複雑・ファジー小説

Re: シオンの花束2 ( No.4 )
日時: 2020/12/07 15:38
名前: ヨモツカミ (ID: 6fVwNjiI)

「なんで……アイリス」

 胸がざわつく。そもそも、いつの間に眠ってしまったのだろう。そうか、逃げ疲れて、泣き疲れて、そのまま。
 シオンは慌てて辺りを見回したが、人影は何処にもない。耳を澄ませても、木々の葉が擦れる音がするだけで、人の気配もまるでない。不安に押しつぶされてしまいそうになる。
 何かないか。シオンは必死で目を凝らして、ようやく手ががりを見つける。土に混ざった、血の跡を。それが、等間隔に地面に付着していたのだ。

「……はやく」

 ──はやく、見つけなきゃ。
 シオンは血の跡を辿って駆け出した。
 道中で、切り刻まれたウサギの死骸を見つけて、ゾッとして足が竦んだが、やはりアイリスはコチラに向かったのだと確信することができた。
 進んでゆくと、山を抜けて、民家が見えてきた。もう目印の血痕は見当たらなかったが、道なりに進んだ結果ここに辿り着いたため、おそらくアイリスはこの先にいる。
 だが、やけに静かだった。
 嫌な予感がする。最初に見えた小さな赤い屋根の家のドアが半開きになっているのを目にしたとき、シオンの中の不安が形を持って、胃の中でドロドロと渦巻いていく感じがした。
 臭いがした。最早馴染み深いものになってしまった、鉄錆の臭いが。村の至るところから。
 シオンに、家を覗く勇気はなくて、見ないふりをしながら進んで行って、そして。

 その先に、親友はいた。

「あはははははははははははははははははははは! ははははははははははははははははははははは!」

 耳を劈くような高笑い。なによりも醜悪で、なによりも美しい、生命を司る赤に塗れて。

「アイリス……やめてくれよ」

 ……壊れていく。生きながらに、内側が崩壊していく。理性が失われてゆく。殺すだけ。全部、全部、全部。殺すだけの、機械のように。親友が、少しずつおかしくなっていくのを、シオンは傍観するしかなかった。
 その光景を、シオンは直視することができなかった。ヒトが死んでいる。それはわかった。何人分の死体があればこの眺めは完成するのだろう。切り刻まれたバラバラの人間の体が、沢山転がっている。
 アイリスを止めなければ。覚束ない足取りで近寄っていって、何かを踏み付けた。足の裏で生暖かい何かがゴリ、と音を立てて、ベタつく液体が染み出す。肌が粟立つ。気持ち悪い。
 親友が笑顔のままシオンを見た。素敵ねえ、綺麗ねえと、恍惚とした表情のまま可愛らしく笑う。彼女は片手になにか白くて細長いものを持っている。今も尚、血液を滴らせるそれは、人間の体の一部で。
 ……なんでこうなっちゃったんだろう。
 シオンは競り上がる胃液を抑えながら、親友にゆっくりと近寄っていった。


***


 アイリスを止めようとして、シオンはまた体にいくつかの切り傷を作った。親友から与えられる痛みが、現実を突きつけてくる。シオンはその度に、体にできた切り傷以上に胸を痛ませていた。
 死体も血の跡も見ないように、村の隅っこで2人、蹲っていた。村の何処にいたって、血の臭いはしたけれど。現物を目にしなければ、多少は落ち着いていられた。

「……私、あの時あなたの手を取らなければよかったわ」

 ようやく落ち着いて、俯いていたアイリスが、不意に口を開いた。シオンは顔は上げずに、黙って耳を傾ける。

「私の弱さがそうさせたの。……生きたかった。でも、私は、周りを傷付けてしまうだけだから。傷付けて、傷付けて、傷付いて」

 泣きだしてしまいそうに、声は掠れていた。けれど、アイリスは笑っていた。自虐的な笑みで、虚空を見つめている。歪んだ笑顔が、一層痛々しかった。

「何で。縋っちゃったんだろう」
「…………」

 押し殺すような声の中に滲んだ後悔を、シオンは黙って聞き流した。
 返す言葉が、わからなかったから。
 シオンはアイリスと同じように、自分を抱き締めるような形で座りこんだまま、唇を噛み締めた。
 ねえ、シオン。囁くようなか細い声で、親友に名前を呼ばれた。シオンは視線だけアイリスの方に向ける。親友はシオンの方を見ていたけれど、その視線は何処に向けられているのか、よくわからない。虚ろで、何処か疲れたような目をしていた。
 そうして、疲れきった声のまま、言葉が紡がれる。
 恐れていた台詞が。

