複雑・ファジー小説

Re: AnotherBarcode アナザーバーコード ( No.36 )
日時: 2021/01/31 18:25
名前: ヨモツカミ (ID: 4SWfsvrw)

【二次創作】 No.06 刃

 雨が彼を濡らしていた。彼の目の前にいるのは、半分瓦礫となった建物の下で雨をしのいでいる二人の男の影。二人の体からは水たまりができるくらいの赤い血が流れている。その血だまりも、押し寄せる雨のせいで地面の上に滲むように広がっていた。
 入り口付近で、もうこれ以上動けないとばかりに弱弱しい息を吐き出す二人を、少年は外から眺めていた。着ている服が全身に、真っ黒な髪が額や首筋に張り付く気持ち悪さも忘れるくらいに鮮烈な光景だった。
 すぐさま二人の容態を確認する。濡れた体のまままずは細身の体の男に駆け寄った。上体を抱き上げると、特徴的な金色の瞳をほんの少し光らせて、大丈夫だと応えて見せた。

「馬鹿! 全然大丈夫じゃない!」

 包帯は無かったものだろうか。確か、大きなカバンに詰め込んでいたはずだと思い出した。抱きかかえていた男の状態を、もう一度ゆっくり地面の上へと戻して、もう一方の男へと駆け寄った。
 もう一人の男は同じように傷だらけである。靴に雨と混ざった彼の血液が染み込んだ。白かった靴底が、泥と埃に塗れた汚い朱に染まる。はは、やられちまったと自嘲するように笑うその男が開いた口からは蛇のような二股の舌がチロチロ動くのが覗いていた。
 彼の腕をよく目にしてみる。特徴的な鉤爪だったものは砕けるように折れ、腕を覆う鱗は禿げたり裂かれたりして肌はもうボロボロだ。尻尾は切られたのか自ら切り離したか知らないが、先の方が失われている。
 彼が背もたれにしているそれこそが、旅立つ際にまとめた携行食糧と応急手当の用品とをまとめたものだった。底の方が血に汚れてしまった鞄のチャックを開けて、中を物色する。一番下の方に入れている服は後日捨てるとして、何とか上の方に見つけたなけなしの消毒液とガーゼ、包帯とを取り出した。
 目の前の二人が、決して人間ではないというのが今日この瞬間においては救いだった。この状態でまだ息があるなら止血すれば明日にはある程度傷が塞がっているはずだ。以前この爬虫類のような男に教わった通りに、綺麗に包帯をその体に巻き付けた。勿論、消毒もしてからだ。
 すぐに先ほどの少年の方へと戻る。今度は彼も目を覚まさなかったせいで、背中に冷たいものが走ったが、穏やかな寝息が聞こえてきたことからまだ大丈夫だと悟った。むしろ抵抗しない分だけありがたいと、そちらも手当てをする。
 むしろ彼の場合、意識があり続けた場合に不意に能力が暴発して透明化してしまう方が怖かった。そうなれば手当てもし辛く、その間に取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
 両者の処置を終え、ようやっと少年は安堵の溜め息をついた。見れば、先に手当てした鱗が特徴的な男はさっきよりも幾分かましな顔色をしている。

「誰だ。誰がやった……答えろ、トゥール!」

 いつもより低い声で少年は尋ねた。その声は、今呼びかけられたトゥールが、かつて少年から「生きろよ」と呼びかけられた時のものを思い起こさせるほどに、揺れていた。こんなに動揺した彼の声など聞くのはいつ振りか、など考える。思えば、思ったよりもこの少年とも時間を共有しているのかと理解した。
 目を血走らせ、詰め寄る少年。こうなったらこちらの言うことなど聞かないだろうなとトゥールは諦めた。観念するように、自分たちをこうした男について語りだす。

