複雑・ファジー小説
- Re: スウィート・リベンジ ( No.2 )
- 日時: 2018/04/15 12:11
- 名前: あっとだったひと ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
『ジョニーは戦場に行ってさえも』
冷えた夜だった。 時折、基地に何やらを届けるトラックが通る以外、聞こえるのは風の音だけ。 季節は春先だが、ここらは日が暮れるとうんと冷える。
その点を鑑みると、カウンターに陣取った男はよそ者と言うわけでもなさそうだった。 日中はコートを羽織るには暑いが、男はちゃんとコートを羽織っていた。
「随分冷えるな」
誰にでもなく男が言い、バーテンは「そうだな」と短く返す。 男がグラスを差出し、バーテンはグラスを磨く手を止めてウイスキーのボトルを傾ける。 もう随分と注いだはずだが、男は一向に酔う兆しがない。 バーテンとしては揉め事を起こさないなら、酔わずにグラスを重ねてくれた方が嬉しいだろう。 贔屓目に見ても繁盛しているようには見えないのだから。
そんな折、風の音を遮って戸口の鈴が可愛らしく鳴った。
入ってきたのは女だ。 日の暮れた辻に立つ女だ。
「よう、景気はどうだ?」
常連なのか、バーテンが声をかける。 女は首を振ってカウンターへ掛けた。 男は僅かに視線だけを女へ向けた。
「あら、見ない顔ね」
女が声をかけ、男はバーテンに目で促す。 バーテンがマールのダブルをグラスに注ぐ。 女は瞬く間にグラスを空にした。
「ごちそうさま」
そこで一旦言葉を切って、女は羽織っていたコートを脱いだ。 見ているだけで寒そうな格好だが、酒があれば気にならないかもしれない。
「あなた、遠いの?」
「そうだな、海の向こうさ」
男もグラスを空け、女に向き直った。 僅かに腕時計へ目を走らせる。
「人を待ってるのね」
女の問いかけに頷いて、男はもう一杯、二人分のマールをダブルで注がせた。 冷えた夜のブランデーはいつの時代も格別だ。 それをこの男女は知っているらしい。
「明け方にね」
「それじゃあわたしのアパートで待ちなさいよ」
男は笑って、それからまたグラスを空けた。
「寂しがりなのさ、二人きりになったら泣き出すかもしれんよ」
男はそんな冗談を言って女の笑いを誘って、それから遠い目で空のグラスを眺めた。 バーテンのあくびが店に響く。
しばらく、風の音だけが店の中を駆け巡った。 風と、それから時計が一秒、一秒を刻むあの鬱陶しい音だけが。
「ねえ、ジョンって知ってる? ジョン・オーウェン。 マイナーリーグでそこそこ期待されたサウスポーよ。 まあ、私が十八の頃だから、十五年も前の話だけど」
女が同じく遠い目をして話し出す。
男は「知らないな」と答えて、それから「三十すぎには見えないな」と続けた。
女は小さく笑って「二十八よ」と呟いた。
「わたし達、幼馴染だった。 ずっとこの町で育ったの。 二ブロックしか離れてないところで育ったのよ。 わたし達、結婚したわ。 でも彼は一軍へ上がるより早く戦争に行った」
女が言葉を切った。 男から、戦争の匂いを感じ取ったのかも知れない。 男は一見してひ弱そうだったが、戦争に行った男が持つ空虚な死の匂いを纏っていた。
「彼は帰ってきた。 敵に捕まって三年も暗い所へ放り込まれて。 四肢は無事だったけど、すっかり肩は壊れてたわ。 マウンドどころか、ベッドでわたしのミットにも投げられなくなってた。 わかるでしょう? 彼が一番壊してしまったのは心だった」
女は俯いて、それからかれこれ六杯目のマールを空にした。
「この町が嫌いかい?」
男は遠い目でグラスを睨んだまま問いかけた。 女はカウンターに突っ伏して、そのまま首を横に振った。