「──私のこと、殺してよ」
「ッふざけんな!!」

 シオンは弾かれたように顔を上げて、立ち上がった。脚も声も、全身が震えているのがわかる。歯を食いしばって、拳を更に強く握り締めた。そうしないと、涙を堪えきれなそうだったから。
 アイリスは少しだけ驚いたような顔をしていた。力の無い目でシオンをぼんやりと眺めながら、彼女は何を思っただろう。
 アイリスはこの先も、ずっと、誰かを殺し続けることになるだろう。笑いながら、紅蓮に呑まれて、楽しげに。次に殺すのは誰になるか。いつか、シオンさえも切り刻んでしまうかもしれない。それだけは怖かった。シオンだってそれは怖かったけれど。

 ──それでも、アイリスに生きてほしい。

 だから、“殺して”という親友の願いに、激しい怒りと恐怖と悲しみが綯交ぜになって、シオンの胸の中に、自分でもよくわからない感情が渦巻いていた。ただ、どうしようもなく、苦しい。

「大丈夫、だから……。絶対に、大丈夫だから、アタシがどうにかしてみせるから! もう、二度とそんなこと言わないで……お願いだ」

 両目に涙を溜めたまま、親友の目を見て、シオンは懇願する。

「うん……ごめんね」

 それに対して、視線を虚空に彷徨わせたまま、アイリスは謝罪をした。
 ──どうにかって、どうするんだよ。
 シオンは迷子になった子供のような気分だった。


***

 
 それから3回、昇る太陽を見ただろうか。
 アイリスの殺戮は続いた。人形か廃人のように座りこんでいたかと思うと、急に立ち上がって、フラフラと何かを求めて歩きだし、命あるものを見つけては〈アイソレイト〉で切り刻んで、あの醜悪な高笑いを響かせる。彼女の通ったあとには、バラバラの肉片しか残らない。
 そうして殺しては、急に我に帰って、アイリスは自分のした事に絶望して泣き叫んで、自分を傷付けて、胃液を吐き出して、また、人形か廃人のように動かなくなる。

 “私のこと、殺してよ”

 脳内で反響する。その台詞。
 見ていられなかった。シオンは、もういっそアイリスを殺してやったほうが楽になるのではないかと、考えもした。考えて、考えて、段々恐くなってきて、結局何も行動できないままでいた。
 親友を失いたくないから。死んでほしくないから。生きてほしいから。全部、シオンのための我儘だ。本気でアイリスのことを考えて行動するなら、もう答えは出ていたのに。シオンはそこから逃げ出していた。

「アイリス……」

 散々殺しまわって、木にもたれ掛かってじっとしていたアイリスに声をかけた。
 そのとき、シオンは初めて、虚空に彷徨わせていると思っていたアイリスの視線の先を知った。それから、絶望した。
 最近ずっと、何処を見ているかわからなかった彼女は、シオンの肌に無数に付けられた傷口を見ていたのだ。血を、無意識のうちに目で追っている。それに気が付くと、シオンの中で何かが音を立てて崩折れていく。
 ──もう、駄目なんだ。アイリスは帰ってこない。
 シオンの両目から、ボロボロと涙が溢れる。

「やだよ……アタシたち、生きるって。言ったじゃん……」
「…………」
「なんか、言ってくれよアイリス」
「…………」
「ねぇ……」
「…………」

 シオンは、ふらつく足取りでアイリスに近づいて行って、彼女の隣に立った。今まで自分が傷付けられることが怖くて、距離を置いていたのに。人形のように座りこんで動かない、アイリス。シオンがゆっくりと屈むと、視線がアイリスと同じ高さにくる。のに、目は合わない。彼女が見ているのはシオンの体に無数に付けられた傷であり、シオンが見ていたのは、アイリスの首元だったから。
 シオンは、アイリスの首を両手で覆った。久々に触れた彼女の体温は暖かくて。アイリスはいつも暖かったな、なんて、思う。

