複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.6 )
日時: 2018/03/18 14:10
名前: 彼岸花 (ID: dRebDXey)

 今日は決して、特別な日などではない。言うなれば、嵐の前夜、穏やかな凪。だけれども息遣いは聞こえてくる。明日は一体、何人が笑うのだろうか。何人が涙するのだろうか。関係ない人は沢山いる。私も「ほぼその一員」と言えるだろう。
 けれども、私の目の前で褐色の板切れと今もなお格闘している彼女にとって、明日は勝負の一日である。恋と言う化粧をした女の子が、お菓子という名の武器をとり、好いた男に想いを打ち明ける日。そう、バレンタインデーだ。
 そして今日は2月13日。繰り返すが、決して特別な日などではない。

「ふぃー、疲れたぁ」

 まな板の上の板チョコを細かく刻み終えた彼女は、ため息を一つ吐き出した。普段料理のお手伝いなんてしないものだから、見ていて危なっかしかったけれど、自分でやると言い出して聞かなかった。それらを全てボウルへと入れ、こちらの様子を見るべく振り返る。光を受けるとほんの少し茶色く見える、彼女の綺麗な黒髪が踊る。
 ふわりと膨らむようになびいたその様子に、私は見惚れてしまう。「大丈夫?」の問いかけに一瞬気が付かなかったくらいに。
 その問いかけの意味は、火にかけているクリームは大丈夫かという意味なのだろう。表情こそ変えなかったが、内心慌てた私は鍋の方に視線を戻した。木べらでかき回す手は止まっていなかったものの、湯気は強く立ち上っている。さっきまではもっと薄い湯気だったのだけれど。
 もう少し見惚れていたら危なかったなと、私は火を止めた。沸騰させてしまうと台無しだ。ボウルの方へ鍋を近づけ、溢さないように温めていたクリームを注ぎ込んだ。針のようなチョコレートの山を真っ白な洪水が飲み込んだ。彼女の想いも、これぐらい熱いのだろうか、なんて。

 少なくとも、私はこれに負けないくらいに温めている自信はある。

 溶けだしたチョコレートが渦を巻くように真っ白な海を染め始めた。じわりじわりと、茶色い色味は強くなっていく。レシピを再確認する。10秒から20秒待ってから、そろそろだろうか。じいっと時計を眺めて15秒経ったことを確認した彼女はゴムベラを手に取った。全体が均一になるよう丁寧にかき混ぜ始める。

「雑に混ぜると、分離する……」

 ネットの指南を声に出して、自らに言い聞かせるようにしている。独り言のようにぶつぶつと呟いているが、何を口走っているのか耳にしなければ呪詛のようにしか聞こえない。まあ、恋なんて呪いみたいなものと思えば、それも分からなくもない。
 それはよく分かる。私だって、欲しくて欲しくて堪らないものが一つくらいはちゃんとある。手に入れられないのはよく知ってるけど。
 クラスの男子から一番人気の彼女が明日このチョコレートを渡そうとする相手。それは、マネージャーとして彼女が所属するサッカー部のゴールキーパーの子だった。お相手が、女の子皆から人気で、U15だかの選抜に選ばれているようなエースじゃないことに私はひどく驚いた。けれど彼女は、いつも皆のゴールを守ってくれる彼の事が、たまらなく愛おしいのだとか。ああ、確かにその選択は、彼女らしいと言えるだろう。
 丹念に、丹念に。そして丁寧に彼女はかき混ぜ続ける。一周するごとに自分の恋心を確認するように。純真な天使みたいだなと私は思う。頬をちょっぴり赤らめて、輝く瞳を離すことなく。きっとその目線の先にいるのは、ボウルでもゴムベラでも、ましてやチョコレートなんかでもなくて、きっと彼。

 全くもう。どろっどろだよ。
 そう思う。

 次第にかき混ぜるチョコレートの表面に光沢が出てき始める。初めはクリームのおかげでさらさらとしたものだったけれど、次第にとろりとした粘度が出てきた。ゴムベラで褐色の流体を持ち上げると、ツーッと伝って落ちるのでなく、ゆったりと下へ歩くようにボウルへとつく。

「いいんじゃない? これ絶対上手に出来たやつだ!」

 喜び振り返り、私の目を真っすぐに見つめるその瞳は、思わず目を背けたくなるくらいに輝いていた。期待に胸躍らせて、満面の笑みをこぼす彼女は、どんな花束よりも色とりどりな光を放っているようで。これはどんなゴールキーパーだって撃ち抜いてしまいそうだって、考えてしまう。

「味見しよーっと」

 引き出しを開けて、ガチャガチャと器具をいじくる。そんな事せずとも、味見なんてへらについたもので十分だと言うのに。取り出した小匙でひょいと掬う。それを彼女は自分の口元でなくて、私の鼻先に差し出した。

「はい、あーんして」
「えっ」

 まさかそんな事されるだなんて思っても見なかった私だが、言われるがままに口を開ける。それはまるで、チョコレートの甘い匂いと、近づいてきた彼女のシャンプーの甘い香りに誘われるがままに。
 甘ったるい味が口の中に広がった。それ以外の細かな味なんて、今の自分に分かる訳も無い。

「ねぇねぇどう? 美味しい?」
「ん……いいんじゃない」
「やった!」

 口元を隠す、ふりをして顔の下半分を手で覆った。飲み込む前に何とか表情を整えて。
 心配そうにする彼女に、味は問題ないと私は告げた。やったぁと、お淑やかな彼女に似合わないガッツポーズ。
 純真無垢に差し出された味見のための5mL。無知と言うのはとても罪深く。所詮前座の私にとって、その一口は、さながら小匙一杯分の悪意だ。

「一日早いバレンタインデーだ」

 そう前置いて、どうだ、一足先に本命チョコを食べた感想は、って彼女は訊いてきた。ああ、そうか。そう言えばこれは本命のチョコレートだった。
 そうかそうか、例の彼には申し訳ないが、私は君のための、義理ではないチョコレートを君より先に味わってしまったらしい。それは非常に申し訳ない、なーんて、心無いことを。

「なるほど、愛がこもっている訳だ。大層美味しゅうございました」

 からかうように私が言って、返ってきたのは綺麗なVサイン。
 重ねて繰り返そう。今日は2月13日。決して特別でも何でもない一日だ。


 私以外の、人にとっては。




おしまい


後書き

別に作者は百合好きでも何でもないのに気が付いたらこんな内容に。
直接は書いておりませんが、視点人物は女性で、想い人でもある友達の「彼女」のお菓子作りを手伝っています。