複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.1 )
日時: 2018/02/21 13:48
名前: 彼岸花 (ID: Kw/OtLlm)

【例えその顔が異形でも】

 枕元で耳障りな音を立てて、朝七時きっかりに目覚まし時計は私のことを叩き起こした。どうしてこうも目覚まし時計の声はこんなにも癇に障るのか。おそらく、と私は考える。人を不愉快にさせる音の方が止めさせたい、起きなければと思わせるのだろうと。あるいはと追って新たな思考が浮かぶ。ただ、睡眠という悦楽を阻害された不愉快な思いを目覚まし時計にぶつけているだけなのかもしれない。

 ただ、私としてはいずれかを選べと言われたならば、前者を選ぶつもりだ。友人の、アラートという男のことを思い出す。いつも上下揃ったジャージを着用しており、走り込みをしたり筋トレをしたりしている。夏にはきちんと水泳の練習にも精を出しているようで、趣味のトライアスロンでは中々どうして悪くない成果を残している。そんな彼だが、性格はどれだけ遠慮した言い方をするにしても横柄という他なく、ガラガラとした濁声と、その汚い声が綴る言葉は紳士と呼ぶには程遠い。やはり、目覚まし時計というものは他人の気を害するためのものなのだろう。

 目が覚めた私は、まず初めに窓を開ける。寝起き直後はどうしても体が重たい。朝日を浴びるようにして、頭を覚醒させる。鏡台に映る自分の姿を目にしてみる。三十度、確かに普段とそれほど変わらないなと、私は水銀温度計の形状を為した己の頭蓋の確認を済ませた。温度計の形こそしているが、私のこの顔が映し出しているのは私自身の体温である。

 朝起きてすぐは所詮三十度程度だが、朝日を浴び、朝食を摂り、スーツに袖を通しているうちに段々と調子が上がってくる。そうすると私の体温もしっかり上昇し四十度程度となるのだ。我ながら、変温動物のようだなと常々思う。姿かたちは人間のそれと同じだと言うのに、首の上に乗った異形一つが、私を人間から遠ざける。

 真っ白なシャツの上に、紺色のスーツを羽織る。深い赤と深い青、二色が絡み合うようなストライプのネクタイを締めて、細長い簡素なピンで止めた。その昔、卒業していく生徒たちから担任の私へと送られたネクタイ達だ。生物の教鞭をとっているため、教科書に載ったDNAのらせん構造とよく似た柄のものを選んでくれたとのことだ。何とも粋な生徒たちであった。それでこそ、私も紳士に尽くしてきた甲斐があったものだと、私も彼らも一様に、眼球の存在しえぬこの顔貌に涙の線を顎にまで描いたものだった。

 時計を見る、八時だ。そろそろ出なければ八時半からの職員会議に間に合わないなと私はカバンに手をかけて我が家を後にした。確か今日の職員会議は一学期の期末テストに関する話し合いの予定だったようである。前回の中間テストでは少々問題の難易度が上がってしまっていたようなので、きっと教頭から今回の問題の難易度を下げておけというお達しが来ることだろう。

 皆がちゃんと勉強してくれればもう少し私も楽だったのだがと肩の荷が重くなる。鏡を見なくても、そんな私の表情に浮かぶ運土の表示は、きっと二、三度くらい下がってしまったことであろう。いやいや、落ち込んではならない。紳士たるもの落ち込んだ時こそそれを悟られてはならぬものだ。私達の生徒は、皆勉強は少し苦手なようだが、いい子たちが揃っている。

 そうだ、忘れてはならない。ドアノブを掴む前に大切なものを置いたままにしていることを思い出す。真っ白なグローブ、それはとある女性からかつて贈られたものであった。別に私は潔癖症な訳ではないのだが、貴方に似合えばよいと思った、などと女性から言われて身に着けないのは、己の紳士道に反する不躾な行為だと思った。

 家は学校の近くのアパートを間借りしているため、余裕をもって職員室にまで到着することができた。「うっす」とおよそ紳士らしからぬ言葉づかいで体育教師のアラートが声をかけてきた。やはりどうにも、彼の声色は生理的に私の精神を逆撫でしてならないように感じる。我が儘で空気が読めないことは否定でないが、決して彼自身が悪い人間ではないというのが、逆にどうしても厄介なところであった。