「シオン?」

 アイリスの視線がようやくシオンの顔に向けられる。シオンは両手の指先に思い切り力を込めた。掌に脈動が伝わってくる。視線が怖くて、息ができないのはアイリスの筈なのに、シオンの息も止まってしまったように錯覚する。
 アイリスは少しだけ驚いたような目をしていたけれど、抵抗するわけでも、〈アイソレイト〉を使うわけでもなく。

 ただ、寂しそうに微笑んだ。
 それを見たら、もう駄目だった。

「……っ、でき、ない……!」

 震える指先から、力は抜けていく。明確な殺意は、急速に萎んでゆく。遂にシオンは手を離してしまった。
 涙を溢れさせながら、何度も首を振る。できるはずがなかった。親友の命を奪うなんて。
 アイリスは、尚も微笑んだまま、シオンの体に残る傷口を見ていた。


***


 どれだけ切実に願っても、祈りは届かない。だって、神様なんていないから。
 次の日もやっぱりアイリスはフラフラと何処かを目指して歩き始めた。新しい獲物を求めて。シオンは力無くその後を追いかける。その矛先が自分に向かないことに、微かな安堵を覚えながら。

 アイリスの行く先には民家が見えた。嫌な予感がしたが、どうやらそこは廃村らしく、ヒトの気配は無い。アイリスは誰も殺さずに済む。親友がヒトを殺す姿を見ずに済むかもとシオンは胸を撫で下ろした。
 それでもアイリスはキョロキョロと辺りを見回す。その表情には微かに笑みが浮かべられていて、薄ピンクの瞳はギラギラと不気味な光を湛えている。大丈夫、此処には誰もいないから。
 そうやって、自分に言い聞かせた途端、ギイ、と何かの物音を聞いた。ひとりでに民家のドアが開かれた。違う。中から少女が出てきたのだ。
 なんで。そう思うよりも先に、アイリスは口角を不自然なほど吊り上げて、嗤う。
 後は、あっという間だった。

 接近していったアイリスが手を翳すだけで、少女の薄い胸に亀裂が入って、切断された腕が地面に落ちて、喉が捌かれて、両足にも切り込みが入る。一気に辺りに濃い鉄錆の臭いが広まった。少女が驚きに声を上げる暇さえなかった。勢い良く真っ赤な血飛沫を上げながら、膝を付いて、ズルリと背後に倒れる。まだ生きているのか、残った手足が陸に打ち上げられた魚のように跳ねたが、それさえもアイリスの〈アイソレイト〉が切断する。やがて血溜まりはゆっくりと広がっていって、そこに沈む少女は動かなくなった。

「ふふっ」

 彼女が息絶えたのを見届けると、アイリスは後は興味もなさそうに踵を返して、またフラフラと歩き出す。作業でもするみたいに、ヒトの命を奪った。
 命なんかどうでもいい。ただ、肉を割くことができればそれでいい。そういうことなのだろうか。
 シオンは転がった遺体を見ないようにして、再びアイリスを追いかける。いつの間にか、目の前でヒトの体がバラバラに捌かれる様子に慣れている自分がいた。アイリスは冷酷で非道な殺人兵器だが、それを傍観するシオンも同罪だ。
 シオンは肩を落とす。あいつ、今日は何人殺すのかな。何だか他人事みたいにそんなことを考えた。アレは、アイリスの見た目をした兵器で、アイリスじゃない。そうやって思い込んで逃避して。シオンは疲れきった目でアイリスの背中を眺めた。

 廃村だから人間はいない。そう考えたシオンの思考自体は正しかった。人間でない者が潜んでいる可能性なんてシオン達は知らなかった。
 アイリスの行く先に、異形の腕の男と、傷だらけの少年の姿があった。