「紅蓮バーコードだ」
「カイヤナイト連中じゃなくて紅蓮か……分かった」
「待ってくれ」

 今にも飛び出しそうな勢いの少年を呼び止める。噛み付きそうな勢いで、縫合痕のような黒い線が走った顔が振り返った。

「何だよ! 僕を止めるな!」
「今俺たちが襲われたらひとたまりも無い。情けない話だが、護っていてくれる方が有難い」

 嘘だ。ピット器官も備えたトゥールは、近くに自分たち三人以外の熱源がないと分かっていた。加えて、命からがら隠れるように逃げた自分たちを追って、見当違いの方向に去った紅蓮バーコードがしばらく此方に戻ってこないであろうことも。
 全ては、目の前の少年が一人で突き進まないように吐いた嘘だった。けれどもそんな理屈、いともたやすく論破される。

「馬鹿! 今ここで襲われた方が危ないだろ! 怪我人二人庇う余裕なんて僕には無いぞ」
「それもそうか……」
「絶対死なない。知ってるだろ?」

 少年の言葉に、トゥールは今度こそ返す言葉も無かった。肯定する代わりに、敵のいるべきはずの方角を少年に伝えた。

「……ジン」
「何だよ、まだ何かあるの」
「不味いと思ったら、俺たちなんて忘れて逃げろよ」
「……心配すんな」

 不愛想に吐き捨てる。そのまま、二人の方に背を向けて、今度こそ振り返らずに走り出した。
 水溜まりを踏む音が遠ざかる。トゥールは手持ち無沙汰に、口からその二股の舌に、顔を出させた。まるで空気を舐めるように動かして。
 雨の昼下がり、埃っぽくてかび臭い、嫌な味がした。