「嫌いじゃないわ。 わたしはずっとこの町で育った。 ここはわたしの町よ」
行き場のない女の言葉、もしくは心かも知れない。 そんな言葉は乱雑に開いたドアの音に掻き消された。
入ってきたのは四人の男だった。 先任軍曹と三人の二等兵達で、彼らは店に唯一のテーブルを占拠した。 店はすぐに喧噪に包まれた。
そして、先任軍曹は女を見付けた。 女が男と一緒に居たのが悪かったかもしれない。 もしくはコートを脱いでいたのが問題だったかもしてない。 ただ、とにかく店の中には緊張が走った。
「おい、何度言ったらわかるんだ! 基地の周りで商売するんじゃねぇと何度も言ってるだろう!」
専任軍曹は立ち上がって、女へ詰め寄った。 女は鋭くその眼を睨み返す。
「あんたにどうこう言われる問題じゃないのよ! だいたいお客の前でいい加減にして頂戴! わたしの良い人なんだから!」
女が男の腕を引き寄せるのと、先任軍曹が腕を振るのは殆ど同時だった。 男は庇う素振りを見せたが、いかんせん、腕を取られている分遅れた。
「おいジョン! やめないか!」
バーテンの声が響いて、女がカウンターに倒れた。
男と先任軍曹は睨み合い、二等兵達はにやにやと二人を眺めた。
「おいお前らよく見ておけ! こういう舐めた奴らを戦場でどう始末するか教えてやる! 二度と起き上って来なくなるまでぶちのめすんだ」
専任軍曹は二等兵達にそう叫ぶと、腕をまくって前に出た。 正規の軍人だ、拳を握れば凶器になる。
「あんたがわたしをどう言ったって構いやしないわ。 スベタでも売女でもパン助でも立ちんぼでも好きに呼んだらいいわ。 でもね、あんたが戦場でどんな目に遭ったか、何も知らない若い子たちを煽って同じ運命に差し向けるのだけは止めて頂戴!」
女が叫ぶと、先任軍曹は思い切り拳を振った。 男は女を突き飛ばしてその拳を打ち止めた。 一見華奢に見えるが、男は確かに戦場の匂いを知っていた。
「これは俺たちの問題なんだ!邪魔するな!」
専任軍曹は叫んで、それから腰のホルスターから拳銃を抜いた。 だが、軍曹は躊躇った。 引き金が引けなかった。
倒れた女がコートの下から銃を抜いた。 女は知っていた。 ジョンと呼ばれた先任軍曹が、ずっと前に死んでいた事を。
乾いた発砲音が響いて、先任軍曹は倒れた。 男は屈んで脈をとると、小さな声で「死んだ」と呟いた。
「ずっと前に死んでたわ。 わたしが十八の頃だから……かれこれ十五年も前……戦場へ行ってすぐに彼は死んでいた。 だってそうでしょう?」
女はそう呟いて、小さく笑った。
それから握ったままの拳銃をこめかみへ当てた。
「わたし達、幼馴染だった。 ずっとこの町で育ったの。 二ブロックしか離れてないところで育ったのよ」
女の声はもう一度響いた発砲音に掻き消された。
その場にいた全員が呆然と立ち尽くしていた。 男を除いて。
「あんた! 止められただろ! 何で止めなかったんだ!」
バーテンが大声で非難した。 その声でその場にいた全員が我に返った。
男は答えずに、女が自分の頭を撃ち抜いた拳銃を拾い上げた。 ずっしりと重たい、軍用の中口径拳銃だった。
男はそのまま無言で残った男たちへ向き直った。 乾いた発砲音が数発響くと、後には風の音だけが残った。
戸口の鈴が可愛らしく鳴って、死体だけが店の中へ残った。
「La CIA(ラ・シーア/アメリカ中央情報局)は戦争をしたがっていない。 だから新兵を勝手に私設軍隊にしている軍曹なんていうのは邪魔なだけなのさ」
誰にでもない、風にでも聴かせるよう男は呟いて、躊躇う事無く町を離れた。
誰でもない二人の男女が生まれ育った町を。
——fin.
『フルメタル・ジャケット』と『地獄の黙示録』とそれから『芋虫』を思い返しながら。