 それ以外に来ている先生というのは、グロウヴさんくらいのものだった。彼女は何やら溜め息をついているようで、「はぁ」と呟いて物憂げに頬杖をついていた。手を頭から話すと、地球儀の形をした彼女の頭がくるりくるりと回りだす。その自転の速度が、どうにも今はゆっくりに感じられた。何か疲れたりしているのだろうかと心配になる。

 大体の理由は私も分からなくはない。本人に気づかれないよう、私は書類の整理をする素振りを見せながらその合間にチラチラとアラートの方を窺った。彼自身は自分のことにしか興味が無い様子で、今日もまた新しいスポーツ紙を広げて最新の情報を仕入れているようだ。何となく興味が惹かれて、彼の読む雑誌の表紙を見てみると、マラソン選手らしいテレビの液晶が頭に乗った男が、名作アニメの感動シーンをその顔に映し出しながらゴールテープを切る瞬間だった。そんなに空気抵抗をもろに受けてしまいそうな選手が優勝するとは面白いなと、名も知らぬその選手に私は、ほんの少しの関心と、そして感心を得たのである。

 秒針が一周するごとに、職員室の中の様子は段々と活気づいていった。二十八分となった頃には一人を除いて全教員が集合し、三十分となったその瞬間に最後の一人、デジタル時計を首の上に得た男、ウォッチ教頭が入ってきた。

「定刻通り、職員会議を始めます」

 校長先生は何やら出張があって来れないとは、事前にメーリングリストで知らされていた。勿論、今日の議題についてもだ。先ほど述べたテストの一件、それがおそらくは本題であろう。ただまずは、いつものようにこの一週間の自クラスの生徒たちの報告について

「それではサモフィーさん、何か」

 三年一組を担当している私の報告から始まるのはいつものことだ。あらかじめメモしてバインダーに用意しておいたものをつらつらと読み上げる。最近は何も問題なく、校外学習でも積極的に活動で来ていたように思う、といった旨を伝えた。次のクラス、次のクラスと、つつがなく報告は進んでいく。

「おい、サモフィー」

 会議が始まる前に、隣の席にわざわざやってきたアラートが小声で話しかけてくる。どうしてだろうかこの男は、たとえひそひそと囁くような声であっても煩く感じる。

「今日はラッキーだったぜ。グロウヴ先生と二人きりで話せたんだ」

 グロウヴ先生は、多くの生徒、そして教員からも人気のいわゆる高嶺の花というやつだった。物腰柔らかな態度に、育ちの良さそうな言葉遣い、誰にも分け隔てなく優しく接するその心。それら全てが彼女の人から好かれる要素を担っていた。また、彼女は照れたり動揺したり、恥ずかしがったりすると頭の地球儀がぐるぐると勢いよく回る。照れる様子が隠せないそのあどけなさも、グロウヴ先生の可憐さを構成する重要なファクターの一つであることは、言うまでもない。この紳士、サモフィーをもってしても、彼女は非の打ち所の無い女性だと言わざるを得なかった。

 そんな彼女にも、実は恋焦がれる相手がいる。その相手がいるからと、いつもより早く出勤したのだろうが、生憎にも誰よりも早くアラートがいたという訳だ。この男もグロウヴ先生を好いており、その意志があまりにあけすけなので彼女側も辟易しているというのだが、鈍感なアラートは気づかれたことに気づいていない。

 何にせよ、先の二人きりの時間を思い出したアラートは、チクタクと時計の針を十二時に向かって一気に進めようとする。ちょっと待てと私は一度話を打ち切らせた。教頭のデジタル時計は、本人の淡白な性格を表すかのように毎秒毎秒正確に時を刻むがこの男は違う。アラートという男は普段全く秒針すら動かないくせして、興奮すると突然に針を回し始める。短針と長針と秒針とが、十二を指して一直線に重なったその瞬間、彼は唐突にこちらを不快にさせる大音量で歌声をあげるのだ。

 何とかして押しとどめたが、十一時を越えるような状態にしてしまった。普段は六字程度でとどまっていることを考えると、危険な領域まで来ていたということが分かるだろう。何とか私の尽力により、この男が至って厳粛な職員会議中に、私の隣で歌い出すと言うアクシデントを止めることができた。そんなことになってしまおうものなら、二人そろって説教は必至である。