 バシャバシャと、川のようになった水溜まりを逆流するように、トゥールが指示した方向へと走り続ける。きっと嘘はついていないはずだ、それゆえ彼の言葉を信じてジンは走り続けた。彼ら二人の血と、灰色の水とが染み込んだ靴は重たくなっていて、土踏まずも痛くなってくる。
 泣き言なんて言うな。自分を叱咤する。見た目は児童に過ぎず、言動もよく子供っぽいと言われる彼だが、実際には百有余年の生涯を既に歩んでいる。辛いことなんて今まで星の数ほどにあった。痛くて苦しいこともいくらでも経験してきた。だからこの程度の疲労、なんて事ない。
 それに、あいつらはもっと痛かったはずだ。ぼろぼろになった二人の様子を思い返す。全身に赤い線が走り、自分が浸かるほどに血を流した二人。弱弱しく笑う青年の顔が、無残にも削がれた鱗の肌が、テープを再生するみたいに脳裏に現れた。あれと比べたら、こんな痛みなど。
 周囲の安全を確保するために、ジンと残る二人とで、二手に分かれて周囲を散策していた。その時に二人は、破壊衝動に飲み込まれた紅蓮バーコードと出会ったのだろう。
 傾斜がかかった道の上を、やはり雨水はジンの方へ向かって流れていて。どうせならこの水流だけじゃなくて、時間まで逆流してしまいたかった。もしかしたら、何も変わらないかもしれない。けれども自分さえいればあの二人があんな目に会わなかったかもしれない。そう思うと、居合わせなかった過去が、針の山のようになって彼の心を抉るように突き刺さる。
 せめて能力くらいは聞いてくればよかっただろうか。いや、きっと知らない、あるいは分からなかったのだろう。分かっていたならさっき呼び止めた際にトゥールが教えてくれたはずだ。それに、あの二人があんなに簡単にボロボロになるとは考えにくい。特にクラウスは不味いと思えば透明化して逃げられる。そんな彼があれほど手負いになっているということはおそらく不意打ちだったのだろう。
 身体中に走った切創。あまり深く考えずとも相手は鋭利な刃物を持っているに違いないと推測できた。さらに考える。手当てしているときにトゥールには打ち身のようなものもあった。おそらくは、槌のようなものすら持っているだろう。
 果たして、どういった能力者なのだろうか。それだけ武器を扱えるのなら、大柄な人間のシルエットが思い浮かぶ。特に、硬い鱗を持つ彼の体を易々と貫き、砕くだけの力は最低限持っているはずだ。
 ただそれも、普通の人間であればの話。能力を持つバーコードには、常識が通用しない。それは自身もバーコードであるジンが誰よりよく知っていた。何せ彼は、ただでさえ異質なバーコードの中でも、より異質な存在であるのだから。
 僕と同じような能力かもしれないな。右手の人差し指と中指とを立てる。どこからとなく現れた、黒い粒子が渦巻いて、真っ黒なナイフとなって指の間に収まった。何もないところからナイフを生み出す能力、それも無尽蔵に。それがジンの能力だった。
 同様に、剣やハンマーを作れるようなバーコードがいても可笑しくない。とするとそいつは自分よりも優秀な能力を持つことになるのか。そう思うと、何となく負けた気がして、神経がささくれるような思いがした。そんなことだから、子供っぽいと言われるというのに。
 雨が地面を叩きつけるその音は、まだずっと五月蠅いままだった。それ以外の音と言えば、疲弊した己の息遣いと、地面に広がった雨水を足裏で叩いているものくらいだ。雨を吸ったズボンも靴も、普段よりずっと重くなっていて、不死身の彼とは言え足が棒のようになり始めていた。
 本当に、こちらに二人の仇は逃げたのだろうかと、今更になってジンは不安になってきた。あの時はあまりに気が動転しており、いつものように我を通さんとする自分にトゥールが諦めたと思ったが、そうでないかもしれない。ジンが手痛い目に合わないように、全くの嘘を告げていたとしたら。
 考えるな。少年は強く頭を横に振った。自分の想いを彼は受け止め、それに応えるように真実を伝えてくれたはずだ。自分がまず相手の言葉を信用しなくて、どうして彼が自分のことを信じてくれるというのだろうか。
 あの二人を襲った紅蓮バーコード、彼あるいは彼女に出会っていないジンの脳裏に最悪の想定が浮かぶ。これだけ走って見つからない、とすると、もしやまた自分がいないところで、二人はそのバーコードと遭遇しているのではないか。
 否定したくとも、しきれない。何せ一度起こってしまったのと同じことだ。再び目を離したすきに手負いの二人がその寝こみを襲われる可能性は十二分にある。むしろ、彼らをあそこまで痛めつけた者よりも、いつ見回りにくるかも分からない、ハイアリンクという統治組織の方がよほど恐ろしかった。
 あの二人は僕と違う。ふと気づけば、少年の足は止まっていた。来た道を振り返り、焦点の定まらぬ目でずっと遠くの建物に焦点を合わせようとする。周囲のもっと高い建物に隠れて今は見えないが、その視線の先には明らかに、病弱な少年と爬虫類様の青年とがいる廃墟があった。
 身体ごと向き直りかけたその時だった。後方から、厚く張った水を踏みつける音。飛び散った雫がまた地面に広がる水溜まりを打つ高い音がして、雨音の中に反響する。振り返れば、瓦礫の山の陰から現れた、男が一人。
 その男は、先ほど見た自分と同じ道を歩む徒、病弱そうな隈の絶えない男と同じぐらいの背格好の男だった。クラウスと同じぐらいかと、弱弱しく笑っていた彼の顔を思い返す。こいつが、あいつらを。胸の内に沸き立つ情動、目の前の男が自分の追ってきた男だと判断するのは容易いことだった。
 その手首から先は、能力によるものだろうか普通の肌色の手ではなく、今の空と同じ灰色をした刃が付いていた。刃渡りがその男の座高ほどもあるその剣のせいで、左右の腕の長さが異常なまでにアンバランスだった。何せ左腕は普通の人間の腕である。しかし、あまりに長い、刃物と化した右腕はだらりと伸ばしただけなのに地面を引きずっていた。
 そしてその全身、特にその藍色の髪から首、背中、腹へと垂れているのは、未だ乾ききっていない鮮血であった。クラウスの、そしてトゥールの血か。雨で肌寒いと言うに、痩身のその男は上裸で、左胸には真っ赤に染まった同じ長さの線が不規則な感覚、太さで何本も刻まれていた。