複雑・ファジー小説
- Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.5 )
- 日時: 2018/02/27 23:22
- 名前: 彼岸花 (ID: hgzyUMgo)
「双子の兄がいるんです」
「うん」
「いつも比べられてきました」
「うん」
先輩はただ、淡々と相槌を打つだけだった。だけど、話している間、片時も僕から目を離さないでいてくれた。それがどれだけ、心強かっただろうか。
急かされた訳でもなくて、慰めてもらった訳でもなくて。でも、するりするりと言の葉は胸の内から溢れ出た。私は聞いているよって、言葉じゃなくて態度で示してくれて。だから、僕はきっと————。
「生まれた日は同じなのに、弟ってレッテルを張られた時から、何だか違いを感じてならなかったんです」
「そっか」
「僕はここ何年も、家に居ないみたいな感じで過ごし続けてます」
父も、母も。試験が返ってくるのは僕も兄も同じだと言うのに、兄の方ばかり気にかけた。僕だって、頑張っているのに。兄は天才だったけれど、僕は秀才どまりだった。たった一科目、兄よりいい点を取ったところで、他で巻き返されて結局僕はその日陰で控えているほかない。勉強だけでなく、あらゆる才能その全てがほんの少しばかりずつ奪われたようで、何をしても兄に敵うものなどなかった。
「何やっても敵わなくて、十年以上続いて、気づいたころには僕は期待なんて、されてませんでした」
まるで、二人分の才覚を、兄に集約させるためだけに作られた部品みたいだと何度も思った。こんな惨めに暮らすくらいなら、最初から生まれて来ない方が幸せだったんじゃないかって、数え切れぬ夜、枕を濡らした。僕という材料が、欠片一つ残さずに兄の中に入ったとしたら、きっと兄はもっと愛されたのだろう。僕も彼の中でその一部として愛してもらえたのだろう。
何より辛かったのは兄の態度だった。悲しいことに、こんな根暗なことを考える僕と違って兄は、僕が自分を心底蔑んでしまうくらいに優しかった。今回は僕の方も頑張ってたぜって両親に伝えてくれた。兄の名だけが刻まれたバースデーケーキに僕の名前を書き足してくれた。僕に冷たい両親の素気無い態度を見るたびに、申し訳なさそうに僕を見てくれた。
両親は僕に興味が無くて、兄はずっと手を伸ばそうとしてくれた。振り払って逃げ出したのは僕だ。周りに居たのがそんな風だったからだろうか、僕は、突き放してくれたさっきの青い空が、どうにも大好きでたまらなくなった。
続けて。そう、彼女が小さく促した。いつの間にか、僕は言葉を失っていた。親身になって聞いてくれる先輩の、切れ長の瞳が弧を描いて。西日に照らされるその笑顔に、言葉を失っていた。
「クラスに、友達はいるんですけど。こう言ったら皆に失礼かもしれないけど、やっぱり兄の方が好かれてるんじゃないか、って」
「重症だねえ」
「けど、そう思うには仕方ない日々でした」
誰からも愛されていないのに、何を糧に生きればいいのか。体の糧は与えてもらえるが、心の糧は与えてもらえなかった。
ほんと? 幼い日の自分が唐突に問いかけてきた。ほんとに、みむきもされてなかった?
さっき、途中までで途切れてしまった遠い過去の思い出がよみがえる。あの日僕は、何をしようとしたんだっけ。
階段の上には誰がいたっけ。父と、母と、兄。どうして僕だけ下にいたんだっけ。そうだ、兄がインフルエンザにかかって。僕にうつらないようにって遠ざけて、二人は心配だから兄に寄り添って。
薬を飲んでも、兄は調子が戻らなくて。その日その体温は40度を超えていた。ああ、思い出してきた。僕は不安で仕方なかったんだ。一人で待つのがじゃなくて、大好きな兄がどこかに行ってしまいそうだったから。
だから僕は、勇気を出して上ったんだ。途中で振り返って、上るのも帰るのも怖くなったっけな。そうして上りきって、皆のいる部屋に入って。
おにいちゃん、だいじょうぶ? そう尋ねてすぐに父も母も振り返って、僕に驚いていた。二人の、不安で心が張り裂けそうな想いなんて全然気づかないで、僕は得意げにえらいでしょって自慢して、苦しそうな兄に駆け寄った。
とても苦しそうにうなされる兄に対し、能天気にがんばれだなんて応援して、一人で階段を上りきった武勇伝を語って、そうして僕はこっぴどく両親に叱られた。
「勝手にそんなことして、危ないじゃないか!」
あれ、そんな言葉だったっけ。おかしいなと首を傾げた。それじゃまるで、僕が心配されたみたいで……愛されていたみたいじゃないか。
「そうみたいね」
「えっ」