 それにしてもこの男は耳障りだなと、自分の紳士的でない発想にげんなりしているところに、パサリと紙を丸めたものが落っこちた。私の机の上に突如飛来したその小さな黄色い紙片を、丸められた状態から開いてみる。周りの先生方は皆、教頭の話に耳を傾けているし、アラートはというと、何やら一人の世界にこもっている。私が言えることではないがこの男はもう少しウォッチ教頭の話を聞いておけ。

『昼休みに、花壇の脇で』

 間違えようのない彼女の筆跡。私は己の心臓が五月蠅く脈を打とうとするのを必死で抑える。下手に緊張してしまうと、私の体温が上がって顔色だけで皆に何かあったのかと悟られる。何もこんな時に伝えなくてもと、ほんの少し恨みがましいような気分に駆られるが、待ちきれなかったのだろうと彼女の心境を察するに、私はどうしても許してしまう他選択肢は無かった。

 それから先の話はよく覚えていない。職員会議はおそらくだが、用意周到な私の事だ。あらかじめ考えておいたメモに従ってそつなく終わらせた事なのだろう。授業も基本プリントを完ぺきに作り上げた上でそれに沿って説明するだけなのできっと大丈夫だ。

 そんなことよりも私の興味と関心は、昼休みの逢瀬だけに向けられてしまったのだから。


「すみません、待ちましたか」

 あまりの期待のあまり、私の記憶はほとんどもう飛んでしまっていた。気づけば昼休みである。あまり生徒が立ち入らない中庭には、ほとんど活動していない園芸部がたまに世話をしている花壇がある。私は植物も生物だと言うことで、園芸部の顧問をしていたので、しばしば彼らの代わりに草花の面倒を見てやっているという訳だ。

 そうしてある日、いつものように花たちの世話をしていた際に、彼女が通りがかったのである。花を愛する彼女と私が親しくなると言うのは、時間の問題だった。

「いいえ、私も今来たばかりですよ。グロウヴ先生」

 答えて私は、己の心臓が朝に続いて再び五月蠅くなるだろうことを悟る。けれども、今はそれを無理に抑えるつもりはない。彼女にならそんな姿を見られてもかまわないと、私は己の心が、体が従うままに、白銀の液を背筋から滾らせる。心臓がより強く、より早く打ち鳴らされて全身の細胞に酸素が届く。受け取った筋肉はひたすらにそれを熱に換えて、私を高ぶらせた。このような経験は彼女と知り合ってから、初めて知ったものだった。

 人間だったならば、ここでは頬を紅潮させたものだろうか。朱に染めた表情をお互いに確認し、照れくさそうな笑みを二人で浮かべながらも、幸せだと言って抱き合うのだろうか。けれど私たちはもっと不器用で、しかし裏腹にもっと正直だ。頬は紅潮せずとも、照れくさそうな表情など取れずとも、破顔することなど能わなくとも、私も彼女も、その頭さえ見れば喜んでいることなどすぐに分かる。

 彼女の頭はまるでねじが外れたのかと思うくらい勢いよく回転しているし、私の水銀も、もうとっくに限界の百度を超えてそれよりずっと高いところにまで昇って行ってしまっていた。あまりに直情的で、誤魔化しようのない感情表現。粗野かもしれない、情緒が足りないかもしれない。しかし嘘偽りなくこの本心を伝えられると思うと、それは紳士的ではないかと私は思う。

 それに、

「幸せだと言って抱き合うのは我々もできる」

 と思う。

 ぼそりと独り言を漏らしたのだが、何やら私が呟いたようだとは彼女も感づいたらしい。

「どうかしましたか?」
「いえ、何でもありませんよ」

 隠すだなんて紳士的じゃありませんねと、からかうように彼女が言った。その言葉に私は何だか可笑しくなり、小気味よく背中を揺らした。

 そうだきっと、この愛は純粋で美しいものだ。たとえこの顔が異形でも、その心は人間と何一つ変わらない、立派で、誇るべき、唯一無二の私達だけのものだ。

 彼女の手を取り、そっと引く。前かがみになってバランスを崩しかけた彼女の体を、全身で支えて見せた。その背中にそっと腕を回す。

 自分の心臓が暴れる音が、やけにうるさくて仕方なかった。けれども、彼女の心臓が慌ただしく動き回る音はもっと聞いてみたい。二つの心音が溶けて重なって、さっきまで嫌っていた己の心音さえ、愛おしく思えるような気持だった。


fin


〆あとがき

練習、練習だったんですこれに関しては。
「は?」とか「舐めてんの?」とか思うところはあるでしょうがまあ生暖かい目で見守ってください。