨足は依然として弱まる気配を見せない。雨の音が聞こえる。そして、二人分の呼吸音も聞こえる。

「トゥール……生きてる……?」

 クラウスは目を開けて、トゥールを見た。トゥールは瞼をゆっくりと上げてクラウスを見つめ返した。灰がかった視界の中で、揃いの琥珀色は弱い光で煌めいていた。
 よかった。そう零すと、自分の心までどんどん零れ落ちて行きそうになった。でもトゥールはそれを受け容れられずに、ただ顔を歪めるだけだった。彼の表情を形容する言葉を、クラウスはまだ知らない。
 地面を雨水が流れていく、そんな音が聞こえる。
 ああ、これだ、と思った。
 ああ、これが飲み込まれない思いなんだ。
 排水口で溢れかえる雨水みたいに、「生きてほしい」なんてのはトゥールの中に入っていかないで、どうしようもなく溢れ出していく。何処にも行けないで、ずっとそこにある雨水と同じで、ただ静かに、天に還るのを待っている。そうやって無かった事になる。
 でも自分は、トゥールに生きて欲しいと思っている。自分も生きて、トゥールも生きる。目先の幸福かもしれない。自分たちは生きていてはいけないかもしれない。沢山の物を傷つけるし、不幸にする。だとしても――生きることを望まれた、その事実は消えてほしくない。
 生きていい、と言われたなら、生きていける気がするから。
 これは邪悪な呪いだろうか。それともいつ壊れるかわからない延命装置だろうか。もう、何でもいい。
 灰色だとしても、流されずに残ればいい。自分たち二人が、ずっと存在し続ければいい。

***
トーシさんに頂いた二次創作は以上となります。私めっちゃトーシちゃんの表現の仕方好きだからこの二次創作ホント好きなのよね、最高ですよ。
二人の関係性も愛おしいし、トーシちゃんはトゥール推しなんですけど、やっぱりトゥールがかっこよくてクラウスが可愛い……流石はヒロイン投票一位の男です。