間抜けな声が僕の口から洩れる。急に彼女の声がした。吃驚した僕があまりに可笑しかったのか、彼女は楽しそうに噴き出した。何その声、ってからかう声に悪意なんて感じられなくて、何だかとてもくすぐったかった。
どうやら僕の思考は駄々洩れになってしまっていたようで、一人で思い返していたはずの思い出も、全部ぶちまけてしまったらしい。何だ、ちゃんと見てもらっていたんじゃないと満足そうに先輩は言う。
「……そうみたいです」
「じゃあ、何で見てもらえなくなったのかな」
「きっとそれは、僕が拒んだんだと思います」
兄のためを想って駆け付けたのに、褒めるどころか叱られた僕は、やり場のない悲しみをずっと抱え込んでしまった。ほとぼりが冷め、冷静になった両親を、僕が突き放したんだ。もういいって、思い通りに動かないゲームのコントローラーを投げ捨てるみたいに。我儘言って放り出した。差し伸べてくれる掌を、一つ残らず弾いて、無視して、全部気にしないようにした。
そのうち両親も諦めて、より一層僕は意固地になって、罅が日に日に深くなった。今じゃもう、何マイルかけ離れた大峡谷になったかなんて測ることもできない。
多分僕は、差し伸べられた手を拒んでも、また差し出してくれることに満足していたんだと思う。ただの構ってちゃんだった僕は、自分が満たされるだけのために、家族に迷惑かけて、心労だけ与えて。
両親は僕を見ようともしないんじゃなくて、僕のために見ないようにしてくれているだけだったのだった。きっかけとなった出来事を忘れてしまった僕は、愛が与えられないだなんて勘違いして余計に彼らを嫌って、それを見た家族は、より一層僕を放任すべきだと考えたのだろう。
そうだ、そうに決まっている。愛してもいない息子のために、食事なんて用意しない。僕が、自分の居場所なんて無いと思っていた食卓には、ちゃんと僕の分の温かい食事があった。愛していないならば、衣服だって買い与えない。僕が着る服だって、兄のお下がりでもなく余り物でもなく、僕が好んで着そうな服ばかり箪笥に入っている。嫌いな人間の嗜好を、誰が知ると言うのだろうか。
この後二人で、泣いたんだっけ、笑ったんだっけ。僕は自分の話を終えると、今度は先輩の話をちゃんと聞いた。先輩がしてくれたみたいに、相槌だけ打って、じっと彼女の目を見た。辛いことを思い出す彼女の視線は時折右下に向いた。けれども、彼女は言葉を止めなかった。
太陽はもう、街の向こうに沈んでいこうとしていて、下校時刻五分前の音楽が校庭の方から聞こえてきた。サッカー部も、野球部も、陸上部も急いで着替えて帰ろうとてんやわんやだ。体育館の方からは、バスケ部の面々、教室からはゆったり歩きながら楽器ケースを抱えた女生徒の群れが現れた。
「私さ」
「はい」
「楽しそうに部活してる連中に、見せつけるように飛び降りようとしてたんだ」
「そうなんですか!」
「君も同じのくせに」
芝居がかった驚き方をした僕を、彼女が窘めた。その顔は、青空の下で初めて見た、今にも張り裂けそうな表情とは全く違っていて。夏の夕日のオレンジ色みたいに、温かくて穏やかだった。
「でもさ、何か飛べなかったんだよね」
「そうですね」
「何でだろ?」
「突き放してくれたからですよ」
何物の侵入をも拒む瑠璃色が、勝手にしろと言いながら僕らの飛翔を拒んだのだ。僕らの歪んだ気持ちを、想いをその青で全部焼き尽くした。後に残ったのは、一抹の希望だけ。その一抹の希望が何を指すのか今はまだ言えないけれど。
いつか必ず、勇気を持ちたい。たとえその勇気が溶かされて、身も焦がされながら地に堕ちることになろうとも。例え気が弾んで失敗してしまったとしても、大空への一歩を踏み出したイカロスの勇気には、敬意を払うべきものだから。
「にしても君の遺書、何だか詩人みたいだね」
「やめてください! それもう捨てるつもりなんですから。っていうか先輩の遺書だって黒魔術の教科書みたいに恨み言だらけじゃないですか!」
「はは、違いない。ところで、生まれた生命は間違いだった?」
たった一人で教室に残ってから書いた遺書、その結びには、家族に宛てたその言葉があった。しかしその問いは、僕に降りかかる。考えるより早く、口をついて答えは出た。
「これから、正解にしてみせます」
かっこいいねと茶化される。苦々しい顔を僕はわざと浮かべた。やっぱり何だか、くすぐったくて仕方が無いからそれを隠すようにして。
勇気の種を、心に一つ。いつか必ず花を咲かせてみせる。
別にその時、隣にいて欲しいだなんて言わないけれど。
まだちょっと、他人の優しさを拒みがちなその言葉は、口にせぬように僕は胸の内にしまいこんだ。